■ 明応の政変 ■at SENGOKU
■ 明応の政変 ■ - 暇つぶし2ch127:人間七七四年
07/08/12 15:25:36 R+PanJcM
確かに義尚政権と細川政元は悪くない。義尚政権自体任期が短かったし
将軍親征や大名抑圧政策も特別細川京兆家だけを狙い撃ちしたわけではない。
将軍義尚にもっとも酷い目に合わされたのは近江の六角氏だろうし、
親征の対象になった美濃の土岐氏や越前の朝倉氏の方が抑圧されている。

やはり義材政権になり当初政元が義材の将軍任官に反対した事もあり
畠山政長の管領就任ともあいまって細川京兆家が抑圧の対象になった。

しかし1度“細川氏同族連合体制”が崩壊すると元には戻らず
各守護家(細川分家)は、京兆家の軍事的攻撃を跳ね返しかえって
領国支配体制を強めより京兆家からの自立性は歴然とした。
時代的にも下克上や地元の国人層の動きに守護や領国支配が左右される
為それに拍車をかけた。

そのために京兆家は“細川氏同族連合体制”崩壊で失った分家の支配地、
具体的には阿波や備中や完全に喪失したわけではないが阿波守護家の侵略
を受けている讃岐などの領土の代わりに畿内の山城・河内・大和等の獲得に
動く。
その為に畠山氏や将軍家の存在は邪魔であり、後には本願寺や根来寺など
の宗教勢力とも戦い畿内に京兆家の一元的支配を確立しようとする。
その手始めとしての将軍義材の廃立つまり“明応の政変”である。


128:人間七七四年
07/08/12 22:01:01 6ZVdGMrq
強大になった京兆家に対して将軍家が分家の対立を煽って勢力を削ごうとした
のに対抗して政元が先手を打った可能性は?
もう1つの領国の土佐には阿波守護は手を出していたのですか?

129:人間七七四年
07/08/13 00:06:07 KQHBpTjw
それもあると思います。それと細川政元が・・・
明応の政変を起こした理由は複数あり1つに集約しない方が良いと思います。
時間軸では既に将軍家の“細川氏同族連合体制”への分断工作は開始され
ていると思います。そうなると先手を打ったという表現は?

京兆家の阿波での下守護家(阿波守護家)に対する反乱工作は1985年に
行われているし。備中での庄元資の乱は、1991年です。
明応の政変は1493年です。
これらは京兆家が分家が離反し始めたと感じたから行った工作であり
各分家の後ろには将軍家、特に足利義材が居たと言う事でしょう。

難しいのは時間的に京兆家と各分家の利害の対立が先なのか、
将軍家の“細川氏同族連合体制”分断工作が先なのか良く分からない
という事です。鶏と卵の関係ですねw

土佐に関してですが、阿波守護家は手は出していないのでは。
あまりそれを示す資料は無いようです。

理由としては、京兆家の阿波守護家に対する圧力はかなり激しかったので
阿波守護家は阿波国内の京兆家派の家臣をやっつけるのが精一杯だったの
ではないか?阿波の反乱が1段落着いたあとは、阿波守護家は、土佐ではな
く讃岐に侵攻している。土佐よりこちらの方が興味あったようだ

また、土佐は京兆家にとって余り力を入れて支配していない国だったようです。
細川氏の分家には土佐守護代家という家があり、そこが土佐に在国し
直接土佐の国人に対し命令を出していたようです。つまり京兆家は
土佐の支配を分家の土佐守護代家に“アウトソーシング”していたのかも
知れません。またこの当時の土佐守護代家の支配は長宗我部兼序と結託し
かなり強固なものだったようです。そのせいで政元が死ぬと長宗我部兼序
は土佐の国人からかねてから反発を買っており総攻撃を受け戦死します。
したがって阿波守護家もあまり土佐に注意を払わなかったのでは。


130:人間七七四年
07/08/13 04:23:00 NgvyHvgc
>>127
根来寺はともかく、本願寺は政元攻撃していないのでは?

政元が攻撃したのは、延暦寺です。
あと大和の興福寺も攻撃してましたっけね。

131:人間七七四年
07/08/13 13:38:00 UFAkmmGW
>>130
興福寺は政元に散々なめに合わされますな。
まあ~国人のほとんどが衆徒だから仕方が無いですけどね。
政元の大和攻撃で、国人衆は手酷くやられますね。これで実質的に大和は
京兆家の領国になりますね。

