06/12/27 14:22:59 OUv0Ya/7
>>228
『今川氏と観泉寺』より孫引き。出典は『校訂 松平記』とある。
永禄十(1567)年七月から九月末まで、駿河で風流踊りが流行ったという。
「駿河の国に風流の跳(をどり)はやり、諸人悉踊をことゝす、八幡村よりをどり初め、
所々村々へおどりをかけ、是をおどりて返す間、殊々外踊あまたに成、八月の末、
九月までおどりける間、町より御城へかけなど致す間、今年は中/\はや寒く成時分、
踊の時には無之間、来秋返すべしとて九月の末より踊はやむる、
時の出頭人三浦右衛門佐、殊の外是を好むの間、氏真へもすゝめ申、か様におどりをはやらすといへり、
誠に国の滅すべき瑞相とは後に思合候也」
ちなみにこの年の八月、武田義信が殺害されて氏真妹が離別され、武田・今川間の関係は断絶、
今川家は北条氏とともに塩止めを実施している。
永禄十一(1568)年三月、寿桂尼没。六月に入ると約束どおり?また風流踊りが流行する。
「六月より踊又おこり、七月中半には一円万事をやめて踊の用意也、法大寺と申寺へ三浦殿より
踊かゝり候へば、氏真ほうかぶり被成、太鼓を打給ふ、誠に此家の滅亡のしるし也」
この年十二月、武田信玄駿河に侵攻。