08/05/06 23:42:39 fYHMed+l
>>140
>>書状について
押しなだれてきたというのは武田軍が攻めてきたという事以上の何物をも示していない。
この氏照の書状が上杉家に対するものである以上、場面の違う先衆同士の戦いで勝利を主張するまでは良いが
その後の結果を語る部分でまで勝利を主張してしまった場合、兵を出さなかった上杉家を容認してしまうことになる。
そして信玄に逃げられてしまったという事に対しても、その事において北条家には落ち度がなく、
上杉家が兵を出さなかったためということにしなければ氏照の外交官としての責務は果たせない。
ただ書状に関する考え方はそこがスタートでいい。
信玄の書状がその中で信憑性に著しくかけるほどに矛盾があるゆえ除外されるというだけで、
講談はあくまで参考資料の域を出ない。
>>宗の者の事は主張しないのか。
これだけでは特定のしようがないゆえ、そのままでは言葉以上の意味はなく無理にこじつけるつもりもない。
浦野氏など、この合戦で死んでいる人物は浅利信種だけというわけでもないわけだし。
>>だから、その部分に関しては悪いが無理があると述べているだろう。>>133の時点ですでに。
>>まず浅利の部隊だけが突貫したなんていう根拠は一切ない。軍鑑でも5代記でも浅利だけが突貫したなんて
>>記述は一切ないぞ。武田側の編成って何を元にしている。
誤解があるようだが浅利隊だけが突撃したとは思っていないし、一言も言っていない。
過去レスを見たがあなたの>>118で初めて「浅利隊だけ」と言いはじめ、以後そのまま話を続けているようだが、
あくまで書状における「押しなだれてきた」という攻撃部隊の中で殿軍を務めて、戦死したのだろうというだけ。
編成については甲陽軍鑑になるが
山県・小幡らが志田峠へ、馬場・勝頼・浅利らが攻撃に参加。
残る部隊は山上へ布陣という流れになっている。だから
>>むしろ本陣が山に座し他の部隊が攻勢に出ていると考えれば普通の戦闘行動としておかしくない。
これに対して否定する意味もなければ問題もない。
その攻勢に出た部隊の一人が浅利隊であり、その時に戦死したのだろうということ。
>>北条記・北条5代記には一致している。これは無視できまい。
この講談は氏康世代の賛美が強すぎて全く参考にならない。
例えばこの合戦で言えばまず日数からして大きく誤記がある。
信玄が甲斐を出てから4~5日でこの三増峠合戦までの話につなげているが、
その前に信玄は滝山や鉢形を攻めているのでこんなに短いはずはない。
しかし作者にとっては氏康が三増峠に遅れた理由をもっともらしくすることの方が重要であって氏照らの活躍などまるで眼中にないのだ。
そもそも汁かけの話やら麦の話やら悪意に満ちてる講談なので、参考にすらしにくい。北条贔屓といってもそれは氏康の活躍まで。
それこそ氏照自身が書状で勝利を主張している部分は完全無視しているのに
氏康に関しては武田軍を1000人討ち取ったなどといっている、
追撃できるなら本戦に遅れるなよ!と突っ込みたくなる。
まぁ甲陽軍鑑でも跡部らの評価は酷いし、氏政や勝頼の世代は直接、徳川家康に関係のある世代ゆえに
時代背景柄仕方ないことではあるのだが。ここは今回一番わかってもらわなくては困る部分。
>>三増峠近辺は山や隆起がいくつも存在している地点だ。ここを敵を警戒しながら進んでいけば自然に
>>上り下りを繰り返す事になるはずだが。そして敵を察知して敵との戦闘を決意し手ごろな山に陣を構えるというのも。
別にそれで良い、その手ごろな山に陣を張ったというのが
書状にも講談にも記されている時点で十分すぎる。
①先衆やら荷駄隊やらを倒したらしい。
②山上に陣を張ったらしい
③攻撃隊の中にいた浅利信種が戦死したらしい
書状では①、②の順番で③ははっきりしないが
講談では②、③の順番になっているので矛盾しない。
>>何度もいうがそっちの言うとおり志田峠に武田本隊が進んだという根拠は一切ない。
山の上に陣を張ったのであれば津久井筋に逃げるなり志田峠を抜けるなり
いくらでも撤退できる一つの例以外のものではない。