秀吉による朝鮮役の軍事分析4【日本・明・朝鮮】at ARMY
秀吉による朝鮮役の軍事分析4【日本・明・朝鮮】 - 暇つぶし2ch498:某研究者
07/08/19 06:02:41 TliAo0v6
URLリンク(www.rekishi.info)
>16日の記録(舜臣は水軍の壊滅をまだ知らない。)軍船の漕ぎ手で、戦闘から逃げてきた世男(奴隷身分)の言ったこととして
>「(略)闘おうとしたが、倭船は散り散りになって回避し捕縛することが出来なかった。

アルマダ海戦の様に日本側は火矢の射程外から
速力の有る小型船で砲撃戦に徹したと言う事は
無いのかだが


>ここで日本水軍は朝鮮の軍船に近づいては離れ、近づいては離れるという戦術をとったようです。朝鮮水軍はこれを追撃しますが、陣形が乱れ、艦隊は四散(沖合でのこの状況は、
>亀船を含め朝鮮水軍の軍船の特質を考える上で示唆的です(後述))。

此れは正にアルマダ海戦の序盤に似た様な
展開だろうが
朝鮮軍もスペインの様に日本船を深追いせず
陣形を保持すると言う事は
考えなかったのかだが
銃撃で遠距離からダメージを受け続けただけかも
知れぬが

499:某研究者
07/08/19 06:06:20 TliAo0v6
>もちろん当然日本側がこうした状況を傍観していたわけではありません。文禄慶長の役で日本軍が構築した日本式の城郭を「倭城」と呼びますが、倭城の分布を地図上に落としてみると朝鮮の沿岸部を埋め尽くしているのに驚かされます。
>日本側は朝鮮水軍の攻撃発起点からの距離が短いことに目を付け、また水軍の泊地に近い浦々が朝鮮水軍に利用されることを防ぐために、船団が停泊可能な箇所の殆どに陣地を築城し、その利用を阻んだわけです。
>近代戦の「制海権」という言葉をこの闘いに使うことはできません。陸上が押さえられると必然的に水軍の活動が封じられるわけなのです。

停泊地への奇襲はこの様な手で
後には封じられていた訳だろうか

500:某研究者
07/08/19 06:15:59 TliAo0v6
>朝鮮水軍と板屋船に良いとこ無しだった関船ですが、速力・運動性・沖乗りでは遙かに優れています。
>朝鮮水軍を“沿岸防衛艦隊”と称すれば、関船を主戦力とする日本水軍はいわば“外海艦隊(航海術が無いので“外洋艦隊”ではありません念のため)”と称することができるでしょう。

故に輸送船団を護衛するには
この様な船しか選択肢は無いと言う
事かも知れぬが

501:某研究者
07/08/19 06:30:15 TliAo0v6
>ところで、亀船(亀甲船)の採用には唯一の例外があります。大坂冬の陣に際し、九鬼守隆が徳川氏の命令で建造された「盲船」で、窓・天井を楯板と竹束で総て覆い、船の前後に引き戸式の扉を設け、前進用の櫓と後進用の逆櫓を有します。
>九鬼は徳川氏から与えられたフランキをこの盲船に搭載し、大坂城の川沿いにあった矢倉を破壊しているのです。搭載された火砲がフランキであることは、全体を防弾用の装備で覆い覆い敵の射撃拠点に接近しなければならないこの船の性格上不可欠のものです。

此れは一応防弾を考慮した船だろうが
大型の銃は止まらない訳だろうか

502:某研究者
07/08/19 06:58:09 TliAo0v6
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、

まあ陸上輸送は避けて
海上輸送に徹すれば良かったと言う
事かも知れぬが
本国からの食料だけで15万の兵力を
何年も維持するのは
限度も有ると言う事かも知れぬが

503:某研究者
07/08/19 08:32:41 TliAo0v6
>本国からの食料だけで15万の兵力を
>何年も維持するのは
>限度も有ると言う事かも知れぬが

モンゴルの様に徹底的に進撃して
食料を調達と言う方向も有るだろうし
焦土戦術の様な事をやられなければだろうか

504:名無し三等兵
07/08/19 08:44:43
クソの役にも立たん
少しは研究しろ

505:某研究者
07/08/19 10:07:08 TliAo0v6
弾薬は海上輸送
食料は現地調達で
出来るだけ早期に進軍と言う方向も
有ったかも知れぬが
防寒装備等も必要な訳だろうか

506:名無し三等兵
07/08/19 10:26:02
全羅道南岸を早期に確保しなかったのが失敗

507:某研究者
07/08/19 11:18:58 TliAo0v6
>李舜臣との接触後、日本水軍は脇坂安治の独走等、指揮系統の混乱から立て続けに敗北を喫し、泊地の奥深く逃げ込むことになります。
>泊地に大型船を並べて「大筒」「大鉄炮」を装備し砲撃で敵を近づけないようにする一方、陸上にも「鉄炮塚」を築いて海上の朝鮮船団を射撃する体制をとるのです。
>一見すると消極的な戦術にも見えますが、これは大型船に装備した大砲で、焼き討ちをかけてくる敵船を迎撃するという、大坂木津川河口での九鬼水軍の戦闘を思い起こさせるものです。
>今度は陸上砲台の援護も得られます。この戦術は有効に機能したようで、泊地内に侵入した李舜臣は果敢に戦闘を挑みますが、誤って座礁し日本側に焼かれかける船が出るなど、被害が増大し、
>目立った戦果があげられなくなります。
>現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300~1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。
>当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。
>こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。
>朝鮮側の銃砲や火箭が破壊力はともかく命中精度や有効射程が日本側の銃砲よりも劣ることを考えれば、泊地奥の日本船に火箭や砲弾の有効打を浴びせるべく近づくと、
>船体はともかく、船上の兵士の損害が必然的に大きくなることが予想されるわけですが、記録を見ても朝鮮水軍は指揮官を含め多くの死傷者を出していますし、舜臣自身銃撃を受けています。


まあ通説とは異なり
序盤以外は日本側の方が火矢の射程外からの
遠距離砲戦に徹していたと言う
事かも知れぬが

508:名無し三等兵
07/08/19 11:28:39
また某研が来たか。暦よりちょっと早かったな。

509:某研究者
07/08/19 11:30:38 TliAo0v6
>船が大型なこと、潮流を利用したこともあって、日本側の接舷切り込みを防ぎ、日本側の主将藤堂高虎が負傷、多数の戦死者をださせるとともに、
>日本船数隻が沈没、日本側の攻撃を防ぎきります。日が落ち、日本側の攻撃の手がゆるむと、脅しの火砲を発射、帆をはって水域奥に退き戦闘は終結します。
>日本側は損害が大きかったこと、また水路に不案内なため、追撃をあきらめます。残敵掃討戦は失敗しました。

此れは接近戦をやろうとしたが
潮流を利用して上手く逃げられ
火矢でやられたと言う事かも知れぬし
遠距離からの砲撃戦に徹して居ればだろうか

510:名無し三等兵
07/08/19 11:37:07
きっと某研は株が暴落したからやることなくて降臨してるんだよ。

511:某研究者
07/08/19 12:00:31 TliAo0v6
URLリンク(ja.wikipedia.org)
露梁海戦では
日本側は輸送船を流用していたので
砲撃戦等は無理だったと言う事かも
知れぬが

512:某研究者
07/08/19 12:39:17 TliAo0v6
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主力軍の南部への布陣で解消されており、準備を整えた慶長の役の侵攻作戦では補給の破綻は起きていないとしている。

