【王莽】新~後漢初【光武帝】2at CHINAHERO
【王莽】新~後漢初【光武帝】2 - 暇つぶし2ch934:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 00:02:29.44 olLbuBjU0
>>923
>西嶋定生 氏すら謀殺としたのを、光武帝は即位しているから劉楊は謀反で誅殺は当然と言い出す、

「光武帝は劉楊を謀殺してない」なんて俺はどこで言ったのか?
>>902では「謀殺、誅殺して何の問題があるのか?」とは聞いたが。
答えずにおまえは逃げたけど。

>俺が呉漢の侵攻ルートを特定するのは不可能といい、煽り君が推測に推測を重ねた侵攻ルートを出したことを、
>俺の敗走というのは国語能力の致命的なまでの欠陥を物語っている

その話題今更?敗北おめw
というか自分のレスくらい確認してから言い返せよ。
ダブスタと偏向解釈を指摘されたら光武帝信者とか即認定してくる病人がそんなこと言っても説得力ないわw

>願望から結論づけるだけの脳みそが歴史の検証などできるはずもない
>だから、言葉もワンパターンだし、都合のいい結論しか信じられない
>都合悪い事実があったら、相手のせいにした煽りでごまかすしかない
>自分の行為を、忘れたふりをしていつも自分自身に嘘をついて生きている
>頭が悪すぎて、自分が頭が悪いことさえも理解できない
>心が弱すぎて、他人を攻撃することでしか精神の安定が保てないという典型だ

↑の発作は境界性人格障害の病人特有の投影性同一視という症状にもろに該当するな。
引用してもいない291を踏まえてる、などと主張してたのもやはり本物の気狂いだったからだろうw
自分の主張はなんも論証しないのにこちらの主張は論拠を用意してくれる支離滅裂ぶりには失笑する他ないw
精神病者もっと頑張れよw

935:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 00:28:24.18 olLbuBjU0
AAで埋め立てて有耶無耶にしようってことか知らんが話を戻すか。

>・光武帝の厨(笑)武勇から見て、後漢書は他の正史と比べものにならないほどの隠蔽や粉飾があるのではないか?

曹彰程度でも出来ることが厨(笑)武勇で
項羽の武勇伝()は思考停止して盲信するが光武帝の武勇伝()は猜疑するダブスタぶりで
後漢書は捏造だらけではないか?とか疑うとかやはり無理がある。

どうせなら

>・呂布や曹彰の厨(笑)武勇から見て、三国志は他の正史と比べものにならないほどの隠蔽や粉飾があるのではないか?

とか言い出せよw馬鹿すぎて面白いからw

936:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 00:47:07.15 nwLDrOdT0
932は在日
とっとと半島に帰れ

937:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 00:49:05.50 nwLDrOdT0
やる夫とかまだやってんの
いい加減終われや
誰も観てないのに
観るのは情弱だけだ

938:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/09/04 20:51:26.66 DNvjf1AU0
西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)における誤りの指摘。小生には別段、西嶋先生
を貶す意図は無く、ただ、権威有る人だからと、資料に盲従する人がいると誤りを引き
摺りつづけることになるので、資料は自分自身の手でダブルチェック、トリプルチェック
しないといけないですよと、明確な誤謬があるので、例として示すものです。

417ページ (95)南陽舂陵劉氏一族 の系図に間違い。
劉堅が劉祉の弟になっているが実は劉祉の子。
『後漢書』劉祉伝には「十三年,封祉嫡子平為蔡陽侯,以奉祉祀;平弟堅為高鄉侯。」と
あり、書き下すと「(建武)十三年、(劉)祉の嫡子(劉)平を蔡陽侯に封じ、以て(劉)
祉を祀り奉じしめ、(劉)平の弟の(劉)堅を高郷侯と為す」となる。学研の『歴史群像』
での光武帝特集も、この誤謬のある系図をそのまま引いている。

430ページ 「その部将王匤・張卬らは、更始帝を見限って赤眉に降伏し」は端折り過ぎ。
『後漢書』劉玄伝から元の意を汲みながら割愛して記すれば、「その部将王匤・張卬らは、
更始帝を脅して南陽に帰る計を立てたが、露見して更始帝と諍うことになり、いったんは
更始帝を長安から放逐するも、敗れて赤眉に降伏し」とすべき。

