【岩松・由良】上野の戦国大名【長野・長尾】at SENGOKU
【岩松・由良】上野の戦国大名【長野・長尾】 - 暇つぶし2ch39:人間七七四年
08/07/20 18:13:07 F9Z01DFi
金山城の最初の主である岩松家純は、上杉禅秀の乱で禅秀側について討伐された岩松満純の嫡子であったため、
転々と逃げ回る生活を送っていたが、禅秀の乱から53年後に庶流の持国から家督を奪い新田荘に復帰することに成功する。
家純の新田荘復帰に大いに貢献したのが、岩松氏の根本被官であり、家純とともに享徳の乱を戦いぬいた横瀬貞国・国繁父子である。
横瀬氏は当時から家宰的立場であり、国繁は起請文により家純の代官に位置づけられている。

家純は明応三(1494)年に死去するが、その翌年、屋裏の錯乱と呼ばれる事件が起こる。
この事件は家純から勘当され新田荘を追い出されていた家純の子の岩松明純が新田荘に復帰し、
明純と、その子で家純の名代となっていた尚純とともに横瀬氏を倒そうと陰謀をはかり、
当時の当主であった横瀬成繁が留守にしている隙をついて尚純が挙兵した。
結局明純・尚純の実力では金山城を落とすことはできず、足利成氏の調停により尚純の子を故家純の名代にし、
尚純自身はは隠居することで一応の決着がついた。

この事件で成繁は結果的には主筋に当たる人物を排除し実権を奪うことに成功したとみることもできるが、
主家の関係人物を完全に排除することはできず、尚純の子を推戴することになったし
家純は遺言で「明純の意見に任せれば、滅亡である」と述べていて、
「すべて国繁父子が余の在世の時のように計れ」とも述べていることから、
家純の遺訓を守り明純の権力奪還を阻止し、家純の遺志を継ぐという形で実権を保持したという見方もできる。

尚純の子昌純も、自身が新田一族の当主でありながら横瀬氏に実権を握られていることに不満を感じていたことが考えられ、
横瀬泰繁が昌純を殺害した事件(享禄の変)も、昌純が横瀬氏を排除しようという計画を事前に察知した泰繁が先手をうったという説もある。
享禄の変後当主になった氏純の代からは幽閉に近い状態で置かれていたと考えられるが、
「関東幕注文」から岩松一門や岩松氏家臣との身分的な上下関係は克服されていなかったといえる。

明応期から続くこの矛盾を解消するため横瀬氏、>>17で述べたとおり、政治的対場と家格の上昇を目論むである。
このように、岩松氏の下向以降も語るネタなどいくらでもある。

また、越相同盟の件だが、上杉方に関東管領職を譲り渡してもよいという意思を北条氏康自身が明示しており、
管領分国である上野が上杉方に割譲されるのは自然であろう。
よって由良成繁の外交能力の如何とは無関係である。

横瀬由良氏代々の事跡を全否定したいだけのてどお。
需要があると思われるところだけを丹念にレポートしてれば、そら簡単に良い評判を得られる罠。
2chで名声を得ることに何の意味があるのだろうか。


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