二十一年間没落の憂き目を見た島氏を含む筒井党は明応六(1497)年に復活、ようやく念願の帰国を果たし、代わって越智党は没落する。しかしそれも束の間の明応八(1499)年
十二月、今度は細川政元の重臣・赤沢朝経(沢蔵軒宗益)が大和へ侵入して
秋篠城に押し寄せ、筒井党と激戦を行ってこれを破り、筒井・豊田・番条・
十市・楢原の諸氏は再び没落する。
 朝経は大和侵入後、数カ所の庄園を配下に知行させたため大和国人衆は
危機感を持ち、永正二(1505)年二月、春日社頭に起請文を掲げて和睦し結束
した。すなわち「大和国人一揆」の結成である。これは中世大和の特異な
支配状況を物語っており、外敵の侵入には個々の確執を捨てて一丸となって
これに当たろうとするものである。
むろん、その背後には興福寺の存在があるのは言うまでもない。

 同年十一月、細川政元から赤沢朝経を将とする畠山義英(義豊の子)討伐に
向けた軍勢が大和を通過することを求めて来るが、大和の国人衆は連判状を
作成してこれに反対している(『多聞院日記』)。朝経が大和を通過したかど
うかは判らないが、結局政元勢は河内誉田城の義英、高屋城の尚順と立て続
けに破り、両人が大和へ逃げ込んだことから、南都に再び緊張が高まる。
そして永正三年八月、政元は大和国人衆が義英をかくまったとして、再び
赤沢朝経に大和侵略を命じた。
 こうして大和は朝経の二度目の侵略に遭い、大和国人一揆は苦戦する。
永正三年八月には郡山城も落とされ、結局一揆勢は大敗北を喫して大和は
朝経に支配されてしまう。

この大和攻撃はあくまで細川政元の命令であり、朝経個人の思惑ではない。
朝経の支配下というよりも京兆家の支配下に大和は置かれた。


132:人間七七四年
07/08/13 13:55:01 UFAkmmGW
将軍義材は翌明応二年(1493)、畠山氏討伐のため河内に向けて出陣
する。ところが将軍権力の強大化を望まない管領細川政元は義材の留守を
ついてクーデターを起こし足利義澄を擁立、義材は京都を離れたまま将軍
の座を追われることになる。またもや運は高頼に味方した。このクーデタ
ーにより近江では高頼が力を盛り返し、金剛寺城を取り戻すのである。

 細川政元は六角虎千代に替わり山内就綱(政綱の子)を近江守護に任命
し近江制圧を期す。明応三年(1494)十月、山内就綱は延暦寺の援護
を得て近江に侵攻、金剛寺城に籠もる高頼を破る。しかし翌月には美濃守
護代斎藤利国(持是院妙純)の援軍を得て高頼が反撃を開始し、まもなく
就綱・延暦寺を駆逐する。これにより幕府は六角征伐を諦め、高頼は領国
を完全に取り戻すことになる。高頼は明応四年(1495)頃には近江守
護に還補され、幼少時から数えて実に三十年近く続いた幕府との戦いも幕
を閉じる。これ以後高頼がその地位を追われることはなかった。


133:人間七七四年
07/08/13 13:59:30 UFAkmmGW
 二度にわたる六角征伐を耐えぬいた六角高頼は、領国支配を強め戦国大名
への一歩を踏み出そうとしていた。しかしここに一つ大きな障害があった。
それは家臣の伊庭貞隆である。応仁の乱以降、六角家では当主高頼のもと
山内・伊庭両氏が家臣団を統率して難局を乗り越えてきたが、第二次六角征伐
で山内政綱が討たれてからは伊庭に権力が集中することになった。その結果、
伊庭貞隆は高頼に匹敵する権勢を有した危険な存在となったのである。

 そして文亀二年(1502)十月、第一次伊庭の乱が勃発する。
「伊庭連々不義の子細共候間」として高頼が貞隆の排除を決行したのである。
戦闘に敗れ湖西に脱出した貞隆であったが、幕府との強いつながりを持つ
貞隆は管領細川政元の後援を得て反撃に転じ形勢は逆転する。青地城・馬淵
城・永原城と次々に落とされた高頼は、観音寺城を捨てて蒲生貞秀の音羽城
に落ち延びることになるのである。

 さらに翌文亀三年には細川政元の被官赤沢朝経が派遣され、高頼軍は窮地
に陥る。かろうじてこれを耐え抜いた高頼は政元の斡旋により講和を成立さ
せた。こうして戦争は終結した。しかし高頼にとっては、貞隆を除くことの
困難さを痛感させられた。


134:人間七七四年
07/08/13 22:00:52 pHWVGfgq
>>129:人間七七四年2007/08/13(月) 00:06:07 ID:KQHBpTjw(1)
>京兆家の阿波での下守護家(阿波守護家)に対する反乱工作は1985年に
行われているし。備中での庄元資の乱は、1991年です。



…五百年ほど違くね?

