佐竹氏を語るスレat SENGOKU
佐竹氏を語るスレ - 暇つぶし2ch503:人間七七四年
07/04/13 06:30:24 aGDKWa9t
以下の内容は誤魔化せるものではない。そもそも事実でないと、多くの警察関係者が集まる2ch警察板にてわざわざ、
このような事を抗議の意で書くはずがない。偽計や虚偽ならば名誉毀損で即座に逮捕されている。残念ながらこれは悲しい現実だ。

権力を傘にきて、本当に集団強姦を繰り返し、その映像記録をネタに契約書をゆすった上で
更に女性陣に殺人圧力をかけ、集団洗脳し、集団違法行為に引きずりこんだ
佐藤了(秋田県立大:農業経済学)らに
警察当局の捜査が及び始めているようだ。この男がやった事は滅茶苦茶である。
ヤマギシ犯罪者陣の早急な逮捕が必要である。 

スレリンク(police板:680-684番)

佐藤了(秋田県立大:農業経済学)、谷口吉光(環境社会学)、菊地勝弘(気象学)、
松本聰(土壌学)、及び事務局員・教員多数(多くは在日朝鮮人もしくは帰化人)
の逮捕がどうしても必要です。
URLリンク(search1.bic-akita.or.jp)


504:人間七七四年
07/04/13 08:27:08 jP2bKh+X
佐竹スレだからあれだけど、
残念ながら戦国時代じゃないんだよね

ネタにしては長文で爽快感がない

よって40点

505:人間七七四年
07/04/14 00:05:37 BOi8/4jI
あめぞうにも似たようなコピペが

506:人間七七四年
07/04/14 10:33:07 T0U5RiVe
基地外が出没しているようなので、あえて話題をふってみる。
佐竹氏の家政組織をジーっと見ていると、ある家とすごく似ているように思えてくる。

例えば岡本氏。元は岩城家臣だったが、太田の松山に禅院を立て佐竹家臣となる。
関東公方や周辺の大名から書状を頻繁にやり取りし、僧侶という立場ながら
佐竹洞中で大きな権限をもっていた。

北、東、南という佐竹の苗字を持つ三つの家。なんで三つなんすかね。西は江戸時代に
できるけど、戦国時代にはなくて、三つのまま。
これら三つの家は、佐竹氏にとって一門庶子家や外様という佐竹宗家の権限が中まで及ばない
連中を「指南」していた。

そして「側近」に仕えた人々。特に和田昭為、小貫頼久、真崎宣広、根本通国や大縄義辰等々。
彼等は佐竹氏の「直々成敗之地」である直轄領の徴税を行っていた。
文禄四年の知行替えでは大体千石前後以上を宛がわれたり、預け置かれた人たち。

そして上記の「側近」ほどではないが、やはり身近に仕え、
文禄四年の知行替えで百石前後を宛がわれた人々。
彼等は大山や真崎など佐竹庶流のまた庶流だったり、天神林や宇留野など不手際で所領を
没収された庶流の人も大抵ここに属する。

「佐竹幕府」における春屋妙葩、あるいは夢窓疎石=岡本氏。
「佐竹幕府」における三管領=佐竹東、佐竹北、佐竹南。
「佐竹幕府」の政所執事=和田昭為。奉行衆=小貫、真崎、根本、大縄等々。
「佐竹幕府」の奉公衆=大山義種、大山重光、天神林、宇留野、石井一族等々。
「佐竹幕府」の一門守護=江戸、小野崎、大山、小場、石塚、大塚、等々。
「佐竹幕府」の五山=勝楽寺、正宗寺。

そりゃ室町幕府の大名なんだから似ているのは当たり前でしょう、という意見もあるだろうけど。
五山文化と室町幕府の関係>勝楽寺文化と佐竹の関係はそのまま幕府の雛型を思わせるし、
また一門庶子家のあぶれ者が佐竹の旗本を構成しているのも、幕府と奉公衆の関係に
似ていて面白い。

507:人間七七四年
07/04/14 12:19:45 KjZt6UFD
秋田弁は常人には理解しづらい言葉なんだけどいつからああなんだろうか
関東の言葉が浸透しなかったんだろうか

508:人間七七四年
07/04/14 12:49:30 9LRomdFK
ぶっちゃけ戦国最強武将かもね義重。
謙信と真っ向勝負できる唯一の武将だと思う。


509:人間七七四年
07/04/14 13:26:23 PcthvoUb
ぶっちゃけそれは無理だね

510:人間七七四年
07/04/14 14:03:02 GpD39nOp
>>506
なかなか面白い視点ですね
佐竹にとって鎌倉幕府(とくに出来た当初)は悪夢の時代
足利は同じ清和源氏であるのは勿論、南朝方との抗争を通じての徹底的な同盟者
当初から厚遇されましたし、やはりお手本とするなら室町幕府というのがあったんでしょうね

511:人間七七四年
07/04/14 15:38:25 T0U5RiVe
>>508
義重は謙信と「真っ向勝負」して「勝った」よ。
比喩だけどな。

>>510
義重(&当然ながら足利義氏)は室町幕府の滅亡を当初認めなかったふしがある。
つっても信長がしたことだから認めねーもクソもねーけど。

512:人間七七四年
07/04/14 22:58:14 fdaGxRP2
佐竹義俊の母って誰?

513:人間七七四年
07/04/15 07:02:20 wMZgtCk/
泉ピン子

514:人間七七四年
07/04/15 11:28:02 qKcDjMe2
つまんね

515:人間七七四年
07/04/15 18:32:55 c1C3U+1t
>>511
何を比喩してそう言っているのかとても興味があるの
教えてはくれまいか・・・


516:人間七七四年
07/04/16 00:30:17 5k1h2/Kz
>>403
味方討ちの名人のどこがすごい?
ああ、味方討ちしておいて恥ずかしいとも思わないでいるところかw

517:人間七七四年
07/04/16 00:46:42 vXM2QHc0
武将としての戦闘能力は謙信かな。
でも外交手腕は義重の足元にも及ばない。
北条と手を結んで関東の武将を見捨てておいて、
手が切れたら関東の武将に援軍を求める、大変虫の良い御方。
義重と比べて外交の失敗が多過ぎる。
自分は信義に厚いつもりでも周りからそう思われてない・・・
義重は、常に同盟勢力に頼られている。
小大名でここまで信頼された人もいないと思う。

518:人間七七四年
07/04/16 02:51:50 5n978ROn
秋田知事選か秋田市長選挙でも近いのかな?

519:人間七七四年
07/04/16 11:20:04 PLvR0MIW
>>515
概ね>>517が書いているようなことなんだけど、補足。
余談も入ってちょっと長くなったが。

言うまでもなく謙信ってのは強圧的な人で、実際関東の大名から嫌われてたんだけど
(成田とか佐野なんか特にそう)、関東のために何かやったかっつーと激しく疑問なんだよね。
義重も永禄後期あたりからかなり嫌ってて、その理由の一つが
佐竹を格下の大名だと思ってるんじゃねーの?ってことなんだな。
謙信は、義昭の代の佐竹には割と頭が上がらないところがあって
(義昭のおかげで管領になれたからね)、書状も厚礼だし、同陣しているのに
禁制も佐竹と上杉で別に出したりとか、義昭に対して一歩引いてるんだな。
ところが義重の代になると、年下だからか、謙信は佐竹に強制的に
事を起こしたり、あるいは起こさせなかったりする。
こういう謙信の態度に義重はブチギレて、天正二年の「関宿争論」が起こる。
謙信としては佐竹と一緒になって、関宿救援をしたかったのだが、義重は拒否。
関宿救援はいいが、その前に血判起請文をよこせと謙信に催促する。
(その起請文の内容はわからないがたぶん上記のようなことだと思う。
あと義重と謙信の間には関東の仕置きの方法について乖離があったんだと思う)
ところが謙信はそれを拒否。結果義重は北条と交渉して関宿を北条方に明渡してしまう。
これには当然謙信もブチキレた訳だが、でももうこの頃には佐竹無しでは関東の仕置きは
不可能になってるってことに謙信も気づいてたんだよね。
その証拠に謙信は上杉軍だけで関宿を包囲してる北条と戦えばいいのに、それをしなかった。
おまけに後で義重の妹に「義重は見込み違いをやりますた。越後から出てきて後悔してます。
でももっと仲良くならなくちゃならないのは謙信も同様に思ってるんです」って言ったりしてる。


520:人間七七四年
07/04/16 11:20:55 PLvR0MIW
どうも謙信は義重に対して悪いことしたんじゃないか、と思っていたらしく
(これはワタシの勘です)、本当に最後に義重に対してある贈り物をするんだな。
謙信は蘆名盛氏に書を送って、佐竹との一和(同盟)を進める。
知ってのとおりこれは上手くいく訳で、しかもただ上手くいっただけじゃなくて、
盛氏の義重に対する信頼ぶりが結構すごい。
盛氏は二階堂に対して送った手紙の中で、「何分にも以御分別、佐竹へ無二懇望之儀
肝要令存候(とにかくよく考えて、佐竹へ切に頼みいることが重要だと知らせてください)」
なんて言ってる。さらに、例えば信玄は「俺の死は隠せ」と言ったそうで、同盟者にも関わらず
北条はまんまと騙されたらしいけど、蘆名盛氏が死んだときは蘆名の家臣が態々義重に
盛氏が死んだことを伝えてる。そこまで信頼されてたわけだぬ。
こうして義重は大連合を形成するんだけど、別に頼んでもいないのにあの佐野とかが佐竹から養子を
欲しいとか言ってきたり(失敗したが)、由良なんかも北条と手を切って通じてくるあたり、
謙信の剛の政策よりは、義重の柔の政策のほうが上手くいったんじゃないかと。
つまり謙信はラオウだが、義重はトキだと言いたい訳です。
もう義重が謙信に勝ったとか勝ってないとかどうでもいいわ。この野郎。


521:人間七七四年
07/04/16 13:37:50 oyQg2M0T
>>519
なるほろなるほろ
生きた時代の違いもあるけどそういう観点では
たしかに義重に軍配があがるのー

なんか義重好きになればなるほど謙信しょぼく感じる気がする
野戦は神なんだけど 他がねえ。。

結局上杉との因縁って幕末まで続くのよね

522:人間七七四年
07/04/16 15:36:30 Vr7tM3ql
謙信と義重どっちも好きなんで、こういう逸話は面白いな。
あの「鬼義重」が外交巧者っていうだけでも良いし
軍神は軍神で「野戦は神だが他は…」っていうのが、なんか長所短所ある野心家って感じで好きなんだ。

