剣豪将軍足利義輝at SENGOKU
剣豪将軍足利義輝 - 暇つぶし2ch56:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/22 22:46:36 U0PBSwnL
>>52 尾池玄蕃

足利将軍家十三代義輝の子。諱は義辰、道鑑と号す。生没年不明。「全讃史」は玄蕃誕生の経緯を
 次のように紹介している。「永禄八年松永弾正久通将軍義輝公を戮す。時に元妃烏丸氏方に娠めり。
 近臣小早川外記、吉川斎宮、元妃を奉じて遁れ来り。尾池玄番光永(通称・嘉兵衛)の家に匿る。
 数日にして義辰を生む。遂に御池を冒し、光永の嗣となす」
 尾池氏は平頼盛の後胤とされるが頼盛の母を池禅尼と云う、この事から世の人々は頼盛の事を「池
 殿」と称し、その子孫は「尾池」をもって氏とした。讃岐横井に采地二千貫を得横井城を築いた。
 玄蕃は晩年讃岐にあって生駒家の庇護を受けたが、息西山右京が細川家に千石で召抱えられた。後
 玄蕃も肥後入国、寛永十九年正月宮本武蔵と共に奥書院で藩主忠利に謁し杯を交わしたりしている。
  又、一説ある。天文二十年(1551年)将軍義輝は三好長慶の謀反に会い、近江の朽木谷に逃
 れる、その時に出来た子が玄蕃とされる。義輝は永禄八年(1565年)三好・松永の軍勢に襲撃
 され自刃するが、浅井長政に預けられていた玄蕃は難を逃れる。長政が織田信長に滅ぼされた際、
 三河の徳川家康の元へ落ち延び、後尾池光永の許に逃れ養子となったとされる。
 はじめ足利左近、小池茂左衛門など称した。子孫は西山氏を名乗り、比着座同列定席の家格にて明
 治にいたった。


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