135:人間七七四年
07/08/14 00:21:19 8LykVmfo
↑すみません!確かにマイナス500年です。

136:人間七七四年
07/08/15 15:30:47 WLwHpCQr
明応の政変の発生時点では、細川政元は、管領ではない。
この時の政元の立場は丹波・摂津両守護であり、この地を支配している
という実態が政元の力の源泉である。もはや幕府管領という地位そのものに
政治力は無くなり始めている。丹波・摂津は幕府本拠地の山城の西側に
隣接し直ぐに洛中に軍勢を入れることが出来る。そういう軍事的後背地
を領有しているという実態が京兆家の力の背景である。

従って、この時点から幕府のポストを巡る政局ではなく、次第に領土獲得
戦争の色合いが出てくる。
そうなった原因は、応仁の乱の時に東西両軍が、敵の領土をかく乱する目的で
互いの領土の国人を扇動し反乱を起こさせたのが原因ではないか?
それが戦国時代での下克上や守護の任命に関係ない地元の事情による領土
獲得に拍車をかけていたのではないか。

京兆家の“細川氏同族連合体制”の崩壊による備中・阿波の喪失、讃岐の
支配体制の弱体化に代わり政元が畿内領有化を政治的目的にしたのは
そういう時代背景があったと思う。

137:人間七七四年
07/08/15 17:13:24 QuBf+fuN
赤沢朝経をもっと有名人にしよう。
相当やり手だったんだろうな。
一度裏切ったくせにまた仕えてる。政元もよく許したね。というか、政元から戻ってきてくれと。
でも、言い方は悪いが朝経は政元の犬。
奈良の寺焼くわ比叡山焼くわ。波々伯部五郎もそうだけど。
でも、最後がいいよね。政元の後を追ったって感じで。

138:人間七七四年
07/08/15 22:33:53 OoGzDdd7
赤沢朝経は、経歴や系譜が良くわからない人物。
いわゆる京兆家譜代の内衆ではなく、政元個人がリクルートした直属の部隊
の隊長。ドイツ30年戦争でハプスブルグ家に採用されたワレンシュタイン
みたいな感じ。「政元の犬」って言うけど仕方ないね。彼のような新参者は
成果を挙げて内衆との差を見せるしかない。
それに内衆は、この時点では政元の直接的な国人支配制から見れば邪魔な
存在。守護代なんは政元から言わせるなら廃止したかったのかも知れない。

そういう背景があるから政元の命令があれば無理をする。宗教勢力への
陰惨な攻撃は政元の命令でしょうね。丹後で一色氏の攻撃で死んだもの
もしかすると自害かもしれない。政元あっての自分と判っていたのだろう。
ある意味阿波守護家の三好之長と同じ位置づけかもしれない。
政元自身がもっと長生きすればもっと有名になるか大物になるったかもしれない。

とにかく良く働いている。鬼の赤沢と言わる位の猛将ですな。
政元の場合、代々相続してきた丹波と摂津を戦国時代にも維持し
さらに畿内の領有化を推進する為にこの2カ国の周囲をアチコチ攻撃している。
もはや超多面戦争状態に。
その為、全てに政元自身が出馬できる状態ではなく、ある方面は部将に任せ
そのほかの戦線は政元が出馬する体制。特に大和や河内の征圧は、赤沢が
居なければ出来ない事だったであろう。
そのほかにも紀伊や和泉、丹後まで進撃し敵の根拠地に打撃を与えている。


139:ドゴールクラブ
07/08/16 03:09:41 mPrfyEEV
細川政元がこれほど力をもてたのは、丹波と摂津両国を領有できたからだろう。

丹波は古くより京都の出入口に当たる地理的条件から各時代の権力者から重要
視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司
代などの支配を受けた。
ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれた。
足利高氏の倒幕の挙兵も明智光秀が本能寺の変へと向う際にもこの丹波が
舞台である、だから何度も時代変革の舞台ともなった。

摂津も同じく重要拠点である。海に面し貿易の拠点になりやすく河川も入り組
んで大量運搬にも適している。

この両国を領有した事により代々の京兆家当主は幕府本拠地の出入り口を押えた事になる。

>>108
また京兆家はどのくらいの兵力動員数なのか?大体40万石で1万人の軍勢の
動員が出来るとされている。丹波は約20万石、摂津は約50万石だから合計
70万石で約1万7000人と言う事になる。それに讃岐は20万石、南山城の国人
も勝元以来応仁の乱の動員に応じ京兆家の影響下にある。従って京兆家の
動員数は2万5000人前後と類推される。


