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1934年9月3日、山口登(山口組2代目組長)は、庄村吉之助や笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、
吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本
せいは、東京新橋演舞場で、大阪漫才公演を開催した。山口登は、この東京興行の応援に駆け付けた。翌
10月14日、山口登は、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」
と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいとともに、東京 浅草の浪花家金蔵宅
を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、虎造のマネージャー
を引き続き、浪花家金蔵が行うことが取り決められた。
1936年7月、山口組は、田岡一雄(のちの山口組3代目組長)の仕切りで、広沢虎造の花興行を行った。
昼席は福原の大正座、夜席は県会議事堂を会場とした。この興行で大成功を収めた田岡一雄は自信を持ち、
戦後、日本最大の暴力団の組長として芸能界・格闘技界を牛耳ることになる。