まあしかし南部に布陣していたから
海路のみで補給が続いたと言う事は無いのかだが
海上ルートのみに補給を絞れば
長距離でも何とか成ったと言う事は
無いのかだが

513:某研究者
07/08/19 12:43:54 TliAo0v6
まあしかし補給が有るのに
何故攻めなかったのかだが
慶長の役では朝鮮南部の割譲が目的と成ったが故に
攻勢には出なかったと言う事なのだろうか
(割譲が認められた場合再度の侵攻は
 有り得たのかどうかだが)

514:某研究者
07/08/19 12:56:22 TliAo0v6
明・朝鮮軍も数万ー十万以上の損害を被っているし
日本側が南部で守りに徹していたら
事実上壊滅し
朝鮮南部割譲所か明本国迄やられたと言う可能性も
有る訳だろうか

515:名無し三等兵
07/08/19 13:02:27
ウィキペディアは冒険でも書ける

516:名無し三等兵
07/08/19 13:17:53
当時は天下を取り増長した太閤だから無理だろうが、藤吉郎時代の謙虚さと狡猾さで真剣に大陸進出を考えるとすると毛利攻めのような慎重さが必要だと思う。
まずは夏に第1陣で慶尚を蹂躙し占領よりも進軍に重きを置き軍事拠点の破壊を優先し、その間に釜山周辺を第2陣で固める。
反撃体制が整う前に第1陣を後退させ乱取し反攻軍の兵糧現地調達を不可能にし、釜山周辺で滞陣し冬ごもりをする。
明の本格介入を招か無いように押しては引く事が大事。翌年夏に再度帰国させた第1陣を再編し朝鮮側防衛線の裏側の全羅に着上陸し第2陣と挟撃し朝鮮軍を壊滅させる。
明の援軍本隊が朝鮮に入る前に朝鮮を降伏させ救援を無意味にさせ、明と和議を結び朝鮮南半分の支配権を確保する。
朝鮮西海岸に根拠地を整備し水軍を強化して山東攻略の足場を作り明攻略の調練を行う。

517:某研究者
07/08/19 14:36:34 TliAo0v6
URLリンク(www.excite.co.jp)
この絵は明治以降の物かも知れぬが
小型船ではこの様に上から矢を射込まれると不利かも知れぬが
実際は盾を構えて居たのかどうかだが
(他にも大型銃で船を貫いて
 援護は出来るかも知れぬが)
朝鮮兵の甲冑装備率は
蒙古襲来絵詞等を見る限りこれ程高くは無いと言う
事かも知れぬが

518:某研究者
07/08/19 14:38:17 TliAo0v6
URLリンク(jbbs.joins.com)
上のページの間違いだが
朝鮮側の甲冑は此れしか資料が無かったから
1種類しか無いと言う
事かも知れぬし
実際は蒙古襲来絵詞の様に
綿甲も多かったと言う事かも知れぬが

519:某研究者
07/08/19 14:44:06 TliAo0v6
URLリンク(www.lib.kyushu-u.ac.jp)
上を見ると綿甲の様な物も多いし
1種類しか甲冑が無いと言う事では
矢張り無いと言う事かも知れぬが

520:某研究者
07/08/19 14:56:22 TliAo0v6
URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
朝鮮の鎧も綿甲以外は
鋲を綿や皮に打ったのでは無く
ブリガンダインと同様に裏に鉄板は有る訳だろうが
桶川胴に比べたら鉄板が一体化されて居らぬ分
打撃には弱い訳だろうか

521:某研究者
07/08/19 15:16:22 TliAo0v6
この段階では当世具足・桶側胴は
可也普及して居たと言う可能性も
有るかも知れぬが
札鎧や最上胴等が未だ多かったと言う可能性も
有るだろうが
URLリンク(www.chiba-muse.or.jp)
室町後期から桶側胴が出て居るなら
安土桃山時代の末期には
此れが主流と成って居る可能性は
有るだろうか

522:某研究者
07/08/20 01:52:21 A99OUFKB
大型艦艇の方が乗員が多く
白兵戦では余程小型艦艇に包囲されぬ限りは
有利と言う事かも知れぬし
日本側は砲撃戦に徹するべきと言う
事だろうか

523:某研究者
07/08/20 02:10:28 A99OUFKB
日本側の白兵戦能力が高く共
4倍等の乗員に
勝てるのかと言う事は有るだろうが

524:某研究者
07/08/20 02:16:33 A99OUFKB
甲板上の密集している敵に
大鉄砲でも打ち込めば
可也被害は出るかも知れぬが
爆弾等の攻撃も有る訳だろうか

525:名無し三等兵
07/08/20 22:13:37
普通にかけ

526:名無し三等兵
07/08/21 17:48:19
>>525
某研は自然現象だから
黙って過ぎ去るのを待つのみ。

527:名無し三等兵
07/08/22 03:32:42
潮汐作用か!

528:名無し三等兵
07/08/22 03:44:40 rowzhPxU
某研の中の人って韓国の人なんだろうなぁ。
なんでここで聞いてくるのか理由を書くと答えも違ってくると思うけど。

529:名無し三等兵
07/08/22 03:53:04
>527
むしろ直下型地震

>528
自然現象に韓国も何もないよw

今回はたまたま偶然このスレが猊下の関心を惹いたってだけの話だ。
軍事板のスレならどこでも降臨の栄誉を賜る可能性はある。
まぁ、半年くらいROMってればわかるさ。

530:名無し三等兵
07/08/22 03:57:19
某研の「だろうか」は質問じゃないぞ

531:名無し三等兵
07/08/22 05:04:58
NG指定して無視しろよ。軍板ならさあ。
昔は相手せずに、漏れみたいに伝えて終わりだったぞ。

532:某研究者
07/08/22 07:12:39 IjEO0WpA
朝鮮軍の木の盾が日本側の鉄砲を弾いた等と言う様な
記述が何処かに有ったかも知れぬが
標準的な銃でも10cm程度の板は貫通するかも知れぬし
銃弾を防げる様な盾は
竹束の様に車で移動するのは兎も角
到底手で持てる様な代物では無いと言う事かも知れぬが
城壁を登って来る敵が此れを用いたと言う様な
記述も有るだろうが
果たして可能だったのかだが
日本側も装甲の薄い朝鮮兵相手には
小型の銃を使用して居たと言うから
此れなら薄い板でも止まったと言う可能性は有るかも知れぬが
近接戦では長槍等でやられていたと言う事かも知れぬが
大型銃も一部には有るだろうし
此れに貫かれた例も多かったと言う事かも
知れぬが

533:某研究者
07/08/22 07:23:36 IjEO0WpA
URLリンク(72.14.235.104)
>50mの距離から口径9mm(1匁)火薬量3gのとても威力の弱い火縄銃で
>24mmの檜の板2枚を撃ったところ、1枚目を貫通し2枚目の半分くらいで止まったと本に書いてあった。
>普通の矢盾は厚さ30mmくらいなので、鉄砲は防げないんじゃないか?