523:人間七七四年
07/04/16 18:56:09 vXM2QHc0
うん。勉強になるね。
俺も謙信のことは好きなんだよ。
武田視点だと、敵ながらあっぱれって、感じ。
でも佐竹視点だと、どうしても損な役になる。

524:人間七七四年
07/04/16 19:20:15 lEI7rTJe
そうだね

525:人間七七四年
07/04/17 08:18:33 yKfjJGNN
www

謙信が義重や俺らにした悪いこと

小田を同盟者と認めたことで
常陸統一事業を阻害したこと

526:んですよ。 徳川について、ガンガン戦っても、家康秀忠が、豊臣徳川よりも、古い関東の名族を残しておくか、どうか? 以上、義宣は、オヤジよりも優秀だと思うんですけど、何で、オヤジよりも、知名度は低いのかな? 詳しい方、教えて下さい。



527:人間七七四年
07/04/19 16:40:45 lycEKrtx
記録を残すのが勝者だからさ

528:人間七七四年
07/04/19 16:54:07 JX+8nVsC
何て言うか義重の方が日本人好みなんだよね
格好つけて滅んでしまったら意味がないけど、そこまでは行かず
勿論腹のなかはいろいろあるでしょうが、頼られたら裏切らず

義宣はそんな父親が歯痒かったのかな

529:人間七七四年
07/04/19 16:54:25 Dn+kMHJw
普通に知名度は

義宣>義重

だろう
義重>義宣ってなってるのは信ヤボユーザーだけの認識だと思う

530:人間七七四年
07/04/19 18:57:59 isQop2bq
というか義宣が実権を掌握したのは秋田に移ってからだよ
常陸時代は義重が実権を握っていた
豊臣家との外交も義重とその代理人である義久がメインに行っている
義重も義久も豊臣との交友は深かったが
秀吉の晩年にはキッパリと見切りをつけて家康に近づいている
だが義宣はやはり二代目である甘さがあったのだろう
三成の言う大義に魅力を感じてしまった
まだ30歳になったばかりの男盛りに
2万を超える大軍を擁していれば
存分に戦ってみたいというのも無理もないとは思うが…
結局義重や重臣達の反対にあい軍を返したが
東軍に積極的に加担するのは義宣の美意識に反したのか
水戸で居座りを決め込んでしまった
やむなく義重と義久が上方に上り弁明に努めたが
義宣は家康から上洛命令が出るまで2年近くも動こうとせず
上洛の際にも戦仕度で赴くなど反抗的態度を変えなかった
義宣が早めに恭順の意を示せば
もう少し佐竹の待遇も良くなったかもしれない
あそこまで反抗的にでられては
家康も他の大名の手前甘い顔は出来ないだろう
だが義宣はそういう形で
西軍に参加できなかった面目を施そうとしたのかもしれない

531:人間七七四年
07/04/19 19:33:47 Dn+kMHJw
そりゃあんまりにもテンプレすぎな考えだと思うが・・・

532:人間七七四年
07/04/19 19:58:30 TZETR6nK
関ケ原は後世の俺らからすりゃ家康必勝の戦いだったけど
当代に生きた人間達にとっちゃどう転ぶか判らなかった戦だろう。
よく張り虎の西軍と言われるが、東軍だって上杉攻めの軍の転用だし。
個人的に三成と親しいというのもあったけど
義宣は義宣で戦国大名らしく打算と利益込みで傍観をしたんだろう。
毛利や伊達とかそういう大名も多いし、
義宣は三成と義久は家康とで、いわば二股だし

533:人間七七四年
07/04/19 21:33:52 VfrBtBmt
>533
義宣は甘かないよ
むしろ果断さは坂東太郎より上だと思う。
三成を七将から躊躇せず助けたんだよ
関ヶ原は欲得ずくで西軍に付くつもりで兵を返そうとするも、
親父が足を引っ張って機を逃したんジャマイカ

534:柏木
07/04/19 23:53:11 XKCi7lo4
初めまして、最近調べて知ったのですが先祖が佐竹氏ではないかと思ってます。家紋が扇に満月が入っていて、息子か兄弟かわからないですが、柏木義兼という人がいます。時代は源平の時代ぐらいです。知ってる方いますか?

535:人間七七四年
07/04/20 07:08:29 pwzLUMRN
>>533
それはかなりどうかと思うお話。
まず常陸時代に義重が実権を握っていたという事実はない。
たしかに義重はほぼ文禄期まで文書を出していたケースが見られるが、
それは義重付の家臣に対してであって、佐竹全体の政策にとって重要な文書ではない。
分かりやすく言えば、「義重の家臣」と「義宣の家臣」という区分があったということ。
こういった文書の受取人がその発給者とって厳格に決まっているという傾向は、
毛利など土地的関係よりも人的関係を重視した大名によく見られる。
義宣が肥前から「年貢をちゃんと払わない百姓は皆磔にしてブチ殺せ」という書状を
国許に送っていることからも分かるが、政治の実権を握っていたのはまぎれもなく義宣。

また佐竹東義久も義重の代理人などではなくて、羽柴方から決められた佐竹羽柴間の
「奏者」だということ。近代以前は政治や外交の当事者同士が直接文書を交わすということは
ほとんどなくて、大抵中間にお互いの意を汲んだ「外交官」がいて、そいつが伝奏となって
音信を交わすという方式。羽柴には石田、上杉には直江、毛利には安国寺、島津は伊集院etc。

さらに上でも言ったように、義宣は全然優柔不断などではなくて、
むしろしゃれにならないほど決断力に富んだ人物。常陸平氏一族当主数十人を暗殺し、
父親である義重に、その義重から一字を貰った江戸重通を滅ぼさせ、
常陸時代からの家老宿郎をまたしても暗殺強制引退させて自らの独裁体制を確立し、
といったようなことを優柔不断の人間ができるわけがない。


536:人間七七四年
07/04/20 07:10:41 pwzLUMRN
じゃあなんで関が原ではしょぼくれてたの?に対する答えだが、
初めから解答を言ってしまうが、義宣は宇都宮を欲しがっていたというのが答え。
理由は言うまでもなく、宇都宮が取り潰されたから。
勿論上杉にとっては徳川を叩くのが主目的だが、佐竹を味方に引き入れるために
已む無く宇都宮侵攻を認めざるを得なかった。
これはほぼ間違いのない話で、結城朝勝(宇都宮国綱の弟)が直江と義宣の間の奏者となって
宇都宮旧臣をそそのかして一揆を煽動しようとしていることからも分かる(文書残ってる)。
ところが石田の蜂起を受けて小山の軍勢が西上してしまい、上杉は態々徳川と一戦やらかす
理由が消えてしまい、佐竹にとっても結城秀康が宇都宮に居座っているために
宇都宮に侵攻するのが極めて博打的要素を帯びているため
(義宣は宇都宮を手に入れるために蒲生と戦するのは仕方ないことだが、
徳川と開戦してしまうのはかなりヤバイ)仕方なく水戸へ帰った。
義宣にとっては(黒田や伊達や上杉etcにとってもだが)関が原は一日で終わるんじゃなくて、
迷走して何年を続いて欲しいと思ってたところだろうが。

だが義宣が父親や義久の言うことを守ったかというと、それもどうも違うようで、
秀忠のもとに派遣された軍勢が義久の二百乃至五百騎程度の軍勢だということからも分かるとおり、
これは純粋に義久の鹿島行方六万石だけのものに過ぎない。
義宣が徳川に味方すると決めたなら五百騎程度ではすまないのは明らか。
従って義久の独断で徳川へ味方したが、家康はこの佐竹の計画全てを知っていて、
のちにあてつけで義久に「加増宇都宮十二万石」(伝説だが)、と言ってみたり、
秀忠が佐竹に宇都宮に約五千石の加増をしてみてたり(これ本当)、もう何をかいわんや。


537:人間七七四年
07/04/20 07:11:39 pwzLUMRN
>>537
─新羅義光─進士判官義業─+─佐竹昌義──佐竹隆義──佐竹秀義
                      |
                      | ─山本義定─+─山本義経─+─山本義弘
                                  |          |
                                  |─-山本何某  |─柏木義兼
                                             |─錦織義高                                     
山本氏は近江の水口あたりに所領を持っていた。佐竹昌義が常陸の佐竹に住んだ頃には
すでに分かれていたらしい。柏木という地名が水口に残っているのでその辺を本領としたんだと思う。
山本&柏木一族らは源頼朝が挙兵したときに、佐竹が平家についたのとは逆に、東国方についた。
近江周辺で軍事行動を起こし、平家方の物資を奪ったりした。
だが数では平家方に勝てずに敗れて鎌倉へ逃げ、頼朝の御家人になったという。
その後の消息は明らかではないが、柏木が月扇五本骨の家紋だとすると、同族の佐竹を頼ったっぽいな。
というのは佐竹が月扇の家紋を貰うのは、頼朝に討伐された後、奥州平泉攻めのときと言われているので、
そのあとに佐竹と何らかの関わりをもったのが類推できるということ。
でなければ同じ家紋になるわけがないしな。


538:人間七七四年
07/04/20 10:12:30 JzAIu7z/
佐竹義俊の母って誰?

539:人間七七四年
07/04/20 11:24:38 bnFw2lOg
>>541
佐竹義盛の娘、源姫
と言われてる

540:人間七七四年
07/04/20 17:26:58 ufxMad7Q
そもそも義宣が関ヶ原で義重や義久の反対に合って傍観した
という話しは何か裏付けあるの?
単に義宣自身が迷ってそういう態度に出ただけだと思うが。
家譜なんかでは義久がやたら悪者扱いされてるのも不可解
主家を飾るのに人柱にされたんじゃないだろうか

541:人間七七四年
07/04/21 02:52:20 +ZYr29iu
>>542
じゃあ義俊以降も本来の佐竹の血は一応入っていたんだ?

