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半導体研究のため転職1951年、私が勤めていた神戸工業は他社に先駆け、エレクトロニクス産業の雄である米RCA社と真空管を中心に技術提携しました。20世紀初頭に発明された真空
管は、通信に欠かせない装置でした。電子工学は真空管から始まったのです。RCAの設立は19年。真空管を使っだラジオやカラーテレビの商品化にいち早く成功し、世界最大級のエレクトロニ
クス企業に成長しました。しかし旧弊にとらわれ、先端情報技術や半導体開発に乗り遅れたため86年、GEに買収されました。神戸工業も一足早く同様に衰退の運命をたどりまし
た。半導体トランジスタが台頭した50年代中頃になっても伝統ある真空管技術が主流で、社業は衰えるばかりだっだのです。私は研究課にいた10人くらいの同僚たちとともに、会社
の研究と開発のため若い力を最大限発揮しました。自社製トランジスタを使ったラジオの試作品を公開したのは54年1月で、東京通信工業の試作開始より約半年も早かったのです。私
白身は半導体研究者を名乗る資格を得た感じましたが、この会社にいても自分の成長は望めないと思いました。そのころ私が興味を持っていたのは、「p-n接合」というもっと
も基本的な半導体素子です。これを徹底的に研究できる環境を求めていたところ、ある人を介して東京通信工業の研究部長だった岩間和夫さんを紹介されました。東京通信工
業は従業員400人程度で、活気に満ちたベンチャー企業でした。井深社長、専務の盛田さんとも面談し、神戸工業とはまったく対照的な印象を受けました。そして半導体技術も優れ
ていました。技術面を支配するボスがいる気配もありません。転職を決意して退社を申し出ると、ひともんちゃくがおきました。直属の上司は暗黙の了解を与えてくれていたの
ですが、会社は私を辞めさせないというのです。技術のノウハウが他社に渡るのは困る、というのが理由でしょう。懲罰人事で研究課から営業課に異動させられました。太平洋での
核実験で54年に第五幅竜丸が死の灰を浴びて以来、放射線を測るガイガーカウンターの需要が高まり、神戸工業の製品もよく売れていました。私は広島・呉港あたりの漁船まで機器を
運ぴ、使用法を説明した覚えがあります。営業マンという役割は、私の人生のシナリオには書かれていません。しかし勝手に会社を移れば二重の雇用契約で訴えられる可能性もあっ
たので、退職届を内容証明郵便で送り、神戸工業とは縁を切りました。規定の退職金8万円は、ついに支払われることがありませんでした。(江崎玲於奈 科学と技術)