07/05/04 07:06:02 nBZx8LZU
221 :人間七七四年:2007/05/02(水) 04:33:05 ID:uljoaEd9
>長岡藩の慶安3年3月制定の「御軍法」では士大将・さむらいだいしょう(=大組の組頭、家老が務めた)
>以下202騎の騎馬武者について、その持槍・持筒(鉄砲)等の武装・装備や兜の立物(飾り)や旗指物・服装等の出で立ち及び従者の定めを細かく規定した。
>また、足軽についても同様の軍装の定めがあり、戦闘の主力を担う鉄砲足軽隊については足軽頭(大組の士分)17人の統率の下に鉄砲30挺の隊2組、
>25挺の隊15組(鉄砲・計435挺)、合計鉄砲数531挺(士分の持筒等を合計した数と考えられる)である。
>他に弓足軽頭2騎以下、弓50張の弓足軽隊や長柄組と呼ばれる槍足軽隊があった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
長岡藩では鉄砲5:2騎馬の割合だった模様
ただ、騎馬武者の馬上筒も含めての数のようだから、騎馬の割合はもっと増えるだろう
関ヶ原の島津軍なんかは騎馬武者のほとんどが馬上筒を装備していたようだ