435ページ 「王郎政権と対立することになった劉秀は、最初の進駐地邯鄲が王郎政権の
首都となったため、ここから真定に逃れ」は、実にいい加減な記述。
『後漢書』本紀一上には「進至邯鄲,故趙繆王子林說光武曰:「赤眉今在河東,但決水灌之,
百萬之眾可 使為魚。」光武不荅,去之真定。林於是乃詐以卜者王郎為成帝子子輿,十二 月,
立郎為天子,都邯鄲,遂遣使者降下郡國。」と、劉秀が真定に去った後、王郎が立てられた
と記していて、
同じく耿純伝には「會王郎反,(注釈:詔取行者車馬,得數十,馳歸宋子,與從兄訢、宿、
植俱詣上所在盧奴,言王郎(所)反(之)狀。)」と、王郎の反に遭遇した耿純が車馬を
徴用し、従兄弟耿訢・耿宿・耿植と劉秀が居るという盧奴に至って王郎の反を伝えた
ことが分かる。盧奴は真定よりも北にあって、劉秀は真定を過ぎ去った盧奴にて、初めて
王郎が立ったことを知ったことになる。

444ページ 「また南陽方面に逃走した延岑も、翌建武三年(二七)に滅亡した」とあるが、
『後漢書』公孫述伝に「三年,征西將軍馮異擊鮪、育於陳倉,大敗之, 鮪、育奔漢中。
五年,延岑、田戎為漢兵所敗,皆亡入蜀。」と建武五年(二九)に延岑と田戎が蜀に逃げ
込んだことが分かり、延岑の最後は公孫述伝によれば、建武十二年十一月の「述以兵屬
延岑,其夜死。明旦,岑降吳 漢。乃夷述妻子,盡滅公孫氏,并族延岑。」である。

939:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 20:57:45.40 tQoNTJH90
>>932
せめて、在日中国人呼ばわりしろよwwwww
何で後漢のやる夫スレで、高句麗との戦いやったからって
半島人になるんだよ。半島人なら中国びいきとか言って叩くぞwwww
嵐は低脳すぎるなwwww
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 22膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)

940:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 21:02:30.44 tQoNTJH90
>>938
西嶋が参考にしたのは正史後漢書じゃなくて、東観漢記、後漢紀、八家後漢書の記述の可能性もあるのでは?

941:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 23:08:52.44 nwLDrOdT0
何回貼り付けてんだよ
アホ
一人でやってむなしいですね(笑)

942:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 23:15:59.35 nwLDrOdT0
あ、言っておくけど俺はやる夫は光武帝の方は上手いと認めているよ
但し後漢初頭は糞
キャラ贔屓がひどすぎる
見方が客観的じゃない
以上、分かったか情弱

943:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/04 23:22:01.73 IwXZgwE40
情弱でもいいけど、唐突に半島人認定は
ただの馬鹿に見えるから、止めとけよ。
どうみても、あのやる夫は、中国寄りなんだから

944:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/09/05 19:25:20.17 Qg36TsHz0
>>940
西嶋定生『秦漢帝国』は『中国の歴史』第二巻として1973年に執筆され、1996年に
再編集されています。よって参考文献は1973年時点と、1996年に追加されたものが
両方記載されていますが、1973年時点では528ページにあるように

六 『史記』・『漢書』・『後漢書』・その他
 この時代の基本的資料は『史記』・『漢書』・『後漢書』である。

と明記され、『後漢書』の集解・索引は記載されていますが、東観漢記、後漢紀、
八家後漢書には言及がありません。従って小生の指摘した箇所は『後漢書』に由来
しないといけません。
 次に1997年に再刊された時に追加された参考文献に546ページに

 『後漢紀校注』周天游 1987年
『七家後漢書』周天游 1987年
『東観漢記』呉樹平 1987年

とあるように、これらは初めて現れます。もし小生の指摘した箇所が、1997年の『秦漢
帝国』で書き直されたものとすると、何故『後漢書』の記載に叛く記述をするのか記載
しなければ、筆者のスタンス「この時代の基本的資料は『史記』・『漢書』・『後漢書』で
ある。」に反します。また、小生は東観漢記、後漢紀を見ていますが、小生の指摘した
箇所の元となる記述はありません。八家後漢書についても一応見ていますが、該当する
記述は無いです。
 念のため1974年刊行『中国の歴史』第二巻と同じ(書き直しが無い)ことをチェック
すべきですが、手近の図書館には置いていないので、すぐさまチェックできません。この
点はあしからず(チェックした時にこのスレが埋まり、継続スレが無い場合は、報告でき
ませんが、その際もあしからず)。

945:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/05 20:02:04.13 89d0AQax0
確かにあのやる夫はひどかったな
もうとっくにみてないが
与太話だな

946:名無しさん@お腹いっぱい。
12/09/09 03:35:30.88 UTnYCPlv0
与太郎

947:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/09/09 15:13:42.02 brSMAXw50
>>944
遊びに他県に出た際、図書館が近くにあったので蔵書検索すると、その近くの分館に置
いてあるとあったので、足を延ばしました。そして問題の4箇所をチェックしました。
1974年『中国の歴史』第二巻を旧版、1997年『秦漢帝国』を新版とします。

新版 417ページ (95)南陽舂陵劉氏一族
旧版 376ページ 162 南陽舂陵劉氏一族 と同じ

新版 430ページ 「その部将王匤・張卬らは、更始帝を見限って赤眉に降伏し」
旧版 388ページ 同じ

新版 435ページ 「王郎政権と対立することになった劉秀は(略)
旧版 393ページ 同じ

新版 444ページ 「また南陽方面に逃走した延岑も、(略)
旧版 402ページ 同じ

全然手が加えられていないですね。つまり資料は『後漢書』ですが、『後漢書』記載の
記述と異なる、つまり誤謬があるわけです。

948:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/10/06 10:10:31.14 uNAYFOmv0
ここまでのスレの中で、時々言及されていても、全容が分からないのが残念と思っていた
ことがあります。『金楼子』です。で、このスレが終わるまでに誰か語るべしと思っていま
した。しかし、そんな奇特な方って居ませんよねえ。仕方ない、自己解決するしかない。

『金楼子』は魏晋南北朝時代の南朝の梁の元帝(蕭繹 508-554)の著作です。この蕭繹、
様々な文献を集めまくった蒐集家です。その数、十数万巻。残念なことに、首都江陵を
攻め落とされる直前にその蔵書を焼き払ったとか。残してくれりゃ、ありがたや、ありが
たや、と後世の歴史家はきっと名を惜しんでくれたと思う。それでも蕭繹の『金楼子』は、
雑多であるけれど、当時の情報や様々な過去文献情報を含んでいるので、結構重要と
見る人もいるようです。ただ、それ本当に正しいの? と、突っ込み入れられると、
贋作の情報が混じっていても判別するのは難しいと答えるしかないです。

そして、このスレで問題となる箇所は巻四・立言篇九下です。言うまでも無く
曹植曰く~:諸葛亮曰く:~とあり、光武帝について語っているところ。小生には、直接
関係の無い2つの光武帝賛辞を繋げて、編者蕭繹が評を追加した物に思えます。先ずは
原文と、書き下しを見て頂きましょう。
まあ、2ちゃんがソースなので原文以外は信用しないように(原文は検索すれば見つけ
られる、URLリンク(zh.wikisource.org)
とかURLリンク(big5.dushu.com)
原文も、元に無かった”””,”、”,”。”,”「”,”」”等は出所によって差異があるので注意)。

どこかに貼り付ける場合は、コピペじゃなく、
リンクで由来が分かるようにして下さい。そうじゃないと、単なる嫌がらせに見られ
ますから(書き込んだ時点でそうなる、そう見えるかもしれない、と思うなら自粛して
下さい)。

949:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/10/06 10:11:08.88 uNAYFOmv0
金楼子 卷四•立言篇九下 の原文(“ が化ける所は手を加えました)