>いっぽう16間(28.8m)の距離から、竹束を口径15.5mm(6匁、戦場で一般的に使われる口径)
>の火縄銃で撃つと、1発目は6本の竹全部を貫通した。2発目は4本目で止まっていた。
>口径18.4mm(10匁)では、やはり竹束を貫通。
>30m以内での至近距離から竹束で防ぐのは難しいが、
>50m以上離れるか、竹束を二重にするば効果があるのではないかという結論だった。

近距離では厚さ3cm程度の通常の盾では
小型の銃でさえ厳しいと言う事だろうし
朝鮮兵が城壁を登る際に
木の盾で銃を防いだ等と言うのは
事実なのかどうかだが

534:某研究者
07/08/22 07:27:18 IjEO0WpA
>30m以内での至近距離から竹束で防ぐのは難しいが、
>50m以上離れるか、竹束を二重にするば効果があるのではないかという結論だった

此れは内部に土と石が入った
竹束なのかだろうし
内部に石と土が入ったタイプなら
通常の銃で有れば
至近距離でも止まったと言う事は無いのかだが
大型銃は無理と言う事かも知れぬが

535:某研究者
07/08/22 07:29:28 IjEO0WpA
朝鮮や明のフランキ砲で
日本の傾斜した城壁が破壊出来たのかだが
大型の投石器ではどうだったのだろうか

536:某研究者
07/08/22 07:32:34 IjEO0WpA
攻城塔も傾斜した城壁には
何処迄使えたのかだろうし
堀が有る城には(此れを埋めぬ限り)無効だったと言う
事かも知れぬし
山城を攻城塔で攻略するのは無理だったと言う事かも知れぬが
トンネルでの攻略や土を盛って
城壁を登ると言う事は
行われたのかどうかだが

537:某研究者
07/08/22 07:43:16 IjEO0WpA
まあしかし日本側の銃撃の有る状態で
何処迄土等盛れるのかだろうし
トンネルを掘ると言うのも
日本側に探知技術は可也有ったかも知れぬが
トンネル戦用の火炎放射器等は無かったかも知れぬが
油を流して火を付ける程度の事は
行ったのだろうか

538:某研究者
07/08/22 12:55:31 JBhS7JfD
URLリンク(www.arrow.or.kr)
上の桑と竹の部分の接合部と言うのは
何か問題は出ないのかどうかだが
牛の角等大量に手に入れられる代物なのか
どうかだが

539:某研究者
07/08/22 13:17:17 JBhS7JfD
URLリンク(yokokai.exblog.jp)
>ところで、日本の弓は、丸木弓や、太い材木を削った木弓だった。長さは、七尺五寸(225cm)がきまりで、世界で、もっとも長大な弓の部類に入る。長大なのは、連射を可能にするため、
>あまり引き絞らなくても、威力がでるようにしたからである。

と言う様な意見も有る様だが
余り引くと袖の部分で防御が出来無いと言う
問題も有る訳だろうか

540:名無し三等兵
07/08/22 20:38:36
答えられる事も某研には一切答えない

541:某研究者
07/08/23 12:46:00 bpfveqmt
URLリンク(homepage2.nifty.com)
上を見る様に
弓を余り引いては
袖で防御が困難に成ると言う
事だろうから
短弓を使うとしても強力な物が
必要だった訳だろうか

542:某研究者
07/08/23 12:47:32 bpfveqmt
まあしかし大型の袖は当世具足では廃れた訳だろうから
安土桃山時代以降では
袖での防御は考える必要は無い訳だろうが
速射は余り引かなくて良い弓の方が
出来る訳だろうか

543:某研究者
07/08/23 18:57:41 bpfveqmt
フランキ砲は発射速度は速いかも知れぬが
何処迄数は有ったのかだろうし
日本側も30年戦争の軽量砲程度のサイズの
大筒は相当数利用して
居たと言う事かも知れぬが

544:某研究者
07/08/24 05:35:21 /dVK9AaC
URLリンク(www.geocities.co.jp)
大砲が兵の1割もの数有ったと言うのは
事実なのかだが
後の時代の事では無いのかだが
日本側は密集隊形では無いので
狙撃の出来無い大砲は命中したのか
どうかだが

545:某研究者
07/08/24 05:37:54 /dVK9AaC
精鋭の騎兵は鎖帷子だから
割りに槍での打撃や突きに脆かったと言う事は無いのかだが
重装歩兵は明光鎧なら
此れは割りに耐えたかも知れぬが
剣の実力は騎兵よりは劣る訳だろうし
3-6mの槍には勝てたのかだが

546:某研究者
07/08/24 05:45:36 /dVK9AaC
>また、1610年代には車営とよばれる兵科も創設された。車とは一側面に防御壁を有する車であり、後には仏朗機2門を設置、兵は各砲に3名配備された。

此れが出る迄はフランキ砲は
余り無かったと言う事は無いのかだが


>保有兵数 歩兵3200人・騎兵1600騎+予備800騎(計5600人)
>保有兵器 鳥銃256丁・三眼銃1408丁・大砲256門(完全充足時)

三眼銃と言うのはタンネンベルグガンの様な
銃身の短い銃なら
精度は期待出来ず
鳥銃も日本側の様に狙撃は
して居たのかどうかだが
1590年代で銃や砲は此れ程の数は
有ったのかどうかだが

547:某研究者
07/08/24 05:51:28 /dVK9AaC
>一方、唐代から馬鎧は廃れ、南北朝時代のように10貫以上の重量の鎧で馬を覆って機動力を落とすようなことは無くなった。

唐の時代から馬鎧は廃れていたと言うし
蒙古襲来絵詞にも馬鎧は描かれて居ないだろうが
有ったとしても銃に対抗出来る物では無いだろうが

548:某研究者
07/08/24 11:39:10 If7TZmnE
日本側は通常は密集隊形では無いとしても
URLリンク(kyoto.cool.ne.jp)
上を見る限り騎馬武者の阻止時には
槍や薙刀を構えて
密集したと言う事かも知れぬが
室町時代以前は此れは
無かったと言う事なのかどうかだが
下馬した騎馬武者が長巻や剣で
乗馬した騎馬武者を阻止していた可能性も
有る訳だろうか

549:某研究者
07/08/24 11:45:27 If7TZmnE
>明らかに防御に立つ場合においては、この時代の歩兵も、『明徳記』の下馬戦士たちのように、統制のとれた密集戦法をとっており、その威力の前に騎兵は圧倒されていたのかもしれない。

槍を持つ歩兵が整列している場面は
戦国時代の絵には描かれて居るから
戦国時代は密集隊形も有ったのかも知れぬが
対歩兵に利用された例の方が
多いかも知れぬし
射撃戦時は散開していた
訳だろうか

550:某研究者
07/08/24 11:48:31 If7TZmnE
戦国時代では追撃して来る乗馬した騎馬武者を阻止する為に
この様な密集隊形が組まれたと言う事も
有り得る訳だろうし
戦国時代の騎馬武者は追撃時以外は突撃は
しない訳だろうか

551:名無し三等兵
07/08/24 11:51:26
テーハミング!!
テーハミング!!
テーハミング!!

