07/09/08 09:44:56 sifnyPMa0
劉備がもし関羽以外の者に荊州を任せていれば、荊州を失わずに済んだだろうか?
それともやはり呉に荊州を奪われてしまう結果は変わらなかっただろうか?
2:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 09:46:16 xRy6bexu0
そもそも劉備陣営に、関羽以外に、
荊州を任せられるほどの人物がいたかどうかだな。
3:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 10:55:32 Q6oeraLcO
孔明しかいないが
4:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 11:30:46 vh7XIAOc0
>>2
張飛がいる。
信用度も関羽と同等だし(後に外戚になるから建前上は関羽以上か)軍を率いた実績も後世から見たら関羽以上。
あと何気に土地を治める才覚も悪くは無かったみたいだね。
士大夫に対しては腰が低かったので結構上手くいったかもしれんw
結局、劉備は張飛はずっと手元に置くという選択をしたわけだけど・・・
>>3
諸葛亮が実績で頭角を現すのは入蜀以降で、はっきり言って30才そこらのぺーぺーに人が付いて行くは思えん。魏延もしかり。
入蜀時に任せられるのは関張の2択で、その後漢中王僭称時の人事で変えられるとしても4択。
①関羽・・・信用、実績、名声文句なしで留任
②張飛・・・同上だが手元に残したい
③馬超・・・名声は匹敵するが信用度は疑問だし、涼州専用の駒
④魏延・・・大抜擢で漢中
漢中は独自に侵攻することないので、ほぼ防衛時の専門だけど、
荊州は独自で侵攻することもあれば防衛もあるだろうし、一番重要なのは呉との力関係。これらを満たす人が要る。
結局消去法的に関羽しかいなかったと思うよ。
あえて言えば、代役となりうるのは張飛だけ(その場合、関羽はずっと劉備の手元)。
5:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 11:35:32 vbVBDhAeO
諸葛亮が守ればええんや。
6:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 11:38:58 Nca4cnyZ0
信用度だとしたら麋兄弟が関張に次ぐくらいなんかね?
麋竺に権限与えて荊州閥の将軍に輔佐させるとか。
7:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 11:47:49 6Dvzb71r0
じゃあ、劉備が荊州に残る。
8:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 11:51:12 ScFi1TyL0
無理だけどそれがいちばん
9:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 11:51:31 xbWIGx4V0
刑州で関羽の補佐に諸葛亮がついてればたぶん大丈夫だった
尊大な関羽も諸葛亮の言うことなら聞くし、諸葛亮も、関羽の機嫌の取り方みたいなのをよくわかっていた
10:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 12:05:38 5m12Gejk0
張飛だと、士大夫に格下に思われんか?
いや、関羽の様に見下すより、その方が上手くいく?
麋兄弟の弟の裏切りは、関羽と折り合いが悪かったからだよな。
悪い選択ではないかもしれない。
補佐は馬良になるだろうが、蜀はやはり駒が足りん。
…龐統の死とか痛いな…
11:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 12:28:23 vqvr8nCK0
名実共に関羽以外に適任が思いつかない
麋芳士仁は陣中に留め置いて、廖化や馬良を江陵の守備に置く事は出来なかったのだろうか?
12:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 12:36:39 YI8XawTI0
関羽でなければ、(+諸葛亮も難しそう・・)
劉封+張飛(ついでに黄忠もつけてやるか)
関羽は上庸から漢中・荊州の支援。
劉備の養子・劉封なら名前負けもする可能性が少ない。
劉封も関羽・張飛に認められようと奮起するだろう。
後継者問題で禍根を残すかもしれないがこれがベストじゃない?
13:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 12:40:26 QZI8kqiB0
>>4
馬超は無理でしょ、荊州人士が納得しない。能力や信用度でいったら黄権も
候補だけど、こちらは関羽に変えるには名前に重みが足りないか。
>>11
失態があったので入れ替えて留守にしたという話がありますけどね。罰として
留守にするという人事は様々な意味で問題があるとおもうが。
14:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 12:45:02 SRRU28XjO
魏延に任せろ
15:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 13:55:29 49fsneDn0
関羽は、部下とか自分より立場が下な連中には優しく接し、可愛がったけれど、
目上とか同じ立場の連中にはえばりまくって「俺は劉備以外には頭下げねーぜ!」
気質だったから、援軍もらった時に「余計なことすんじゃねーよ糞が!」
みたいなこと言っちゃったりして孤立したんだそうな
関羽じゃなけりゃ荊州は守れてたかもな
16:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 14:07:08 n5QE51ckO
関羽に荊州統治は適任だと思うけど、きちんと補佐できる人材をつけるべきだった。
人材難でもないのになんで王甫とか周倉とかしかつけてやらなかったのか…
やっぱり関羽のプライドがあったのかな。
17:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 14:27:36 5m12Gejk0
・・・周倉は、釣りだよな?
18:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 14:27:40 d8eFe5UjO
別に関羽が悪かったのではなく、劉備側の外交ミスだと思うが。
信義を守って呉との交誼を固めていれば奪われなかっただろう。
19:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 15:30:57 49fsneDn0
>>17
釣りだろう。若しくはツッコミ待ち。
20:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 17:46:03 WW010MLp0
なんかこの板もすっかり三国志関連のスレだらけになったな…
21:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 17:46:17 vh7XIAOc0
>>18
外交ミスを詳しく
知る限りミスといえば劉備のではなく、関羽が孫権との姻戚話を蹴ったことくらいしか知らん。
・・・
荊州の領土半分明け渡した時点で呉は「盟友」ではなく「仮想敵」。
呉からしたら江陵は絶対に譲れない土地ということくらいは関羽も認識してたはず。
信義とか交誼とか、そういうレベルの話は通じないでしょ。
現に劉備自身が乗っ取りを成功させて、その時代に甘い事は通用しないと知らしめてる訳だし。
つまり劉備・関羽からすると呂蒙(陸遜)に如何にして侵攻させないかの抑止力が第一であり、
次に侵攻してきた時にどう対応するかが問題であって、「関係をしっかり持てば呉は攻めてこない」という前提が間違ってると思う。
少なくとも江陵が呉の地になるまではね。
22:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 19:57:15 7gR6jwbVO
鳳統が孔明を妬んで、勝手に死んだのが悪い!
これによって、孔明が関羽から劉備の元へ移動した。
23:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/08 22:03:42 vh7XIAOc0
>>10
関羽の留守を預かった人達は呂蒙に対して戦意を見せなかったようだし、関羽は総スカン喰らってたと思われ。
公安江陵だけでも関羽が退却するまで踏ん張る事が出来たら、零陵武陵は取られるけど蜀への連絡路は絶たれないから別の話になったと思う。
まぁ、南郡だけだと荊州という飛び地で対呉対魏に対して勢力を維持できないだろうから、荊州方面からの魏侵攻路は無くなるだろうけどね・・・
張飛なら留守が無抵抗で降伏という、総スカンを喰らうとは思わない。
・・・結局のところ関羽個人の問題より、呂蒙という相手が悪すぎたのが一番の敗因だね。
呂蒙は215年といい217年といい、電撃作戦が上手すぎる。
騙し打ちとはいえ、相手に対応を許さずキレイに目的を果たしてるのは完璧・・・
個人的には誰が守っていたかという戦術レベルより、どうやれば呉に攻めさせない気を持たせられたかという戦略レベルの対応が必要だったと思う。
外交とは「○○はしてくれると思う(願望)」じゃなくて「○○はこうせざるを得ない」だから、呉が背後を突かないだけのメリットを与える必要がある。
劉備としては荊州は魏への牽制路/侵攻路だから渡せない、孫権としては荊州は(赤壁の報酬だから)本来呉が持ちえた土地だから欲しい。
劉備が出来ることは・・・
①襄陽ハン城を取ったら返します手形(この場合関羽は襄陽~上庸~漢中~成都となりますます孤立する)
②関羽に北上を厳禁してその間に対呉への工作。逆に言うと呉が攻めて来ないという確信(工作)ができるまで北上させない。
前者の場合は魏に近すぎることから全力で叩かれるだろうし、援軍はほぼ期待できない。
後者の場合は呂蒙の病気がそれに当たるので、「病気なったから守備兵を前線に送った」が「病気になったのでほぼ全力で北上した」
になるだけで史実と同じ道になりそう・・・
24:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 01:41:33 N5gag23sO
関羽以外なら趙雲
25:18
07/09/09 01:46:30 xEOFZvSaO
>>21
遅レスごめん。仕事してたもんで。
呉を仮想敵国とすれば、蜀は二正面作戦を余儀なくされる。
当然、魏に対する関羽の正面兵力に余力がなくなり、
それならいっそ荊州を放棄したほうがマシな情勢になりかねない。
どうあっても呉とは友好関係でいるべきで、外交努力により
魏との共闘態勢を作りあげるべきとなる。
いっそ劉備みずからが荊州に戻り駐屯すべきだったかもね。
外交ミスは語弊があった。
正確には「外交努力が足りなかった」と言うべきでした。
26:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 02:50:00 8o4eE20c0
総スカンってのは飛躍があるんじゃないのか、どうなのか。
27:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 05:14:40 Ldfpqplu0
>>24
あの時期で、趙雲にはそこまでの格はなかったんじゃないかな?
28:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 09:36:51 EMxh7k7j0
関羽に守りきれないのに他の武将に守りきれるわけが無い
29:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 09:55:30 gAuYsaK+0
関羽守ってねえし
30:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 10:48:46 I1RBgJ2B0
趙雲は人の下で働く人間
関羽の補佐としてなら有りかも?
31:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 11:52:02 2643M5DT0
趙雲がいなかったら誰が劉備を守るんだ
32:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 11:59:50 kkTSybme0
関羽+諸葛亮
でおkだろ。劉備の判断は正しかったさ
やはりシゲンの戦死が痛すぎる
33:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 12:01:16 I1RBgJ2B0
>>31
陳到とかどうですか?><
34:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 12:18:39 9vaUTw080
>>25
劉備みずからが荊州に戻り駐屯、に同意。
長安奪取を目指さずに、襄陽からの北上に集中しても良かった気がする。
もちろん呉とは友好関係を崩さないことが絶対条件だけど。
手駒も漢中&襄陽からの二面作戦を実行するには軍師役になれる人間に
欠いていたし、無理があったんじゃないかなぁ
35:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 12:58:34 253zcSwM0
とりあえずここら辺で
諸葛亮がいたら・・・って書いてる奴は孔明がいたら何が違ったか具体的に説明してほしい
劉備がいたら・・・って書いてる奴はその間にどうやって獲ったばかりの蜀経営をするか説明(ry
それと呉と友好をって奴は、
217年に形式上だけど孫権が曹操の軍門に下って、合肥-濡須ラインがほぼ暗黙の国境として定着し、ついでに魯粛が死んで孫権が拡張するなら劉備の荊州しかない・・・
つまり国策として劉備に当たることがほぼ決定してる事をどうするのか書け。
戦略上、孫権を思いとどまらせる案はあるのか
戦術上、呂蒙を撃退する術はあるのか
○○なら~と羅列するだけなら議論が進まん
36:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 13:12:00 I1RBgJ2B0
カンヌたんが娘を嫁にだしてたらよかった
37:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 13:26:33 9vaUTw080
>>35
その呉の侵略を止めるには、孔明の口先三寸で~って言うのはさすがに無理だろうから、
支配していた荊州を呉に返還する代わりに、不可侵条約を新たに締結する。
そして蜀経営は麋竺や馬良たちに任せて、漢中から長安侵攻に集中する。
もし可能であれば、長安侵攻に応じて荊州から呉軍が北上する約定を取れればベスト。
だけど呉と魏の関係が良好ならそれは難しいだろうと思う。
必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw
成都に関羽と馬超、馬良らを置いて、劉備と諸葛亮、趙雲らは荊州を治めつつ呉の態度軟化を図る。
でもこれだと呉との関係を良化するのに相当時間掛かるだろうし、結果的にジリ貧になりそう。
この他に良い方法を思い付けないから、もし良かったら>>35の意見も是非聞きたい。
38:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 14:07:28 253zcSwM0
>支配していた荊州を呉に返還する代わりに、不可侵条約を新たに締結する。
荊州を丸々返したら孫権も劉備と事を構える理由はない。間違いなく魏+呉vs蜀から魏vs呉+蜀になる。
しかし、荊州は劉王奇から譲り受け、劉備自身は漢中王になるまでは左将軍荊州刺史だったという大儀名分が
やすやすと譲りわたすほど軽くないだろうし、仮に(ありえないだろうけど)「呉と争わないなら安い」としても、荊州士人がそれを許さないと思うよ。
この時点で劉備陣容の構成は関張みたいな最古参組・麋兄弟などの徐州組・馬兄弟や孔明の荊州組・黄権や法正の益州組で、
序列では徐州以前の古参が随分と高いけど、大多数を占めたのが荊州と益州。その両者のバランスをひっくり返すようなことは出来なかったはず。
さらにこれらの問題をどうにかして、決断しだいでは返還できたとしても、劉備が襄陽(中原)への入り口を諦めるはずがない。
呉にその侵攻路を譲る(呉がそっちから攻めてくれる)など、そんな甘い考えは一瞬でも持たなかったと思われ。
現に孫権は荊州南部を掌握後も、魏への侵攻は主に揚州から行ってるしね。
この時点で蜀の国策としての魏への侵攻は 漢中-長安 漢中-涼州-長安 江陵-襄陽-南陽 この三本立てが根幹をなしていたはず。
多分孫権などほとんどアテにしてない(←いいすぎだけど、呉の性格上余計なリスクは犯さない国だと理解してたはず)。
長くなったので区切るけど、「蜀とったから返せ」との要求の答えは「涼州取ったら返します^^;」だったはず・・・
少なくとも、漢中-長安の一本だと無理と認識してたのは間違いない。
39:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 14:16:05 9vaUTw080
>>38
じゃあ、>>38だったらどう対処するのが最善だと思うか、それも聞かせて。
俺には>>38の反論に対する別の策が考え付かないからさ。
40:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 14:47:23 253zcSwM0
続き
>必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw
死守というか、>>38で書いたように何故劉備にとって荊州が譲れないかといえば、長安と襄陽を同時に脅かすことが出来るということ。
だから、荊州を放棄するからには別の侵攻路が貰えるか、もしくは長安が確実に落とせ、尚且つ長期保有できるという裏付けが必要になる。
どっちもあり得ない話(敢えて言えば・・・涼州を丸ごと手に入れれば近いのかな)なので、その時点では文字通り死守するほかない。
っと、ここで私案だけど、
まず関羽の出兵を遅らせるべきだった、というのが一つ。
というのも漢中からの同時出兵でもなく、呉との関係がいいわけでもなく、呂蒙が病気になる前で、情勢的に最悪のタイミングだったと思う。
呂蒙が急襲したというのはあくまで関羽の留守中に、しかも呂蒙が病気と信じて守備兵を減らした後ということだから、関羽がいれば正面からくる可能性は限りなく低い。
仮に正面から来ても、恐らく3万と言われてる劉備の荊州方面の総兵力があれば援軍が来るまで持ちこたえるだろうし、上手く行けば領土を失わないどころか、
漢中方面で曹操に動きがなければ215年に失った長沙と桂陽を取り戻せるかもしれない。
まぁこれは後知恵以外の何でもないけど、220年には呂蒙は死ぬ訳だしね。
関羽が独断で攻めたはずが無いので、恐らく本拠地-漢中-上陽-襄陽-江陵-本拠地というリンクを作る劉備の腹だったんだろうけど、甘すぎたと思う。
二正面作戦を強いられてる方面で敵片方への配慮を疎かにし、その上ほぼ無援だったのだから、攻勢に出る場面では決してなかった。
というわけで、また長くなったけど、「襄陽攻めるな」「待て」ってのが取れる限り最善だったってのが持論です。
41:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 15:08:33 9vaUTw080
>>40
続きの途中に書き込んでしまってすまんかったです。
なるほど、関羽に侵攻指示を出すのをもう少し待っていれば、まだ状況は良かったかも知れないと。
この指示は恐らく諸葛亮によるものだろうから、これは諸葛亮の大きなミスと言えるね。
そうなると、漢中を獲ったまでは良いにしても、漢中王宣言は失敗だったのでは。
あの宣言は魏への反乱の火種にはなっただろうけど、同時に呉に与えた衝撃や圧力も小さくなかったと思う。
もしあの宣言がなければ、呉の態度はもう少し軟化していたのでは?
と思うんだけど、これも甘い考えかな?あんまり自信ないw
それともう一つ。荊州を統治する大将として関羽を置くのは妥当だったのかな?
誰か他の人材を置いた方がいいとかあればそれも聞かせて欲しいです。
42:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 15:13:50 eXWlHs5F0
>>40
ふむ。
そうすると関羽は自分で反乱の兆しを撒いといて、
いざ反乱が起きたらそれらを援助せず見殺しにしろと?
たぶん、蜀は反魏から二度と信用されなくるね。
43:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 15:40:28 253zcSwM0
>>42
そう。全てが早過ぎた。
反乱を利用しに出兵して、その出兵を利用されて全てを失うくらいなら、まだ見殺しにしたほうがマシ。
大体、曹仁をはじめとする本来の守備隊に加えて于禁と徐晃、
果ては夏侯惇まで動いていた魏に勝機というか、落としどころはどうみても無い。
魏から見たら襄陽と樊城は荊州から呉なり蜀なりが中原に出てきたときの「蓋」なんだから譲るわけがない。
つまり単独で攻めたら魏の総兵力を相手しないといけないわけだし、結果として徐晃軍で打ち止めになってる。
ようは負けても元の鞘に戻るだけという認識だったのだろうけど前にも書いた通り、
呉は既に帰順して(おまけに親劉備と言われてる魯粛が死んでる)その矛先を劉備領荊州に向けてたのは217年の段階で明白だったはずだし、
「関羽が居ない」「守備兵も少ない」「関羽は撃退されて退却中」こんな好条件がそろってる中で攻めて来ないと考えるほうがおかしい。
仮に襄陽と樊城の奪取に成功しており、失ったのは南郡と零陵武陵・・・つまり領土だけで、残りの関羽軍は健在だったとしても
完全に補給も援軍も絶たれてる中で北から魏、南から呉という絶対的な挟撃を防ぐ手立てはないと思う。
関羽にとって魏への出兵は漢中の劉備出兵とセットであり、これによって関羽への圧力が減ることが唯一の襄陽奪取・維持の条件じゃないかな。
それが出来ないのに小事のため(決して小事ではないけど・・・例え、ね)に大事を失うのは余りにも痛い。
44:劉備を荊州に駐屯論者
07/09/09 16:10:10 xEOFZvSaO
私見では以下の布陣を。
荊州…劉備、関羽
成都…孔明
漢中…魏延
遊軍…張飛、馬超
劉備率いる主力が江陵に駐屯していれば呉も迂闊に手出しできない。
孔明らに内政を任せ、新規に徴発した兵を張飛らに訓練させておき
いったん緩急あれば関羽を北上させる戦略。
おそらく魏延がナイスなタイミングで長安を突いてくれる(ハズ)
45:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 16:13:01 t7e47CWk0
>>43
損得で味方を見殺しにするやつは滅びると横光三国志に書いてあった
46:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 16:46:06 253zcSwM0
>>41
漢中王はあまり呉の方針に影響は無いと思うよ。
何が呉を変えたのかというと
・合肥+守備軍が強すぎる(何度も痛い目にあってる)
・下?は地理上リスクが高すぎる
という風に、この方面は攻めるのには難しすぎるという結論に達した事。
逆に防衛には成功してるので両者で自然と国境線が出来上がってしまって、膠着してしまったこと。
それに加えて、赤壁後決して荊州南部をフリーで劉備に渡した訳じゃなかったこと。
特に江陵は全力で奪ってるのに、奪ったことによるメリットは劉備にしか行ってなく、
いくら大義名分が劉備にあるとはいえ荊州南部は(特に劉備が益州獲ったなら)呉の物であるという下地があったこと。
(現に劉備も「返します返します」と空手形だけど、何時かは呉へという負い目があったと思われw)
孫権から見たら、荊州北部方面の侵略から揚州を守るには夏口を、夏口と荊州南部を守るには江陵を、と江陵はどうみても最重要拠点とみなされてたはず。
長沙桂揚割譲後の呉の領土は、曹操から見ると劉備の江陵を落とせば揚州と荊州南部両方にナイフをつきつける格好になる。
劉備から見れば(その気はまるで無いだろうけど)いつでも取り返して孫権の荊州の足場を夏口だけにさせることが出来るように見えたと思う。
つまり、呉からすれば江陵が無いと赤壁からの努力はいつまでも不安定な訳で、
劉備が居座る限り衝突するのは必死だったということになる。
呉が軟化する可能性として考えられるのは、
・曹操が死ぬまで待って「魏が弱くなりました!攻めるチャンスです^^」と、矛先を魏に向けること
(現に孫権は死後襄陽を奪おうとしてる)
・涼州を本気で取りにかかって「あと少しで荊州返せますから待ってください!今度は本当に返します!」と話に信憑性を持たせ、
「あと少しで手に入るなら待とうかな」と、考えさせること
これくらいかな。
あと、関羽を配置したのは凄く妥当。
入蜀前だと、正式に漢から高位を授かってるのは劉備以外では
関羽の偏将軍と張飛の中郎将くらいで他は取るに足らない・・・
尚且つ対外的にもこの二名が飛びぬけて有名だった。
さらに軍権を握るに当たって実績と信用でこの二名に匹敵する者はいなかったこと。
これらを考えると、はっきり言って関羽か張飛しか選択肢がなかったはず。
漢中王になって勝手に人事できるようになったあとでも、劉備陣営で名実ともに関羽に伍するのは馬超と張飛しかいない。
結局、「関羽しかいなかった」が正解だと思う。
>誰をつけるか
普通の場合は越権や独断行為を監視する目付け役なんだろうけど、関羽の場合はそれが必要ない。
関羽に外交権などは当たり前に無かっただろうから、「付く人」というのはほぼ100%軍の役目・・・
法正のような策略家で尚且つ関羽も話を聞く人、樊城戦の見極めが出来た人かなぁ~
正直、思いつきません・・・
拠点の太守の(劉備からみて)信用度は「絶対裏切らないレベル」の麋芳だし、裏切りに近い投降をするだろうという前提で代えると後知恵になってしまう。
・・・守勢に強く、機転が効く・・・張既のような人物を守備に置いて行けるような状況だったら良かったと思う。
(黄権or法正+孔明or馬良)/2=?
47:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 17:04:46 xEOFZvSaO
>>44ですが、>>46氏の考えにかなり賛同します。
で、補佐の人材ですが、いわゆる大物軍師である必要もないかと。
すでに国家の戦略は孔明がいますし、荊蜀で得た有能な幕僚もいます。
関羽に必要なのは局地戦での戦術を立案する参謀では?
48:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 17:43:25 Nz93tv6aO
>>45
でも関羽はあっさりと言う程綺麗にやられちゃうしなぁ
49:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 21:03:47 9vaUTw080
>>46
レスサンクスです。
せめてもう少しだけ待っていたら曹操も呂蒙もいなくなっていたのに・・法正も死んじゃうけど。
でも曹操の場合、関羽が生きたままなら数年長生きしてそうだけどw
関羽の傍に置く人物は、やはり馬良ぐらいなものな気が俺もしますね。
侵攻を数年遅らせた場合、蜀内も内政的な意味でもっと安定していたことだろうし、
そしたら諸葛亮の負担がもっと減っていたかもしれないし。
やはりあの状況下で関羽を動かしたのは、天命が無かったというか何か諸葛亮の焦りが感じられますね。
ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が
高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。
こうやって考察して行く内に俺の中で結構まとまったのですっきりしましたw
とても有意義だったと思います、ありがとう。
50:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 21:34:20 eXWlHs5F0
>ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が
>高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。
数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。
魏は漢中の敗戦で反乱が連続で出て襄陽の守りが薄くなっただけだし。
多分、攻めなければ江陵は曹仁に落とされた可能性のほうが高い。
51:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 21:48:54 9vaUTw080
>>50
曹仁らを相手に守り通すのは難しいということね。
とすればどうすれば一番ベストなのか、>>50の対案を聞きたいところだけど
52:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 22:08:18 eXWlHs5F0
なにをもってベストなのか分からんが、
たった5年足らずで益州と荊州を両方維持しようするのが無理がある。
孫権ですら江陵の維持は難しいと見て、劉備に貸しと言う形にしてるし。
53:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 22:22:05 9vaUTw080
>>52
>>1を見る限り、荊州の維持もしくはそれと同等の価値を持った戦略=ベストだと思う。
益州と荊州を両方するのに無理があるなら、荊州から撤退すれば良かったってことなのか、
それとも他に何か手段があったのか、考えられる戦略を教えて欲しいな。
54:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/09 22:30:45 eXWlHs5F0
と言うか、曹操はどうすればベストか、孫権はどうすればベストかを
考えれば劉備の行動もある程度の方向がわかると思うが。
少なからず今まで無茶の結果が呉に荊州を奪われる事になったが
これは劉備にとって最悪ではないからな。
55:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 01:32:44 UpNW8RF50
>>50
>数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。
鎮南将軍として赴任して宛の乱を治めたのは周知だけど攻勢を準備してたのは初耳。。
というか、拝命してから4年は立ってるはずだけど、その間に曹仁のメジャーな攻勢または攻勢の計画ってあったの?
江陵は周喩の攻勢に耐え切れず放棄し、南郡の大部分を諦めた土地だと思うんだが・・・
>>52
維持しなければ益州に閉じ込められて中原への覇を唱えることは無理、
つまり荊州放棄は地方政権として甘んじることを半ば公表するようなものだよ。
それは劉備の国家としての成立ち全てに矛盾が起きるのでありえない。
それに孫権がとったばかりの江陵を放棄した210年と、荊州経営から9年がたった関羽の219年は比較できないんじゃない?
孫権は荊州に足がかり=コネが殆ど無い上に直接曹操の脅威に面し、
その上江夏と違って江陵を守ることイコール劉備の領土を守ることだから旨味がほとんどなかった。
つまり放棄して劉備に「貸す」ほうが美味しかったわけで、技術的な問題じゃないきがする。
関羽が難しかったのは益州から遠く離れてほぼ独立経営状態で魏と呉相手にし、その上で片方に攻勢を掛けるという本来あってはならない状況だったから。
逆に一時的にせよ守るだけなら、固めて援軍を待てばいいのだから、魏か呉の侵攻=喪失にはならない。
56:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 01:38:15 UpNW8RF50
自己レス>>55
>拝命してから4年は立ってるはずだけど
何を狂ったのか、4年はありえないね・・・
218年に反乱があって、219年初頭に鎮圧だから、どう考えても1年未満。
スマセン。
57:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 02:54:19 s3QrNuw20
>>35
ついでに、孫権の妹を劉備のもとに呼び寄せる条件をつければ
よかったと思う。
孫権の妹の里帰りの後、孫権の息子と関羽の娘の婚姻話が出たんだよね?
時系列が間違ってればすまん
58:ポントラーフ ◆rF3U/UzFSU
07/09/10 07:15:11 GNFvYxbv0
じゃあ僕がケーシュー守ってやんよ
59:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 10:50:29 4hKF2ZA70
いやいや俺が
60:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 14:17:17 LNVWJkdf0
仮に荊州を任された者が劉備に叛旗を翻して自立独立した場合、
三大勢力に囲まれた中で、巧みに勢力を維持なんてできるだろうか?
61:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 15:14:19 gEBdm4h70
荊州全体の戸籍数は益州の三倍。地理的には益州領有するよりも人材面
経済面で勝るな。さらに南を支配できれば交易も見込める。
そして漢中を通らず蜀を滅亡させることすらできる。
だが襄陽は非常に後の時代の戦いを見ると北方面から守りにくい。
地形的な守備力という点では最弱だろう。全方面に面しているし。
荊州という土地は独立する土地じゃなく南朝政権に吸収される運命の
土地なんだよ。益州は土地の閉鎖性で独立が可能だが内部の人の上に
のっかる形に常になるな。
荊州は経済面と人材面では将来も充実してる地域だが独立は無理じゃないの
そして関羽の代わりは劉備本人とその幕僚がするべきだったのかもしれない
な。
漢中が安定してなくて益州も不安だろうが守るだけなら荊州よりは易しい。
ただ関羽は益州の複雑な利害関係を政治統治する能力は0だし李厳やなんか
に任せて益州人にパワーがシフトするのも困る。
諸葛亮と張飛魏延馬超あたりかな。
貧乏と過疎というボトルネックを解決するためには荊州は必須だから
歴戦の劉備本人がいれば関羽よりはマシじゃないかな。
どの道、北伐というのは南と北の肥沃さが逆転しない限り不可能という
ことが実証されてるわけだから結果的には守勢をメインにすべきだったな。
62:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 15:16:34 XaB7P0pD0
>>61
確か人口の3分の一以上が南陽郡に集中してるんじゃなかったっけ?
63:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 15:24:28 ORiZ5L900
劉備は蜀割拠が目的ではなく、漢の領土全部を手中にする
足がかりとして蜀に拠ってるんだろ。
だったら無理でも出て行かないとダメなんじゃないか?
64:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 16:56:04 kvOFsREoO
>>61
どっちにしろ魏呉の主力軍と渡り合える将帥は劉備しかいませんしね。
東西南北の軍事の要衝である荊州であればこそ、
やはり劉備みずからが駐屯するべきだったでしょうね。
余談ながら、何年か失念しましたが劉備が益州入りした直後
呉軍が南荊州に侵攻した事件がありましたが
その時には劉備みずからが蜀から荊州に下り呉軍と対峙してます。
で、諸葛兄弟の会談により湘水を境とする合意がなされますが
これも実は孫権が劉備軍…の圧力を勘案した妥協だったのかも知れませんね。
ヤル気なら交渉には応じず江陵まで一気に攻めたでしょうし。
65:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 17:20:45 jiF35xR3O
関羽じゃなくて岳飛や楽毅が荊州治めてればよかった
66:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/10 18:22:15 HW40GzrgO
李厳は荊州人だからむしろ荊州においとくべきだったんじゃないの
67:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/11 00:35:22 WYJSIJUg0
荊・益を一つの勢力として抑えようという戦略がまず無理があったんじゃないかと。
68:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/11 03:38:47 tVQjZCyK0
>>67
kwsk
69:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/11 13:04:13 zpSv6dCaO
カンヌ以外におらんでしょ
蜀取るまではどことも戦いたくないだろうし
周りへの影響力ではカンヌしかおらん
70:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/11 13:06:04 NBXq4XZm0
荊州を死守することは不可能だったと思う
孫権との縁談が成功してれば可能性はあったかもしれないけど
71:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/11 20:41:52 0kqCXw1Z0
>>60
その時代では無理。無理だから劉備に叛するなら曹操か孫権に流れる。
それは魏でも呉でも同じ。
超辺境な交州の士燮や遼東の公孫一族ですら半独立の服従がやっと。
仮に劉備から任されたのが関羽以外で、もう劉備ヤダってなったらどちらかの支配下になるよ。
劉備からみたら失うことも嫌だけど(失うだけなら劉備は0になるけど魏や呉が+にはならない)
敵対勢力の利にもなるから絶対に信用できる人が必要だったわけ。
俺は最近、荊州の喪失は劉備に親族・血族が居ないことが遠因なような気がしてきた。
唯一のそれにあたるのは養子でしかも将来実子の敵になりうる劉封だけ。
曹・夏一族は出来すぎだとしても、せめて孫一族程度の血縁がいたら劉備の負担はグンと減って、
持ち得る選択肢も増えたのではなかろうか。
やっぱり幽州の出自で益州が勢力というのは、背景は似たような(土着豪族、財無し名無し)孫一族が揚州に根付いて発展したのと比べて物凄いハンデなような気がする。
孫権は頻繁に情勢に合わせて拠点を変えてるし要所を一族の者に任せたり一軍を率いさせたり・・・つまり重要方面を完全に任せられる人物が居た・・・のに、
劉備は領土を得たばかりで尚且つ自分がフレキシブルに動けないというのはね・・・
72:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/11 23:14:47 q9Sdwdtw0
>>67
益州と荊州の境は、大巴山脈や巫山山脈の非常に険しい地勢。
長江沿いに移動するしかないけど、
あの時代によく軍隊の行き来ができたものだと思うよ。
蜀の領土として維持し続けたとしても、
荊州は常に半ば独立した格好の不安定勢力になり続けたと思う。
73:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/12 20:06:21 86Uwf0AM0
>>55
曹仁が襄陽に来たのは曹操から関羽を責めるために派遣されたと
何処かで読んだ
74:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/12 20:47:50 FjdNn/zh0
>>73
多分それの根拠は武帝紀だな。
武帝紀の侯音の乱の記述の所に、「初、曹仁討関羽、屯樊城」とある。
この記述だと、既に曹仁と関羽の間で何らかの衝突があった事になる。
これが218年冬10月の事で、217年2月の所では夏侯惇らと共に居巣に駐屯した記述もあるから、
曹仁が樊城に入ったのは、この間の事だね。
考えるヒントになりそうなのが、218年正月の吉本の反乱じゃないかと思う。
武帝紀の注釈に引く三輔決録では、吉本らが劉備に援助を求めるつもりだった事と、
関羽の勢いが盛んだった事が書かれている。
曹仁を樊城に派遣したのは、この吉本の乱の前、217年内の事だと思う。
関羽の勢いが盛んだったから、荊州の防御に曹仁を回す。
その後、吉本が関羽に助力を頼みつつ乱を起こして、関羽が援助の為北上。
樊城にあった曹仁が関羽に当たってこれを撃退した、って流れなんじゃないかと。
だから、武帝紀では既に何らかの衝突があったように書かれてるんだと思う。
まぁ、その後に関羽を討伐する計画があったかは分からないけど。
75:か
07/09/14 12:04:36 ohUaDBiSO
張飛、縻方、陳到、李厳、馬良、魏延を残して、関羽派は漢中だろうね。
76:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/14 14:26:46 NtJTqGAXO
結局、蜀と荊州とどちらを重視するかによる。
蜀重視なら関羽は荊州残留だし、関羽以外に任せられる人材はいない。
荊州重視なら劉備自ら荊州に戻るべきだし、
そうなると蜀地内の安定は孔明の双肩にかかる。
漢中制覇から関羽の北上までの一連の流れは間違いではないし
兵勢から考えても一気に攻勢に出てよい局面。
やはり外交の不徹底が最大の敗因だろうね。
77:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/14 14:48:32 vM6w49Gf0
>>76
まっ結局はまとめる人材が何人かいればよかったのだよ
後、関羽とその他を円滑にまとめる誰かがな
78:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/14 15:45:37 3YkIMdBo0
シミュレーション小説っぽくなるが、ジョショがいてくれたらなぁ…
79:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/14 16:17:24 NtJTqGAXO
文官が一人増えたところで大勢はかわらないよ。
ifを言うなら、魯粛や満寵のような大器が必要だった。
劉備軍閥は長期の流浪により、軍団としての結束は固かったが
規模がなかなか大きくならなかったために大器の人材が育たなかった。
最後まで、劉備一人が将軍だった。
80:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/14 16:55:15 n8oAARHHO
ジョルノ・ジョバーナやブチャラティがいれば万事丸く収まった。
81:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/14 17:02:03 ObLqmK4l0
徐庶なんていても何の役にもたたねーだろうなw
徐庶は穎川の出だし魏のほうがいろんな意味で向いてたんだろうし。
要地を纏める人間てのは別に軍事の天才でも内治の天才でもある必要
はないそれ自体が能力。防衛施策を施し、安易に動かず水面下で有事に備える。
自分の寝る時間を削って人と対話をし人間関係を築く呉の呂岱みたいなのが
いればよかったね。
蜀て本拠四川政権じゃ荊州保有時は歴代有数なんだよなぁ。荊州あって
存在価値があるわけで。
攻勢に出たのは大いなる間違いだな。近代除いてこの戦力差、この
人口差で北上して成功した事がない。それだけ南から北は至難な事だ。
桓温は中原が無茶苦茶な時に隙をついて成功したがそれでも即時放棄を
余儀なくされた。東晋よりも領土の小さい蜀が安定してる大国を攻める
とかリスキーだ。やるなら魏が無茶苦茶な状態になるまで刑州を全力
で堅持してそれからだろう。 本拠も安定してねーし。
攻勢の戦略というのが劉備の致命的な失敗。
髭も大人しく堅牢しとけやて言われてれば守りきったかもしれんし。
82:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/14 18:42:15 vM6w49Gf0
>>79
そうか?
まとめ役がいれば少なくとも即降伏はなかったろから
守れたんじゃないか?
83:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 00:32:25 vQTEAqZQ0
>>79
張さんは育ったろ。呂布時に比べたら。
少なくとも、荊州脱出時点での仁王立ちとかなかったら
劉さんが死んでるか、少なくとも、軍事基盤を失ってる。
84:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 14:48:18 4l3LBCEe0
>>72
南朝の西府軍のような存在になったかもね。
85:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 15:47:24 vko+FU16O
>>83
張飛は育ったというか、将器が開花したというべきかな?
それまで小部隊を指揮する程度の役目しかなく、
国士の器でありながらも将器を発揮できなかっただけでは?
関羽も同様で、荊州を任されてようやく中原に威を轟かす活躍が出来たんだと思う。
逆に言えば二人が劉備ではなく曹操を主君としていれば
早くからもっと活躍できていたかも知れない。
庶民のまま終わったかも知れないけどw
86:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 21:35:29 NYy9MaGKO
趙雲だったら守れた?サポートは法正とか
87:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 23:28:57 GUGYONzW0
ここは良スレだなあ
88:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 23:31:18 CjEBgadr0
>>85
関羽ってもし曹操に仕えていたら、どこまで出世したのかなあ?
89:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 23:32:16 gd+z2gqg0
>>88
かなり出世したと思うよ
曹操が気に入ってるのだから
90:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 23:33:53 q/q6/7ot0
>>86
三戦板に似たような名前のスレがあるから過去ログ漁ってみるといいよ
初期は稀に見る良スレだった
91:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/15 23:40:16 gd+z2gqg0
>>90
初期は良かった
まじめに議論してるひとが多かったから
92:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 00:22:29 +lSD3xve0
劉封の立場が不安定だったのが惜しいなあ
なかなか武勇に優れていたそうだし優秀なお付きが居れば
一方面だけでなく荊州全体を守れるくらいになってたんじゃないかな
93:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 01:16:26 MJ437q/mO
>>86
趙雲じゃ話にもならない。
広大な荊州を統治して、人民の信望を集め地方豪族を統括するには
主君劉備に並ぶ名声と器量が必要。
無名に等しく、一部隊長程度の将器の趙雲では無理すぎる。
>>88
出世したかどうかより、曹操の知遇を得られたかどうかが肝心かと。
>>92
むしろ養子ではなく臣下であれば有力な候補だったろうね。
将器としては魏延にも匹敵しただろうし、猜疑の目で見られない臣下であれば
抜擢もありえたかも。
なまじ養子であったために無用な疑いも受けたみたいだし
権力も与えられなかったように感じられる。
94:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 10:41:22 yFBMtM/G0
臣下だったら余計無理だと思うが、劉封はまだ若くて武名も足りない
親族扱いだからこそ一方面を任せられた訳で、一臣下の身分で荊州を任せられる訳が無い。
また器の面でも孟達との一件を見るに荊州を任せるに足る器とは言い難いし。
元々荊州自体が不安定過ぎる、人材・兵士共に益州へと流出してる上に大勢力に囲まれた地域で
さらに劉備との義侠的な繋がりと個人の武名しかバックボーンの無い関羽しか、
荊州を任せられるに足る名声が無いところが、劉備側の人材層の薄さを物語ってる。
あと劉備の人材配置は軋轢を無視してる傾向があるから、そこも憂慮すべき点だと思う。
95:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 11:18:03 NBrSTMpA0
上庸は魏からも蜀からも特別に重要視された形跡がないからな。
◎長安 宛城へ
| ↑
|漢中 ○ハン城
○-----△----◎襄陽
| |
|成都 ○江陵
◎-----------○公安
|
○武陵
|
○零陵
見難いけど△が上庸。
漢中より陸の孤島で、正に鶏肋という表現が相応しい。
劉備からみたら重要度は
①益州(本拠)
②荊州南部(中原侵攻への拠点)
③漢中(長安侵攻への拠点兼第一防衛ライン)
劉備が自然に①。
②に趙雲(親衛隊長、一部隊長)とか劉封(実子が出来た前に取った養子)とかだと話にならない。
結局関羽しか居ない
ただでさえ③で魏延という冒険をしてるんだからね。
96:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 11:28:20 MJ437q/mO
>>93です。
>>94、>>95
まず、真摯なレスに感謝します。
上のほうにもあったけど良スレですね。
これからもヨロシクです。
で、私見の続きを。
劉封はかなりの大器だったと思います。
若くして劉備に見出だされただけでも非凡であっただろうし
後に孔明らに警戒されたように剛勇で気宇壮大であったろうと思います。
これは魏延に似てると思いませんか?
