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最期
死因については謎が多い。「景勝公一代略記」という史書によると、景家は天正3年(1575年)12月に謙信に従って越中水島に出陣していたが、ここで織田信長と内通しているという噂が流れ出し、
そしてその噂を信じた謙信によって死罪に処されたという。享年63。
ただし、子の晴家は謀反の罪に関わらずに連座で処罰されていない点、さらに信任厚い景家をその程度のことで謙信が殺すかどうか信憑性に欠けているため、この説は疑問も多い。
さらにいえば、長男の晴家は御館の乱で上杉景虎を支持して景勝と敵対したため、上杉景勝の史書にその父である景家を貶めるような記述があっても不思議ではない。
ちなみに同じく子で晴家の兄弟の憲家は御館の乱で景勝を支持し、柿崎氏を存続をさせている。