06/02/04 14:55:59
あったに決まってんじゃん
伊達が寡兵の上杉に敗れた
3:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 14:57:19
関連スレ
島津義弘vs上杉謙信
スレリンク(warhis板)
4:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 14:59:35
主な資料
羽永慶軍記
武辺咄聞書
会津陣物語
古老咄
伊達治家記録
日本戦史
5:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 15:00:47
これを無かったって主張してるのは、キモヲタ伊達厨だけ
6:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 15:01:41
日本戦史は資料に入るのか・・・
7:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 15:02:53
2げと(´・ω・`)?
8:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 15:27:10
伊達治家記録が捏造でないという根拠はどこにあるの?
9:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 15:31:03
つーか、この上杉と伊達の抗争は実に不思議な戦いでもあって、興味が
あるんだよな。以下、疑問点を上げてみる。上杉方の資料に正当性がある
という立場からの、具体的な反駁があれば歓迎する。
*期間
(1)慶長5年10月6日の松川・福島城の攻防
(2)慶長6年1~3月までの小競り合い
(3)慶長6年4月26日の松川・福島城の攻防
いずれも寡兵によって、伊達勢を上杉が撃退したと、上杉側は記述す
るのだが、そもそも伊達側の被害情況がよくわからない。
(1)の10月6日の福島城の攻撃では、伊達方の片倉景綱、伊達成実、茂庭石見、
屋代景頼、など幹部クラスの武将で負傷者は不思議なことに誰もいないわ
けだ。伊達方にも少なからぬ損害が出たにせよ。これはなぜか?
次に、(3)のよくコピペに出る方の有名な松川の戦い。期日は
慶長6年4月26日の戦いで、25000人規模で押しかけた伊達勢を、
上杉が撃退し、伊達方に1300人ほどの死傷者が出たというのだが、
伊達は、本当に出陣したのか? 家康は許可を出していたのか?
という疑問がある。
煽りレベルではなく、これについて、説明できるヤシはいるか?
10:9
06/02/04 15:52:47
なお、(1)~(3)の戦闘は「武辺咄聞書」など、上杉側が記載
しているものに沿ったものであることを、付け加えておく。
11:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 17:02:50
312 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/10(水) 11:09:40
>>309
>>311
どうも話が通じないな。「武辺咄聞書」というのは筆者が一人ではないのだよ。
もともと様々な口伝を国枝清軒(おそらく彼だけじゃない)が収集し、
(ここからが重要)加筆したものとして認知されている。
よって日付等が間違っていたり、明らかに史実と相反する部分が所々散見されるという事。
しかし「武辺咄聞書」の中でもどこの馬の骨とも分からない「老人物語に」のような部位ならまだしも
実際深い交流のあった杉原親清の物語をわざわざ一から創作しなければならない理由が国枝にあっただろうか。
資料の信憑性というのは伝える当人が「どのような人物」で
「その事件(戦)の時にどこで、何をしていた」かが重要視される。
それ故、資料的価値の高い「信長公記」でさえ本能寺の変を描いた部位は信憑性がないとされている。
筆者の太田牛一が本能寺現場にいないにも関わらず、さらに伝聞との断りすらなしに
(勿論伝聞先すら明かさず)本能寺の模様を事細かに書き記しているからだ。
翻って「武辺咄聞書」の場合、国枝清軒が伝言ゲームの真ん中に入ってしまい、
多少の歪みを発生させてはいるものの実際その戦場にいた杉原親清から伝え聞いたと言う形を取っている以上
