06/11/22 16:10:27 evvPCdhQ
はい!つたない説明をいたします。
明治以前、半島方面から焼き物や陶芸の技術者を連れてきました。この人達は、祖国では労働者としてあまり良い扱いを受けていませんでした。
しかし、我が国は、イタリーが職人の国、ドイツがマイスターの国と云うように彼らを手厚く、身分なども
保証してやりました。
この技術は、各藩にとって財政源となり得たため、シナ陣や半島人は秘密裏に隔離され山里などに住まわせて貰いました。
一方半島では、まさに差別が酷く、上位に位置する身分の者は、一般人からなんでも奪って良いと云う決まりまでありました。
このためか、半島から使わされた国史たちが、日本の町人から鶏を盗むというあの有名な絵が、残されています。
この差別制度の下の者達は、陶芸の職人達の下働き、つまり、下層階級の人の使用人として渡来しました。
このヒトモドキたちは、一様に川の淵や、海の近くで松原を守る所などに住まわせて貰いました。
職業は、半島でも生業としていたように(獣を殺し、皮をはいでいた)とさつ、死人の始末、墓堀その他。
それで川の向こうの人とかいうのです。藤内と呼ぶ地域もあり、藤という字の付く名前との関係もあるかも。
あと、北海道、東北にこのヒトモドキたちが住めるようになったのは幕末。
戊辰戦争?薩長の人たちが倒幕の続きであの辺りまで行った頃、西郷隆盛なんかは北海道まで逃げたし、
新撰組なんかも会津の方へ逃げた。あの戦争の死体を始末させるために半島人が繁殖したのを
つれていった。
勿論北海道でも内陸に隔離した。負け組の侍になり損ねた農奴たちも一緒くただったので、
侍村とか言ってたらしい。
これらの繁殖したものが、いわゆる同和。
福岡なんかに多いのは、地理的に半島に近いからか、帰国事業の時に返し損なったのが繁殖したから。