07/06/11 20:33:30
>>318
ほらよ。久しぶりに過去ログ漁っちまった。
このネタは一時ものすごく騒がれたから、あまり掘り返すとヤブヘビになるよw
以下、コピペ↓
雅子の父・恒→その父・毅夫(ここまで皇族会議時存命)→その父・金吉→その父とされる・道蔵匡利
でほんとの 足軽小和田家につながるはずなんだけど、正式にはつながないままで放置されている。
なぜか? つなぐのに無理があるから。
小和田道蔵匡利の生没年はもともとの寺・西眞寺(村上市寺町)の過去帳に載ってるんじゃなかったか。
匡利の次男に、確かに金吉(A)なる人物はいる。そのほんとの金吉(A)と、雅子の曽祖父の金吉(B)
が 同一人物なのかが不明という話。
匡利の生年と、1900年に新潟市で亡くなり新潟市の泉性寺の墓に入っている雅子の曽祖父・漁師兼税務署下働きの 金吉(B)
の年齢を重ね合わせたとき、匡利が14才の時に次男・金吉(B)を儲けたことになり、
このラインがつながるか どうかが不詳のままになっている。
だからこそ、正式な家系図には、金吉までしかかけない。
当時の日本は早婚ではあったが、それでもたかが足軽の倅(匡利の3代前、1787年に初めて村上藩の内藤家5万石に 召抱えられた)
が14才で次男をというのはありえないらしい。