542:人間七七四年
07/04/21 08:53:50 YzzlRlZS
>>544
持っている本にはそう書いてあるが、裏は取れていない

543:人間七七四年
07/04/21 09:55:23 Hy833lGq
義宣の凄さは、粛清を文字通り、一網打尽にすることかな。小田原の陣後と秋田転封後の、大事な節目で二回も行っている。

544:人間七七四年
07/04/21 11:20:47 IqTQa/gP
人の心を動かす力を持たない人間がよくやることだ

545:人間七七四年
07/04/21 11:22:21 fAi+d9LU
秋田には譜代家臣てかなり少ないんじゃないの?
常陸から移ったのは僅か93騎だし
常陸時代は1000騎以上はいただろうから大半は置いていったのだろう
更に粛清や追放してるし

546:人間七七四年
07/04/21 11:57:50 Hy833lGq
魅力に乏しいってのは、理解できるけど、小物なら、媚び売ったりするんだろうけど、それを割り切って粛清するところが、大物感を漂わせている。
スターリンや毛沢東は、悪人だけど、大人物と同じ理屈かな…。

547:人間七七四年
07/04/21 13:16:55 ml+gxN+I
>>549
日本人はロシア人や中国人と違って粛清をあまりしない民族性だから、
それをやったからと言って大物感とかそういうのとはちょっと違う。
ロシアとか中国は虐殺を受け入れる下地があって、はじめて粛清が評価されるけど、
日本でそれをやると非難されるだけ。

信長が大物なのは、粛清を行ったからではなく、それを補って余りある改革を
当時の人間にも今の人間にも証明しているところ。
義宣の粛清は、とくに小田原陣後のほうjは
「父親と比べて小物」と言われ続けた黒田長政のだまし討ちと通じる小物感がある。

548:人間七七四年
07/04/21 13:23:56 o0fVMzH9
粛正と虐殺は違うだろ

549:人間七七四年
07/04/21 16:10:15 sNKtXBS2
戦国時代ならどこの大名家でも
粛清やってるだろ

550:人間七七四年
07/04/21 16:29:38 ml+gxN+I
しかし一番有名な功績が粛清という大名はそう多くない。
長政のように石田がらみで関ヶ原にエピソードを残していれば
またちがっていたのだろうが。


551:人間七七四年
07/04/21 18:51:59 R6ClB7PA
何時、義宣の一番有名な功績が粛清になったんだ?

552:人間七七四年
07/04/21 19:02:57 fAi+d9LU
義宣の最大の功績は常陸統一でしょう
佐竹の名の下に常陸を掌握したのは義宣だけではないだろうか?
そして常陸を失ったのは最大の失敗
佐竹歴代で最大の功績と失敗を併せ持つと言える

553:人間七七四年
07/04/21 19:27:43 Hy833lGq
徳川幕府の世の中で、佐竹が常陸で生き残れたかなぁ…?
かなり、難しそうな気がする…。

554:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/04/21 19:32:08 t+6Gn5Y9
里見しかり結城しかりだよな

555:人間七七四年
07/04/21 19:39:52 +NGUrVT2
沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です)

沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。
民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄 三千万」等で検索をお願いします。
この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから…

※一国二制度
 簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。
 (つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。)
 さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。
 3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。
 そして反日教育を受けた中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。

今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。
自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。
発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。

556:人間七七四年
07/04/21 20:16:38 SpP5szo6
>>550
 信長とて改革が認められたのは後世の話で、
当時は「魔王」以外の何者でも無かった。
 ただ、絶対権力者だから非難を封じ込める
事が緒出来ただけで、その事情は中ソの独裁者
と然程変わらん(尤も、後世でどう評価されるかは
別問題だが)
>>558
 選挙活動の期間は午後八時で終了だからね

557:人間七七四年
07/04/21 22:05:35 qPyPUoyA
>539

>義宣は宇都宮を欲しがっていた。

なるほどっっ!!知らなかったー、いいこと教えてもらったな。

上杉が白川で徳川との戦況に応じて、宇都宮に進行するか徳川の背後を襲うかを決めればいいわけだ!
宇都宮家は佐竹与党だったからね。浅野のせいで片腕をもがれたわけだし。

そういえば、宇都宮取り潰しで不可解なことがある。

佐竹は徳川包囲陣にあり、宇都宮も当然佐竹=上杉=石田ライン
その豊家への奏者は石田でしょ。なんで浅野に替わったんだろ?

558:人間七七四年
07/04/22 01:39:19 ly3pW90W
>>556
江戸に近い常陸では生き残れなかっただろうね。

559:人間七七四年
07/04/22 10:10:27 L791cbDM
>>560
浅野は譜代どころか一門だし
包囲網としては何の問題もない
もっとも宇都宮退去後、藩主になったのは蒲生だが
左遷の地にするぐらいだから
それほど重要視してなかったんだと思う

560:人間七七四年
07/04/23 20:10:36 tmXStkBT
>556,561
関ヶ原で徳川についてたら
加増して九州あたりに領地換え→いちゃもんつけてお家取り潰し
がいいとこだったかと。。

561:人間七七四年
07/04/24 00:04:31 M9H8pz7c
徳川から養子もらえたかもよ。
そしたら外戚ながらも源氏嫡流と血縁関係になれたら徳川も潰すマイヨジョンヌ

562:人間七七四年
07/04/24 21:10:58 cesF+/Pj
子供居なかったからな。
確かに養子入った可能性が高いかも。

でも関ヶ原の時点だとまだ30だし
このまま世継に恵まれないと予測するには難しい気がする。

563:人間七七四年
07/04/25 19:38:23 fXHahy7f
>>560
宇都宮改易の理由はいくつかあって定かではないが、次の三つが主なものらしい。

1.太閤検地によって打ち出された石高が、以前の表高18万石に対し
  倍以上の39万石だったことにより、不正を咎められたため。
2.奏者を石田三成から浅野長政に変えることを拒否したため。
3.浅野長政の三男長重を養子とすることを断ったため。
  またその養子の話で家臣同士の争いに発展したことを咎められたため。

1.だが、これは全くありえない話。断言していい。
まず太閤検地以前の18万石は小田原陣直後の差出で、当座のものだった。
実際に縄入されれば、以前以上の高が表れてくるのは豊臣政権の経験として
すでによく認知されていたこと。天正18年の高野山の検地で、以前の申告の
3千石の17倍の5万石が出てきたため、「曲事」とされて約2万石に削減されている。
また佐竹は小田原陣後の差出約25万石にも関わらず、文禄の検地で54万石が
出てきたが、なんの咎めも受けていない。という訳で、少なくとも差出と縄入の
高の違いで、高野山は減封なのに宇都宮がいきなり改易というのは有り得ない。

2.下野宇都宮領の検地奉行は浅野長政だったため、そのことで石田から
浅野に代わった可能性がないでもない。佐竹の54万石のうち、石田と増田に
3千石づつ知行が設定されているので、大名の領国中になんらかの関係をもった
豊臣方の奉行に利権が発生すると見ていい。つまり太閤検地後に宇都宮領から
数千石程度が浅野に割かれ、且つ浅野が奏者になったのではないかということ。

3.おそらくこれが真相に一番近いんじゃないかと思われる。
長重養子の話がどこまで進んでいたかは分からないが、そのことで芳賀高武と
今泉高光の争いに発展し、どうもいくさになったらしい。
1.や2.は宇都宮が家中の統制を欠いたという自分たちの責任を隠すため、
体面を保つための後付けの理由じゃねーかと思うんだが。

>>564-565
徳川が外様旧族大名に養子を出したことは、少なくとも近世初期は無い。
家康には相当数の子供がいるにも関わらず、ほとんどが分家を立て、
例外の秀康は秀吉によって結城を継がされたこと、信吉は断絶となった
武田を復興するという形であることを見ても、徳川は他家に養子を出すという
意思は全く無かったといっていい。
という訳で、はっきり言って佐竹に養子が入ることは有り得ない。

564:人間七七四年
07/04/25 20:39:58 tP0YFzQJ BE:474204858-2BP(0)
とするとやはり
叛意なしと思ってもらえる程度に減封される が最善の結果か。。。
ほとんど博打だけど、よく生き残れたね
城を築いたのが窪田だったのも幸いしたのかしら

565:人間七七四年
07/04/25 22:56:39 eV1Vil7f
>>564
意味が解からん文章だな


566:人間七七四年
07/04/26 09:43:58 JW9iIOoM
>>567
はっきり言って、佐竹が転封される理由なんか全く無いんだよ。
義宣には何の過失も無かったし、上杉討伐から
関が原に至る戦いでも明らかに「東軍についた」んだから。
棚倉まで出たのは徳川の命令だし、棚倉から帰ったのも徳川の命令。
直江らと怪しいメールを交わしたのは事実だが、
徳川方に造反するようなことは何もしてない。
徳川に人質を出せといわれたときも、すでに「上方に人質を出している」と言って
拒否したのは非常に筋が通っている。
その人質をどうするかは豊臣方(=家康と石田)の問題で佐竹の問題ではない。
つまり徳川へワタクシに人質を出す理由なんてない訳だ。

後世の我々は、徳川が征夷大将軍となって幕府を開いたこと、
豊臣とは独立した政権を持ったことを知っているから、関が原への一連の擾乱で
佐竹が徳川に味方しなかったということで転封されたことを納得してしまうが、
当時の状況としては極めて理解不能なことのはずだ。
豊臣方(徳川)の指令は全て聞き入れ、且つ反乱者(=上杉方、石田方)には
味方はしなかったが、積極的に豊臣(=徳川)へ味方しなかったので国替え、
という論理はどう考えても無茶苦茶です。

な訳で家康は、義宣が石田方だったと思わせるために、色々喧伝したようだ。
★豊臣のお馬鹿メン七人衆に暗殺されそうになった石田三成を、義宣が助けたということ。
(事実だろうが、豊臣政権内部ではたいして重要でもなかった
佐竹のエピソードとして何故かこれだけがクローズアップされている)
★佐竹義宣ってホント律義者じゃない?
(誉め殺し。「律義(=石田三成に対して)者」と賞賛するが、よく考えると何が律儀なんだw
思いっきり徳川の命令聞いてるじゃねーかwwまた義宣が常陸統一過程でしたこと見れば、
とても律儀なんていえない。それは義宣自身が良く分かっていたはずだ)
★義宣は形勢観望し、両端を持した。
(何度も言うが、義宣は完璧に徳川の命令で動いていた。
もはや義宣を悪い子ちゃんだと思わせるために形振りかまっていられないらしい)

ということで、佐竹を出羽へ転封させたのは徳川(特に秀忠)は
申し訳ないと思っていたようで、出羽半国にも関わらず国餅大名とされ、
佐竹の知行高が明示されたのが国替えの60年後という事実をみても、
徳川が佐竹の対処に悩んでいた形跡が読み取れる。

567:567
07/04/26 12:53:39 iQ405wGR BE:142262126-2BP(1)
>>569
とすると、家康としてははじめから佐竹に対して
国替えはさせても、潰そうとする意図はなかったのかしら。。

佐竹を源氏の嫡流として保管しておきたい意味もあったのかな。。。

携帯からなんで改行等おかしかったらごめんぽ

568:人間七七四年
07/04/26 17:02:37 B1AKjiJX
素直に常陸に居座られると何かと困るからどいてちょて言えばどいたか?