魏延が漢中の督に抜擢されたのと同様に
劉封も抜擢された可能性はあるかと思います。
ただその足枷が「養子」という微妙な肩書。
実子でもなく、半端に影響力のある立場だけに
強大な兵権は与えにくかったのではないでしょうか?
97:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 11:50:37 yFBMtM/G0
>>96
非凡であっても入蜀の際には若干二十歳余でしかない若者が、
劉備の親族という立場なくしては一方面の司令官とかまずありえないし、
実際には孟達の送った手紙を見る限り、劉封は劉備の親族としてかなりの待遇を受けてる事は間違いない。
また劉封は気力・武勇に優れていたとあるが、武勇ならば三国でも傑出した存在である関羽を
差し置いて、劉封を荊州に配置する意義も無い。
それからハッキリ言ってしまうと劉封の戦績は乏しいんで実際に魏延に匹敵する将器かどうかは不明だし
気力・武勇に長けるというだけで匹敵するというのは暴論であり、
ぶっちゃけ魏延自体が荊州を統括するには格不足で、魏延と=になったところで荊州督は無理。
既に書いたけれども、個人的な軋轢から孟達を侵害して上庸を失うなど、大将の器としても疑問なんだけど。
98:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 11:54:18 sI4gv9n40
劉邦、魏延の悲劇は同陣営に孔明がいた事 これだけはガチ
99:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 12:15:59 NBrSTMpA0
うーん・・・
まずね、漢中王宣言後の人事では
劉封は副軍将軍、所謂「雑号将軍」ね。
劉備の代表的な将軍は同じ時期に
関羽:前将軍(仮節鉞・督荊州)
黄忠:後将軍
馬超:左将軍(仮節)
張飛:右将軍(仮節)
魏延:鎮遠将軍(督漢中・太守)
趙雲:翊軍将軍(漢中前)虎威将軍(漢中後?)
この時の劉封は恐らく30才前(益州侵攻時に20+)だから、スピード出世ではあるけど
上記には遠く及ばない。
仮節ってのは軍事裁判権というか、軍規に背いた者を裁く権限のこと。
名目上は黄忠が2位だけど、仮節がないことから名義的なものだと判る。
逆にいうと将軍トップ3は関羽馬超張飛。
(記憶が正確でないので鵜呑みしないで→)特に関羽は「鉞」といって軍にとどまらず、
劉備が任命した官位を持ってる人も裁く権限が与えられていた。
こういう権限が与えられるのは、功があり信用され内外に名がある将軍だけ。
30弱で劉備の「身内」だけど微妙な立場の劉封にはとてもじゃないけど、与えられる役割ではない。
確かに養子という点で出世スピードは速いけどね・・・孟達が劉封の微妙な立場をよく理解してる文章があったので良く読むといいかも。
「猛勇」であるという記述は確かにあるけど、それだけで蜀の命運を握る荊州を任せるわけにはいかないのが当時の現実だと思うよ。
100:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 12:17:15 NBrSTMpA0
あ、書いてたら>>97とかぶったw
ごめんなさい
101:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 13:17:34 yFBMtM/G0
>>98
そりゃ違うと思うね。
劉封の悲劇は、劉備が劉封に対して立場を配慮した人事をしなかった事であり、
もっと遡れば養子にとられたこと自体が悲劇の始まり。
孟達が指摘するとおり劉封の立場は微妙であり、劉禅からすれば脅威になりかねない存在
諸葛亮の提言は実に理に適っており、政権の安定性を考えるならば仕方の無い処置。
また劉封自身にも上庸においての罪もある。
魏延は諸葛亮の下でも栄達を続けており、諸葛亮に暴言を吐いても
同僚と問題を起こしても我慢強く使ってもらってる辺り
諸葛亮の指揮下に居た事は決して悲劇ではない。
魏延の悲劇は自分が全軍を担う将軍の器と勘違いしちゃった事だろう。
諸葛亮の撤退命令を無視して楊儀と政争を起こした事も魏延自身の判断に基づいた行動だし
誰かのせいと責任転嫁できる類のものじゃない。
102:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 16:03:14 MJ437q/mO
皆さんの意見は筋道が立っており概ね同意できました。
まあ、ロマンと妄想の一つとして「劉封大器説」を唱えたくなりまして…
歴史は勝者が記すものですから、
敗者である劉封があまり良く書かれなかったのではなかろうかと推理しまして。
確かに当時の劉備陣営としては関羽張飛ぐらいしか大将がいなくて
あの配置が最善であったろうというのは理解できます。
そうなるとやはり、勝敗は兵家の常ながら関羽の不覚が惜しまれますね。
南荊を失う事なく呉軍を撃退できていれば…と思います。
103:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 16:23:19 dHleCWf10
武勇に優れ~、張良陳平の風があり~、知略に優れ~て評は一種
のきまり文句みたいなもんで正史には頻繁に使われる常套句。
剛勇的に書かれてる=名将なんて評価してたらどうなんだよw
三国志だけ読んでるなら誤解するのかもな。
劉封は普通に将軍としては使えるが一線級に及ばない並鄭度の
戦術レベル将軍ってとこだろう。
結局孤立した荊州てのはそれだけ難しいんだよ。
三国時代のおかげで発達した襄陽含む荊州が肥沃だから割拠しようぜ!
という意見が出てもあえてほかの地を拠点にする英雄もいるくらいな。
蜀には、遣れる人間が親分と舎弟関羽しか居らず恐らく高能力将軍で
あろう魏延はまだ若干実績が足らず性格的に関羽と同じ問題を起こす
可能性もある。 張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気
がなく、諸葛亮もこの地点でまだ官位も高くなく趙雲なんて全く
不向き。劉封は単独でやる器では到底ない。馬超は軍閥帰参という
意味で評価されてるが実際微妙な存在なので使えない。
よって使えるのは関羽と劉備しかいない。
劉備は歴戦の男だが符堅らと似た英雄。優れた大器だが統一者に
一歩及ばず肝心な所で失敗をし下手すりゃ戦死、捕虜というな。
劉備が守っても失墜戦死でも十分ありえる。 そういう微妙な
政権だけに人材も少ない。
ここは関羽がやはり守り、孫権に譲歩して割譲これが当面妥当
じゃねーか。
104:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 16:49:39 NBrSTMpA0
>>99
自己レスだけど
仮節と仮節鉞をちょと調べてみた。
仮節は、まぁ普通に自分が指揮する軍内の処罰権限。
張飛が下の者に厳しく当たり過ぎってことを劉備が諌めたセリフ、
卿刑殺?過差,又日鞭?健兒,而令在左右,此取禍之道也
これって仮節が無いと出来ないことね。
仮節を持ってない魏延は鞭打ちくらいは多分太守の権限で出来るだろうけど、
処刑などは出来ない。しようと思ったら劉備に問う必要がある。
んで、仮節鉞は
①独自の軍権
②軍に留まらず、官位持ちをも裁く権限
二つ説があるようだけど、前者ははなはな疑問。
そもそもこの時代に限らず、独自で軍を動かしていい権限とはほぼ独立を承認したも同然だし、
中国の伝統である文>武に物凄く反している。
こんな危険な官位が(劉備との特別な関係を持つ)関羽だけでなく漢や魏にもあって
しばし独立した軍権など必要がない者に与えられている事からも否定されると思う。
後者は三国の時代から100年ばかり経った時代になるけど
使持節
持節
仮節
使持節が二千石以下の官職を処罰できる官位だったらしく、
持節が軍に関わることなら二千石以下の者を処罰できる権限。
仮節鉞が使持節に相当するとなると、事実上外交権を除いた荊州の全権になってしまうのでこれは無いと思う。
いくらなんでも平時に置いて太守の処罰権などありえないから持節と考えるのが妥当かな。
さらに掘ってみると鉞っていうのは殷周の時代から処刑道具として皇帝の権力を現していたものだから、
具体的な軍事権限と見るより、それに纏わる人事(処罰)権の一種と見たほうがより納得できる。
105:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 17:07:56 NBrSTMpA0
>>103
張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気
がなく
↑これについて詳しくお願いします
どういうヘマをして劉備からしかられたのか、教えてください。
漢中前哨戦で張コウを破った記述しか知りません・・・・
106:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 19:52:02 NBrSTMpA0
>>99 >>104
さらに自己レス・・・何度も申し訳ない
関羽・張飛・馬超・黄忠の四将軍は三品官相当。
趙雲の虎威将軍は恐らく四品官相当の中二千石。
魏延の鎮遠将軍と劉封の副軍将軍は五品官相当の二千石じゃないかな。
ただし、魏延は督・太守も付いてるので名は二千石で実は中二千石という、
実権の話は置いといて名目上は趙雲より微妙に下の位置だったと思われる。
>>102
上から数えると、劉封は軍の第四クラス(魏延を2.5とすると第三)のラインにいたわけだけど、
これを高いとみるか妥当と見るか低いと見るかは貴方次第。
私は30弱で軍に付いてから十年未満の人間からすると異例の出世速度だと思う。
逆にいえばコレが限界。
ちなみに諸葛亮が益州平定後に軍師将軍(左将軍府事)で漢中平定後がよくわからないんだけど
劉巴が尚書
蒋?が尚書郎
法正が尚書令・護軍将軍
だから法正よりちょい下と見れば趙雲と同格くらいと思われ、
こうしてみれば劉封の官位は本来より不自然に高いが、
荊州を治めるには低いということがわかってもらえると思う。
まぁ一番不自然なのは黄忠なんだけどねww
107:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 20:03:33 yL6pW3BD0
魏随一の猛将夏侯淵をあぼんさせたのはそれだけの仕事じゃないだろうか
108:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 20:31:52 4P1RuB/V0
当時の蜀の将軍位を指して、何品だからどうのってのは意味無いと思うけど。
劉備時代の蜀に九品官人法を当てはめられるとは思えないし。
驃騎将軍や車騎将軍などを除けば、四方将軍が蜀では最も高位の将軍位で、
それに次ぐのが四鎮だろう。
趙雲の虎威将軍は、趙雲別伝に「軍中では趙雲をなして虎威将軍と号した」とあるだけだから、
実際に拝命しているかは分からない。
本文どおりに翊軍将軍としておく方がいいと思う。
鎮遠はよく分からないけど、劉備を漢中王に推挙する上表で、征西将軍黄忠に次ぎ、
揚武将軍法正﹑興業将軍李厳を凌ぐ位置として、頼恭が就いているところを見ると、
将軍位としてはそこそこだろう。
副軍将軍のついては劉封の記述しか出てこないんで分からないが、
上記の通り四方や鎮遠よりは下だし、翊軍も後に霍弋がこの将軍位を帯びたまま、
統南郡事であった事を考えると、単なる雑号よりは上かもしれない。
109:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 20:38:32 0qpY+d2oO
荊州の人民物質を全て蜀に移してたら…
110:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 21:43:49 NBrSTMpA0
>>108
だから「相当」ってつけてるよ。序列をわかりやすくね。
虎威将軍の件だけど、どうしてもそう呼ばれただけとか称しただけとは思えないんだ。
実際に虎威将軍位はあって、魏と呉の話だけど中々の人物が拝してる役だし、
その人たちの官位歴を見ると四方将軍就任の前に大体位置してるから雑号の中では相当上だと思うよ。
(功を建てたばかり)趙雲だけ翊軍のままで、昇進から外れたと考えにくい。
だから別伝が何かしらの理由で本伝には書かれなかった事実を、捻った言い回しで付け加えたんじゃないかな?
つまり実は魏呉の虎威に相当する将軍に昇進したんですよ、と。
鎮遠は頼恭が元々ほぼ実権は無かっただろうが交州刺史だったことを考えると
それなりの雑号だと思う。特に征西の次、雑号の筆頭に来ている辺りね。
もし虎威が魏では四征の真下の雑号(一気に四方に昇進できる射程内の位っぽい)で、趙雲がそれに相当する将軍位だったとすると
>>106は一応格好つくかなw
111:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 22:19:10 4P1RuB/V0
>>110
別に「相当」ってのはいいけど、四方が三品相当で、
虎威が四品相当で、鎮遠と副軍が同格の五品相当だとかってのは、
何を根拠にしてるのさ?
明確な根拠も無いまま言ってるんだったら、余計混乱するだけで分かりやすくならないと思うよ。
虎威将軍に関しては、任命されたとは書いてない以上、
そういう昇進をした、と当たり前のように書くべきじゃないと思う。
翊軍だって、霍弋はそこから安南将軍に昇進しており、
安南将軍は馬忠の例を見れば、鎮南大将軍という、
驃騎将軍等に次ぐ将軍位への昇進も可能なものであって、
翊軍から征南にいったって不自然は無いと思うよ。
112:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/16 23:22:57 a8Ay37JH0
張飛は下弁での一戦の失態。劉備の運用法として結果を出せば昇格
失敗すれば降格ないし重責を他に任せるというパターン。
張は張コウを退けたがその後217年上の失敗をしたため本来彼の仕事を魏延が
遣ることになった。
黄忠は蜀では最高レベルの功績をもらっても全く不思議はないだろうな。
官職は単に計算化したような実績の積み重ねを表すものじゃないし、
対外面での誇示も当然あるだろうし。
九品中正てそんな単純に定義付けできんの?4品以上なんか明確に。
俺もあの本読んでないからわからんけど。
まぁ検索すれば、石含め誰かが書いた対応表みたいなのはでてくるけどさ。
113:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 04:47:22 1Hd+MDv1O
何にせよほう統が生きてれば趙雲と守ってるはず
114:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 05:49:49 zvZonXLA0
>>112
下弁の失態って、馬超も同伴してたやつ?