曹植曰:“漢之二祖,俱起布衣。高祖闕于細微,光武知于禮德。高祖又鮮君子之風,溺儒冠
不可言敬,辟陽淫僻,與眾共之。詩書禮樂,帝堯之所以為治也,而高帝輕之。濟濟多士,
文王之所以獲寧也,高帝蔑之不用。聽戚姬之邪媚,致呂氏之暴戾,果令兇婦肆酷之心。
凡此諸事,豈非寡計淺慮?斯不免于閭閻之人,當世之匹夫也。世祖多識仁智,奮武略以
攘暴,興義師以掃殘,破二公于昆陽,斬阜賜于漢津。當此時也,九州鼎沸,四海淵涌,
言帝者二三,稱王者四五。若克東齊難勝之寇,降赤眉不計之虜。彭寵以望異內隕,龐萌
以叛主取誅,隗戎以背信躯斃,公孫以離心授首。而乃廟勝而后動眾,計定而后行師。
于時戰克之將,籌畫之臣,承詔奉令者獲寵,違命犯旨者顛危。故曰建武之行師也,計出
于主心,勝決于廟堂。故竇融因聲而景附,馬援一見而嘆息。”諸葛亮曰:“曹子建論光武,
將則難比于韓周,謀臣則不敵良平。時人談者亦以為然。吾以此言誠欲美大光武之德,
而有誣一代之俊異。何哉?追觀光武二十八將,下及馬援之徒,忠貞智勇,無所不有。
篤而論之,非減曩時。所以張陳特顯于前者,乃自高帝動多闊疏,故良平得廣于忠信,
彭勃得橫行于外。語有曲突徒薪為彼人,焦頭爛額為上客,此言雖小,有似二祖之時也。
光武神略計較,生于天心,故帷幄無他所思,六奇無他所出,于是以謀合議,同共成王業
而已。光武稱登禹曰:“孔子有回而門人益親嘆。”吳漢曰:“將軍差強吾意。”其武力可及
而忠不可及,與諸臣計事常令馬援后言,以為援策每與諧合,此皆明君知臣之審也。光武
上將非減于韓周,謀臣非劣于良平,原其光武策慮深遠,有杜漸曲突之明。高帝能疏,
故張陳韓周有焦爛之功耳。黃瓊言光武創基于冰泮之中,用兵于枳棘之地,有奇功也。或曰:
光武之時,敵寧有若項羽者?余應之曰:“昔馬援見公孫述,自修飾作邊幅,知無大志,推羽
之行。皆較然可見,而胡有疑也?”仲長公理言世祖文史為勝,晉簡文言光武雄豪之類,
最為規檢之風,世誠以為子建言其始,孔明揚其波,公理導其源,簡文宏其說。則通人之談,
世祖為極優矣。

950:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/10/06 10:11:54.90 uNAYFOmv0
書き下し

曹植曰く:「漢の二祖、共に布衣(=庶民)より起きる。高祖(=劉邦)は細微に欠け、
光武は礼徳を知る。高祖また君子の風少なく、儒者の冠に小便を掛け敬うと言うべからず、
陽を避けて(注1)色を好み、衆とこれを共にする。詩書礼楽、帝尭の所以は治を為すなり、
而して高帝これを軽んず。済済たる多士、文王の所以は寧(やす)しを得るなり、高帝これを
蔑ろにして用いず。戚姫のよこしまな媚を聴き、呂氏の暴戻を致しめ、果たして凶婦人の
欲しいまま○○心の酷きを令ず。凡そこの諸事、あに計少なく慮浅くに非ずんや? これ
卑賤の人を免れず、当に世の匹夫なり。世祖(=光武)は仁智を多く知り、武略を奮って
以て暴を払い、義師を興して以て残(党)を掃き、(王邑、王尋)二公を昆陽に破り、
(甄)阜と(梁丘)賜を漢津に斬る。当にこの時なり、九州の鼎は沸き、四海の淵は湧き、
帝を言う者二三、王を称する者四五。若し東斉の寇賊に勝つること難ければ、赤眉の虜賊
の不計を降す。彭寵は望を以て内に隕(お)ち、龐萌は叛主を以て誅を取り、隗戎は背信
を以て躯を斃し、公孫は離心を以て首を授く。而して即ち廟に勝ち而して後に衆を動かす、
計定まって而して後に師行く。時において戦いに克つ将、計略の臣、詔を承り令を奉る者
は寵を得、命に違い旨を犯す者は危を頂く。故に曰く建武の行師なり、主の心において計
は細心、廟堂にて勝は決す。故に竇融は声に因って仰ぎ附き、馬援は一見で嘆息す」