もともと太田時代は20万石くらいだから
豊臣政権時代の54万石は忘れてってとこか

たしかに家康は豊家時代の出来星大名よりも
命家を大事にしてるように感じるね

569:人間七七四年
07/04/26 18:15:56 WHBkKA84
確かに佐竹が常陸に残れる可能性はゼロと言っていいが
だからと言って減封が絶対と言うわけではない
上手く立ち回れば同等の国替えや
加増転封の可能性だって当然ある
やはり秋田減転封は下手うったと言わざるを得ない

570:人間七七四年
07/04/27 09:49:13 cnmR1g1H
減転封って言うけど、出羽半国は実高45万石ぐらいあるぞ

571:人間七七四年
07/04/27 10:21:33 s8RmaJ/g
加封されたって貧しい土地に移されちゃしょーもない
日本海、東海道、瀬戸内海、伊勢湾、この辺りの交易ルートから外れたらとても豊かとは言えない
伊達なんか仙台に入ってすごい苦労してる

572:人間七七四年
07/04/27 12:46:12 peIHCS8N
出羽は交易上も豊か

573:人間七七四年
07/04/27 14:30:56 eMAyYuIs
>>569
徳川本体は佐竹を減俸したうえで常陸に留まらせておくつもりだったらしい。
平安末期からの名家に加え、北東という鬼門、住民との親和度から、統治の上ではいちおう常陸残留が家康の所存だった。
家康は秀吉から関東を与えられてから、「吾妻鏡」を東国統治の参考資料として座右に置いていた。
加えて後北条氏との交友から、関東の地が関西以上に豊穣の地であることも耳に入っていた。

それに異議を唱えたのは本多正純。
島津が転封なしだったのは、島津の本拠が薩摩という、中央から見れば南の最果てで、これ以上遠い地がなかった。
蝦夷地か東北だったら、移転途中で京を通ることになるため、騒ぎを起こされたら事だから。
佐竹の移封が最後の最後にもつれたのは、本多と徳川の交渉がもつれにもつれまくったためというのが真相に近いか?

>>574
当時の交易中心は船。特に盛んなのが日本海側。
転封当時の秋田(久保田)は確かに数万石程度しかなかった。
実際前の主の秋田氏は5万石余だったし。
開墾奨励に加え、鉱山開発、林業管理、土崎湊の北前船の中継地化と、義宣公のスタッフはさまざまな富国策を編み出した。
結果、稲作+金銀鉱物+建築木材が主要産品となり、北前船を介した蝦夷地や京・江戸の物産と交換出来、四倒れとも言われる裕福な生活が出来るようになった。

574:人間七七四年
07/04/27 14:46:18 eMAyYuIs
再来年の大河は「天地人」直江兼続が主役だそうです。

直江状をめぐって、果たして義宣公の出番はありやなしや?

575:人間七七四年
07/04/27 14:54:36 WJ6iC0sf
佐竹義宣公が転封された最大の原因は江戸に近すぎたということでFA.



576:人間七七四年
07/04/27 15:00:16 peIHCS8N
最大なのがその点なのか、関ヶ原関連かは別として
原因の一つではあると思う

577:人間七七四年
07/04/27 17:04:28 SBuld6tN
>>576
秋田氏の領土と佐竹氏の領土の大きさも考えずにさも佐竹氏が入ったから裕福なったみたいに言うね

578:仙台藩百姓
07/04/27 17:07:55 WAi+w58B
親藩でも格式の高い水戸藩でさえ20数万石
常陸半国程度しか与えられなかったお
その水戸藩が関東で最大
外様は追いやられ4藩しか残らなかったお
その中で最大のものは大関藩の18000石だお
1万石程度にならない限り佐竹が関東内に残れるわけないお
義宣なんて何もやってないのだから
お情けで20万石も貰えれば十分すぎるお( ^ω^)

579:人間七七四年
07/04/27 17:32:03 s8RmaJ/g
つか秋田は石高過小申請してたろ。
その時点で蔵入り地含めて七万五千石ぐらいだった筈。
海商貿易を石高換算して実高計れば、旧秋田領だけで相応のもんがあったろう。
おまけで旧戸沢領(結構肥沃)、旧小野寺、由利までついてきたんだから
他の転封大名に比べりゃおいしい買い物ですな。


580:仙台藩百姓
07/04/27 18:24:39 WAi+w58B
実高が表高を上回ってるのはどこでも同じだお
常陸だって実高は90数万石と言われているお
表高が一致するほうが珍しいお

581:人間七七四年
07/04/27 19:55:12 zjNcs1nI
いや水戸藩は実高に満たなかったよ

582:人間七七四年
07/04/27 21:53:38 o1PcXGdy
水戸藩は史上最低の暗君が君臨してたからな。

583:仙台藩百姓
07/04/27 22:30:54 WAi+w58B
水戸は表高35万石
実高は30万石程度
下野にも多少領地があったから常陸内は30万弱と思われるお
つまりは水戸領を除いた常陸半国で
実高60万石あったと言う事になるお
水戸藩が真面目に統治してれば軽く100万石超えはしたお
本来は水戸領が常陸国内のメイン耕作地であるのに
なんとも酷い有様だお( ´ω`)
それでも一揆天国の久保田藩よりかマシけど(≧ω≦)

584:人間七七四年
07/04/27 23:25:20 SBuld6tN
沼田→松代の真田とか哀れだな
海上貿易に関して言えば、佐竹より安東の方が上手だったろうが
鉱山経営は佐竹の方が上手かったとオモ
まぁ地元に残ったままの大名は、家臣団の統制が大変で
逆に移封のさいに家臣団バッサリできて大名の集権が可能になった家が多いな

585:人間七七四年
07/04/28 00:13:22 44OFkuNW
まぁ秋田時代の佐竹は酷い有り様だったけどな
ぐだぐだの藩政は最悪の部類に入る
佐竹て存在は地味だけど
案外派手好きで浪費家の殿様が多い

586:人間七七四年
07/04/28 02:04:54 Guz2CTzQ
旧秋田氏の領地で、実高20万
秋田実季は、それを5万(太閤蔵入地2万5000)として過少申告

佐竹氏の領土は、旧秋田両に加えて、旧戸沢領・小野寺領を
加えていたので、入封時点での実高はかなり高い

587:人間七七四年
07/04/29 00:29:58 szfENZMj
ほほう

588:人間七七四年
07/05/01 07:44:41 iXAxZ4/W
佐竹の一族に真崎氏っているよね。
中でも真崎重宗は、兄貴の首を取り返すと言う、
全国でも稀な武勲を挙げた人物。
その真崎氏も秋田に行ったの?
それとも常陸に残った?
詳しい人教えて。

589:人間七七四年
07/05/01 17:07:31 mTT3WkLB
ちょっと長いが補足。
久保田藩の20万石という数字だが、これは実際の年貢高(斗代)を表したものじゃない。
大名の地位(知行高)を表したもので、佐竹はそれだけの位に落とされたということ。
だから実際の年貢高(斗代=実高)はもっとあると言ったって、格が上がるわけじゃない。
実際の年貢量なんて、それこそほとんどの藩は表高より多いんだから。
んで徳川は当時大体思い描いていた佐竹の新しい知行高に基づいて
国分けをしたはずなので、おそらく国替え当初は、秋田郡仙北郡(当初の佐竹領)は
20万石前後と考えられていたとは言える。
ついでに徳川はどうもあとで檜山(山本)郡等の知行宛行状に記されていない
地域の領知も認めたようなので、実際には20万石以上あったのは確実。

あとよく検地で過少申告していたというが、差出による検地では仕方のないこと。
常陸の佐竹も初めは20万貫(25万石くらい)だったのに、あとで54万石出てきた。
出羽国も文禄時代にきちんと縄入れの検地を行ったので、もっときちんとした
数字が出てきていたはず(ただし確定された高を示す文書等は残っていないようだ)。
関東では天正検地→文禄検地で二倍強の数字が出てきてることからすると、
出羽ではそれ以下だったはず。1664年に知行目録が与えられる際に、久保田藩は
実高が32万石だと幕府に言って、知行高もその通りにするように願い出たという
話があるが、これが文禄検地のときの水準にかなり近い数字だと思われる。
この知行目録では秋田郡と山本(檜山)郡の高が合わせて65千石になっていて、
これは安東秋田時代の75千石より1万石も少ない。
豊臣は縄入れ検地の結果を重要視したけど、徳川にはどうでも良かったようだね。
ちなみに豊臣政権の検地は田畠から取れるもの以外の生産品も石高に入れて数えたので、
当然佐竹領20万石の中には杉の材木の生産高も入ってる(秋田郡仙北郡)。
その秋田杉は実季の時代から利用され、伏見城の普請とかにも使われてる。

>>591
国替えのときまで重宗=宣宗とその息子宣広が生きていたかどうかは定かではない。
ただ生きていたとしたら、出羽へ行かないはずはない。
重宗は佐竹の宿老の中でも、和田昭為、小貫頼久に続く重要な人物で
真崎自体那珂湊に数千石を預け置かれるほどの家。
孫?の宣伊は出羽へ行っている。

590:人間七七四年
07/05/01 18:28:40 iXAxZ4/W
>>592
ありがとうございます。
真崎って、結構凄いんだね。
和田・小貫の次だったのか。
知らんかった。

591:人間七七四年
07/05/03 01:31:21 zE/SyXTw
真崎は他の武将とは毛色が違う
真崎氏の城館である真崎城は
海岸に面した水城である
そして、太平洋沿岸と那珂川の水軍を統括していた
また、塩の生産もしていたと言われる
朝鮮出兵の際も船奉行を勤めており
秋田移封後も湊城に入り水運を担当した
真崎氏はいわば佐竹水軍の大将と言える

