12/02/21 00:57:52.09
まぁ、百済と高句麗に関しましては、王族が同祖ないしは縁戚関係であった
と物語る建国伝説がありますし、百済の建国過程においてもある程度の国民
を高句麗より引き連れて移住・建国している点が上げられますね。
また、その建国過程において、建国地となった場所が旧秦漢系の行政地(郡)
内であり、その為、初期の国家形成・文化形成において残存文化といいますか
当時の中華文化の末端を吸収し、融合している点が上げられます。
なお、支配地に関しても、初期の旧秦漢系故地(朝鮮中部・中西部)より、
高句麗による漢城攻略による北部喪失、朝鮮南部地域への進出、となり、
その過程でも、政治的・文化的変容は見られます。
まぁ、ですから、百済文化に関しましては編年等にも現れておりますが、
・創期 高句麗系・旧秦漢系の技術&文様、ただし出来は未熟
・初期 中華系主体
・中期 中華系
・後期 中華系
・末期 中華系及び百済独自の文様
となりますね。
特に六朝、その内の梁との通交が政治的にも文化的にも非常に大きく影響
しており、百済国内にも大通寺という寺が模されて建立される等、その仏教
文化を色濃く受け入れております。
その為、一時期は国内の瓦の多くが中華系文様のものとなり、他国・他文化
自国文様というのが一切なくなる(現状の発掘状況では)時期もあります。
これが、泗沘への遷都を経て末期となる頃には、中華系文様に混じり、百済
独自の文様文化というのが花開き、他国には無い多様な文様が出現します
が、その文様が確立する前に国家として滅亡してしまう為、結果的にはその
歴史とともに消滅して言ってしまうという過程を辿りますね。
まぁ、現状におきましても、多くの製瓦遺跡、寺院遺跡というが未発掘ですし
この点の展開がなされなければ、なかなか難しいところではありますが。