07/04/30 10:41:20
4月28日、日本放送協会のBS11で尾崎豊の特集のようなものをやっていて、歌の後に視聴者か何かからの手紙を読み上げていた。
そのなかに、「今の子どもたち」は「尾崎の歌には共感できないだろう」、「冷めている」、「何かに熱くなることは決して恥ずかしいことではない」云々といった内容の文章を送りつけている者がいた。(あるいは、局側がそうした演出をしていた。)
たしかに、嘲笑主義、それも非戦略的かつ不徹底な嘲笑主義に対してはわたしも違和感を覚えるが、それはあくまでも感覚に過ぎない。
さて、こうした感覚報告をさらに推し進めると、嘲笑主義の反対の極にあるかに見える、自己啓発・自己実現陣営=「熱くなる」派=「生き生き」派(これは先ほどの手紙の内容を表現したものだ!)に対しても同様に違和感を覚える。
虚構世界内存在の慧眼によれば、両者はともに感覚・感情即絶対化野郎ということになるから、両者は同質なのであり、わたしが両者に等しく違和を感じるのも当然のことである。(一方にのみ違和を感じるのは不自然である。)
「考えるんじゃない、感じるんだ!」と言った者がいたが、わたしは次のように言おう。
「感じるんじゃない、考えるんだ!」
―感覚・感情即絶対化時代に理性の復権を唱える者より
…………
ただし、感覚や感情から出発するのはありだから、上で行った言明は厳密には本当に言いたいことと異なっていることに注意してもらいたい。
要は、ある感覚や感情、ひいては不確実なものを確実であるかのように扱うのではなく、そのまま不確実なものとして認識し、それが正しいということ、あるいは反対に誤っているということを論証することができない限りは、暫定的な措置として相対化しておくことが肝要である。
(というよりも、そのような場合には、不当な正当化はできるが、正当な正当化はできず、したがってその不確実なものの正しさは不明であるから、相対化せざるを得ない。)
反対に、その感覚や感情がどれほど多くの存在者に共有されているものであっても、それらを論証なしに正当化さえしなければ、いつ、どこで、どのように感覚や感情を発露させようとも、それに対して他者が何ごとか=正当性云々を言い立てることではない。
(単なる感覚や感情の報告に止めている限り、正当性は問題にならないのであるからして。)