592:人間七七四年
07/05/03 04:07:28 Gviz1iqY
真崎城の辺りが海だったなんて今じゃ全然信じられないね

たしか東海の原研の敷地内で塩の生産跡の遺跡も発掘されているんじゃないかな?
あの辺りは久慈川もあるし、塩の生産ともに重要なところだったんだね。

593:人間七七四年
07/05/03 05:43:58 2zSBZ1T7
佐竹は取り潰した庶子家(宇留野や天神林)や、国人、庶子家の庶子などを旗本や近習として
取り立てていく制度みたいなものがあったと思われ、真崎も庶子の彦六郎を太田城下に
住まわせ、義重は後で一字を与えて重宗と名乗らせたらしい。
他にそういう感じの人々は大山重光、車斯忠、宇留野義長とかがいる。
真崎の場合惣領は重宗の兄義保だったが、義保が壬生で戦死したため、
重宗が真崎の惣領となった。ところが重宗は義重の近習でもあったので、
真崎の本領を差配しながらも太田城にいるという状況になり、次第に真崎は佐竹宗家
に直に仕置きされるようになっていき(おそらく重宗は真崎領の「奉行」に近い感じに
なったんじゃねーかと思われる)、那珂湊は義宣の代では完全に義宣の蔵入地とされ、
改めて二千数壱百石を預け置かれるという形になる。
重宗は、義宣の代に宣宗に名前を変えて義重の家臣から義宣の家臣となっていたり、
佐竹義久との不思議なエピソードを見ると、結構おもろい人物だったようだ。
ちなみに那珂湊は久慈水運と那珂水運の物資輸送の中継地点で、
水戸と太田をつなぐ重要な場所だった。

594:人間七七四年
07/05/03 22:21:21 c9SWp3NJ
二千数壱百石?すkないのぉ

595:人間七七四年
07/05/04 00:25:24 1Rg13KlA
少なくはないよ
1000石て言ったら家老レベルだし
東義久は別物として
例えば城を預かった重臣でいくと
南義尚6246石
江戸舜通5890石
真壁房幹4571石
大山義景4012石
石塚義辰3776石
小貫伊賀守2770石
梶原政景2703石
宍戸義長2451石
長倉義興2321石
真崎宣広2113石←
太田景資1808石
松野資通1417石
小貫頼久1261石
山方右馬介953石
小野崎千代房900石
川井大膳821石
出沢筑後守799石
中田駿河守717石

このような感じで高い地位にいる事が伺える

596:人間七七四年
07/05/04 17:05:23 e70qTtzO
>>598
南義種の間違いのような・・・
これを見ると梶原も結構待遇良かった方なんだ。
でも越前亡命後の方が裕福そう。

597:人間七七四年
07/05/04 18:09:52 1Rg13KlA
>>599
義尚についてはよく分からないんだよね
義重の弟で那須氏に入嗣し那須資綱となり
その後常陸に戻り南義里の養子になり南義尚を名乗った
そして嫡男が義種なわけだが
いつ家督が譲られたのか諸説あって明確ではない
1571年に没したと言う説もあるが
茨城県史では1590年に府中城に入ったのは義尚としている


梶原政景は越前松平で2000石だから
佐竹時代のほうがやや禄は高いかな
いわくのある人物だけど
新参者で2000石は厚遇と言えるね

598:人間七七四年
07/05/04 20:19:34 e70qTtzO
>>600
勉強不足でござる。面目無い。
それにしても、江戸や真壁の評価の高さが意味解らないけど。
どうして?

599:人間七七四年
07/05/05 10:48:31 d/HyT68o
茨城県史中世編第1章第2章は網野善彦が書いていてクオリティが高いが、
第4章第5章のクオリティはかなり低いので、話半分で見たほうがいい。
適当にパラパラめくってみただけで、かなりのいいかげんな記述を指摘できる。
佐竹南義尚はあんまり活動のあとがないので、やっぱり早死にしたと見ていい。

江戸は常陸の守護代だし、一貫して佐竹とともにあったので、
江戸重通をぶっ飛ばした後に、旧江戸家臣を巧く支配するために
一族の江戸舜通(誰だ('A`)?とやらに江戸氏を継がせたんだろう。
真壁も比較的早くから佐竹に従属して、かなり役に立ってきたので、
そういう意味でやっぱりたくさん禄をあげたんだろうな。
それでも義宣はかなり削ってると思うけどな。

あと知行を宛がわれた人達は旧領主旧国人で、
義宣の蔵入地を「預け置」かれた人達は旗本っつー違いがある。

600:人間七七四年
07/05/05 16:01:07 LHqsmvDj
佐竹の常陸統一の為に
まず取り除かなくてはならないのは
南部の二大勢力である小田・大掾であり
江戸や真壁はそれらに隣接する最前線に位置していた
だから南部進攻の足掛かりとして非常に重要であり
また、佐竹義昭の代になると奥州での戦いも激化していて
常陸を留守にするにあたって
江戸や真壁との親交は必要不可欠のものであった
だから佐竹も彼らの懐柔に心を砕き
彼らの地位も必然的に上がっていった
江戸氏に関しては簡単に介入できない程の勢力になっていて
優遇せざるを得なかったと言う背景もある
江戸宗家を追ったと言えども
県央に勢力を張っていた江戸氏の影響力を
一朝一夕に廃除できるわけでもなく
義宣が水戸に居城を移してからは
国人達の慰撫の為に江戸一族の力は重要であった

601:人間七七四年
07/05/05 16:48:32 X8xnZMrU
佐竹って常陸統一したのか?
下妻の多賀谷とか下館の水谷は結城に従属(半独立?)だけど
常陸国だよな
多賀谷はどうか知らんけど、
水谷は佐竹には降ってないはず

602:人間七七四年
07/05/05 20:48:13 4vLw0wjn
多賀谷重経age

603:人間七七四年
07/05/05 20:49:38 LHqsmvDj
正確には全て佐竹領ではないけど9割以上佐竹領だから
統一したと言っても差し支えないかと
どの大名も〇〇国を与えられたと言っても
実際は無数の飛び地が存在していて丸々一国と言うのは少ない
水谷氏や多賀谷氏ら結城四天王は
豊臣政権下では結城氏の与力大名という位置付けとなった
しかしながら大名として正式に認められた事となる
しかし多賀谷重経は結城秀康と折り合いが悪く
家中を二分して子の三経は結城に
自らは佐竹から養子を向かえ嫡男とし佐竹の与力となった

ちなみに佐竹は常陸54万石石と言われるが
実際は陸奥国東白川郡周辺や下野国那須郡周辺も含まれている

604:人間七七四年
07/05/06 00:13:47 S/G1uSTj
信濃の鉄道遺失物タクシードライバーコロンボ検事を見てて暇なので適当に書くぜ。

佐竹東の一代目政義の「政」は足利政氏の「政」。高嶋政伸の「政」ではない。
政氏は内乱を克服した佐竹義舜を私的な「管領」として東国の右京大夫に任命し、
その補佐をさせるという意味で、家中で有力だった義舜の弟に一字を与えた。
本来右京大夫は管領細川家にしか許されないので、
幕府の永禄諸役人附では「佐竹修理大夫義昭」となっている。
多くの大名がこの右京大夫に伍すという意味で左京大夫への任官を幕府に
求めた訳だが、義昭は勝手に右京大夫を名乗る。結構厚顔な人物だったようだ。

義重の時代、織田信長は佐竹に手紙を出すときに、佐竹の官途は何か調べた。
有職に詳しい坊主か誰かに聞いたんだろうが、佐竹は「右京大夫」だと言う。
信長は細川家に遠慮して「右京大夫」はまずかろうという訳で、
「佐竹左京大夫」と書いて手紙を送った。義重は喜んだに違いない。
ところがあとで信長が朝廷に奏上して任命させた義重の官途が「常陸介」。
隣の格下のはずの江戸は「但馬守」。「常陸守」にはなれないのは分かっているが、
義重はむかついたに違いない。義重は自分から「常陸介」を名乗ることはなかった。
義重としては自分は「右京大夫」だという自負があったんだろう。
だって伊達も北条も「左京大夫」なんだから。でも義重は親父ほど厚かましくは
なかったので、朝廷や足利に無断で勝手に右京大夫なんて名乗れない。
なので義重は手紙に自分の官途を記すことはなかったとさ。

さて豊臣の時代になると事情は変わり、幕府も終わって管領細川家は消滅した。
秀吉ってのは流石にひとたらしと呼ばれるだけはある。
筋としては細川藤孝か忠興でもいいと思うが、佐竹義宣を右京大夫にしてやった。
佐竹家は関東府の私的な「右京大夫」ではなく、正式な「右京大夫」になった。
こうして近世以降、右京大夫は佐竹家の官途となったのだった。
ちなみに半基地外の細川忠興は佐竹義宣の茶の湯の先輩でもあるが、
佐竹の国替えのとき、本多正信に出羽一国にしてやれよと意見してやったという。
一方管領細川家の末裔細川頼範は母親の縁で、
出羽から常陸に移された秋田家に寄食した。

ついでに義重の妹が「せうしやう」とか、奥さんが「小大納言」というのはデタラメ。
少将も小大納言も付き人の名前です。高貴な女性、
特に誰かの奥さんになっている人に手紙を送るときは、恐れ多いので、
直接相手の名前を書いて送ってはいけません。それがサムライの嗜み。
秀吉も自分の妻であるおねにさえ、手紙を送るとき、侍女の「こほ」に宛てている。
信長さえもおねに手紙を出したとき、「とうきちろうおんなども」に宛てている。
どこの大名家の家中にも「小少将」とか「ナントカ納言」という女性が必ずいるけど、
こういう名前の人はみんな高貴な女性の付き人です。
と、戦国史研究48を見て思ったことを書いてみますた。

605:人間七七四年
07/05/06 10:21:51 UplLF/fp
こんなの要約して五行で書け馬鹿wwwwww

606:人間七七四年
07/05/06 20:47:39 qieVdtgw
【上杉佐竹】関東の戦国大名【北条里見】
URLリンク(ame.dip.jp)

607:人間七七四年
07/05/09 09:42:08 W1W2TwwR
あげ

608:人間七七四年
07/05/11 00:46:28 s5X8l5yd
暴れん坊将軍の姉ちゃんは秋田に嫁に入ってあるのね

609:人間七七四年
07/05/11 01:31:22 Fh/VAUYN
>611
お主


時代劇チャンネル見てるだろw

610:人間七七四年
07/05/12 09:54:50 wRwoTifD
おまいら何の話を・・・・

611:人間七七四年
07/05/14 09:45:58 iSM6Hm77
ドーピングコンソメスープ

612:人間七七四年
07/05/14 16:18:27 IhAXJxwB
結局、義重の男系子孫は残ってるのでしょうか?