年月日の誤りを差し引いても資料的価値は充分ある。そう考えるのが自然ではないか。
12:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 17:43:39
あっても、なくてもいいよ。大勢に影響ないしな。
どうでもいいじゃん、本庄シゲナガなんて武将。長野ナリマサが信玄に何回も勝った
っていうくらいくだらない話だよこれは。
13:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 17:55:48
なかったら上杉厨が困る
14:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 18:04:18
あったよ
ソースはうちの爺さんがあったって言ってたから
15:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 19:04:02
>>12
長野だってそのおかげで能力値が高いんだし。ゲーム的には重要な意味があるな。
16:無名武将@お腹せっぷく
06/02/04 19:17:06
そう信玄なんかのさんざ戦った戦績を奪う形で、おいしいとこだけもっていく。
単なる篭城戦こなしただけで。別に勢力を伸ばしたわけでもなんでもないのに。
17:勇魚 ◆Cl39TXJnDE
06/02/04 21:32:21
あいや待たれい。野戦で出鼻を挫いた後に籠城し、武田を退却させているのは立派な勝ち戦と思いますよ。
18:9
06/02/05 05:30:25
さて、上杉方の資料「武辺咄聞書」(酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語に)を
もとに、「松川合戦」の部分を検証してみる。 長い文なので、分割して、一つ一つ
読んでいく。疑問点が多々あるので、その部分は少しばかり突っ込んでみる。
(1)我古主杉原常陸介親憲は上杉謙信より景勝迄代々の功臣也。
夫故上杉家の事を詳に伝聞に、上杉家の竹に雀の紋は、元来上杉家の紋也。
上杉は北家の藤原勧修寺内大臣高藤公の後胤也。勧修寺殿の紋、竹に雀也。
此故に上杉も竹に雀也。
*杉原常陸介親憲のこと、上杉の竹に雀の紋の由来のことが述べられている。
(2)然るを世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、
伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。
*「竹に雀の由来」に作者は憤っており、ここで世間に異議申し立てを行っている
のが、何か微笑ましい。上杉の老人の気概も感じる。
(3)但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被籠て
不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ
原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。上関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。
*伊達家と、上杉家は、関ヶ原後も弓矢を交え戦っていたことが、記述されている。
ここで、伊達家と大々的な戦闘「松川の戦い」が行われ、陣幕を奪ったのは、
関ヶ原の翌年の慶長6年4月26日なり、と上杉の作者は述べている。
この慶長6年4月26日という時期が、伊達家にとってどんな情況だったか、
考えてみるのは面白いことだ。 (その1了)
19:無名武将@お腹せっぷく
06/02/05 19:39:32
日付けが明らかに違うらしいし、捏造なんでしょ
20:無名武将@お腹せっぷく
06/02/05 19:43:55
ともかく島津厨がこのなかに紛れ込んでることは確か
21:無名武将@お腹せっぷく
06/02/05 23:21:44
>>8
くだらないな。
だったら、捏造だという根拠を示したらどうなんだよ?
上杉方の記録なんて、眉唾モノの「会津陣物語」や「武辺咄聞書」ぐらいしかないし、
「上杉将士書上」なんて明らかに捏造してるし。
22:無名武将@お腹せっぷく
06/02/06 00:40:46
ていうかまず初心者の俺にも分かるように
会津陣~や武辺~が何故捏造と言われてるのか説明してくれ。