イルボンは皆殺しニダ




552:某研究者
07/08/24 11:52:20 If7TZmnE
>保有兵数 歩兵3200人・騎兵1600騎+予備800騎(計5600人)
>保有兵器 鳥銃256丁・三眼銃1408丁・大砲256門(完全充足時)

1590年の段階でも銃・大砲をこれ程保有していたとすれば
槍兵等は何処迄居たのかだろうし
歩兵は接近戦には可也脆かったと言う事は
無いのかだが

553:某研究者
07/08/24 11:54:40 If7TZmnE
明軍も大鉄砲や銃で狙撃されて混乱した所に
槍兵や騎馬武者を突入されて
壊滅していたと言う事かも知れぬし
明の銃砲は狙撃はしないので
日本側の散開した隊形には全く
通用しなかったと言う事かも知れぬし
騎兵突撃も槍兵及び銃兵に阻止されたと言う
事かも知れぬが

554:某研究者
07/08/24 12:10:53 If7TZmnE
日本の騎馬武者と言うのは
どの段階で乗馬突撃したのかだが
敵が銃撃等で混乱した段階なのか
明らかに逃走に移った段階でなのかだが
前者では未だ反撃を可也受け得るとすれば
無かったと言う可能性も有る訳だろうか

555:某研究者
07/08/24 12:22:09 If7TZmnE
URLリンク(www.geocities.co.jp)
>銃兵:
>明代には遠射兵器は弓・弩は銃にとってかわり、やがて銃兵が軍隊の主力になってゆく。
>右手に銃を持ち、左手に籐牌と呼ばれる円形楯を持って従軍した。
>着用した鎧は綿布に鋲を打ち、裏面に札が張られたもので、元代から引き継いだ形式であった。顔面以外は全て鎧で覆われ、敵の弾丸に備えた。

主力の銃兵は槍は無いので
白兵戦は弱かったと言う事は
無いのかだが


>重装歩兵:
>唐代の明光鎧から進化した鎧が主流であった。胸・背には細かい札を用いた胴衣、腹には凸面の鉄板を装着し、肩と上腕には亀甲形の札が綴られていた。

彼等は槍を持っていた可能性も有るだろうが
少数と言う事だろうし


>騎兵部隊は火器として三眼銃から鳥銃10丁に装備を換え、火器装備の右什(うじゅう)、弓装備の左什が各々2列縦隊をなした。
>この他に、予備隊として騎兵800騎(32隊銃320丁)があるので、1営の兵力は騎兵2400騎、歩兵3200人の計5600人となる。

騎兵も銃を可也使用して居たと言うなら
槍は持って居ないと言う事なのかどうかだが
東欧の騎兵の様に槍と銃・弓を同時に装備していた可能性も
有る訳だろうが
鎧が鎖なので脆い訳だろうか

556:某研究者
07/08/24 12:24:46 If7TZmnE
まあしかしピストルや騎兵銃・弓は兎も角
火縄銃やタンネンベルグ銃を槍と同時に
携帯出来たのかどうかだが

557:某研究者
07/08/24 12:54:21 If7TZmnE
船上でも明の騎兵は鎖帷子や刀剣を
可也使用して居たと言うなら
日本側の槍兵に太刀打ちは出来たのかだが
船上では2-3mは兎も角
6mの槍等は使用しては
居ない訳だろか

明の船上の大砲やタンネンベルグ銃は遠距離では命中せず
遠距離戦では火矢を火器から使用して居たと言う事かも
知れぬが
日本側の大鉄砲をアウトレンジは
無理だったと言う事かも知れぬが
日本側が近接戦をやる際はタンネンベルグ銃や大砲は
此れを防御は困難なら
厄介だったと言う事かも知れぬが
明側も銃砲で可也打撃は受ける訳だろうし
近接戦には脆い訳だろうか


明の主力の手銃兵が皆ブリガンダインの様な鎧を
着て居たのかだろうし
綿甲も多かったと言う事は
無いのかだが

558:某研究者
07/08/24 13:32:21 If7TZmnE
URLリンク(www.uwants.com)
>南北朝重?兵
>隋朝重?兵

此れと似た様な明光鎧を着た
重装歩兵も
明に居たと言う事だろうが
長槍は持って居たのかどうかだが


>明朝邊軍火槍騎兵

此れが騎兵の主力と言う事なのかだが
鎧は綿なのかどうかだが


>明朝早期大將軍

此れは亀甲金を繋いだ様な鎧を着て居るが
数は居たのかだろうし
札鎧なので打撃には脆いと言う事かも知れぬが
騎兵の明光鎧はモンゴルの影響等で
廃れたと言う事かも知れぬが


559:某研究者
07/08/24 13:36:49 If7TZmnE
宋の時代には明光鎧は
廃れている様にも見えるし
蒙古襲来絵詞には描かれては
居ない訳だろうか
(明光鎧より日本等も使用して居た
 歩兵の短甲の方が
 プレートアーマーに近いかも知れぬが
 此れも明光鎧同様に
 余り数は無かった訳だろうか)

560:某研究者
07/08/24 14:07:26 If7TZmnE
URLリンク(www.eonet.ne.jp)
短甲の方が明光鎧より
防御力は有るのかも知れぬが
歩兵のみが使用したと言う事かも知れぬが


URLリンク(ja.wikipedia.org)
>中国の歩兵用の鎧の影響が色濃く、同時期に用いられた鎧に、中国北方の遊牧民の騎兵用の鎧の影響を色濃く受けた挂甲(けいこう)がある。

明光鎧を中国は使用して居たのか
どうかだが


>6世紀には出土遺物としては見られなくなり、桂甲に代わられている。

廃れたのは問題だろうが

561:某研究者
07/08/24 14:32:03 If7TZmnE
>6世紀には出土遺物としては見られなくなり、桂甲に代わられている。

>廃れたのは問題だろうが

失礼此れは書き間違えたが
廃れたのはコストの問題と言う
事かも知れぬし
皮部品が使える札鎧の方が
主流と成った訳だろうか

562:某研究者
07/08/24 16:22:54 If7TZmnE
URLリンク(www.chinahistoryforum.com)?entry4836789
明の弓騎兵は槍では無く
サーベル或いは長刀騎兵と言う事かも知れぬが
鎧は札或いは鎖と言う事なのだろうか
(前紹介したイラストの様に
 銃を構えている兵の武器は
 剣と言う事なのかどうかだが)

563:某研究者
07/08/24 16:27:56 If7TZmnE
彼等の弓は役には
立たなかったのかだが
日本側が散開していたから
効果は無かったのかも知れぬし
逆に銃で狙撃されていたと言う事なのかどうかだが
騎兵突撃を防ぐ為に槍兵が密集した所を弓で狙うと言う様な
方向も有ったかも知れぬが
この様な事は行わなかったと言う
事かも知れぬが

564:某研究者
07/08/24 16:34:09 If7TZmnE
遠距離である程度射撃してから
長刀やサーベルで突撃したと言う
事かも知れぬし
近距離で密集している槍兵に対して
弓を放ったと言う事は無いのかも知れぬが
日本側にも相当数弓兵は居た訳だろうし
此れは明の弓騎兵と同等以上の数は居たと言う事かも知れぬし
(明の弓騎兵と言うのは全体の1/10程度だろうが
 弓足軽は1/5以上は居たと言う事かも知れぬが)
此れに加えて銃撃も有る訳だろうから
数の優位が無ければ勝てたのかと言う事は
有るだろうか

565:某研究者
07/08/24 17:09:21 If7TZmnE
URLリンク(oshiete1.goo.ne.jp)
上を見ると1割も弓兵は居ないし
銃兵でさえ1割程度と言う事だろうが
精鋭歩兵の徒歩武者は
2割程度も居る訳だろうし
騎馬武者も1割居るなら
弓を用いても此れを用意に壊滅出来るのか
どうかだが

566:某研究者
07/08/24 17:15:41 If7TZmnE
まあしかし下馬した騎馬武者や徒歩武者を
弓の射撃で混乱させるのは
困難かも知れぬし
散開している銃兵や弓兵を容易には倒せぬなら
何れ此れの弓や銃で明騎兵は壊滅し
突撃は困難だったと言う事かも知れぬが


明軍とは槍の数が全く異なるだろうし
近接戦に持ち込めば簡単に勝利出来たと言うのも
肯ける訳だろうが
銃撃や弓で敵を混乱させないと
近距離で銃砲撃を受けるリスクは有る訳だろうか

567:名無し三等兵
07/08/24 19:12:01
ずっと某研のターン!

568:名無し三等兵
07/08/24 19:36:34
密集隊形というのは詰まるところ、戦闘隊形の基本が密集であると仮に規定すると。
日本の戦国期における備の内、隊列戦闘を行ったと考えられる足軽は敵と相対するまでは
散兵隊形で機動し、交戦直前に隊列を組んで戦闘を行ったと思われる。

569:某研究者
07/08/24 20:43:39 ljv8GgpD
騎兵に包囲されても
槍歩兵は対応は出来たのかだが
全周防御の陣と言うのも確か
有っただろうか

570:名無し三等兵
07/08/24 21:00:55 yBU8ixmC
騎兵といっても騎射か?

571:名無し三等兵
07/08/24 21:37:31
唐入りは朝鮮からじゃなく、琉球→台湾→福建省の方が良かった気がする。

572:名無し三等兵
07/08/24 22:58:04
バテレンがおとなしく船を6本指に売り渡していれば、沖縄ルートもありえたかも
知れんけどね。

朝鮮征伐は、元々は対馬の宗が6本に「朝鮮王は太閤の威光に恐れ入り、明までの
道案内も厭わぬと申しております」なんて太鼓持ちやったら、6本が本気にしちゃ
って兵を出し、朝鮮で戦うことになっちゃって「ちょww話が違うぞ」ていう話だっ
たと聞いたが。

ところで、日本は種子島以降、鉄砲を国産して量産してたけど、明や朝鮮はどうし
てたんだろ?やっぱ日本みたいに、分解して独自に量産まで持って行ってたのかな?



しかし、いつも某研猊下には驚かされる。古今東西の軍事知識の膨大なこと。オレは
猊下とタメ張る軍オタになるのは無理ぽ。

573:名無し三等兵
07/08/24 23:21:07
火箭やら大砲やらがあってだな、恐ろしく苦しめられたこともあったらしい。

574:名無し三等兵
07/08/24 23:51:15
一応は基礎から勉強しないと偏る

575:某研究者
07/08/25 00:31:32 3pGYP68h
沖縄から補給は弾薬だけなら兎も角
食糧供給は問題無く出来たのかどうかだが
食料は現地で全部調達は
出来たと言う事なのだろうか

576:名無し三等兵
07/08/25 01:10:01
不毛な朝鮮よりはマシな気がするけど・・・・。
秀吉軍は、朝鮮で一番豊かな南部を抑えていても飢餓に陥った。
これから見ても、当時の朝鮮(今もか?)が如何に不毛の地だったかが推察される。
当時の戦争で現地調達が見込めないのは、かなり致命的だったんじゃないかと。
秀吉の失敗は、朝鮮が常軌を逸した貧困の地であることを知らなかった・・・・これに尽きると思う。

577:名無し三等兵
07/08/25 02:50:39 UgefCFY+
全周囲防御に近いものは、加藤清正が実施してた。
防御成功の後、夜間、朝鮮騎兵の陣地の奇襲攻撃をかけ成功している。



578:某研究者
07/08/25 09:22:35 8QEzfoTw
弾薬もある程度は現地調達は
可能かも知れぬし
弾を作る人間を連れて来ればだろうか

579:某研究者
07/08/25 09:29:10 8QEzfoTw
城内の兵を一部外に出して包囲を防ぎつつ
敵を城壁と連携して包囲し
此れを混乱させて壊滅と言う様な方向も
有る訳だろうが

580:名無し三等兵
07/08/25 12:04:04
太閤になって思考硬直してたな
尾張時代の時に蜂須賀党などを上手く利用したんだから
明侵攻や朝鮮征伐は倭冦を支援すれば良かっただけなんでないかな
イギリスもドレイクみたいなヤクザを上手く使ってイスパニアを苦しめたし

581:某研究者
07/08/25 12:58:42 IpNhGETO
倭冦で中国や朝鮮の沿岸を荒らして
疲弊させてから侵攻という手も
確かに有っただろうが
食料の現地調達が困難と成るかも
知れぬが

582:某研究者
07/08/25 13:06:38 IpNhGETO
日本側の槍兵が明騎兵の銃や弓で混乱するより
密集している明の騎兵の馬に日本側の銃や矢が当たって
混乱する方が早いと言う事かも知れぬし
明の騎銃兵は早合等も無い訳だろうし
装填時は下馬するなら
此れは歩兵で追撃は可能な訳だろうか
(装填中の騎銃兵に対しては射撃せず
 より危険な弓騎兵に射撃を集中させれば
 良いと言う事かも知れぬが)

583:名無し三等兵
07/08/25 13:54:56
やはり、足利義満以降、「明は大国。その明に近い朝鮮も当然ながらその恩恵を受けて豊か」と、漠然と考えてたんじゃないだろか?
で、「今、配下に戦争の才能にあふれたものたちが集った。国力はかなわないかもだが、戦術レベルで圧倒すれば。」と思って戦争始めちゃった。
まさか、朝鮮が本当にタダの「とおり道」にすぎない、食料もない不毛の地だとは思わんかったんだろ。諸将にも「朝鮮は切り取り放題じゃ」とか発破かけたかも知れん。
で、行ってみてみんな「なんじゃこりゃ・・・_| ̄|○....」となったと。

584:呉の床屋
07/08/25 15:03:13 Ox9tE+8R
相変らず某研は独走しておるやうだが
これでは倭寇も明騎兵の密集している馬も銃や弓も
混乱する方が早いと言う事かも知れぬし
ねら~の早合点も無い訳だろうし
装填時はsageするなら
此れは質屋でも追撃は可能な訳だろうか
(挿○中の騎乗○に対しては射○せず
より危険な○奇○に射○を集○させれば
○○いと言う事かもしれぬが(苦笑

585:名無し三等兵
07/08/25 15:32:20
朝鮮南部が日本領になっていたら今頃どんな感じだったかねえ

586:某研究者
07/08/25 16:03:35 IpNhGETO
>密集している明の騎兵の馬に日本側の銃や矢が当たって
>混乱する方が早いと言う事かも知れぬし

人間に矢が1発当たっても
致命傷に成るとも限らぬだろうし
大混乱には陥らぬかも知れぬが
馬に銃弾や矢が1発当たれば即暴走する恐れも
有るかも知れぬが
実際はどうなのだろうか
(此れを避ける為に下馬して射撃や銃撃をすれば
 槍歩兵に捕捉され得るだろうか)

587:名無し三等兵
07/08/25 21:26:12
>>585
京畿江原以北に中華人民共和国の地方行政区として、西海岸が遼南省になり東海岸が朝鮮自治区になる。
南海岸が日本國朝鮮道の百済県任那県加羅県白羅県の4県があるだけだよ。
歴史的にも史記の漢史に大皇帝が漢倭王武に倭百済白羅任那の太守に任じた記述があるからおkじゃない?

