07/01/09 19:14:36 wnIWzOiP
昭和16年(1941)の日米開戦のさい、日本政府は、真珠湾攻撃
の約30分前の米東部時間12月7日午後1時(日本時間12月8日午
前3時)に米国に最後通告を手渡す予定だった。
しかし、在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わず、野村吉三郎、
来栖三郎両大使が最後通告を持って米国務省に着いたのは真珠湾攻撃か
ら1時間近くたった午後2時過ぎ。実際に、ハル国務長官の手に渡った
のは、午後2時20分だった。
米国は当時、日本の外務省電報の暗号解読に成功、ある程度予測して
いたが、日本を「だまし討ち」と非難した。ルーズベルト大統領は議会
で「汚辱の日」と演説、米国は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾
を忘れるな)」を合言葉に対日戦争に入った。