13/01/02 07:20:06.35
(つづき)ちなみに現行の安祥寺流や中院流といった小野方聖教に基づく稲荷御本地供修法次第は、老翁形稲荷神と空海との契約伝説が形成された平安中期には成立していたので、
それより後に起きたダキニ天との習合より数世紀も早いことになるし、現在も醍醐や高野山では稲荷神を拝むのにこの修法次第が使用されている。
ちなみに稲荷神のもう一つの本地とされる愛染明王を用いた稲荷神次第は広澤方で平安後期に成立したとされるが、寺名からもわかるように伏見稲荷の宮寺である愛染寺では当初この次第を用いていたと考えられる。
(愛染明王の六手の持物(1つは空手だが、当該次第ではこれに如意宝珠をあてている)と頭頂の金剛鈎を、稲荷山の七神蹟に配当し、全体を愛染明王として拝むもので、当初から伏見の稲荷山での使用を前提としていることが窺える。)
その後に起こったダキニ天との習合は、東密における根拠ははっきりしない。(どなたかご存じなら教えを乞いたい。)
曹洞宗の寒巌による鎌倉中期の感得が逆輸入された可能性も捨てきれない。