【JAL】日航ジャンボ機墜落事故 19【123便】at ARCHIVES
【JAL】日航ジャンボ機墜落事故 19【123便】 - 暇つぶし2ch721:名無しさん@お腹いっぱい。
12/08/12 14:32:29.98

祈り 御巣鷹へ -日航機墜落20年-
神戸新聞(2005/08/06)

2.止まった時

3姉妹の電話待つ母
 
三人の娘の死を、受け入れることなどできなかった。
日航機事故ですべての子どもを失った田淵輝子さん(71)=西宮市=は、事故の後、
当時住んでいた大阪市都島区の自宅ベランダから毎夕、空を見上げた。
「あ、ツルや」
日本航空のマークをつけた機体が見えると、娘たちを迎える準備を始めた。
毎日毎日、帰宅を待ち続けた。

三泊四日の日程でつくば科学博などを見物し、その帰路に「123便」に乗った
会社員の長女陽子さん=当時(24)=と二女満(みつる)さん=同(19)、中学生の三女純子さん=同(14)。
大阪空港には午後七時ごろ、到着する予定だった。
夏休みはいつも、長女の陽子さんが計画を立て、妹二人を連れて旅行に出かけた。
その年は近所の姉弟も一緒だった。
高校を卒業して司法書士事務所に勤め、父の親吾さん(76)が経営する工場を継ぐと言っていた陽子さん。
姉妹の中では一番おっとりした性格で、翌年の成人式を楽しみにしていた満さん。
市場に行くと、姉二人の分と合わせ、何でも同じものを三個買った純子さん。

「三人はいつも一緒だった。天国まで、一緒に行っちゃった」。輝子さんはつぶやく。
娘たちの身元確認の手だては、歯型だった。三人の座席は飛行機の真ん中よりやや前方、正面に向かって左側。
火災が発生し、遺体の損傷が激しいところだった。
死臭が立ち込める体育館で、三人を確認できたのは事故一週間後。
陽子さんの遺体は、他人と合体していた。珍しいことではなかった。
警察官に遺体の状況の説明を求めると、人の形をした絵の上に斜線を引き、「欠損部分」を説明された。
しかし、墜落現場からは、娘たちの生の証しも見つかった。一本のフィルムだった。
警察が現像して手渡してくれたのは、三人が仲良く並んでほほ笑む写真。
日付は、大阪を出発した一九八五年八月九日。輝子さんの記憶にある、家を出たときの服装だった。
その写真が、今も自宅の至るところに置かれている。夫婦二人の家には、娘が描いた絵や、
結婚記念日に贈られたプレゼントも当時のまま残る。
「私たちの精神年齢は二十年前で止まってしまった。だからね、この家にはパソコンも携帯電話もない」と親吾さん。
年を重ね、娘たちの不在の重みが一層増す。

娘と暮らした大阪の自宅は、都市計画で立ち退きとなり、事故の四年後に西宮市に転居した。
「引っ越したら、娘たちが帰ってきたときに家の場所が分からない」。輝子さんは反発した。
そんなつらさを癒やすのは、御巣鷹への登山だった。
「子どものいない夫婦」として、見知らぬ土地で息を潜めて暮らす日々。親吾さんが登山の日程を決めると、
輝子さんの顔に生気が戻った。
墜落現場は、標高千五百メートルを超える。道路が整備された今でさえ、登山口からは急坂の山道が約一時間続く。
それでも、娘たちに近づくため、今も年に三回は登る。
三人の発見現場に建てた石碑には、輝子さんがおもちゃの携帯電話を置いている。
今の電話は三台目で、新型の折り畳み式だ。
「声が聞きたいのに、一度もかかってこない。電話番号が分からないのかなあ」
今年七月にも一度、登った。地面を掘ると、機体の小さな残がいがたくさん出てくる。
どれほど歳月が流れても、二人にとって事故が過去になることはない。


URLリンク(www.kobe-np.co.jp)



次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch