07/08/08 00:08:52 SSeEOmLY
秀吉や信長にとって右近の利用価値はキリシタン信徒という事だけだったんだろうね。
能力があるわけでもないし、用済みになったらすぐ捨てられた。
795:人間七七四年
07/08/08 08:05:10 mwIl3pE5
織田信長に寵愛された小姓・万見仙千代と
信忠の寵童だった美少年・万見仙千代とは
どういう関係なのでしょうか?
796:人間七七四年
07/08/10 22:54:47 IVw4HQuo
>>794
しかし、高山右近は後年前田利長の元で高岡城の縄張りを担当するなど
それなりに才覚のある人物だったようですが、やはりそれでも小西などの
ようには行かなかったのでしょうか?
797:人間七七四年
07/08/13 13:49:43 gQRSKcwr
>>796
高山右近は正面から秀吉の政策に楯突いたから改易された。
右近は有能な武将だっただろうが、天下人であった秀吉にとっては
右近程度の人間は変えの利く人材で、それより自分に楯突く者がいると言う方が重要だった。
因みに、他のキリシタン大名は表面的には禁教令に従っている。
>>794
キリシタンであることが利用価値?
新説だな
798:人間七七四年
07/08/13 20:08:22 WeG9MrC8
むしろ、小西行長は実父も御用商人として豊臣政権を支えていたから実質2人分の働きをしているからな。
799:人間七七四年
07/08/14 01:32:51 oQU9TRks
戦国時代には当時の論理道徳からも許しがたい虐殺や強姦、略奪は
発生したのでしょうか??
800:人間七七四年
07/08/14 05:32:18 8FvXD0hm
信長の比叡山は目茶苦茶非難されたみたいだが
801:人間七七四年
07/08/14 06:37:36 ZGB7HIWU
延暦寺自体光秀も一枚噛んでるしな、根絶やしを初めに支持したの
光秀なんだよ
802:人間七七四年
07/08/15 02:43:23 9Lz1jNdh
ありがとうです。
戦国時代には虐殺・レイプ・略奪と言う行為は
日常茶飯事的に発生したのでしょうか??
戦国時代の各大名の軍隊の規律は高かったのですか??
803:人間七七四年
07/08/15 14:58:07 mxD/erjd
信長が京に入ったときはかなり厳しかったらしいが、基本的に略奪、強姦が兵士の褒美みたいなもので、逆に農民も敗残兵には酷かった、はず。
すこし不安なので他の人のも参考にして。
804:人間七七四年
07/08/15 18:43:31 9Lz1jNdh
ありがとうであります。
805:人間七七四年
07/08/15 18:46:20 Xj2aDDOT
宮本武蔵が槍の名手宝蔵院と戦った経緯って何ですか?
806:人間七七四年
07/08/16 02:15:23 16vKwZqR
>>801-802
ついでに信長が派手にやったので忘れ去られているが、先に浅井・朝倉軍が延暦寺の建物に火を放ったらしい。
807:人間七七四年
07/08/19 21:08:16 aUL9EooY
この時代の「言葉」に関して詳しい本やサイト
なんかはありますか?
ご存知でしたら教えてください
808:人間七七四年
07/08/20 01:19:02 5TdpaPxE
>>807
その手の話は日本史板で聞いてみた方が良いと思われ
809:人間七七四年
07/08/20 08:55:36 CvotwoPX
>>808
わかりました ありがとうございます
810:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 09:32:04 oXdXlUKB
口語か?腐るほどあるぞ
三河物語
湯殿上日記
雜兵物語
おあむ物語
日葡辞書
節用集
フロイス日本史
イエズス会会報
811:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 21:22:03 qUUcZ1Qm
ようし 俺様少し暇だからおまえらの質問にどんどん答えてやるぞ
かかってこい!!!!!!11111!
812:takeda
07/08/20 21:55:31 6o/MwJfu
竜造寺四天王の死に様を教えて下さい。
813:人間七七四年
07/08/20 21:59:10 CwGiR0pj
宇喜多直家の臨終間際のあの話は事実でしょうか
814:人間七七四年
07/08/20 22:03:58 SEvUKmij
宇喜多秀家は本当に泳ぎが達者だったのですか
朝鮮出兵の時も他の軍勢は船で行ったのに
宇喜多勢は大将を初めとして泳いで対馬海峡を渡ったという話を
この板で見たような記憶があるのですが
それはガセですか
815:人間七七四年
07/08/20 22:04:28 CwGiR0pj
ガのセです
816:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 22:12:20 qUUcZ1Qm
>>812
その質問をする前にまず龍造寺四天王という括りに疑問を持つべきだな
>>813
備前老人雑話か?
>>814-815
八郎が泳いで渡る話は百年後くらいに通説になったりしてなwwwwwww
817:813
07/08/20 22:14:16 CwGiR0pj
>>816
いえ、備前軍記です
818:takeda
07/08/20 22:15:03 6o/MwJfu
木下昌直をいれたで御願いします
819:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 22:17:08 qUUcZ1Qm
俺様は軍記は信用せんタチでな。
軍記以外に傍証があれば検証するに値するが
軍記の中にしか存在しない記述ならその記述はそれ以上でもそれ以下でもない
わかるな?
820:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 22:18:46 qUUcZ1Qm
>>818
悪いが知らん。百武あたりが鍋島に仕えたくらいの知識しかない
821:九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU
07/08/20 22:23:58 qUUcZ1Qm
軍記でも何でもいいが現代語訳してくれとかないか?
822:人間七七四年
07/08/20 22:24:55 CwGiR0pj
しかし一応殉死者1人も無しの事実があります。
あともう一つ岡山関連で聞きたいのですが、備前龍口城落城は
あの有名な岡清三郎によるものなのか、
それとも三村氏の征服によるものなのかどちらでしょうか。
地元でも伝えられているのはまちまちです。
823:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 22:34:16 qUUcZ1Qm
まずは伝えられてる~町史とか~市史とかを疑ってかかったほうがいい
こんなの役人の片手間か市町村長の肝煎りで自分らの名誉や実績作りのためにやったとしか
思えんのが多すぎる。編集は地元の自称郷土研究家に丸投げぽいとか
しかも役人にはそれを校正する気力も知識もないんだからさ
疑問に思ったらそれぞれを検証してみたらどうだ?
ヒントとしては落城当時の瀧口周辺の寺社をしらみつぶしに当たってみ
こういう場合は新たな征服者が必ず禁制と呼ばれるものを発給するし
その禁制が残りやすいのは圧倒的に寺社が多い
824:822
07/08/20 22:37:01 CwGiR0pj
親切なお返事ありがとうございます。
しかし寺社にはなんと言えば見せてくれるのでしょうか?
825:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 22:40:51 qUUcZ1Qm
>>824
普通は見せてくれん。大檀家でも無理だろ
直接無理なら郷土史家に手紙でも書け。あるいは地元の郷土資料館の職員に紹介してもらえ
岡の家中か三村の家中で禁制(もちろん大名の名で)を出していたらそいつがブン取ったと考えられるし
単に禁でもいい(大名傘下の武将が出したのなら禁あるいは文の末尾が「仍て件如」など)
書式さえわかればそれが禁制かどうかわかる
826:九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU
07/08/20 22:44:18 qUUcZ1Qm
ちなみに俺様は郷土資料館の職員か資料館が主催する郷土史セミナーなどに参加して
人脈を作った。ゼミの先生の紹介状でもあれば一発だったけどな
827:824
07/08/20 22:44:38 CwGiR0pj
>>825
なかなか大変そうですが、頑張ってみます。
中野区さんには親切な助言をいただき感謝しています。ありがとうございました。
828:九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU
07/08/20 22:49:50 qUUcZ1Qm
よし次!他にはねえか?
829:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
07/08/20 23:03:09 AvV2MX1i
>>822
こんな資料がある。
五月十九日附 禰屋七郎兵衛外一名宛 三村家親状
今度は至龍口城、敵及行既二三丸迄伐入候處、薬師寺殿、與七郎殿、
以御粉骨被代退、剩可然衆數人被討捕之由、一味中面目之至、大慶不過之候、
最前之衆御油断、不粉候、外聞不可然候、仍岡權右衞門、此方へ被罷越、
一昨十七日歸路候、直に可被参旨候、津山南御知行、御公物員敷、萬艘可被相證之條、
自某も別に使は添可申候迚、於旨趣は申明候問、御爾所迄可申之覚之儀、
無左と御請被成を、掟可被申、内證と聞へ候、於員敷之樣體は、被仰理堅固御請被成候て可然候。
直々も此旨申候、猶以御被露専一候。急候て具に不申入候、恐々謹言。
家親
五月十九日
禰屋七郎兵衛殿、土屋四郎左衛門殿
「ここに登場する人物のうち、家親は三村家親、薬師寺殿は弥五郎、与七郎は禰屋七郎兵衛久秀の嫡子。
また、土屋四郎左衛門の名も見える。本来浦上方だった岡權右衞門(将監)らが備中方についた
という内容もあり、『中国兵乱記』に「沢田城守岡将監・中村次郎太夫・寺尾久五も龍口で相随し、近
城へ相働候節者、先陣を承る」と記されていることと符合している。これらのことから、この資料は『
中国兵乱記』のいう龍ノ口城合戦の直前の永禄七年五月上旬に起こった小競り合いを伝えているのでは
ないかと推定される。」
これらは『備前軍記』『中国兵乱記』に違いがあり、微妙なんだが・・・
最所元常の死に様もはっきりしない。あまり参考にはならないか…
830:824
07/08/20 23:13:35 CwGiR0pj
>>829
なるほど、これを見るとこの当時は龍口城は浦上方だったようですね。
中国兵乱記にもこの事は見えますし、縁戚の中島某も参加しているなどある程度は信用できるように思います。
永禄7年の三村方の面々もほぼ同じですし、興味深い資料ありがとうございます。
831:人間七七四年
07/08/20 23:21:31 CwGiR0pj
>>828
ではお言葉に甘えてもう一つ聞きたいのですが、
宇喜多直家に敗れた浦上宗景のその後の消息は諸説ありますが、
一体どれが正しいと思われますか?
832:人間七七四年
07/08/20 23:21:54 rHfJcmWb
すいません、質問です!
板部岡江雪斎、安国寺恵慧などの主に外交僧を取り扱ったスレってありますかね??
ずいぶん前に見た記憶があるんですが…
833:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 23:43:29 oXdXlUKB
>>829
> 津山南御知行、御公物員敷、萬艘可被相證之條、
国人風情が相当な計らいだな
>>831
それこそ直家信者に聞くべき質問じゃねえのか
834:中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
07/08/20 23:56:22 oXdXlUKB
蛇足だが
> 自某も別に使は添可申候迚、於旨趣は申明候問、
正しくは
自某も別に使は添可申候、迚於旨趣は申明候間、
ではなかろうか。原文読んでないから知らんけど
835:人間七七四年
07/08/21 04:37:58 y7OMKghU
丹羽長秀は十五歳で小姓として信長に仕えた
と聞き及びますれど、その典拠とされる
文献と出典箇所を教えて頂き度う御座います。
よしなに頼み参らせまする。
836:人間七七四年
07/08/27 05:41:35 xRLM9/xS
戦国時代には日常茶飯事的、
毎日ではないにしても日本人は殺しあっていた訳でしょう??
戦国時代には信長、秀吉、義元、家康、三成といった色々な人たちがでてきますが
恨みを買う事はなかったのですか??
肉親を殺されたりすれば恨んだりする人もいると思いますけど
武将たちはあだ討ちを受けないように日々、
脅えながら暮らしていたのでしょうか
837:人間七七四年
07/08/27 13:22:58 Ql8LlT6J
>>836
仇討ちかどうかはともかく、一日に二度服を着替えるなど、暗殺対策
はしてたらしい
838:人間七七四年
07/08/28 06:50:44 3SNUdOaz
ありがとう御座います。やっぱり現実はそんなもんなんですね。
839:人間七七四年
07/08/29 20:53:36 c2m3C0hp
宮本武蔵が関ヶ原の戦いに参戦して負け戦に終わったのは知っていますが
その時どこからも拾われなかったのはパッとしなかったからでしょうか?
840:人間七七四年
07/08/29 21:30:53 vOhJMa9r
けんとくです。
あなたたちは馬 ▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅
▄▇▓::▃▃ ▃▃ ▓▇▄
▄█▓░◤ ◥ ◤ ◥ ░▓▇▄
▄█▓░ ◢ ◣ ◢ ◣░▓▇▄
▄█▓░ ▐ █▋▐ ▐ █▋ ▐ ░▓▇▄
▄█▓░: ◥ ◤ ◥ ◤ ░▓▇▄
█▓░▒ ◤▀▀◥ ▃ ▃ ◤▀▀◥▒:░▓█
█▓░ ::::▒░░::▊ ▲ ▐ :::░░▒::::░▓█
█▓░:: ◥▃▃▅██▅▃▃◤ ░▓█
▀█▓░ ███████ ░▓█▀
▀█▓░ ▐▓▓▓▓▓▓▌ ░▓█▀
▀█▓░ ▀▀▀▀▀▀ ░▓█▀ 鹿です。
841:takeda
07/08/30 20:30:01 BwNzRp/k
明智軍の勇士っているの?
842:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
07/08/30 22:26:26 0kBsGHTS
四王天但馬守政孝
843:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
07/08/30 22:38:04 0kBsGHTS
他は常連だが、
明智秀満、明智光忠、斎藤利三、あたりじゃないか。
844:人間七七四年
07/08/30 22:48:55 WPtSDV05
さすがに藤田伝五は入らないよな…
845:人間七七四年
07/08/31 10:07:30 amKK6dlj
武田、上杉はそれぞれ上洛してるが二人の寿命が長ければ京都を占領できたのでしょうか?
武田と織田。上杉と織田の戦力、国力で分かりやすく教えて下さい
846:人間七七四年
07/08/31 15:25:46 nEEtRFDq
信玄・謙信二人とも京都を占領するつもりなどないが(特に謙信は
信玄が2万の軍勢で家康を破った時の織田は、いわゆる織田包囲網でけっこうピンチだった
浅井朝倉三好本願寺など信長の周りは敵ばかりで、戦力をどこかに集中するわけにもいかず
三方ヶ原の時は家康に3千の援軍しか送れてない
しかし信玄が長生きしたとしたも家康を滅ぼしてたか、もしくは家康が信玄の臣下になってたくらいかと
謙信はもともと関東平定しか興味は無く、常に足利将軍ありきの関東管領として動いている
また越後内部もいろいろあってそんな余裕は無い
10万近くの軍勢で北条を攻めたこともあるらしいが、上杉が集められる兵力はせいぜい3万
武田・上杉両国が織田を破る可能性があるとしたら、信玄が生きていた頃に武田上杉北条の
三国同盟+織田包囲網が実現してたらいけるかもしらん
847:人間七七四年
07/08/31 20:50:39 9yDoNW2o
織田信雄の長所を教えて下さい
848:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
07/08/31 21:00:15 nzQ2sP9y
>>847
能の腕前。
849:人間七七四年
07/08/31 21:29:40 9yDoNW2o
保身術以外もあったのか
850:人間七七四年
07/09/03 04:05:30 j6Zqbsdt
〃 i, ,. -‐
r' ィ=ゝー-、-、、r=‐ヮォ.〈 /
! :l ,リ|} |. } / .こ
. {. | ′ | } l れ
レ-、{∠ニ'==ァ 、==ニゞ< | で
!∩|.}. '"旬゙` ./''旬 ` f^| | 五
l(( ゙′` ̄'" f::` ̄ |l.| | 千
. ヽ.ヽ {:. lリ | 石
. }.iーi ^ r' ,' ノ |
!| ヽ. ー===- / ⌒ヽ ッ
. /} \ ー‐ ,イ l !!
__/ ∥ . ヽ、_!__/:::|\ ヽ
851:人間七七四年
07/09/03 11:42:31 rzfM/xi/
丹羽長秀は十五歳で小姓として信長に仕えた
と聞き及びますれど、その典拠とされる
文献と出典箇所を教えて頂き度う御座います。
よしなに頼み参らせまする。
852:人間七七四年
07/09/03 11:58:41 rzfM/xi/
織田信長に寵愛された小姓・万見仙千代と
信忠の寵童だった美少年・万見仙千代とは
どういう関係なのでしょうか?
853:人間七七四年
07/09/06 19:56:20 v49quej+
子供が切腹した記述などもありますが、
武家の男子は幼いうちにその家々で切腹の仕方を教わっているものなのでしょうか?
それともその場に居合わせたものが手順を説明して切腹したのでしょうか?
854:人間七七四年
07/09/06 20:37:19 /ieIQp3w
教わっていると思われる
切腹した最小年は何歳だろうか
855:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
07/09/06 20:55:46 x0Uv0wBh
三村勝法師丸の8歳じゃないか。
856:人間七七四年
07/09/06 21:10:23 TVUhBOzJ
元服のときに切腹の作法を教わるんじゃなかった?
857:人間七七四年
07/09/06 21:36:28 /ieIQp3w
北条氏政の初陣はいつでしょうか?
858:中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62
07/09/06 21:51:50 UygwTBD5
>>852
おそらく親子
父 万見重元 幼名仙千代
子の仙千代は父と同じ幼名を名乗ったとおもうよ
859:人間七七四年
07/09/07 09:53:43 0eYY6pps
三河後風土記って史料としての信憑性はどれほどのものなのでしょうか?
また、信長公記以外に信憑性が高いとされる戦国期の史料を教えてください。
860:人間七七四年
07/09/07 22:21:20 cUHQeF9T
戦国時代を通観出来るような書籍はありませんか?
三国志なら正史・演義それぞれ文庫で8巻読めばたいていの話しにはついていけますが、日本の戦国時代は地方ごと、個別に展開していたりして分かりにくいです。
以前、書店で講談社の『クロニック戦国全史』というちょっと高価でかさ張る本を見かけましたが、これ一冊あればだいたいOKですかね?
何かお勧めがありましたらお願いします。
861:人間七七四年
07/09/08 21:57:00 LiMsEudl
最近は新説続出でどれがいいかとなるとね
862:人間七七四年
07/09/14 18:46:37 kmuELEqF
明智光秀が信長を本能寺で
自害までに追い込んだ理由は
光秀の領地を信長が取り上げたからですか?
DVDでそう言っていたのを聞いたのですが・・・。
863:人間七七四年
07/09/15 01:17:35 0lEA2Hho
それは誰にもわからない
864:人間七七四年
07/09/15 06:26:45 ohZ0nEYM
和睦などの場合の人質は、普通は相互に差し出すものでしょうか?
それから、人質は本拠に置かれるのが普通でしょうか? 支城に置かれる場合とかもあるのでしょうか?
865:人間七七四年
07/09/17 05:21:22 at/xIrBm
ケースバイケース。
双方手打ちと言うことで、兵を引く間一時的に家臣同士を人質に出し合うこともあれば、
城下の盟を強いられた場合は屈服した側が人質を出す。
866:人間七七四年
07/09/17 15:32:50 8Z8OFdZk
諱ってどういう時に使ってたの?
文章とかくらい?
867:人間七七四年
07/09/17 22:10:12 4VY2DIK9
公文書かな?
868:人間七七四年
07/09/18 00:09:19 7yDnvsLQ
陪臣の家臣は何と言うのですか?
869:人間七七四年
07/09/18 01:45:17 NemjL+pl
郎党とか家来とかで一緒くたにしてるんじゃないか
陪臣は殿様から見た立場だから、その家臣は気にするような存在ではないと思う
870:人間七七四年
07/09/18 02:11:39 JzFuWads
麻呂aaの人、あれは誰なんですか?
マジレスでお願いします
871:人間七七四年
07/09/18 23:44:25 7yDnvsLQ
>>869
㌧クスクス
スッキリしました
872:人間七七四年
07/09/20 19:07:36 2rtGg/3d
戦国期の馬廻と旗本の明確な区別ってあるんですか?
873:人間七七四年
07/09/22 01:26:00 v7OczKYo
>>870
口にするのも憚られる、非常に優秀で高貴なお方だ。
なお、戦国板の有るスレでは天下を統一されたという事になっている。
874:人間七七四年
07/09/22 02:22:20 hMxYR0lF
>>870
一条三位
水戸黄門に出てきた悪役の公家
875:人間七七四年
07/09/22 08:27:30 urC/MQos
テレビで見たけど武田信玄と徳川家康は親子なんでしょうか
876:こんな名無しでは、どうしようもないよ。
07/09/22 09:02:08 UM6EKcGH
よく、○○の戦いで○○人の兵を動員したとか
○○の戦いでは○○人が戦死、あるいは虐殺されたと聞きますが
ああいうのはどの程度の信憑性があるのでしょうか?
戦国時代の日本の人口なんて正確にはわからないでしょうけど、そもそも信長や秀吉
家康が登場する以前から戦乱は続いていて(小競り合い程度でしょうが)ただでさえ
人が減っていたと思うのですが・・・・・
877:人間七七四年
07/09/22 12:38:18 qZrnl+HS
ところがどっこい、戦国時代は人口が増えているミステリーw
冗談は(嘘ではないが)置いておいて、
何人動員、何人戦死というのはあまり信憑性がない、参考程度と割り切るべし。
勝った方からすれば、こんだけの逆境でこんだけ戦果収めた俺らちょーすげーと誇張するので、
敵の動員兵数や戦死者は爆発的に増える。
負けた方も、戦果を誇張し、自軍の被害を少な目に喧伝することで自軍の勢力が健在であることをアピールする。
よって、一次史料であっても勝者・敗者ともに誇張が混じる可能性は高い。
878:人間七七四年
07/09/22 14:48:42 fucEkIrO
>>875
テレビ局が最重要視するものは視聴率であって情報の正確性ではない。
そのため人目を引きやすい㌧でも説をろくに検証せず垂れ流しにするなど日常茶飯事。
テレビで流されるものは八割がた疑ってかかった方が正解。
879:人間七七四年
07/09/22 15:28:13 urC/MQos
>>878
ありがとうございます。これからは気をつけて、テレビを見ます。
880:こんな名無しでは、どうしようもないよ。
07/09/22 17:22:00 f3gxJYcS
>>877レスありがとうございます。
おっしゃるように誇張されてる部分はかなり(あるいは多少は)ありますよね。
他のスレで読んだんですが、関が原を始め実際に戦があった場所へ行かれた方が
「想像してたよりも狭かった」と感想を書かれていたのを見ると、数百人ていどなら
ともかく、万単位の人間がひしめきあってたら戦もやりにくいはずですよね。
もちろん一箇所に集中してるわけではなく、ある程度は分散させていたんでしょうけど。
それともうひとつ、例えば一万人の軍勢を動員したとして、その全てが戦闘に参加して
いたのでしょうか。湾岸戦争みたいに後方支援のような役割を担った人たちも含まれていたと
思いますか?
881:人間七七四年
07/09/22 18:41:16 rdLQ4ndd
>>874
京都編で出てたあいつだったのかwwww
>>880
二割くらい後方部隊でもおかしくないと思う
両軍の大名もまさか一日で決着とは思わんだろうし、どっちも遠征軍だ
882:こんな名無しでは、どうしようもないよ。
07/09/22 19:29:03 ZO8yMDnQ
>>881なるほど、ありがとうございました!
883:takeda
07/09/24 23:25:26 o2kEejqX
三村家親
884:人間七七四年
07/09/24 23:58:19 IxC54sFN
が、どうした?
885:人間七七四年
07/09/25 00:38:39 ph4pDLN2
質問です。
信玄の時代の武田家臣には、
「昌」が付く武将が多いのは、何故でしょうか?
信玄の曽祖父は「信昌」ですが、偏諱にしては世代が離れているので、理由がわかりません。
分かる方、教えてください。
886:takeda
07/09/25 00:50:29 pZevFY/U
三村家親てなにしたの
887:takeda
07/09/25 00:51:41 pZevFY/U
三村家親てなにしたの
888:人間七七四年
07/09/25 01:15:40 t6YRyHKt
三村氏スレ行けよ
889:中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62
07/09/25 12:11:01 wKMNNVKC
>>885博識で有名な中野区氏の見解を参考までに
中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/03/24(土) 21:42:28 ID:pv8uGSO7
話はかわるが戦国期にゃ各家に伝わる諱字(いわゆる下賜用の字)というもんがある
一門など特別な場合については大名家の通字や当主の一字を書出や拝領として与える
しかしそれ以下の階級や単に被官に与える場合は諱字や佳字を用いて
明確に一字拝領との差別化を行なう。長尾の場合「長」の字が
いわゆる諱字拝領用の名なんだよ。発祥はわからんが武田の「昌」もこれにあたるんだろ
890:人間七七四年
07/09/25 12:53:50 UDIzGHl5
>>886-887
三村かよ!