松川はあまり触れられない合戦だから実際どうなのか興味あるし。
23:9
06/02/06 06:25:33
>>22「会津」「武辺」等の資料の成り立ち等はググってみることを勧める。
この「松川の戦い」に関する謎は、伊達勢二万五千人ほどが慶長6年4月に出兵し
た上、かつ甚大な損害を被り、千三百人にのぼる莫大な死傷者を出したというが、
そこに名のある武将の姿が見られないのはなぜか、という素朴な疑問にある。
(最大のなぞは、A.開戦の動機とB.開戦時期なのだが、これは追って述べていく)
なお、「松川の戦い」を考える際に、戦いの規模が似ている天正19年の宮崎城の
戦いのケースの場合を、参考までにあげておくと、
大崎の遺臣2千人 VS 伊達軍2万4千人
1591年6月24~25日の二日に渡って一揆を鎮圧した戦いで、伊達方はほぼ10倍
の戦力で城攻めをしたが、相手は要害の宮崎城に立てこもり、大量の銃で武装して
いたため、伊達軍も相当の被害を受けている。被害状況は下記の通り。
重臣の宿老・浜田伊豆隆景(戦死)
成田荘八郎、松木伊勢、小島上衛門、前田河上総、峰左近、伊庭野惣八郎、
塩森六郎左衛門、生出阿弥(以上、名のある家臣と見られる武者が討死)
この戦いは接近戦となり、伊達政宗の馬にも弾丸が命中している。
他、足軽100余人他、多くの家臣が討死したとある。
(「伊達秘鑑」)
24:9
06/02/06 06:27:31
上杉の資料を続ける。
(4)上杉持分は福嶋城簗川城也。
福嶋城には本庄越前守重長、其子出羽、甘糟備後、岩井備中、杉原常陸介楯籠る。
簗川城には須田大炊介長義、車野丹波(是は佐竹家臣也。此時佐竹よりの加勢)、
筑地修理、横田大学籠る。是政宗境目也。
*「松川の戦い」時の上杉方の守備兵が、列挙されている。福嶋城に「本庄越前守重長」
の名が見える。他、「須田大炊介長義」「車野丹波」など。
(5)福嶋城より三里に瀬上と云所有。其近所に松川と云川有。大隈川の枝川也。
其川政宗領の一の虎口なれは、本庄出羽・甘糟備後・岩井備中・杉原常陸・
栗生美濃・岡野左内、五千余にて固之。
*ここに「松川」の名が登場する。上杉にとっての要衝であり、「虎口」なの
だ。上杉の守備兵は五千人。
25:無名武将@お腹せっぷく
06/02/06 20:42:28
慶長6年正月に、直江景続は、宇都宮にいた結城秀康を通して徳川家康に詫
びをいれ、降伏した。この降伏の申し入れは、3月の初めに、江戸城に帰還
していた徳川家康のもとに、届いた。
(家康は、この申し出を受諾し、6月に西上して、謝罪せよと命じた。
景勝一行は、6月中旬に伏見に到着、7月2日家康と対面し、会津召し上げを
通告される。)
つまり、史的には、東北版関原の戦いは、家康の裁断が下った以上、慶長6年3月
で事実上終了したということになる。ここで、伊達、上杉間の小競り合いが消滅する。
一方、伊達は、慶長6年4月14日に仙台城に入府。上杉の古老が主張する4月26日
にあったと主張する「松川の戦い」が「捏造」といわれても仕方あるまい。
26:無名武将@お腹せっぷく
06/02/07 05:13:24
これは手取川みたいなもんか?
27:無名武将@お腹せっぷく
06/02/07 05:58:21
あの「手取川」に匹敵する大戦果(!)を上杉方は伊達相手に上げたと、
頑なに主張しているのだ。時期は、慶長6年(1601年)4月26日のこと。
「阿武隈川」では伊達軍は実に5000人が惨敗、300人が戦死。
政宗本陣も大被害を受け、180人が戦死、竹に雀の陣幕まで奪われる
体たらくだったという。上杉の猛攻は続く。
>此逢隈川は奥州第一の大河也。然共大炊は能地の利川の渡様を知る故、一手は
佐竹加勢車野・横田を加へ本瀬へ打向。須田は川上へ向。政宗衆是に騒て勢を
二手に分て両口を防んとするに、備乱る所を上杉方どつと川を乗越す。須田二備を
急に切掛る故、政宗五千人数惣敗軍に成を、大炊勝に乗て追討に三百余討取、夫
より政宗本陣小山の留守へ押寄、政宗は福嶋表へ押詰たる跡にて留守のみなれは
須田又勝て政宗衆百八十余人討取。
>其外兵粮以下残置甲冑兵具分捕にす。其内伊達家の相伝什物代々の宝とする看経幕
(紺緒に黄糸にて法華経二十八品を縫)并竹に雀九曜星のまく迄奪取る。須田廿三歳、
若輩と云共手柄を振たる働、其名天下に高し。
28:無名武将@お腹せっぷく
06/02/07 06:00:04
本庄繁長も大暴れだ。耐えきれず、伊達本陣は信夫山へ敗走。
慶長6年4月27日には、ついに上杉景勝が8000人を率いて着陣する。
>則大炊早馬にて此口の勝を福嶋に註進す。政宗へも小山より討洩れの輩逃来て
告知する故、大に周章騒く所へ、本庄重長川を渡して掛るを見て、政宗敗軍に
て本道を退事不叶、摺神より信夫山へ引取。其夜陣取翌日は猶信夫山へ陣取居
所へ、景勝八千にて前日会津を出簗川迄出る。政宗は福嶋表へ詰る事をきゝ、
廿七日の辰の刻に簗川より福嶋へ押付き、景勝旗は五幅掛大四半紺地に朱の日
の丸と白地に黒き毘の字只二本朝嵐に吹せ、福嶋さして駆る。政宗方物見馳帰
り「景勝被出」と告候により、政宗陣騒立所へ「紺地に日の丸大四半向の山涯
上方道二里程見ゆる」旨又註進す。
かくて伊達軍はボロボロの状態で、仙台へ逃げ帰った。これが、上杉のいう
慶長6年4月26日~27日に行われた「松川の戦い」だという。
>其旗にて「謙信已来上杉旗本の印なれは景勝出る事無疑」とて、俄に陣を払ひ茂
庭山へ掛り、政宗惣軍共に仙台へ引取。景勝は堺目打廻り会津へ帰陣也。
29:無名武将@お腹せっぷく
06/02/07 07:01:02
上杉の資料だと、慶長6年4月17日に政宗は二万五千人の軍勢で白石城から出発したとある。
が慶長5年の白石攻めでは「北目城」から出発して、白石までは4日ほどかかっている。
山城の「青葉城」からだと、計算が合わなくなるなw
(4月15日に出たと仮定してもw)
30:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 06:22:21
吉川弘文館の戦史事典や、東北の合戦史のどの年表にも「松川の戦い」は
見当たらない。仙台市博物館編纂の詳しい年表にすらない。(天正16年の
大崎攻め大敗の記録などは掲載されている)
伊達家の動向
慶長6年(1601)正月11日、政宗、仙台城の普請を開始す。
2月1日から5日5日までの間に岩出山の士民を
仙台に移らしむ。これと前後して諸社寺を仙台に移す。
4月14日、政宗仙台城に移る。
31:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 06:33:32
上杉の戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
32:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 07:25:36
ここまでのまとめ(順に補強をくわえていく)
(1)慶長6年(1601)3月初旬、上杉は徳川に全面降伏し、
ここに東北版関ヶ原は終結した。
(2)この情況を受けて、4月14日政宗は仙台城に入った。
*以下上杉方資料
(3)政宗は4月17日に25000人の大軍勢を引き連れて
白石城を出た。
(4)4月26日、松川で一大決戦が行われ、伊達方は1300人の
死傷者を出して大敗した。
(5)4月27日辰の刻(午前8時頃)上杉景勝が8000人の軍勢
をひきいて戦場に駆けつけてきた。
(6)伊達勢は、信夫山から仙台へ逃げ帰った。
33:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 12:57:13
読みづらいから半角、全角数字使い分けるな
34:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 16:52:54
こんな戦い聞いた事ないなぁ
上杉方の宣伝だろ
後生の世の中、現代になると宣伝というか捏造になるが。
35:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 17:25:42
上杉の戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
36:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 17:43:45
なんかレベルの高い人いるなぁ
>>4の本なんかどこに売ってるの?
その松川の戦いで伊達に名のある者が死ぬなり、重傷を負っただのがないから
あったのか?あったとしても上杉の一方的な勝ちでもないというのはわかった。
で、手取り川はどうなの?
他のスレでは手取り川も一人も名のある物が死んでないそうで、
織田の記録にも無いそうだが?
37:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 18:33:43
>>36
つまり、名のある者が死んだり、負傷したりしていないのは、
この戦そのものが上杉の捏造だから。
慶長6年4月の方の戦な。
普通に考えればわかるけど、上杉が徳川に降伏したのに、
伊達が上杉を攻める道理がない。
38:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 19:07:07
結論
上杉の戦果は3割が史実、7割がフィクション。
三国志演義みたいなもんだと思ってください。
39:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 19:42:45
ふーん(´_ゝ`)
40:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 19:53:52
「武辺咄聞書」を、つい、うっかりコピペしてしまった歴史家がいた。
頼山陽である。かれは「日本外史」に、松川の戦いは実在したものと
して、そっくりそのまま記述している。参考までに上げておきたい。
六年(一六〇一)四月、政宗、兵を留めて須田に備へ、還って本荘
を攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。敵を侮って備えず。政宗、暁に乗
じて済り、撃ってこれを敗る。本荘走って福島に入る。須田これを
聞き、逢隈河を済ってその兵を破る。遂に政宗の軍後を襲い、本荘
と夾み撃ってこれを走らす。景勝、乃ち自ら将として出づ。政宗驚
いてその軍を舎て、独り十余騎と間道より白石に走る。
41:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 20:03:24
上杉のいう慶長6年4月下旬の松川の戦いがあった頃、肝心の伊達政宗は
どこにいたか? 答えは、仙台城である。
「4月17日」に白石を25000人の軍勢で出発したと上杉の史家は書いている
が、4月19日頃、政宗の所在は、仙台城で確認されているのだ。
元来国分氏の拠点であった「千代」を「仙台」と変えたのは政宗だが、史的に
「仙台」の文字が始めて出てくるのは、
今井宗薫に宛てられた、慶長6年「4月18日付けの伊達政宗書状」であることが
判明している。
つまり、政宗は物理的にも「松川の戦い」(あったとして)には従軍していない、
ということだ。
42:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 20:08:06
良スレ
んで当世の歴史家はどう評価してるの?
43:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 20:13:20
>>41
正しくは今井宗薫宛の書状は4月21日(観心寺文書)だが、
政宗の所在が確認できるわけではない。
なぜなら、書状の中身は出羽荘内の情勢についてで、福島界隈で
情報を得た可能性が高い。政宗の福島出陣は3月以降(歴代古案)に確認できる。
44:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 20:14:41
>>42
まったく虫してる
45:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 20:38:29
>>43
政宗の所在に関しては、治家記録及び仙台青葉城築城を研究してい
る紫桃正隆氏が、以下のように書いている。
「慶長6年正月早々、総奉行は後藤信康・川島景泰があたり、
城普請に着手し、4月19日、まだ本丸の壁さえつかないうちに
政宗は仙台城に移った。」
よって、この今井宗薫宛ての書状は、福島からではなく、仙台城から
出されたと考えられる。少なくとも4月14~19日、政宗は仙台城にいた
わけだ。
46:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 20:47:00
>>45
なるほどね。出来れば典拠史料も欲しいところだが。
↓これも紫桃正隆氏の主張らしいが、信憑性は?
慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦の余波が東北にも及び、
反徳川の上杉方が山形の最上氏を襲った「東北の関ケ原合戦」が起こる。
政宗は、山形への応援で国境の警備が手薄になった南部藩領を忠親に侵攻させる。
だが、忠親率いる和賀軍は敗退。自らの策略が明らかになることを恐れた政宗は忠親を処刑する。
47:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 21:07:17
>>46
紫桃氏は「自殺に見せかけた抹殺説」を採ってるね。慶長6年
5月24日、利用価値がなくなった和賀は消された、と。もっとも
替え玉説も紹介している。和賀は志田郡松山町でひっそり生き延びた
とも。実は、この和賀兵乱と、10月6日の福島城攻めの1日撤退とは
密接な関係があるとは、紫桃氏の見解だ。これは小和田哲夫あたりにも
影響を与えてるな。(伊達はなぜ1日で福島城攻め止め、撤退したのか)
48:47
06/02/08 21:22:52
伊達が、南部領を和賀に侵略させたのは、慶長6年9月20日頃
だが、恐るべき事に、その動向は早くも徳川に嗅ぎ付けられていた。
泡を食った南部利直が岩崎城へすっとんでいく。総攻撃は10月18日だ。
伊達としては、徳川の監視の目が南部領へいくのを極力避けるため、
いわば「偽装工作」のように、慶長6年10月6日に福島城へ出てきた
のではないか? これが、紫桃、小和田の推論だな。
49:47
06/02/08 21:29:25
(訂正)
×慶長6年9月20日→○慶長5年9月20日。
50:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 21:38:39
貼りつけるのはいいけど何を根拠にした論なわけ?妄言の可能性は?
