13/04/22 09:35:36.88 gGZf7c8/Q
>>532(>>539続き)
明治以前の庶民が天皇を知らなかったという説で
以下のエピソードが説明できるのだろうか…。
嘉永6年(1853年)陸奥国の三閉伊一揆の記録に
一揆集団に対して藩役人が『百姓どもの分際で無礼千万なり』的な
言葉を言った。これに対して一揆のリーダーが役人に対して返答した内容。
『百姓どもカラカラと打ち笑い、汝等百姓などと軽しめるは
心得違いなり、百姓の事を能く(よく)承れ、士農工商天下の遊民
源平藤橘の四姓を離れず、天下の庶民皆百姓なり、
其命を養う故に農民ばかりを百姓というなり、汝らも百姓に養るなり。
此道理も知らずして百姓杯と罵るは不届者なり。』
口語訳してかみ砕くと、
天皇から下賜された源平藤橘の姓も含めて
天下の民の姓をまとめて百姓と呼ぶのだ、
農民のことを百姓百姓と罵るとは心得がなっていない。
我ら農民がおまえら武士の命をも養っているのだ、ガッハッハ(カラカラ)。
このような当時の百姓の強さは、日本の歴史がはぐくんだ
天皇の下の公民はみな平等という思想があってこそ。
当時世界中のどの国の農民階級と比べても日本の
農民の知識レベルは格段に上であった。
このような歴史的『事実』を知らずして
どのように日本史を語れるというのか…。