07/06/21 00:55:33 xuPWJU4qO
>>237
馴染みの鍛冶屋は、街の中央集会所から歩いてすぐの所にある。
その前まで来て、俺は足を止める。
「今日は、海沿いの通りの鍛冶屋を使ってみませんか?」
師は怪訝な顔を続けて、俺の足を蹴ってくるだろう勢いだ。
「お前は、何を考えている。この鍛冶屋は昔からの付き合いだし、家と仕事場からも、一番、近いのに…」
「いや…、今日の夕べの空はとても良い色をしているし、風も心地よい。歩いたら気持ちがいいし、付き合いを広げるチャンスですよ。」
取り繕って笑みを浮かべる。が、師は最初から見通しているようで、満面の笑みで向こうずねを蹴ってくる。
痛みで工具を入れた袋を落としそうになる。
「やはり、そうか。海沿いの鍛冶屋の娘が目当てか。」
…取り繕って笑うしかない。
海沿いの鍛冶屋の前に来た時には、空が暗がりを見せていた。
どの家からも夕食の香りが漂って、空腹が際立ってくる。
「せいぜい、値切ってこいよ。」
と背中を押され、店の中に入る。師は店の前から様子を窺うようだ。
店の中には誰もおらず、奥からは家族が食事を取っているのだろう。楽しそうで、賑やかな会話が聞こえてくる。
店の壁には、多種多様な金具や工具が飾られていて、どれも光を放ち、鋭さを主張している。
確かな仕事をしているのは間違い無さそうだ。
店の中の気配を感じたのだろうか、店主が顔を出す。鼻髭のある筋骨隆々とした背の高い年配の男だ。
「初めて見る顔だな。若いね…。彫文師か…。」
噂の娘でなくて、がっかりしたが、立ち去るわけにもいかずに、一本からでも鍛えてくれるか。と聞いた。
もちろんだ。と店主は頷く。すると、店の奥からは、黒髪で色白の小柄な女性が出て来た。
見た目、若さを感じるが、三十代前半であろう。しかし、美しい人だ。
「あら、素敵な彫文師さんだこと…」
と言って店主である夫の胸板に手を置いて、艶っぽく見つめる。何故か、俺は懐かしさを感じた。