13/04/01 14:28:23.90
>>373
比叡山の長い歴史の中で失敗した行者は沢山います。
回峰の行門でも、途中挫折し自ら命を絶った行者もいます。
行者は不退転の決意で行に望むが、それでも儘ならない時も有る。
冥助無かったことは、自身の至らなさと自らを恥じ、内省して再び
行に臨むのが行者ではないでしょうか。
それは恥ずかしい事ではないでしょう。。
未熟だからこそ人間です。 だからより高見を目指し行ずるのでしょう。。
そこには当然失敗もあれば過ちも有ります。人は失敗し、その失敗から如何に
学ぶかが人間の試練であり行であり、神仏からの「試し」ではないでようか。
その学びの場が現世でしょう。
>失敗した行者もたくさんいるはず。 そんなに目くじらたてなくても・・・
失敗したその事が問題ではないのです。失敗を失敗とせず、恰も成満した
かのように繕ったことが問題なのです。
神仏がなぜ満行を良しとしなかったかを省みれば、行者として取るべき態度は
見えて来る筈です。
しかしながら、行者本人は勿論、行門の諸師も延暦寺も正しい選択を
しようとしてない。