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後北条氏は内政面や家族内の結束でも知られているが、特に氏康の民政手腕については顕著であり、
氏康が亡くなった時に小田原の民は泣き崩れてその死を惜しんだ逸話が残っている程である。
氏康がどれ程の民政手腕を持っていたかは下記に記す。
* 領土の検地を徹底的に行い、領内の土地の年貢の割合を明らかにし、それぞれの土地を治める家臣の兵動員数も詳細に定めた。
* 税制においても税収を定期的な物として中間搾取を無くしたことで国人の勢力拡大を防ぐとともに民への負担を減らした。
* 年貢の割合も当時としては低い水準の四公六民としたことで百姓の支持を集めることとなった。
* 独自の官僚機構である評定衆を設置。評定衆による訴訟などの制度を整え、領内に目安箱の設置を行い、直接不法を評定衆へ訴えられる様にするとともに中間支配層を牽制した。
* 後北条氏の本拠である小田原に文化人や職人を呼び寄せ、大規模な都市計画や治水を行うなどして「西の山口、東の小田原」と言われる程に栄えさせた。
こうした内政の実績は後の後北条氏の当主や、後北条氏滅亡後に関東に移封してきた徳川家康以降、江戸幕府へ引き継がれることとなった。