613:仙台藩百姓
07/05/14 17:17:38 5An23Mw7
相馬宗家と織田宗家は
義重の男系子孫と言えなくもないのではないかお?

614:人間七七四年
07/05/15 22:20:33 W1siQ80a
>>606
土浦とか旧小田領の大半は太閤殿下の御養子の結城秀康に授けられた筈だが。

615:人間七七四年
07/05/16 10:40:36 hqw+2JXf
ウチ土浦駅から1kmなのに・・・・

616:人間七七四年
07/05/18 09:42:26 yY/vTq/R
関係ねぇよw

617:人間七七四年
07/05/20 02:16:18 vFd6Zrfa
620get

618:佐竹に問う者
07/05/20 03:59:48 cVr7Z4dC
結局のところ、佐竹氏には上杉の血が入り
新羅三郎義光の流れは続いていないんですね?!
義重・義宣の血を引く流れは現存するのでしょうが、
佐竹氏が拠り所としてきた源義光との繋がりは既に昔のお話ですよね。
でも、上杉から養子を入れる前に分家した庶流で
新羅三郎の流れを保っている一族はあるのでしょうか?

619:人間七七四年
07/05/20 09:06:33 LEdcyO1+
山入一族の反乱で滅びたんじゃない?

620:人間七七四年
07/05/20 11:41:29 nQ3PAjVn
>>621
上杉家から義人が養子として入ってきたが、正室は源姫(佐竹血統)
義人と源姫の間にできた子が、次の当主である義俊だから
本当に佐竹の血が入ってないのは義人だけ

621:仙台藩百姓
07/05/20 11:44:25 kMcJZGzR
室町期になると常陸に於ける佐竹の支流は
200家ぐらいあったそうだお( ^ω^)
今でも相当数いるはずだお
漏れの知り合いにもいるお

622:人間七七四年
07/05/20 17:31:36 Egm9ISYh
佐竹って上杉に見捨てられたら滅びそうになった雑魚豪族でしょ。
で、滅ぼされそうになって上杉通じて秀吉に泣きつくが結局関ヶ原でぺしゃんこにされる。

大阪の陣では上杉軍が30000万の敵兵を打ち破ったのに、佐竹は撃破されて惨めに逃走。
仕方なく上杉軍が出て来て撃破。

なさけねえ。

623:人間七七四年
07/05/20 17:35:18 Bj9FhI8x
3億かよ


624:人間七七四年
07/05/20 17:41:29 Egm9ISYh
なんで、東軍について佐竹って田舎に移住させられたの?しかも100万石持っていたのに15万石という上杉以下。
笑えるね。腹筋がなくなりそうだ。

625:人間七七四年
07/05/20 17:48:55 Egm9ISYh
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻め笑われる。

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

626:佐竹に問う者
07/05/21 02:46:42 G8xyB3SO
>>623
なるほど義人は、上杉からの婿養子ゆえ佐竹の血脈は続いたんですね!
残念なのはその後、相馬氏からの養子により佐竹宗家は、その血を途絶えたのですね。

627:佐竹に問う者
07/05/21 03:06:13 G8xyB3SO
>>624
室町期に既に二百の支流とは!
いわゆる佐竹一門と呼ばれた家はそれら総てなのでしょうか?
いずれにしてもそれだけ多くの支流があれば、間違いなく現代にも新羅三郎の血脈がいそうですね!?
もしかしたら八幡太郎の血脈より多いのかも?
清和源氏の末裔らは今も何処かに続いてるような気がします・・・中でも常陸源氏は東国平氏一党と和を以ていたらしいことは、源平騒乱を導いた頼朝の義家流とは違った血を感じます。
よく源氏の血は冷たいと言われてる様なのですが、常陸源氏や義光も冷血漢だったのでしょうか?


628:人間七七四年
07/05/21 08:23:05 Ay2tgGRX
>>624
それは、全てあなたの思い込みです。

629:人間七七四年
07/05/21 08:40:26 D76kheor
>>630
何を言っているのか良く分からんが、
源氏史のなかで新羅義光ほどの悪人はいないぞ。
源氏の嫡流になりたいがために兄義家の嫡男義忠を殺す。
しかも謀略をつくしてその濡れ衣を次兄の義綱に着せ、
佐渡に配流させたあと、追捕を派遣して自害させる。
その上自分の子供の義業に義綱のあとを継がせるという周到さ。
それ以外にも藤原顕季を脅迫して、その荘園を押領したりとやりたい放題だった。
白河院さえも「義光には逆らうな」などという始末。

630:人間七七四年
07/05/21 10:16:39 GCoIqpoz
>>622
山入氏滅亡後も山入分家の子孫はずっと、それこそ江戸時代まで続いた。
討たれた山入宗家の血統も、少なくとも義昭・義重には生き残りがいた。

631:人間七七四年
07/05/21 10:27:10 GCoIqpoz
>>629

佐竹義処―相馬叙胤
           |―相馬恕胤―相馬祥胤―相馬益胤―佐竹義尭
      相馬昌胤の娘

佐竹の血は絶えていない

632:人間七七四年
07/05/21 11:36:54 5TFy7Rza
テスト

633:東義久ってどう?
07/05/21 16:12:58 UuirzrLE
ぞうですね。「関宿論争」を見ると、謙信って子供っぽいような気がする。
命令に従わないと、駄々をこねるし、義重の妹(宇都宮広綱室)や、梶原政景に愚痴をこぼすわ…。
義重は若年で家督を継いだから、堅実だったのかも…゜


634:人間七七四年
07/05/21 17:00:41 lanO/6os
>>ロシアとか中国は虐殺を受け入れる下地があって、はじめて粛清が評価されるけど、
>>日本でそれをやると非難されるだけ。

スターリンの粛清、文化大革命など評価している人間など
一部の信者を除きロシアや中国にもいないが?

635:人間七七四年
07/05/21 17:11:02 tx9CtQ+L
>>637
単純に義宣が粛清を帳消しできるほどの
功績を挙げたとは見なされなかったから非難されたんだろう
ロシアや中国では粛清して認められるなんて偏見

636:人間七七四年
07/05/21 19:41:53 wJeQsjT7
江戸舜通の江戸氏て少し不可解ではないか?
舜通は烏子河内城主(旧美和)だけど
俺はてっきり佐竹の配下になってから
河内城に配置されたのかと思っていた
しかし、舜通の3代前から既に河内城に入っている
河内城の周囲を見ると
北の大子周辺は佐竹配下の野内氏(義昭以前は白河氏
北東の山形周辺は佐竹配下の山形氏
東の大宮周辺は佐竹一門の部垂氏、宇留野氏、小場氏など
後には和田氏なども入る
南の御前山周辺は佐竹一門の長倉氏
更に南の桂周辺は佐竹一門の大山氏
更に南の城北周辺は佐竹一門の石塚氏
南東の瓜連周辺はよく分からないが
義昭の代には大方佐竹領となっていたようだ
その南の那珂周辺には佐竹一門の戸村氏や江戸氏の勢力
ちなみに河内城の西は那須氏の本拠地である烏山である
で、河内城から水戸方面へ行くには
美和~御前山~桂~城北~水戸
もしくは
美和~緒川~大宮~瓜連~那珂~美和
のルートである
いずれのルートでも40Km以上はあるかと思う
つまり何が言いたいかと言うと
江戸宗家のいる水戸からあまりに遠い!
しかも佐竹の勢力に分断されている 
何でこんな所に江戸氏が??

637:人間七七四年
07/05/22 00:48:03 eXurCVfE
640get!

638:人間七七四年
07/05/22 10:07:47 8ab500XH
訂正

×少なくとも義昭・義重には生き残りがいた
           ↓
○少なくとも義昭・義重時代には生き残りがいた

639:人間七七四年
07/05/22 10:35:52 tq5e5ZgJ
山入支族といえば小田野が有名


640:人間七七四年
07/05/22 12:42:18 9lrnleCp
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻め笑われる。

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

641:人間七七四年
07/05/22 12:42:59 9lrnleCp
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻め笑われる。

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

642:人間七七四年
07/05/22 12:44:22 9lrnleCp
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻め笑われる。

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

643:人間七七四年
07/05/22 12:46:20 9lrnleCp
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻める

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

644:人間七七四年
07/05/22 17:50:59 1dDw5ho9
義憲(義人)入嗣以前に分かれた佐竹一族
田口氏 町田氏 国井氏 額田氏 岡田氏
岡部氏 国分氏 小場氏 前小屋氏 稲本氏
東野氏 石塚氏 北酒出氏 南酒出氏 大山氏
藤井氏 粟氏 小室氏 利倉氏 革島氏
山角氏 山入氏 大畠氏 長倉氏 豊間氏
小瀬氏 箕浦氏 山本氏 大内氏 塙氏
野口氏 並河氏 手綱氏 大縄氏 白鳥氏
馬淵氏 高久氏 高倉氏 田谷氏 白石氏
鷹久氏 寺門氏 福村氏 柏木氏 錦織氏
錦戸氏 中根氏 葦間氏 大沢氏 上平氏
今野氏 河内氏 小浦氏 野口氏 森戸氏
和田氏 速見氏 速水氏 松平氏 大鳥氏
高垣氏 早見氏 早水氏 仁平氏 依上氏
大島氏 山田氏 畔柳氏 馬場氏 黒柳氏
上有智氏 真島氏 豊後氏 綱懸氏 大野氏
袋田氏 小田野氏 檜沢氏 笹葉氏 真崎氏 小川氏

全部は知らないので他にも大勢いるかと思う
でも、ざっと見ても結構な数いる
義宣(二十代)までくだれば確かに二百家ぐらいありそうだ

645:人間七七四年
07/05/22 22:28:03 L3CKqfAB
戦国時代の関東は、激動だったね
良く生き残ったよ
義重の器量もあっただろうが
佐竹って、家臣団の結び付きも強かったのかな
でもあの所領で二百家もいたら、日の目を見ない奴も
いただろう
実際知らない奴たくさん居るな
白石氏って、白石美帆と繋がりあるのかな?

