07/06/12 19:27:09
>>349 「「金吉一人の個人名が刻まれた」等は明らかに嘘
>皇太子妃内定後、雅子さんと両親が墓参した墓は金吉一人の名が刻まれた(略)
内定後のお墓参りは泉性寺(1993.4.17) 刻 ま れ て い る の は 匡 利 (道蔵)の名前。道蔵と金吉の墓は 一 緒
①URLリンク(www.yuko2ch.net) 墓の側面に匡利 (道蔵)の命日が彫ってある
②URLリンク(www.yuko2ch.net) 正面:小和田匡利の墓と彫ってある①の台座を変えたもの
泉性寺は匡利(道蔵)+金吉の墓で1基。明治7年(1874)金吉の墓を作り、後年、毅夫は金吉の墓を西真寺から移した
(金吉の墓移転は前住職時代、かつ寺の大火被災により、取材時1993の住職は詳細をしらない)
西真寺(平五郎夫妻、道蔵の妻子、墓は2基)→毅夫は兵五郎の墓参りに来ているURLリンク(www.iwafune.ne.jp)
「皇太子妃雅子さま」
>それから、金吉は家督wを継いでいないよ。
金吉は三男だから。4歳のとき祖父・兵五郎(1871没)と死別。7歳のとき父・道蔵(1874没)と死別。結婚するも33歳で若死。
妻子(竹野、毅夫2歳)は実家へ戻る。これでは家督は継げないだろう。
>小和田本家がそんな親戚は知らないといっている。
金吉の妻・竹野は子連れで実家へ戻る。毅夫は父・金吉との思い出もない2歳から母方実家で育った。
実家へ戻った竹野・毅夫は死別した夫の親類・小和田家とは付き合いなし→恒の代に小和田本家に「知らない」と言われても仕方ない
新六匡安(1825没)-兵五郎(1871没)-匡利道蔵(1874没)-金吉(1900没 33歳)