588:某研究者
07/08/26 17:17:43 J7BDVTlH
>全周囲防御に近いものは、加藤清正が実施してた。
>防御成功の後、夜間、朝鮮騎兵の陣地の奇襲攻撃をかけ成功している。

URLリンク(ja.wikipedia.org)
全周防御の陣(方円陣)と言うのも
以前から有る訳だろうか

589:某研究者
07/08/26 18:49:47 8hNmM3zy
URLリンク(www.uwajima.org)
>文禄2年6月に、それぞれの大将は、兵を合わせ、晋州城をとり囲んだ。清正(加藤清正)の兵士は城の周囲を埋めつくし、
>竹で作った楯をかざして応戦したが、城の上から射おろされる矢や、投げつけられる石は、雨が降り注ぐようであった。
>清正は、そこで、亀甲車というものを造り、その車に兵士を乗せて、城の下にせまり城の根元に穴を掘った。すると、城の高殿(こうでん)や、物見やぐらが崩れ落ちた。

日本側の城塞攻略方法と言うのは
上の様な物かも知れぬが
此れは銃弾は止まったのかどうかだが
トンネルを掘って城壁下を崩すと言う様な手法も
使われたのかどうかだが
敵のトンネルの迎撃を受け得るかも
知れぬし
亀甲車を用いても同様と言う事かも知れぬが
迎撃は無かった或いは撃退したと言う
事なのだろうか



>竹で作った楯をかざして応戦したが、

此れでは銃弾は流石に
止まらない訳だろうか

590:某研究者
07/08/26 19:00:29 8hNmM3zy
破城槌を使用すればトンネルでの迎撃は無理かも知れぬが
破城槌をロープで引っ掛けて
転倒させた等と言うのが
十字軍辺りで有ったかも知れぬが


URLリンク(www.hiro.org)
>石垣のすみの大石をはねはづし。七八間崩す。

穴を掘ったのでは無く石を外して
崩したと言う事かも知れぬし
傾斜して居ない城壁と言うのは
この手の戦術に脆いと言う事かも知れぬが


>亀甲車にも竹束を使っていたと思われます。

>日本で使われなかった理由…鉄砲をサクサク通したからでしょうね。<森本が撃たれたのは良い例

竹は使用して居たが
防弾効果は無かったと言う
事だろうか

591:名無し三等兵
07/08/26 19:10:27
確か油落とされて火を付けられて
中身ごと丸焼きにされたこともあったよな。

592:某研究者
07/08/26 19:47:25 8hNmM3zy
URLリンク(www.ikedakai.com)
>南北朝時代にこれに似たものがすでに造られていたが、

南北朝時代に既に
似た様な物は有ったと言う事だろうか


URLリンク(www.geocities.jp)
>安岐城攻めでは西洋兵器の亀甲車(タートル)が使用された

西洋の破城槌も
使用されていたと言う事だろうが
此れ以前には使用して居たのかどうかだが


593:某研究者
07/08/26 20:34:02 8hNmM3zy
URLリンク(rkrc5w2q.dyndns.org)
>戦国末期になると槍穂と柄の間にくの字形の金具を取り付けた鍵槍が普及しました
>槍隊の約8割がこの鍵槍を使用してたそうです。

等と言うのは
事実なのかだが
足軽は通常の槍が多かったと言う
事なのだろうか

594:某研究者
07/08/26 21:00:12 8hNmM3zy
URLリンク(rkrc5w2q.dyndns.org)
>薙刀の柄全体に金属板を螺旋状に巻いた構造になってるし

此れは薙刀では無く短い長巻かも
知れぬが




595:名無し三等兵
07/08/26 23:04:28 KS6XO9La

愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。

半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。

脳糞古川が「私いつもの~」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね~」と二階に上がっていき、店内は静かになった。

私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。

あれには本当にびっくりした

596:ドン・ウーゴ ◆eaYqa3SeLE
07/08/26 23:54:29
>>585
北アイルランド化・・・

597:某研究者
07/08/27 11:00:05 4TdnVfvV
城壁を崩して突入する際に
近距離から銃撃は受けなかったのかだが
車竹束が有れば銃弾は止まったと言う
事かも知れぬが
砲撃を受ければだろうか

598:某研究者
07/08/27 11:03:11 4TdnVfvV
まあしかし崩れた城壁の部分から
車竹束等持ち込めるのかだろうし
城壁を盾とし銃弾・砲弾を打ち込んで
敵を混乱させてから
突入したと言う可能性も有る訳だろうか

599:某研究者
07/08/27 11:13:42 4TdnVfvV
騎馬武者も下馬時には
足軽や徒歩武者同様の3m以上の長槍を
使用して居たと言う事は
無いのかだが

600:名無し三等兵
07/08/27 11:20:14
>>599
乗馬移動時は、3mの槍を持ったまんまでってこと?
流石にそれは、地面に引っ掛けたり、バランス崩したりであぶないよ。
供回りに持たせるならありかも知れないけど、それじゃ供回りの武器は?って話になるし。

601:某研究者
07/08/27 11:32:12 4TdnVfvV
>乗馬移動時は、3mの槍を持ったまんまでってこと?

乗馬突撃時は2m程度の槍だろうが
下馬戦闘時には3m以上の槍を使用したと言う
可能性も有る訳だろうし
従者は予備の槍で援護したと言う事は
無いのかだが


乗馬突撃も追撃時或いは敗走時に
限られていたと言う事だろうが

602:某研究者
07/08/27 11:34:09 4TdnVfvV
>乗馬突撃も追撃時或いは敗走時に
>限られていたと言う事だろうが

まあしかし敗走時は
下馬して馬の入れない森等に逃げると言う事も
多かったと言う事かも知れぬが

603:某研究者
07/08/27 23:56:51 Gqviyclb
騎馬武者とて2mの槍で
3mや6mの槍に対抗するのは
難しいかも知れぬし
下馬時には3m以上の長槍を
使用したと言う事は無いのかだが

604:某研究者
07/08/28 13:54:11 w7J8mY7F
大砲で平壌城が簡単に落ちた事を考えると
亀甲車より接収した大砲を利用した方が
城を簡単に落とせたと言う事は無いのかだが
土の上に石を置き城壁が傾斜した日本側の城には
大砲は有効では無いと言う事なのだろうか

605:名無し三等兵
07/09/02 07:19:06 +vY1Grf4
明鮮軍は長い武器を使っていたの?

606:某研究者
07/09/03 04:40:17 bGU2DwLP
確認は不能だが
盾と剣或いは斧と言った様な
構成が多いかも知れぬが

607:名無し三等兵
07/09/03 12:33:26
なんだか大量のアボン表示があるんだが
某研でも湧いたか?
薄い内容を長々と書き散らすからアボンに限る。

608:名無し三等兵
07/09/03 21:44:52
あたり

609:名無し三等兵
07/09/09 17:04:31 E7TbF9vj
まともな軍事検証レス まだー?

610:名無し三等兵
07/09/09 21:17:32 cCGKJW1L
慶長の役では攻め足りなかった。

611:名無し三等兵
07/09/10 01:12:14
東日本の大名も動員すべきだったな。

612:名無し三等兵
07/09/10 09:16:43 Z/g6v8ub
>>610
一応、禝山会戦後に退いたのは明軍であって、黒田長政、毛利秀元、加藤清正の右軍は天安、清州、鎮川と進撃を続けて秀吉の割地要求した境界の京幾道竹山まで進出している。

613:名無し三等兵
07/09/11 10:38:43
日明両軍合わせて30万近いが兵糧調達って不毛なチョン賎半島で賄えたの?

614:名無し三等兵
07/09/11 17:42:34 sPEt5jGb
このスレに対する韓国人の反応
URLリンク(gesomoon.gameshot.net)

615:名無し三等兵
07/09/11 20:49:37
>>614
日本語で頼む

616:名無し三等兵
07/09/12 03:05:10
>>614
このスレの内容をそのまま韓国語に訳して向こうに流してるけど、そう言うのはよくない。

”ふざけ半分”のレスも多いのだから、”垂れ流し”は誤解を広める元になる。

韓国人の意見を聞きたいのなら、本スレの内容を整理してから送るべき

617:名無し三等兵
07/09/12 17:25:53
ルール1.朝鮮人と歴史の話はしない

ろくに勉強しとらん奴は日本・朝鮮問わず論外だが、朝鮮人は例え歴史を勉強していても論外なのだ…

618:名無し三等兵
07/09/12 18:02:26
>>615
面倒だろうけど翻訳機使ってくれ

>>616
翻訳は韓国人がやってる
俺があれ貼ったのは連中がネタにマジレスしてるのも含めて「笑いの種にどうぞ」って理由だから
まあ、要するに深い意味はない

>>617
話ししろってことじゃなくてニヤニヤしようぜ!てことだから

619:名無し三等兵
07/09/12 20:07:02 GFiOIQsJ
>>614の機械翻訳
URLリンク(j2k.naver.com)


620:名無し三等兵
07/09/12 20:31:37
まあ史料に基づかない仮想戦記や推測君や勉強不足は朝鮮人にすら馬鹿にされても仕方あるまい
知った事じゃない
それがこのスレのレベルじゃねーの

621:名無し三等兵
07/09/13 12:21:15
 佐藤鉄太郎

> 海軍大学教官として1908年に『帝国国防史論』を書いた佐藤鉄太郎大佐は、イギリスが繁栄している所以は、欧州大陸に膨張したわけではなく、
> むしろ海軍を養成しつつ、防守自衛の国家戦略をとっているからだと論じた。
> さらに、獲得した満州と朝鮮をあえて放棄することがむしろ帝国日本の安全と国益につながる国家戦略であると主張した。
> 
> 1911年から東洋経済新報で言論活動を始めた石橋湛山も、大陸への進出を訴える当時の大日本主義がもつ危険性を指摘し、戦争を通じて日本が
> 確保した満州と朝鮮などの利権を大胆に棄てる小日本主義を日本が歩むべき戦略として提案した。
> 
> 当時の日本社会の雰囲気から彼らは異端者であったかもしれないが、長い歴史の目からみると、彼ら先達の意見に日本が耳を傾けていたら、
> 太平洋戦争での敗戦はなかっただろう。


朴 栄濬(パク・ヨンジュン) 国防大学校安全保障大学院助教授(韓国)
URLリンク(www.asahi.com)

622:名無し三等兵
07/09/13 13:59:54
> 海軍大学教官として1908年に『帝国国防史論』を書いた佐藤鉄太郎大佐は、イギリスが繁栄している所以は、欧州大陸に膨張したわけではなく、
> むしろ海軍を養成しつつ、防守自衛の国家戦略をとっているからだと論じた。

イギリスは欧州以外の世界中に大拡張してたし、
とても「防守自衛の国家戦略をとっている」なんて状態じゃなかったぞ。

623:名無し三等兵
07/09/13 18:49:21
> さらに、獲得した満州と朝鮮をあえて放棄することがむしろ帝国日本の安全と国益につながる国家戦略であると主張した。

これがホントかどうかなんだけど、チョンの研究家じゃなく、原典知ってる人いる?

624:名無し三等兵
07/09/13 23:37:26 kZDzD9ED
>>623書いてあるじゃん。
ま、佐藤は和製マハンであって海軍拡張のためのイデオローグとして育まれ持て囃された。
しかし内容はマハンと同じであまり論理的とは言えない。
イギリスの要になりたいとは行っても、東洋には大陸に信用の出来る同盟国は無いので理論倒れ。

625:名無し三等兵
07/09/13 23:39:09 kZDzD9ED
もう一つ。
そう言う海軍権益拡張のイデオローグを持ち出して、
平和論者だとか先見の明だとか我田引水のパッチワーク引用をする
日本人や朝鮮人を見ていると反吐が出る。

626:名無し三等兵
07/09/13 23:40:40
じゃあ、今そこで思いっきり吐け

627:名無し三等兵
07/09/14 03:05:51
>>624
この世は利害関係で動く。「信用の出来る同盟国」なんかを探してる段階で、お人良しの善人・安部首相並みにダメダメ。

628:名無し三等兵
07/09/14 06:45:07
信用というのは、「こちらがこう動けば相手はこう動くだろう」と予測できること。

商売でも本当に信用できる取引相手なんていない、ただ「納期と単価と品質が
こういうものが納入されるだろう」ということが予測でき、その信用の上で取引が
成立している。そこで信用の意味を取り違えて「商取引に本当に信用できる相手
なんていない」なんて言い出したら飢え死にするしかない。

それとも本当に信用できる他人なんているのかい。

629:名無し三等兵
07/09/14 06:47:53
>628
その定義だと、韓国・朝鮮は充分に信用できる相手だってことになるなw

630:名無し三等兵
07/09/14 20:22:23 W0W8WY5C
朝鮮は利害でさえも動けずに斜め上に自爆して周りに迷惑をかける信用も信頼もできない国。

631:名無し三等兵
07/09/14 21:11:41
wikiだと
>また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられた朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、
 そして陶工が朝鮮式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。
 その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、
 また奴隷として海外に売られたこともあった。 

目的を達成しなかったから戦略的には日本の敗北だけど、
戦争後も睨んだ大戦略の次元では、
日本側が獲得した「戦利品」も含めれば、日本の勝利といえなくもない。
馬鹿ウヨの負け惜しみなんて言うなよ。


632:憂国の志士
07/09/14 21:13:37 gFE5TZ/+
自衛隊の諸官!
見よ!そして考えよ!今何が必要かを。
URLリンク(akebono.iza.ne.jp)

633:名無し三等兵
07/09/14 21:15:52
>>630
それって大日本帝国のことか?
当時の日本人と韓国人が良く似ているとでも言いたいのか?


634:名無し三等兵
07/09/15 18:49:57 2zWtQel5
はあ?

635:名無し三等兵
07/09/15 23:59:17
個人の韓国人は良いが
団体のチョンは最悪だな
韓国人ですらチョンはイヤだと言ってるしw

636:名無し三等兵
07/09/16 01:12:24 5KAHZoAy
>>631
何が大戦略だよ
朝鮮征伐が遠因で豊臣王国滅亡してんだろ

637:名無し三等兵
07/09/16 01:18:54 5KAHZoAy
>>628
最初から予測って書けよ

638:名無し三等兵
07/09/18 16:47:09
明って銃は使ってたの?
倭銃とかさあ

639:名無し三等兵
07/09/19 20:47:27 zGZZorGP
鳥銃な

640:名無し三等兵
07/09/19 22:30:22
明書によると三八式歩兵銃使ってたらしい

641:名無し三等兵
07/09/19 22:49:39
>640
鳥銃は”鈍器”、三八式は”刺突武器”。
同じ白兵戦用だからっていっしょにしちゃいやん

642:名無し三等兵
07/09/22 18:10:11
>>1
愛・蔵太の少し調べて書く日記
2007-08-31 夏の終わりの気分です
■[日本人奴隷]既知外テキストの元をたどったらさらに既知外テキストに行き当たる
 これは以下の日記の続きです。

→「日本人奴隷」について読んでおかなければならないテキストのメモ(日本語のみ)

 ということで、ネットで流れている「戦国時代の50万人日本人奴隷説」の大もととなっていると思われる『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭・成甲書店・2006年)のテキストの当該箇所を読んでみたのですが。
 いやはや。
 これはどうにもこうにも。
 実はその元となるテキストが、ちゃんと書名つきで書かれているではありませんか。
 ネットであれこれ探してたりしないで、さっさと原典に当たればよかったんだよな。下巻p96-97

 徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵の従軍記者の見聞録がのっている


(二版では憲兵命令で削られた)。


643:名無し三等兵
07/09/22 20:02:33
>日本の教育界って意外と「ミッション系」」が多いですからね。「キリスト教の黒歴史」を教えるのは
>「共産主義の黒歴史」を教えるのと同じぐらい「無言の抵抗」があるのではないのでしょうか。

キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

644:名無し三等兵
07/09/22 21:17:09
↑ の 「50万人」という数字は天正少年使節団がヨーロッパで聞いた話だから正確な
数字では無いかも知れない。
それに西洋人は東洋人の顔を判別し難いから、東アジア人奴隷全般の数字の可能性も有る

645:名無し三等兵
07/09/24 00:48:12
50万て、、当時の日本の人口が2000万弱だろ
九州周辺から女性だけ50万も抜いたら大変だわ。

しかし自国領の労働力を奴隷として輸出することにメリットがあったのだろうか?

