07/07/29 21:01:09 8Md5iu7/
>>670
二段目『知らぬ名なれば』
あれから五日ほどで男は起き上がることが出来るようになった。
体力の低下は著しいものがあるが、土気色だった頬は消えうせていた。
左足の傷はまだ痛みが残るようだったが、それでも今朝は肩を貸して表に出てみた。
男は山向こうの空を眺めてしばらくの間、何か深い感慨に耽っているようだった。
私は男の身体を支えながら「どうお呼びすればよいのでしょう・・
いつも『あの・・』では不便でなりませぬ」と訴えると、少し考えてから
死んだも同然なのだから名前はない。好きに呼ぶようにと答えた。
とはいっても武家風の名で呼ぶことは危険すぎる。
かといって農民風情の名をつけてもいかがなものか・・としばらく思案していると
「枯空と呼んでくれ、修験者ならこのあたりにも来よう。それなら言い訳も立つ」
と言った後に遠くを見つめながら「知らぬ名なれば、行きずりとて情も湧かぬものを・・」
とつぶやいて空を仰いだ。
余計なことを聞いてしまったと後悔し始めたころ「そなたの名も聞かねばな・・・」
と、覗き込むようにして私の目をじっと見た。
知らぬ名なれば・・と言ったのは、私にではなく、
自戒を込めての言葉かも知れないと思うと、なぜだか胸が熱くなった。
そして私の名を告げるとうれしそうに微笑んだ。ここに来て初めて見せる笑顔だった。