07/07/15 01:04:09 ZBuRhh3o
>ある程度の虐待なら認めろというのか?
「虐待」という言葉じたい感情が入っているね。
残虐さが「感じ」られるもので
あってはじめて「虐待」だから。
たとえば坂東の行為は、
俺の判断では虐待ではない。ディルレの行為は俺の判断では
虐待である。保健所の殺しは、俺の判断では虐待ではない。
日本の闘牛は、おれの判断では虐待ではない。食用牛を殺すのも
虐待ではない。
でもこれはあくまで「俺」の判断にすぎない。みんな虐待というひとも
いるだろうし、みんな虐待ではない、というひともいよう。では
どういう場合だけ「虐待」と考えるかには、理性的判断が必要になる。
またどういう場合裁くべきかにも、理性的判断が必要になる。
>結論としてはどんな虐待も可能ということになるねえ
かならずしもそうとは考えない。たとえば、他人の猫を勝手に殺した場合は、
特定の飼い主に被害が及ぶ行為だから、犯罪性は簡単に証明できるね。
被害者(人間)が特定できるときは犯罪の証明は簡単だ。
だがディルレの場合、微妙になるね。その微妙さをどう判断するかには
理性的対応が必要だろうね。
おそらく社会的影響と、個人の権利として認められるものかどうか
の判断とを綜合して、社会的視座で判決を下すほかなかろう。
>一般に妄想として扱われる論理的に無理のある「理由」(これは弁護する理
>君の論法では否定できなくなるいうことだよ。
うそこけ。坂東の理由は、件の死姦事件の言い訳と同類とかいっていた
くせに。
どうやら理性的判断か、そうではないかの区別はたいてい明らかにつく
みたいだな。坂東の判断は理性的判断としては理解はされるだろう。
神の啓示とかではないからなあ。 君の疑問の答えは、先に述べた。
>倫理的、論理的な問題点は散々指摘されてますが?
「殺し」自体は、「避妊」と同じく悪だと坂東は認めているわけだから、
君が証明すべきは、倫理的・論理的に「殺しが特別な悪」ということなのだが、
そんな証明は見あたらないね。