日本も朝鮮では販売用奴隷として捕虜をとったというが…
植民地や征服した異民族の販売ならわかるんだがね。

646:名無し三等兵
07/09/24 00:58:39
田畑や可耕地の面積には限りがあるから、一定以上の人口は余剰労働力になりかねない。
それとバーターに硝石などを輸入して軍事力を強化し、その軍事力で領土を拡張、というのも
バランスさえ取れれば選択肢としてはありうるのでは?

647:名無し三等兵
07/09/24 01:43:54
あとは、一向宗徒のような居ても持てあますような連中か?
とはいえ、女子供で50万ってのは多すぎ。
それだけ一時にいなくなったら人口構成が歪み、回復するまで百年かかる。

648:名無し三等兵
07/09/24 02:17:25
この次期ではまだ開拓可能の地域をすべて開拓したという認識だったのか?
農業以外への転職も容易になってきた頃合で九州では一向宗も少ない。
もともと日本は奴隷文化が希薄だし…
50万は無いにしてもこの話は資料が少な杉だよね。




649:名無し三等兵
07/09/24 02:18:39
皆無とは思わないが当時のキリスト教を批判するための
仏教側の誇張が大きいのではないか?

650:名無し三等兵
07/09/24 02:31:44
>>645
しかも若い女性らしいwwww

651:名無し三等兵
07/09/24 03:17:53
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
正直このサイトに書かれていることは現時点では信じられないな。

50万という数も異常だし、
そのキリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却の
本を書いた鬼塚英昭って人を検索したらバーガミニの「天皇の陰謀」を元に半藤一利を批判したり、
鹿島昇の明治天皇すり替え説を信じているらしい。
ユダヤ陰謀論みたいなこと言ってるし、
この人陰謀論者じゃないのか?
かなり怪しげである。

>徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版
>天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書

徳富蘇峰の著書という二次史料と
天正少年使節団の報告書という一次史料が元になってるみたいだが史料の原文か釈文を見ないとなんとも言えないな。


>ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
>ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、
>日本に火薬を売り込み、
>交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

これは、どんな史料を元にしているんだろうか?

怪しすぎる。

652:名無し三等兵
07/09/24 08:26:42
だが当時国産出来なかった硝石を大量に輸入し奴隷を輸出していたのは事実だろう。

653:名無し三等兵
07/09/24 08:30:50
コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷

池本幸三/布留川正博/下山晃共著
『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』
人文書院、1995年
URLリンク(www.daishodai.ac.jp)

654:名無し三等兵
07/09/24 08:50:49
奴隷売買は近世日本国民史の「朝鮮役」じゃなくて、「豊臣氏時代乙篇」
手元にあるのは普及版、そこに「九州御動座記」の奴隷の部分があるが、「朝鮮出兵従軍記者」というのはありません
九州御動座記なら群書類従か何かにあるのではないですか
朝鮮役調べてる人が朝鮮出兵従軍記者と言われて思い浮かぶのは宣教師じゃなくて慶念では
慶念が書いてるのは朝鮮人が売られる所ですね

近世対外交渉史論という本をちょっと見ると
朝鮮役の朝鮮人被虜人の総数は初めは李朝実録などにより5万人とされたが、調査により2~3万人と訂正された
その後20年間に刷還された者が7500余人、差し引き2万人が日本社会に吸収
または東南アジアからヨーロッパまで転売されたとあります

奴隷価格については、イタリア商人カルレッティが慶長役の頃長崎で買った奴隷は一人2.4スクード(銀120目、米価で約二石四斗)
インドのゴアに連行し、内一人をフィレンツェに連れ帰ったそうです
同じ人が西アフリカのベルデ岬諸島では一人170スクードで奴隷を仕入れ、ペルのリマで400スクードで手放しています
これを見ると長崎は奴隷が非常に安かったようです

655:名無し三等兵
07/09/24 09:22:37
近世日本国民史の遣欧使節は豊臣氏時代丙篇ですね
手元にあるのは普及版(の初版)、奴隷について書いた報告書はありません

656:名無し三等兵
07/09/24 10:43:02
>652
当時の日本は世界有数の鉱業国だぞ。
硝石輸入は金銀銅鋼だけでも賄える。

つか、奴隷貿易はそれほど利幅が大きくないので単独では成立しない。
アメリカ行きの黒人奴隷が商売になったのは、三角貿易だったからだ。

657:名無し三等兵
07/09/24 11:14:11
>>656
鉱石も輸出し同時に奴隷も輸出していたのが事実。

658:名無し三等兵
07/09/24 20:11:17
奴隷に関しては資料少ないなぁ、日帝の仕業か?

659:名無し三等兵
07/09/24 22:49:06
そもそも奴隷に興味がない

660:名無し三等兵
07/09/25 00:13:17
クラセは曰く
耶蘇教師等が、長崎に居住を定むる時は、戸数五百に満たなかったが、其の後欧州の船舶来泊し
日を追て繁盛に赴き、1590(天正十八)年に於ては、欧州の商船、三月より六月迄碇泊するの際
各地より来往する商工を除き、土着の者のみにて、五千人の多きに達した

大村家覚書に曰く
元亀元年春、南蛮人長崎に入津して、商売せん事を、純忠(大村)に請ふ
元亀二年三月、純忠家士朝長対馬に命じて、長崎町割奉行とし
島原町、大村町、文知町、外浦町、平戸町、横瀬浦町を地割す
右六町を内町と云ふ、是所を蛮舶商(イ古)の津と定む
爾後南蛮船年々入津繁栄によりて、段々町数立添、慶長年中には、内外の町数合して、六十六町となれり


宣教師は伝道の手段としてまず大名をとりこにし、改宗は上より命令的に宣告する事を考えた
宣教師の文書によれば大友宗麟、大村純忠は模範的大名だった

宣教師は貿易の鍵を握り、島津氏も宣教師に商船の来泊さえ保障すれば宣教の保障をあたえるべしと云った
(鹿児島に耶蘇教の足溜を作ろうとしたが騒動が起こり中止)

ワリニヤーニは、耶蘇会の勢力を九州の治者階級に扶植するため、有馬に貴族の少年子弟を教養する学校を建設し
神学、言語、図画、彫刻、音楽を学習させた
ローマに特派した大友、大村、有馬の使節たる四人はここで学習(天正十年出立)

九州に於ける耶蘇教最初の流行地たる豊後には、1586年(天正十四年)一万五千人の受洗者あり、六万の信徒あり
有馬、及び大村に於いては、十二万人の改宗者あり、九州全土では二十万近かった

彼らは九州に於ける大名、及び諸将を支配し、且つ貿易の鍵を以て、与奪、操縦の権を逞しくした
宣教師等は、時としては諸大名の内治外交にも関係し、調停者ともなった
兵器弾薬も彼らの手で供給された
彼等は九州に於いては潜在したる耶蘇王国を建設した

661:名無し三等兵
07/09/27 13:43:24
あげ

662:名無し三等兵
07/09/29 09:40:16 pXAokFz1
文禄の役で全羅道軍が明軍に北上合流した作戦はなんか意味があったの?
確保地域が余計手薄になる気がするんだが?


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