646:人間七七四年
07/05/23 02:52:42 WU8NWkjF
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻め笑われる。

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

646 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/05/22(火) 12:46:20 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻める

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。


647:人間七七四年
07/05/23 09:57:39 aN5afXka
荒らしがひでぇw

648:人間七七四年
07/05/23 12:23:43 9MC/NmpJ
>>639
まず鷲子江戸氏の系図から
通房─通秀─通長─通雅─通泰─忠通─通政─重通
    l─隠岐守通治─通盛─伊豆守通賢─上野介舜通─長左衛門(鷲子系)
    l─頼通……(鯉淵系)
    l─通栄……(額田系)

舜通って誰やねん、と疑問だったが、『新編常陸国誌』をみたらすごい勢いで載ってた。
だが江戸が何で鷲子を領したかは分からず。そこで可能性を考えてみる。

1.佐竹から貰った。
2.南北戦争の時に那珂通泰が足利方についているので、そのとき貰った。
3.太田通延の時代から那珂氏のもの。

1.は多分無いんじゃないか。一族に所領を分封するなら兎も角、
守護代とは言っても江戸は別家だからなあ。安土桃山、近世以前だし。
ただ佐竹義篤(先の刑部大輔義篤)が死にかけたときに書いた譲り状の中で
娘で那珂通泰に嫁いだ中御々(注:娘の名前)に所領を与えているので、
そういう可能性が全く無かったともいえないかもしれない。
ただこれはあくまで中御々個人の所領な訳だが。

2.これが一番可能性が高い。那珂氏は初め熊野方に就いたらしく、
そのせいで那珂通泰を除いて佐竹に皆殺しにされたが、通泰だけは足利方に
味方したので、那珂郡江戸郷を与えられた。これと同時か、あるいは近い時期に
何らかの戦功の代わりとして足利系列から鷲子周辺が与えられたのではないか。

3.これはないね。間違いないね。

そもそも鷲子周辺がもともと誰の所領だったかも定かではない。
ただ気になる点がひとつ。
まず佐竹庶子家の南酒出義茂が出家して「善念」と名乗り、親鸞に師事して
鷲子に善徳寺という寺を建てたというインチキ臭い話(新編常陸国誌)があり、
本当だとすると、鷲子は南酒出か佐竹と関係があった土地と言えるかもしれない。
態々他家の所領に、しかもちょっと歩けば佐竹の所領がある場所に
隠居の寺を建てるとも思えないからだ。
因みに近所の高部は佐竹東家の本領で、鷲子江戸氏は佐竹東と関係が
深かった(水戸市史P499)ことと合わせて考えると、なかなか面白い推測が
成り立たないでもない。佐竹東義久はかつて(南)酒出氏を継いでいたことがあるからだ。

以上です(゚д゚)

649:人間七七四年
07/05/23 19:14:10 WU8NWkjF
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻め笑われる。

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

646 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/05/22(火) 12:46:20 ID:9lrnleCp
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻める

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。


650:佐竹に問う者
07/05/24 02:33:28 Efb04sS7
>>647
佐竹庶氏家は沢山あるのですね!
これらの中で家格といったものはあるのでしょうか?
つまり佐竹氏の中心的庶子家はしぼられるのでしょうか?また佐竹氏以上に新羅三郎義光に近い末裔は佐竹庶子家にいるのでしょうか?
つまるところ佐竹にかぎらず清和源氏の末裔で一番その血が濃い一族は?


651:人間七七四年
07/05/24 04:30:18 XzITEA8W
>>653
あんたの質問の意図がはっきりしないんだよな。

「新羅義光に近い末裔」ってのは、義光の男系y遺伝子が
途切れることなく伝わってる血筋ってことか?
で、それは近世に入った時点までか、それとも現在までか、どっちを想定してんの?

近世まで(つまりまだ常陸に佐竹がいるまで)なら、続いている家もあるだろうな。
現代までなら、たぶんほぼ無いといっていいな。
東北南小場等々は義人入嗣以後の家なので、義光の男系血筋としては
続いていない。残るは大山石塚小瀬小野長倉、それから庶子家の庶子家である
小田野等、もっと遡れば岡田、山本、北酒出から分かれた馬場などだが、
大山石塚小瀬小野長倉はともかく、それ以外の家には怪しい部分がない
系図は残っていないと思われる。
大山以下の家々も果たしてどれくらい信頼できるものか微妙だ。
『新編佐竹氏系図』などの系図を自分で調べてくれ。
あとは武田小笠原系列だが、こっちはもっと微妙だろうな。
ひとついっておくが、ほとんどの武士は室町殿が滅亡するころには
「血筋なんて糞食らえ」と思っていて、家としての継続のほうを
重要視していたので(つまり家産の相続という現実的な問題)
あんまり期待しないほうがいい。

あと庶子家の家格は時代とともに変わるので、
これも時代を通じて普遍的な家格はない。
だが基本的に武士は後に分かれた家のほうが偉いということになっている。
出羽国替え直前ならだいたい
東北南大山石塚小場戸村今宮小野古内真崎…の順。

652:佐竹に問う者
07/05/24 06:58:07 Efb04sS7
>>654
すごい!
基本的なことから知らないこと多くてごめんなさい・・・父系母系問わず現在において一番新羅三郎の血が濃い可能性が高い人が知りたかったのです。
もっと言えば清和源氏の現代一番の継承者は何処にいるのだろうと思ったのが始まりでした。八幡太郎系はもはや絶えてしまったであろうと思い、ならば明治までも続いているといわれる佐竹氏の流れやその氏祖である新羅三郎の流れの中に答えを期待してのことでした。
源平藤橘とよく言いますが、その源氏の中でも清和源氏の血族的末裔の人が現代何処にいるのやらとの単純すぎる思いからの疑問でした。
でも実際は、なかなかそのようなこと知っている人いないですよね。
故に我こそは清和源氏を血縁をもって今の世に繋いでいるといった人が、もしやこちらの参加者にいるやもしれぬとの淡い期待でお邪魔した次第です。
どなたか清和源氏の研究されてる方や参考になる本ご存じの方おりませんでしょうか?


653:人間七七四年
07/05/24 09:37:59 /pTATJ/a
>>655
「奥富敬之」という人の源氏研究本は安価なので買って損はない。
アマゾン辺りで検索してくれ。ただし載っているのは中世までだ。

はっきりいって現在まで続いている男系清和源氏の家系は無い。
「無い」というのは「実際には有るかも知れないが、それが正しいと
証明することは不可能」という意味だ。
明治以降の戸籍はほぼ間違いなく信用できるだろう。
江戸時代の系図は江戸時代内だけに限って言えば、
信用できるといっていい。ただ領内の上級武士なら系図をきちんと
作っている可能性は高いが、下級武士は多分だめだろう。
室町以前の系図は全く信用できない。きちんと書かれていない上に、
大抵養子か実子かの区別もされてないし、血縁か非血縁かの
区別もされてないのが多数だ。

そもそも「清和源氏」というもの自体いい加減なものだし、平安から
鎌倉へ至る時代の武士達の紀伝も史実としての歴史にどこまで
忠実なのか非常に疑問がある。操作されているのは間違いない。
義家三兄弟も経基王からの血筋ということになっているが、
果たして何処まで信用していいのかかなり疑わしい。
義光以降の連中も同様だ。せいぜい正確だと言えるのは
佐竹では義人入嗣以後くらいだ。

ちなみに今現在清和源氏の血筋として一番有力なのは徳川恒孝。

654:人間七七四年
07/05/24 10:36:16 MdKbRW2N
>>656
最後の一行で信頼できなくなったwww

655:人間七七四年
07/05/24 16:43:27 OveDS4JR
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻める

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。


656:人間七七四年
07/05/24 18:03:20 HBLabO8c
久我美子とか細川護煕のほうが源氏としてはなあ

657:人間七七四年
07/05/24 18:27:57 TJt3LV6l
>>651
詳細サンクス
その情報を元に少し調べてみました
意外と1の説に近いかもしれない
市史の城郭の項に記載があった
烏子河内城を築いたのは江戸通治との事
1465年頃、佐竹は山入氏の反乱真っ只中で
その隙をついで通治は勝手に築城し居座ったらしい
佐竹宗家も乱で手一杯であり
途中から佐竹宗家側についた江戸氏の助力もおおきかった
その為か烏子河内城は佐竹に返還されなかった
その後、烏子江戸氏は江戸宗家とは疎遠になり
佐竹に属するようになる
つまり、初めは不法占拠したが佐竹宗家に協力する事で
領有が認められるようになっていったと言う事らしい

しかし、3の説で言ってるように
河内城の近くには佐竹一族、例の小田野氏がいる
河内城を北側に一山越えた辺りであり
距離にして2㌔ほど
こんな近くにいて黙って見ていたと言うのもおかしな話しだ
だが更に不思議なのは
実は河内城の向かい側、200~300mの所にも城がある
これも新羅三郎の子孫と言われる高沢氏の高沢城だ
高沢氏は五代目の高沢民部少輔が武門を捨て出家した
その際高沢城は廃城になったが
後に宇都宮一族の武茂泰長が入り烏子氏を名乗り居城とした
これが14世紀末頃
つまり江戸通治が河内城を築いた時にはいたはずである
目の前で勝手に築城しているのを見ていたのだろうか…
不可能な話しだ

658:人間七七四年
07/05/24 18:43:26 TJt3LV6l
そういや佐竹が常陸21万貫文を得た時
多くの重臣達は配置替えになったけど
江戸舜通はそのまま烏山河内城据え置きだよね
しかもトップクラスの所領
この優遇ぶりは謎

>>648
自分も一瞬有り得ると思ったが
よく考えたら白石美帆は芸名だよ
本名は阿久津だし
ちなみに佐竹高校出身
ある意味佐竹繋がりw

659:人間七七四年
07/05/24 19:51:29 IjEzK9FP
>>660
わしも山入の乱の時に押領されたのかもと思ったが、そのとき佐竹が
書いた「違乱相違之地」に鷲子辺りのことが書いてないんだよな。
つーことはもともと山入系佐竹のものだったんだろうか。
山入系佐竹の所領を継いだのは佐竹東だからそれもあるかもしれない。

阿久津氏は佐竹家臣の苗字のひとつ。

660:人間七七四年
07/05/25 09:58:19 ebcHrhPj
阿久津(圷)や宇留野って茨城北部にはかなり多いぞ
佐藤より多いと思う
佐竹と関係あるなら佐竹一族だらけだな
横山てのも多いけど

661:人間七七四年
07/05/25 23:24:47 Em/8JN8i
岩城秀隆age

662:佐竹に問う者
07/05/26 03:15:53 0dA5ZAGw
>>663
常陸には、佐竹が秋田に移ったあとも相当の一門や家臣が残ったのですね。
彼らの殆どは武士を捨て農民となったのですか?
聴くところによると新たな徳川による領主は佐竹遺臣達をあまり召抱えなかったばかりか佐竹一門衆の居残り組みにはその家系図さえ捨てるようにさせたといいます。
つまり佐竹氏秋田移封後に常陸に残った佐竹がらみの人々は佐竹庶子家でさえ以来、武士を捨てたということなのでしょうか?
もっとも佐竹にとって重要な一門及び家臣達は秋田に連れて行かれ選ばれなかった者達が常陸居残りとなったと何かの本で読んだ記憶がありますが・・・そうなのでしょうか?