140:人間七七四年
07/08/16 03:47:36 mPrfyEEV
しかし、政元が京兆家家督を相続した時点ではまだ摂津は応仁の乱の最中で
大内政弘と畠山義就に占領されており、摂津守護代以外の国人は京兆家に従
っていなかった。先代の勝元も応仁の乱後半には戦闘は対大内氏に限定し
領国奪回に躍起になっていた。応仁の乱終了時に政元と後見人の細川政国は
将軍義政同意の下大内氏に本国への撤退即し畠山義就と交渉し何とか摂津を
奪回した。この時点でようやく京兆家の動員人数2万5千人である。

他に畿内では将軍親衛隊の奉公衆の動員人数は5千人から1万人であり、
畠山家も政長と義就に分裂している為両者が約1万人づつと考えられる。
もし畠山家が分裂していなかったら、山城・河内・大和(公式には興福寺が
領有)・紀伊の4カ国にわたる大大名で京兆家に対抗できる兵力を動員出
来るのだが、2家に分裂した為動員数が半減し、勝元時代は政長が傘下に
政元時代は基家・義英親子が傘下に入ってしまう。

このように京兆家の圧倒的な動員力があるため軍事的に畠山家が分裂して
いる間は戦争になっても畿内を制圧できる。政元の執拗な畠山家との戦闘は
このことからも理解できる。畿内領有化の具体的目標である山城・河内・
大和は、全て畠山氏の領国であり畠山家の分裂による敵兵力動員数の減少が
政元の畿内領有化計画の助けになったか計り知れない。

141:人間七七四年
07/08/18 01:45:34 nJN3BDJX
“細川氏同族連合体制”の崩壊により京兆家は備中・阿波の喪失、讃岐の支配
体制の動揺に直面しその対応策として“畿内領有化”つまり山城・河内・大和
なども京兆家の領国として拡大する計画に乗り出した。
しかし政元の対策はそれでけではなかった。領土を広げるだけでなく、既に
累代にわたり支配してきた丹波・摂津両国の支配体制の変更である。

政元は、今までどうり内衆を守護代に任命して間接的に支配するのではなく
政元自身の人間関係を国人末端まで広げ、戦国大名が行う一元的な領土と
人民の支配に乗り出す事となった。
具体的には、政元近習に丹波・摂津の国人を採用しダイレクトな指揮命令系統
を確立し、行政から軍事的な事案まで政元自身か彼の側近により決定する体制
を作り上げる事である。
その為守護代の下は小守護代や各種奉行であるが、政元は、丹波・摂津の奉行
に積極的に国人層を採用している。
このように譜代の内衆を経由しない直接的な支配体制は、当然、伝統的な中世
の権門体制から逸脱し京兆家当主だけ権力をを突出させる事となる。したがっ
て本来政元に付属し彼とともに領国運営に携わるべき内衆と軋轢が生じ始めて
いる。これらの支配体制に移行するなら政元と国人や人民との中間に位置して
いた内衆は領地経営から排除される可能性があり、また本来内衆の配下にある
べき国人層が政元と一体化すれば内衆が保持する京兆家領地内の自分たちの権
益さえも京兆家当主に剥奪される可能性がある。したがって政元と内衆の間には
恒常的な利害の不一致があり京兆家内部で領地経営についての主導権が争わせる
事態となった。
この支配体制の変更は、勝元時代から始まった事なのか政元が始めた事な
のか判らないが、下克上や室町幕府の支配体制が弱体化した事により各地
の守護が自立的な支配体制を確立しようとした事とも通じる。


142:人間七七四年
07/08/18 09:29:05 eIMr4blk
それならなぜ政元は阿波守護家の澄元を養子にしたのですか?
澄之も理解できない人選でしたが

143:人間七七四年
07/08/19 23:43:08 mYyrPBfC
政元が変人だったから。

144:人間七七四年
07/08/22 16:25:01 AsDWWnoU
政元は、ガチガチのホモw

家臣の内衆や細川一門のおとな衆にも呆れられてる。

145:人間七七四年
07/08/22 16:59:21 7T254LNJ
守護代クラスの内衆への対抗上では?
政元暗殺後の内衆は澄之一本でまとまっているし、
それ以前から澄之擁立の動きはあったでしょう。

澄元を養子にすることにより、
阿波守護家との関係強化、後継者問題で澄之派を牽制、
おまけに三好之長も手駒に使えると一石三鳥。

…むしろ破滅を早めた気もしますが、末期の政元は綱渡り状態ですね。

146:人間七七四年
07/08/23 16:29:50 8fSPSUOM
>>142
>>145
古野貢氏の論文に、澄之・澄元を迎えたことについて書いたものがあったと思う。
「細川氏同族連合体制」の崩壊を主題としたものだったと思う。

147:関連スレ
07/09/27 03:30:38 ppzTSM4W
【越中】神保氏を語ろう【紀伊】
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