14/03/15 22:56:05.36
華の都、銀座。人々でにぎわう、お洒落の街だ。
そんな街の路地裏で、今日も小さな店に灯りがともる。
店の名は「クリップ」。
「いらっしゃいませ」
暖簾をくぐると、店の大将、栗城さん(54)がバスローブ姿で出迎えてくれた。
「実は、私も昔は登山家だったんですよ」
大将はお燗をつけながら、笑顔で語りだす。
「あの頃は夢がありましたね。自分の登山で世界中を幸せにするんだって」
聞けば、彼はピッケルを持つバリバリの「クライマー」だそうだ。
専門は単独無酸素。世界有数の八千峰で登山三昧の毎日を過ごしていた。
そんな彼に転機が訪れたのは、21歳の頃。
登山界では存在すら疑われていた「冒険の共有」なるものに成功したのだ。
発表と同時に話題となり、マスコミにも取り上げられたという。
「でも、それがボタンの掛け違えの始まりでした」
遠い目をする彼。手に持ったお燗用のホエーブスがかすかに震える。
発表を急ぐあまり生じた行動の些細なミス。「神業」なるが故に誰も再現できなかった登頂。ついには「ねつ造」と決めつけられ、彼は登山家としての未来を失った。
「だけど、おかげで気づくことができました。名誉や地位なんかよりも大事なものがあるって」
登山界から身を引いた彼が見つけた幸せ。それは一人でも多くの人を笑顔にすること。
そう思って始めたのがこの店だという。
「私にとっては、この店も登山の成果なんですよ」
登山に未練はないのか。そう尋ねた私に小鉢を出しながら彼は言った。
「だって、この店の食材、全部グ○コで出来てるんですから」
伸ばしかけた箸が止まる。そんな私をいたずらっぽい目で眺めながら、大将はお猪口代わりのチタンコッヘルにお酒を注いでくれた。
(2036年3月13日)