諸葛亮曰く:「曹子建(=曹植)の光武を論ずるに、将は即ち韓(信)周(勃)に比すること難く、
謀臣は即ち(張)良(陳)平に適わず。時の人、談する者はまた以て然りと為す。吾この言を
以て誠に光武の徳を美大せんと欲すも、而して一代の俊とは異なれりと強いる有り。
なんぞや? 光武二十八将を追いて観るに、下は馬援の徒に及び、忠貞智勇、有らずの
所無き。篤くこれを論ずるに、先代を減ずるに非ず。前者の張(良)陳(平)の特に顕かな所以
は、即ち高帝は多動にして迂闊、故に(張)良(陳)平の忠信を広く得て、彭(越)(周)勃の外より
横行を得る。曲突薪を徒す(注2)(そうすべしという忠告を受け容れていれば、火事を
未然に防げた筈と言う故事[霍光伝])はこのような人の為に有ると語り、焦頭爛額上客を
為す(注3)(火事の予防を進言した人より消火に従事した人を遇する故事、同じく[霍光伝])、
この言小と雖も、時の二祖の似たる有りや。光武は神略を計り較べ、天心より生ず、故に
帷幄(張良の策を巡らせた所)より他に思う所無く、六奇(陳平の為した六奇の様な奇策)より
他に出る所は無く、是以て謀は合議し、共に王業を同じくするのみ。光武帝、鄧禹を称し
て曰く「孔子、(顔)回有りて門人益々親しめり」呉漢を嘆して曰く「将軍いささか吾の意を
強くす」。その武力及ぶべきも而して忠及ぶべからず。諸臣と事を計るに常に馬援に後言を
令じ、以て馬援に策を為させる毎に諧和し合せり、これみな名君知臣の審らかなるなり。
光武の上将は韓(信)周(勃)を減ずるに非ず、謀臣は(張)良(陳)平を劣するに非ず、光武の策慮
の深遠が原(もと)なり、漸く曲突(薪を徒す)の明を閉ざせる有り。高帝の能疎く、故に張(良)
陳(平)韓(信)周(勃)に焦頭爛額の功のみ。黃瓊が言うに、光武が氷が融ける中に基を創り、
枳殻(からたち)と棘(いばら)の地に兵を用い、奇しくも功有りなり。或る人曰く:光武の時、
若し項羽ほどに敵(かな)う者あれば? 余は応じて曰く「昔、馬援は公孫述に見えて、
修飾が辺幅を作る(上辺を取り繕う)より、大志無きを知る、羽(根)を推して行かせる
ようなもの。皆較べて然りと見るべし、而して胡乱に疑う有りや?」

(編者蕭繹の評:)仲長公理、世祖は文史の為に勝つと言い、晋の簡文(帝)は光武は豪雄の
類と言い、最も規検の風を為す。世は誠以て(曹)子建の言をその始めと為し、孔明はその
波を揚げ、(仲長)公理はその源を導き、簡文はその説を広める。即ち通の人の談、世祖極
めて優れたると為す。

注1)辟陽は、避ける陽の意味に取りました。
注2)曲突薪を徒す:真直ぐな煙突の側に薪があると出火しやすいから、煙突を曲げて薪を
移す。
注3)焦頭爛額上客を為す:火事にあたって奮闘し、頭を焦がし額を爛(ただ)れさせた人
物を上客と為して重要視する。

951:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/10/06 10:12:59.25 uNAYFOmv0
分かるのは、卷四•立言篇九下は、曹植・諸葛亮・仲長公理(後漢の人物、仲長統)・東晋
の簡文帝の言を引いて、通人が言うに光武帝は極めて優れていると、結論づけていること。

そこから考えられる(推測)は、
(1) 卷四•立言篇九下の一文は単に光武帝賛辞の文を集めただけかもしれない。
曹植が光武帝について言及した文は幾つかあり、諸葛亮はある曹植の文について反論して
いるのだが、編者は良いとこ取りしただけで、曹植と諸葛亮の書簡類からただ2つだけを
抜いて、連続に置いた。よってぱっと見て繋がるように思えても、良く見ると齟齬がある
うことになった。
(2) 賛辞が起稿された後、有名人物に仮託されたのかもしれない。
贋作とすれば、問題は何故、曹植・諸葛亮の文をすれ違ったような見苦しい書き方にして
いるのかということ。最初から贋作を作るつもりなら辻褄を合わせる筈。そうでは無いの
は、最初の記述では贋作の意図が無かったから。
実は元々無名氏同士の論であり個々に面白いが、無名氏では様にならないので、曹植・諸葛亮と名前を書き換えた人が間にいたとすれば、筋は通る。そしてそれらを集めたため、ちぐはぐになってしまった。
(3) (1)(2)の組み合わせで、片方が本物で片方が贋作の可能性もある。

