12/02/18 02:01:53.54
>>520
確かに日本の他地域(北関東、東北、九州の一部を除く)や、慶尚道高低
アクセントにシナ・チベット語の影響は考えられるね。
新羅系渡来の秦氏も土木事業の職能集団と天皇家の騎馬護衛兵の
武闘集団としての性質と、チベット羌族が土木出稼ぎ職人や傭兵として
多用された性格と重なる。新羅の支配層は、非中国系北方アルタイ文化と
西方ローマ・ペルシャ文化の影響が強うて、漢化した高句麗・百済・日本
とも漢化した北朝とも違うじゃろうけど、どうもチベット羌的な臭いが
強い。現地民の秦韓もチベット系の秦王朝の流民を名乗っとるけど、
楽浪中国文化で西方的な要素が少ないし、軍事、戦闘に強かったわけでも
無いゆえ、チベット的性格は北朝以降の世界的民族移動期と見る。
それは、中国を征服した五胡(アルタイ系チベット系の北方牧畜民)の
前秦の民族移動政策もあろあう。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
ここの事前の経緯に、
「苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないということで、
自分達の本拠である関中に東にいた鮮卑を移し、逆に東へ
氐(テイ・チベット系)族を移すということを行った。」こと。
逆に満州蒙古の鮮卑族(慕容・拓抜・禿髪の諸族)は、その後青海省付近の
チベット系羌族を支配定着したように、強国の高句麗よりも小国の新羅や
日本へ進出して来たことも考えられる。