本能寺の変 = 信長の皇位簒奪計画の阻止at SENGOKU
本能寺の変 = 信長の皇位簒奪計画の阻止 - 暇つぶし2ch1:人間七七四年
07/06/22 07:06:22 wIqm8M7D
信長の究極目標は、天皇の養父すなわち上皇(=治天の君)になることであった。
「治天の君」とは、院政では天皇の上に立つ天下の主権者、まさに日本の国王である。
これは明らかに皇位簒奪であり、天皇家は完全に息の根を止められる。
明智光秀が信長を討った最大の動機は、信長の「皇位簒奪」の野望の阻止であった。
それは朝廷内の反信長勢力からの要請によるものであった。

信長は朝廷から高官を付与されて天下人のお墨付きを得る手法では、
永遠に朝廷の風下に立ち、本物の天下人足り得ないと考えていた。
第二第三の勢力が朝廷を担ぎ出し、織田政権に反逆する可能性があり、
朝廷の存立基盤たる、時の実力者への漁夫の利政策に止めを刺したかったのだ。

朝廷権威を乗り越えなければ、いつか朝廷を利用した勢力がその権威を利用し、
錦の御旗を掲げて織田政権を崩壊させる時が来るとも限らないからだ。

明智光秀は正真正銘の勤王主義者である。織田家にあっては、朝廷との橋渡しをしてくれる重要人物であった。
天正七年(1579)、光秀は丹波を平定したのに伴い、朝廷の御料所を回復している。
朝廷は大いに喜んで勅使を下向させ、官位のない陪臣の光秀に賞詞と下賜品を与えた。
これは異例の事で、光秀は大いに感激し「天下はすべて天皇の土地である」とまで書き残している。
それは信長の「天下布武」路線に抵触する文言である。
何故なら信長は「天下」を「朝廷」より上位においていたからだ。

信長の朝廷圧迫政策が具体的になるのは、天正七年皇太子の誠仁親王父子を二条御所に移した頃からだ。
これは信長の意のままになる「第二朝廷」の誕生だった。しかも信長はその前後、親王の第四子五宮を猶子にしている。
五宮が即位すれば、信長は天皇の養父、すなわち上皇(=治天の君)になれるのだ。

信長が誠仁親王と五宮を利用して皇位簒奪を実現するには、邪魔な正親町天皇を退位させなければならない。
信長は再三譲位を迫ったが、ことごとく正親町帝の拒否に遭っている。

天正十年の武田征伐後朝廷は、官位から離脱していた信長を官位体系に繋ぎ止めようとして、三職推任を下賜した。
関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの就任要請である。
ところが信長は、あっさりとそれを拒否し、その直後に毛利征伐の号令が下した。

正親町天皇は即位の際、財政窮迫のために毛利元就の献金によって即位式を行っている。
後ろに毛利が存在する限り、帝の退位は難しい。
天下制覇の総仕上げとの二重の意味で、信長は毛利征伐に乗り出した。
織田と毛利との実力差は明らかで、毛利の命脈は風前の灯だった。
信長は毛利を滅亡させた後、正親町帝に譲位を迫る考えだったのだ。

朝廷は「正親町帝、誠仁親王への譲位を決意」と言って信長を京に誘き出したのではないのか。
同時に光秀にも密かに征夷大将軍の位を賜る事を条件に謀反を決意させたと思われる。
朝廷内の日記には、山崎の合戦で光秀が敗死した六月十三日以後、ヤバい箇所が明らかに書き直され、削除されているからだ。 



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