厨供の過大戦果コピペと同レベル
51:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 21:45:09
>>50
どの意見のこと? 慶長6年4月26日の松川合戦のこと?
これは論破されている。
52:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 22:04:41
『奇策~北の関ヶ原・福島城松川の合戦』(風野真知雄)という
小説本がある。これは、慶長5年10月6日の福島城・松川の攻防
を舞台にしたと描れているが、実は内容が存在しなかったはずの
「慶長6年4月26日」の松川合戦の内容が(岡野左内の政宗との
一騎打ちなど)にすり替わっている。
上杉厨が語る、「慶長6年になっても上杉は伊達を撃退し続けた」
という話は、各個撃破していく必要があるな(w
53:無名武将@お腹せっぷく
06/02/08 23:04:57
>>51
>紫桃正隆氏が、以下のように書いている。
> 「慶長6年正月早々、~仙台城に移った。」
>よって、
何で「よって」が成立するのかの説明(根拠)がないから論としては御粗末
「慶長6年正月早々(ry」の信憑性に疑問を抱かず、2次的に証明の材料とした理由が知りたいだけ
否定の証明の材料にする前に、材料となるその説を肯定する証明をしなよって意味
証明ってそういうものだろ?
証明のつもりじゃなかったらすまんこ
54:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 00:49:30
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
55:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 02:41:41
伊達家が二万五千も動員できたとは思えない。
せいぜい一万五、六千でしょ。
成実に五万石のオファーだしたり、上杉家はやっぱ基地外なのかな。
56:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 03:46:18
>>53
これは、>>43への反駁だが、意味分かってる?
君が>>43氏であれば、以下の文を詳しく説明願いたい。
>正しくは今井宗薫宛の書状は4月21日(観心寺文書)だが、
政宗の所在が確認できるわけではない。
なぜなら、書状の中身は出羽荘内の情勢についてで、福島界隈で
情報を得た可能性が高い。
「福島界隈で情報を得た可能性」が高いとは、どういうこと?
>政宗の福島出陣は3月以降(歴代古案)に確認できる。
この部分の「3月以降」とは具体的にどういうこと?
以上2点、詳しく説明願いたい。
ところで仙台城の普請と政宗の移徒(わたまし)に関して。普請の「慶長6年正月早々」
とは正確には、慶長6年1月11日。移徒は4月14日(紫桃氏は4月19日)つまり、4月中
旬(14~19日)頃には、政宗は仙台城で政務を執っている。
「よって」18日(乃至は21日にせよ)今井宗薫への手紙が書かれたのは「福島界隈」ではなく
「仙台城」と考えるのが自然だろ? と述べている。
また、上でもあったが、「北目城」から白石市へ出るだけでも4日ほどの日程が必要であり、
到底福島まで出ることは物理的に不可能だからね。
57:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 03:56:50
現実問題として、慶長6年3月初旬に上杉が徳川に降伏(家康が上杉の降伏
を了承)した時点で、1~3月までつづいていた伊達・上杉間の「小競り合い」
は終了した。派兵の大義名分も消滅したわけで、ここに「4月26日の松川合戦」
の虚構性が証明されるわけだ。
58:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 04:49:34
俺がこの戦いに疑問をもったのが、そもそも福島県の作家『奇策~北の関ヶ原・福島城松川の合戦』
(風野真知雄)を読んだからだ。本荘繁長といえば、慶長5年10月6日の福島城の防衛で、伊達軍を
撃退したと、上杉厨の間では喧伝されている。本書もそれをテーマにしたものだ。
ところが、同書を読んでいくと、本荘繁長は、隠居したような状態になっており、慶長6年には一切
