07/09/24 23:45:00 TERypsaL0
江頭家の明治以前の系譜が全く不明であることは事実。
川口素生『小和田家の歴史』
さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣
であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の
出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん
のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明
鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無
役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降
は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を
担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた
め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。
明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川
副町木原)に移り住んだ。
( 中 略 )
範貞少年、安太郎少年が学齢期を迎えた頃、父・嘉蔵氏は旧制県立佐賀中学校
(現=佐賀県立佐賀西高等学校)に子使として勤務していた。
嘉蔵氏の生年はわからないが、安太郎少年が生まれた頃、すでに四十数歳であっ
たといわれる。