08/05/05 03:38:01 YXq+MZ0l
>>137
>>その過程で日付に混同が起きたか、もしくは簡略化されたか。
では当時の本人の書状を優先すべきだろう、物語を基本に考察する意味など全くない。
>>どっちにしろ内容が一致しているのに日付だけでつついてそれを全部無視する方が異常だろう。
書状で言うように小荷駄隊やらを打ち破ったんだろうが、それ以上のことは書いていない。
全部無視などはじめからしていない、書状に書いてあるとおり荷駄隊や兵を討ち取ったというところだろう
ついでに言うと一致していると言うが講談で荷駄隊らを討ち取った描写ってどれにあったっけ?
少し忘れてしまった。
>>だから、前日に北条は優勢で押したけど次の日に武田に逆襲されただけの話だろう。
逆襲されたとする講談までの間が足りない、
前日の北条優勢だった部分で荷駄隊やらは倒したのだろう(氏照書状のみ)
武田軍は山に陣を張り(氏照書状・甲陽軍鑑・北条五代記・北条記は既に陣を張っていたような描写)
その一部が襲い掛かってきた、(氏照書状・甲陽軍鑑)甲陽軍鑑ではそれが馬場や浅利らなわけだが
その戦いで浅利や浦野などが死んだのであろうということ。
(軍鑑・五代記・直後の武田側の編成・新編会津風土記)
この後に山県らが志田峠を抜けて北条軍を破ったと言う流れになる(甲陽軍鑑)
でもこれはやはり位置的に不自然と思ったのか北条記などでは、
追ってきた氏照らが待ち伏せされていると言うような記述になっている。(五代記・北条記)
いずれにせよ氏照らは半原の方へ撤退したらしい(甲陽軍鑑・五代記・北条記)
ちなみに山県らのくだり以降が講談以外にあるのか俺は知らない。
ついでに甲陽軍鑑と五代記などで設定戦場も状況も全然違うのに、
最後は甲陽軍鑑に揃えて半原に逃げたことになっているあたりやはり不自然さが残る。
単に甲陽軍鑑を参考にした可能性が高いように見える。
>>だから峠道を移動しながら戦っているのだから複数の山を移動しているはずだろう。
>>山を移動し峠道に下って移動し、また先に進んだ所に山があっただけの話だろう。
>>峠道なんだからひとつしか山や隆起がないわけじゃないだろう。
降りて上ったなどという事はどの講談にも書状にも記録にも残ってない。
書状にまず記述があり、講談でも山にあがった描写があって、
客観的に考えてもまずは通りやすい道を進んでいって
前方の氏照軍を察知したことで避けるように初めて山に布陣するという事に不自然な点はない。
そしてその前の行軍中に登って降りてを繰り返していたような描写はない。
>>文字通り絶好の体勢で後方につける形になるな。山県5千どころか2万の武田主力にこれをやられたら
>>悲惨な事になるはずだが。
この辺のくだりは上でも言ったが甲陽軍鑑にしか出てこない。
その甲陽軍鑑ですら、山県らが峰伝いに登っているのを北条軍がはっきりと見ている描写がなんと存在する。
しかし、北条軍が舐めてかかっていたため(笑)撤退中なのだと放置したと言っている。
なんともはや考えられない非常識な状況だが、それでも北条軍が油断したからこそ
ありえる状況だと言う事を記載しているあたり、軍鑑はやはり他の講談より設定は重視しているのかも、とも言える
まぁどっちにしろこの状況でその見えた相手が信玄の本軍そのものだったら後ろに回られるまで放置とか
確実にありえない・・・っていうか山県ら5000でも普通ありえない。
講談ならではの活劇と言う感じで場面はカッコよさげなので、小説の作者として実力あるなとは思うが。