>>113
趙雲はねえだろ、いくらなんでも。
115:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 09:34:36 hFtrZqgyO
たしかに、趙雲はないわな。
張飛と縻方なら納得するだろうよ。
荊州が維持できるかどうかは解らないがね。
116:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 14:13:24 TGouezC80
>>113
趙雲って劉備が皇帝になるまでずっと下っ端の将軍、
劉表の配下として実績があった黄忠は元より、
兵卒ぐらいから成り上がった魏延よりはるか下だから。
117:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 15:29:26 tOmSXNU/O
>>113
策謀に長けたホウ統と組ませるなら張飛だろうな。
趙雲だとホウ統にいいように使われるのがオチで
劉備側としてはホウ統の離反独立を警戒せにゃならん。
(ホウ統にその意思があるないにかかわらず)
そうなると張飛あたりと組ませて牽制する必要がある。
関羽だとホウ統と喧嘩になる可能性もあるし。
まあ「生きてたら」の話だけどね。
118:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 15:38:06 ZpZxIhfZ0
ここよんで分かったんだが趙雲ってけっこう位低かったんだね(´A`)
かるくショック
119:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 15:57:04 fHVcANqqO
てか黄忠って特別すごい武将でもないだろ
120:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 16:04:07 6DjCEley0
r
121:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 16:34:52 aF6IWUGl0
>>119
記述が少なすぎて、凄いのか凄くないのかすら解らん
122:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 17:36:46 yiJdMSqq0
記録で残っていない部分で凄いものがあった可能性。
123:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/17 22:48:26 KNtUiLnhO
劉キさえ長生きしてたら万全だったのにな。
124:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/18 03:02:38 6rCjXYXTO
劉封以上にないわ。
仮に壮健だったとして、いや壮健ならば尚更。
125:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/18 07:29:10 EBW9STTI0
ここまで読んでみたがなかなか面白かった。
俺が皆の意見を読んだ限りではやっぱ関羽がベストっぽいな。
荊州維持については人事でどうにかできる問題ではない感じだね。
126:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/18 08:58:58 gppGDiBVO
俺は魏延に任せたいな。
張飛を押さえて要地漢中の太守を任されたことから、劉備からの信頼+本人の実力がわかるし。
本人も荊州出身だからやりやすいでしょ。
だから魏延と荊州派の人々で旧劉表軍みたいな感じで。
てか元々、関羽が関平とカップリングで攻めなきゃ良かったとも思う。
127:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/18 11:40:06 h7SRG6bC0
>>125
ベストというか、現状ではそれより優れた選択肢がなかったというか。
荊州維持に関しては、あの時点で北上した時点で間違いだからな。
128:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/18 23:47:25 oG7cgQHd0
曹操陣営のジョジョを策か何かで無理やり引っ張って来て関羽の補佐。
ジョジョ本人は建前を気にしてるから、誘拐やら何やらで既成事実を作って、
世間的には「ま、しょうがないかその状況じゃ」って形にする。
黒い策なので法正あたりに実行させて
「そのような策は好まぬ」
「殿の大事の為には時として非情にもならねばなりません」
「むむむ」
「私も法正殿に賛成です」
「孔明もか・・・いたし方あるまい」
「あまり深く考えなさらぬことです」
風にすれば横山先生的にも問題なし
129:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/18 23:53:29 oG7cgQHd0
陣営の中では劉封かな。
ネームバリュー(蜀での)で関張に匹敵しそう。君主の息子って事で。
馬超は北方の方が有用できるし、孔明法正は蜀科に必要だし、張飛あたり
上庸らへんにおいて、有事の際助けさせると。
張飛なんか危機になったらちゃんと飛んできそうだし。しかもあの頃の張飛は援軍に向いてそう
130:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/19 00:07:44 1FsAY3XX0
さらにレスすると、劉備駐屯意見に関しては、素人考えから見て
前々から本拠地に分捕ってやろうと考えてたのが蜀であって、それが成就し
本拠地が蜀である訳で、漢中ケイ州は有事の最前線なんだろ?
曹操が合肥に駐屯したりする様なもんで危険極まりないと思うが・・・
考えとして劉備以下全員の頭にはなかったと思う。君主は首都にいるモンだろう。
131:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/22 20:45:30 1xKUhsDs0
厨臭さ全開のスレだな
132:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/23 13:59:41 v8h9YvF50
関羽以外荊州を守る適任者がいなかった。廉頗や趙奢のような守備撃退
のプロ、三国時代の張遼や徐晃のような連中でもあの状況と国力で守備
と攻勢を両面で行うのは至難。
彼らに及ばない関羽にどうしてできただろう。
君主が首都にいるのは平穏な時くらいで、長期統一政権の皇帝ならまだ
しも非統一政権なんか緊急時には自ら前線へ出張る 親征は普通にやるし
やらざる得ない。危険だが士気上げには強力に有効。だが負けて捕虜に
なったりその後殺された皇帝もいる。
劉備がケイ州に駐屯しても彼の頭に攻勢の2文字がある以上敗北が約束
ずみ。 呉は揚州という過疎地帯をしょってる以上絶対にケイ州は奪回
する必要があるしその大義名分もある。
結論として関羽しかいないが仮に劉備が守っても同じ結果となる。
ケイ州を攻勢を掛けつつ守るというのは蜀の国力では所詮不可能であった。
133:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/28 12:34:03 Um4MC3IN0
BSジャパン 10月7日(日)10:00 [新]中国歴史ドラマ 関羽
134:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/28 22:12:38 rX9pln+T0
レンパを抜ける武将は三国時代に存在しないだろう
135:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/28 22:16:56 UvYc0SCb0
極端なこと言っちゃうと
関羽であっても北上させずひたすら江陵守備。劉備も北伐を諦めて危急時に
すぐに援軍に派遣できる体制を整えておく。これなら荊州も失わなかった
だろうと思う。
逆に北伐を考えるのなら孔明の陸中対ですでにあるように呉との同盟・友好
関係が絶対不可欠。それが成しえないのなら、関羽の変わりに趙雲だろうと
張飛だろうと魏延だろうと劉備本人だろうと北伐は無理。
136:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/29 17:38:42 hwLSGBbB0
廉頗は、後ろの王さえ馬鹿なら抜ける。史実でもそうだしな。
137:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/29 17:40:40 D3QmKwqU0
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138:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/29 19:09:49 2UZ+ysZb0
>>135
孟達あたりとの連携が今ひとつ無かったのも痛いな
もし彼らの弁明通り上庸が不安定だったのならば、
安定するまでは無理な遠征は絶対厳禁だったと思う。
139:臣 姜維曰く
07/09/30 00:47:42 px7pW+ba0
基本は
成都 劉備、劉巴、黄権
荊州 関雲、馬良、孔明
漢中 魏延、法正、黄忠
遊軍 張飛、趙雲、馬超
趙雲、馬超、黄権は街亭を取り、魏延、黄忠、法正は長安攻略し
長安取った後、趙雲(守りのは得意)を太守し、補佐に法正、黄権。
張飛を漢中に(馬超を見張るため
魏延、雷銅、呉蘭は上庸に
劉備、黄忠は信陵に移す、成都太守は蒋碗に
関雲、孔明は曹仁攻略、と同時に劉備は江陵、黄忠は公安に。(呉を牽制
曹仁を倒した後、江夏攻略、江夏取れたら呉を恐れることはないと思う
士元兄、君の死は決して無駄じゃない
140:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 00:55:08 bYXsYH6Y0
関羽は攻めには強いが守りには弱かったんだろうな。
守備ではなく、攻勢に出られる場所に配置すればよかったと思う。
141:臣 姜維曰く
07/09/30 00:59:30 px7pW+ba0
>>140 孔明が後詰するから問題ないと思う
142:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 02:23:15 mq36XgJH0
>>135
荊州を防備一辺倒にするって感じだね。
同時に上庸を安定させたり、蛮族を帰属させたりしたら北伐が出来るだけの国力が手に入る。
劉備以下の年齢がネックになるけど、それを除けばまずまず良い案だと思う。
ていうか、これ以外に荊州を保持できる現実的な案ってあるだろうか?
143:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 04:09:13 onSQKTY70
関羽は攻めは、当時名将の位置に居た于禁を降伏させて、
ホウ徳をぶっ殺してますからね。
144:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 10:35:53 EHQLQOl2O
于禁の軍は洪水で孤立して、関羽に敗れたようだけど
関羽の軍はどうして洪水から逃れられたのだろうか
案外洪水は演義のように、関羽の計略だったんじゃね?
145:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 17:19:41 x6aWhIxC0
カンウとチョウヒの両人が守っていたらだめだったの?
カンウとチョウヒがお互いを補完しあえばよい。
漢中平定後のカンウ荊州統治時代後半ってチョウヒはそんなになんか表立った仕事していたということもないし
146:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 17:23:54 x6aWhIxC0
カンウに荊州統治を指示したのはカンウの名声が天下に知れ渡っていたことが大きいだろ。
曹操に仕えていたこともあり、その時には実績も残している。曹操家臣団からも知られていて一目置かれる存在。
147:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 19:22:18 onSQKTY70
関張、両方手放したら漢中が危ないだろ、
魏延は成長、黄忠は老体、馬超は夷族に使用途中。
駒が足りんのだよ。駒が。
148:名無しさん@お腹いっぱい。
07/09/30 19:23:27 onSQKTY70
魏延は成長途中ね。オレも途中でカキコしてましたーっと。