とにかく南朝の梁時期までに、光武帝は賛辞を贈られているのは事実。書き手が本人か
どうかは疑念が残る、しかし、誰それが言っているという点を無視すれば、修辞を凝らし
て、熱心に光武帝を論じている点は評価して良いのではなかろうか?
 小生、書き下していて思ったのは、故事を引いて、対句を用いて、形を整えて連綿と
逸話を並べ、賛辞を贈るのは、単に暇だから出来るってものでなく、そこに強い熱意が
見て取れることです。並べられた光武帝の逸話は、飾ってはいるものの、ほぼ『後漢書』
にあるもので、捏造されたものではない。逸話から導いていく論調は、言うまでもなく
我田引水になるが、そういう主張自体は贋作・捏造とは関係なく、個々人の論評として、
扱ってあげるべきだと思う。

952:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/08 10:04:32.82 WHQ0XwWN0
せっかく煽り君がこの話題を検証してくれたので、レスするか

今までの論調は、
・金楼子ってどれぐらい信用できるの?
・なんか、光武帝評価の論調の話がつながっていない
・南朝時代には光武帝が理想化された動きがある(出典不明)

この程度だったと思う

本当に、曹植、諸葛亮かは不明だろう。
蕭繹については、たくさんある蔵書の一つだから真実を検証する暇はないと思われるので、これもそれほど参考にはならない。
蜀漢の宰相である諸葛亮が『乃自高帝動多闊疏』と劉邦を評価したのが疑問があること。
曹植が後漢時代なら、劉邦をそこまで非難できるかということと、
曹魏時代なら簒奪した王朝の開祖を称揚する政治的な意見を述べられるかということぐらいか。

で、順番に論調を考えると、
・仲長統・・・光武帝は文史によって勝つ→光武帝は儒教的評価を受けてる?
・曹植・・・・劉邦に比べて、光武帝個人がすげえよ。(多分、この後、二十八将は劉邦配下に大きく劣っていたのにと続く)
・諸葛亮・・・光武帝がすごすぎるのでそう見えるだけで、二十八将たちは劉邦配下に劣っていないよ
・晋の簡文(帝)・・・光武帝は豪雄だよ
・蕭繹・・・このように通人は光武帝は極めて優れていると言っているよ

問題は、仲長統とその他の間で評価が違うことなんだよな

光武帝は、儒教的なイメージが仲長統では強いのに、
晋の簡文帝は光武帝は現代日本のネットで行われているような評価をしているように思える。
『光武帝は極めて優れている』は変わらないけど、『文史によって勝つ』なら豪雄である必要はない。
で、曹植と諸葛亮で後者に立っている。なんか、ここが違和感

当該の言葉は、『後漢書』仲長統伝、『晋書』簡文帝紀では見つからなかったが、資治通鑑では儒教的評価にもどっている。

で、唐代では「李衛公問対」を除けば、これほどの特別な賛辞は受けていない模様

なんか、後漢書の存在といい、確かに南朝だけ評価が違う印象を受けるな

953:名無しさん@お腹いっぱい。
12/10/08 12:31:04.50 aEv7tF2E0
劉宋の場合はまた別じゃないかな?
本来なら、「劉」姓だし、漢を名乗ってもおかしくないわけだ。
後漢書でも、我らの漢のように、別格な扱いにしてる。

954:煽り君 ◆ZCHj4hzGyA
12/10/09 21:37:48.69 /ttobwGB0
>952

>蜀漢の宰相である諸葛亮が『乃自高帝動多闊疏』と劉邦を評価したのが疑問があること。
>曹植が後漢時代なら、劉邦をそこまで非難できるかということと、
>曹魏時代なら簒奪した王朝の開祖を称揚する政治的な意見を述べられるかということぐらいか。

これらは三史(『史記』『漢書』『東観漢記』)に威光があればあまり問題視され無いのではと思
います。劉邦の悪評の元を辿れば『史記』『漢書』記載に行き着き、それらは叩かれることはない。
『漢書』に至っては官撰である(=お墨付き)。ここでの悪評を看過しているのに、今更の引用に、
そこから導かれる妥当な結論を咎められましょうか。次に劉秀の評判は『東観漢記』に由来します。
三史と呼ばれるように、この頃の『東観漢記』は評価されていました。言論のソースが読むべきと
される正史なら、文句は言われないでしょう。曹魏時代に前王朝の正史編纂の着手とかも無かった
わけですし。
次に、正史から引用しているのに、それを叩けば、もの知らずと逆に教養の無さを蔑まれます。
よって正史という裏書を利用すれば、ある程度の危険は犯せるとも言えます。


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