891:人間七七四年
07/09/25 19:19:54 5VxLjNXH
>>885
信昌が甲斐統一の礎を築いた人だからじゃないかな
ただしその次の世代が内輪もめしたせいで信虎は幼い頃から苦労ばかり
信玄は「虎」も偏諱に使っているし、甲斐統一がそれだけ困難な事業だと信玄がわかっていたからだと思う
892:885
07/09/25 21:06:59 ph4pDLN2
>>889
>>891
拝領用のがあるとは初めて知りました。
中には祖父の代から「昌」を使っている家もあるみたいなので、
拝領だけでなく、その家代々の諱字にしている場合もありそうですね。
有難うございました。
893:人間七七四年
07/09/26 13:57:27 Rh0B+NXK
2つ質問があるのですがよろしいですか?
1.戦国大名で生前に親から子へ官位を譲る時…
必ず朝廷に奏上しなくてはいけないのでしょうか?
2.朝廷に奏上せずに官位を譲られた息子は、
(譲られた官位を周囲の大名から)認めてもらえるのでしょうか?
レス宜敷お願いします!!
894:人間七七四年
07/09/27 02:36:04 ppzTSM4W
中川秀政は秀吉の養子になったりしたことはあったんでしょうか?
895:人間七七四年
07/09/27 16:03:44 ZyWU9SHw
真田信繁って実際には何て呼ばれてたんでしょうね?
左衛門佐では語呂が悪いし。
字が源二郎だから源左とか?
896:人間七七四年
07/09/28 19:15:19 rn1DFM3e
呼び方は人にもよるとは思うが、叙任前は真源とか源次とか
叙任後は真左とか左衛門とかじゃないかな。金吾とか左金吾っていう可能性は、小早川がいるからないか
真田殿とか左衛門佐とか源次郎と呼ぶ人も普通にいたとは思う
もしかしたら他にニックネームがあったりもしたかもしれないし
例えば福島正則とかも市松って呼ぶ奴も右衛門大夫って呼ぶ奴も清洲侍従って呼ぶ奴もいたんだし
現代と同じでやっぱり人それぞれに呼んでたんじゃないかな
場所や状況にもよるしね、呼び方は
897:人間七七四年
07/09/28 21:38:34 WhdUdXHu
戦国時代に双子の武将はいたのでしょうか?
898:人間七七四年
07/09/28 23:29:21 l+uEC1/m
>>897
それって『シグル(ry
冗談はおいといて。
管見では双子とはっきり判明している武将はいないのでは。
日本では双子などの多胎児を不吉として嫌う風習があったから
記録でもわざと日をずらして書いていることが多い。
双子説があるのは
・結城秀康、永見貞愛
・松平忠輝、松平松千代
偶然にも家康の子息なのだが
899:人間七七四年
07/09/28 23:30:47 PsXZbqU4
>>898
えぇっ!?
シグルイ?
誰が双子なの?
俺単行本しか見てないから分からない。
900:人間七七四年
07/09/28 23:37:02 i/78T/Fp
/`l ,-、
ト‐ ' `ー ' /
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l し ) ヽ ノ
l ,ニ、 (
( ノ ゝ、
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レ'ー─- '' ''′ι .レ'ー─- '' ''′ι u にニノ7
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901:人間七七四年
07/09/29 00:29:07 fArFCx01
>>898
ありがとうございます。
902:人間七七四年
07/09/29 00:31:29 OPd6AcRt
>900
仕事が速すぎるw
903:人間七七四年
07/09/29 02:52:57 4L1igwPk
信虎とか信長は家臣に本拠地への屋敷の移転を強要したけど
妻子もずっと本拠地に置かれたの?
例えば城主とか国主になった場合とか、もしくは寄騎(直臣)から寄親の家臣に転じた場合とか
そういう場合はどういう扱いになったのか、詳しく教えてください
904:人間七七四年
07/09/29 10:35:07 V1O02RqU
>>903
天正6年(1578)に、信長直属の家来衆120人の妻子を強制的に、『尾張』から安土城下に移住させた
という記述が信長公記にある。
つまり、岐阜には行っていない(者が多い)、ということだと思われる。
905:人間七七四年
07/09/29 14:51:24 owuz7ABr
>>904
そっか、ありがと
やっぱり武家屋敷を本拠に集めるのは中央集権の一過程でしかなかったのかな