663:人間七七四年
07/05/26 03:26:36 yFmxu72m
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻める

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。


664:人間七七四年
07/05/26 04:01:46 yFmxu72m
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻める

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。



665:人間七七四年
07/05/26 11:53:40 AHnAlabV
今の水戸市の基盤を築いたのは佐竹義宣公
俺が、好きなのは義重公だけど

>>665
佐竹氏が秋田に行く家臣を選抜する他無かったのは
単純に、領土が狭くなったからでしょう
常陸時代と同じぐらいの家臣を養うことは到底
無理だと思います
初めて行く土地で、どれほどの家臣を連れて行けるか
手探りでしたから
義宣公も苦渋の決断をしていたと思いますよ
狸爺の佐竹嫌いは言うまでも無く
死ぬまで憎んでいたんじゃないですか
だとすれば、そう言った所業も有り得たのでは
常陸に残った旧臣達も、佐竹氏を慕っていて
他の家に仕えるくらいなら・・・
って、思ったのでしょうね

義重公や義宣公の肖像画が無いのも狸爺の謀略じゃ無いですかね?

666:人間七七四年
07/05/26 17:15:42 tUdHHmR1
秋田へ随行した者は恐らく1割以下だと思われる
新領が禄高不明とは言え思い切った決断と言える
残った者達の去就も様々
他家に仕えた者も少なからずいた
帰農した者が大多数を占めたが
帰農と言っても郷士や庄屋の身分を与えられ
苗字帯刀や武家構えの屋敷は認められていた
また、佐竹旧臣は25年間無税であった
なにせ人数多いし反乱など度々起こされたら厄介だから
水戸家もかなり気を遣っていた

667:佐竹に問う者
07/05/26 22:33:42 0dA5ZAGw
>>669
結構な数の佐竹一門家臣衆が常陸に残ったのですね!
すると東氏等の四家名も常陸に残ったのかな?
秋田では有名な四家のようですが・・・。
他の大山石塚小場等の佐竹筆頭庶子家も同様に家名を常陸の地で伝えたのでしょうか?江戸期の秋田における彼ら各家の消息や逸話は、現在東北や秋田地域出版されてるものの本等で伺い知ることできますが、なかなか常陸居残り組に関するものがないんですよね。残念です。
どなたか良い資料ご存じではないでしょうか?

668:人間七七四年
07/05/26 23:49:27 tUdHHmR1
佐竹旧臣録、常陸家名録などに詳しい記載があるらしい
ただ、一般に出版されているものなのか分からない

669:人間七七四年
07/05/27 00:31:08 PozJKVFc
>>668
土地はむしろかなり広くなった。
石高って言うのは収入だから、広さとは違う。
当初の21万石から、江戸時代入って50年ぐらいで45万石ぐらいの収入になったらしいが

670:人間七七四年
07/05/27 09:50:28 4q0EXWGX
佐竹の政治力はなかなかですな。

671:佐竹に問う者
07/05/29 00:38:14 FrJKmxlW
>>671
その後の常陸では、佐竹一門に関する著作や研究があまりなされてこなかったのですね!残念です・・・。

672:人間七七四年
07/05/29 01:52:53 dSF1zgH6
>>670
確か転封後は、
東家は久保田(秋田)
南家は湯沢
北家は角館
西家(小場家)は大館に居を定めたと聞いた。


673:人間七七四年
07/05/29 09:36:47 NhwE8zko
横手は?

674:人間七七四年
07/05/29 09:41:06 kCSMd8Ff
横手は義重の隠居したところだよね
没後はどうなったんだっけか?

675:人間七七四年
07/05/29 13:56:32 k1IHwk34
義重は六郷。
横手は伊達盛重、戸村氏が城代に任命されてる。

676:人間七七四年
07/05/29 17:38:46 rVvEpImN
さたけぎじゅう

677:人間七七四年
07/05/29 17:53:50 91c9G1eU
義重って対外政策に関して言えば神だけど
常陸時代の内政はどうだったのかね

678:人間七七四年
07/05/29 22:33:49 LOOB6hyO
>>678
伊達盛重・・・・・

679:人間七七四年
07/05/29 22:46:37 hMhaqBxG
国分か

680:人間七七四年
07/05/30 00:23:38 G4pd1wuz
伊達に置いていった三男の古内重広の子孫が仙台藩志会会長になったね

681:人間七七四年
07/05/30 09:23:20 M4B+s5tD
蘆名盛重は?

682:人間七七四年
07/05/30 18:53:28 qc3dVXjm
角館。

683:人間七七四年
07/05/31 00:04:57 sE3dOBHM
>>671
常陸太田市編纂で出してたけど今は絶版だよ。
常陸太田市に出張で行った際、運よく地元本屋で見つけたので即ゲットだったけど。


684:佐竹に問う者
07/05/31 03:41:05 P1tK5Byb
>>686
絶版とは残念!
常陸に残った佐竹一門は、その後いかようになったのでしょうか?
主な庶子家などはどうなったのでしょうか?
想うに庶子家本家のみは秋田に移ったとおもわれますが、庶子家分家はその家名を保ったまま常陸に残ったものと思います。
電話帳によると今でも大山石塚等の名が常陸に見られるのでもしやと思ったのですが、佐竹一門とは関係ないのかもしれません。
現代史の方が戦国期より解らないことが多いですね!?

685:人間七七四年
07/05/31 09:48:03 5a79nn6a
可能性はあるがね・・・・

686:人間七七四年
07/06/01 23:55:08 U1Yl5aFm
戸村氏って佐竹一門?

687:人間七七四年
07/06/02 01:01:08 OAL6Zgdc
そうだよ

688:人間七七四年
07/06/04 09:43:56 8XW2uEBW
一門多いなぁ

689:人間七七四年
07/06/04 22:03:54 2iCbnfxE
基本的に世継以外は別家を建てるか他家の養子に入るかで佐竹を名乗れないからね。
永く続けばそれだけ一門が増えていく。

690:人間七七四年
07/06/06 10:25:13 McS6w8/f
ふぃううむ・・・・・

691:人間七七四年
07/06/06 15:46:03 +1fKCHJu
佐竹氏といえば沼尻合戦で8600挺の鉄砲を集め、優勢な北条氏を撃退したのが有
名ですが
8600挺もの大量の鉄砲購入料やほぼ南蛮からの輸入であるその膨大な火薬のもと
である硝石の購入料を賄う佐竹氏の財源には何か特別な特産品でもあったのです
か?

692:人間七七四年
07/06/06 17:01:41 M+xdfOjG
金山

693:人間七七四年
07/06/06 20:43:41 IZXB2Sde
筑波一族ってなんですか?

694:人間七七四年
07/06/06 23:38:05 0MnBP9cH
コスモ星丸くんです

695:人間七七四年
07/06/08 09:40:37 USPBpuvY
tsumannne

696:人間七七四年
07/06/10 16:42:40 y5k3Crtp
佐竹義重 無双に出してくれ

697:人間七七四年
07/06/10 21:51:25 NWKbxQkS
おま、ここでも書き込んでたのかw
知らずにあっちのスレでレスしちゃったじゃまいか

397 :人間七七四年 [sage] :2007/06/10(日) 21:49:30 ID:NWKbxQkS
希望出せば?ついでに佐竹もヨロ




698:人間七七四年
07/06/12 09:59:04 8w45ToPs
なんだ?

699:人間七七四年
07/06/12 23:57:50 W+eEN9wZ
義重強すぎww
もう少し京に近いところで産まれてたら天下をとるのも不可能じゃなかったと思う

700:人間七七四年
07/06/15 09:37:57 P/AvsHFd
ん゛~だうでしょう~

701:人間七七四年
07/06/15 15:53:02 4701s0dp
ぶっちゃけ義重とか政宗のほうが、関東三国志な連中より上な気がする。
なんか万能じゃんこの二人。

702:人間七七四年
07/06/15 16:05:54 MNY8RqiT
佐竹の歴史。

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで勝利
北条に攻められるが上杉謙信公のおかげで助かる
上杉謙信公とと北条氏康が結ぶが武田信玄公に助けられる(いいように使われる)
また北条に攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
芦名に潰されかけるが上杉謙信公の仲介で助かる
謙信公死去

北条に征服されまくる追い込まれる。
伊達に人取り橋で負ける
伊達に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付く。

北条をここぞとばかりに攻める

上杉が義を忘れない中、徳川に付くがなぜか改易
大阪の陣では殺されかける。上杉は勝利。

703:人間七七四年
07/06/15 16:54:25 HXSCeaoL
(´∀`)さらば~この世よ~旅立つ船は~檜造りの~お棺~♪
宇宙の彼方~十万億土、戒名背負い今旅立つ~♪
必ず盆に~帰ってくると~遺族の皆に~笑顔で応え~♪
この世を離れ~極楽浄土、はるばるのぞむ~阿倍野斎場焼き場~♪

704:人間七七四年
07/06/15 20:01:53 UrJyb55j
>>705のアオリって仙台の百姓のアオリに似てるな

705:人間七七四年
07/06/15 21:01:44 lHpl+NZC
ちょっと前にもどこかで読んだ気が。
こぴぺだよね。

706:人間七七四年
07/06/17 01:11:17 d9aYTjom
うん。木にしなくていいよ


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