戦いを行っていないのだ。(小説にしても、妙な話だ。)
ところが、上杉の軍記物語では「慶長6年4月26日の松川の合戦」では、その本荘が福島城の大手門
を開けて、伊達勢に突入していく姿が活写されている。
>其外本庄・杉原・岩井・鉄・上野等の諸大将数度返合、松川より福嶋迄防退きに致す。
福嶋城下の川へかゝる時、正宗方茂庭石見・屋代勘解由・高野壱岐か三備急に追来る。
本庄・甘糟・杉原・岩井等の諸大将福嶋城大手口にて皆返合、馬より下り士卒をおり
しかせ立固る。殿の五六騎の輩福嶋川へ掛る時、屋代・高野・茂庭等急に慕付る。
本庄繁長の活躍自体、相当怪しいものと疑わざるを得ないわけだ。
59:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 14:27:11
>>56
>>50が初書き込みだよ
60:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 14:58:19
紫桃の説の信憑性の証明になってないし
普通に考えればそうだろうと推測出来るし、特に異論もないが、論の根拠にするには弱い
何で無条件に紫桃氏によればみたいに引き合いに出せるのか?
を聞いてるだけで、あった・なかったには興味がない
矛盾の証明に使う資料の根拠の提示やその証明をなんでしないのか?
紫桃のその説に至までの過程がなく、最終的な言だけを引用に出す
↑何でここだけ論理性が欠けてるのかを指摘しているだけ
説の正誤の証明はあった派に望むべき事かもしれんが、まず叶わないと思うし
それを拒まれると戦果過大コピペと大して変わらないから、読んでても疑問が残る
61:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 15:07:15
尚、君の論の否定ではなく、証明とか言ってる以上はせめて最低限の引用元(論文なり著書なり)
の開示をすべきではないか?という至極当然の意見
因みに、このスレはあったと主張派となかったと主張派しかいないと思ってるならもういいけど
傍観してる中立派に対する説得力が弱い
62:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 16:14:57
あった派もなかった派も原史料にあたってないね。
小説は論外、軍記物語なら作者の政治意図と伝承の有無を、
編纂物や歴史家の説なら典拠史料を。
63:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 16:21:02
>>62
外野で批評するのはいいが、まずは自分の意見を出したら?
「ぼくはこう思います。」稚拙でもいいから、言ってごらん?
勇気を出して。
64:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 16:32:10
地元の通説
関が原合戦の20日後の慶長5年(1600)10月6日、
伊達政宗は父祖の地奪回のため、信達盆地に2万の大軍で侵攻する。
上杉軍は本庄繁長をはじめ4000の兵で迎撃した。
世に奥州の関ヶ原合戦と言われる松川合戦である。
主戦場は、当時信夫山南麓を流れ、福島城の北への防りとしても機能した松川の河原で、
福島城からは目と鼻の先であった。本庄繁長は敗北を装い城に退却、
伊達勢をひき付けて梁川城の須田長義と挟撃した。この時長義の軍は信夫山の伊達軍の背後を襲い、
小荷駄隊を全滅させて武具・食料をすべて奪ったという。
思わぬ大敗に伊達軍は浮き足立ち、7日、政宗は命からがら仙台北目城に逃げ帰った。
65:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 16:38:13
>>64
民間伝承だろ。相馬レベルの。
66:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 16:41:25
>>64
んで、戦死した伊達の有力家臣名は? 討ち取ったなら
当然、記録が残ってるはずだが。
足軽人足勢が大量に死んだのは確からしいが。
67:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 16:44:46
伝承も虫できんよ。↓ここの史料をいっしょに検証してみよう。
URLリンク(www7.plala.or.jp)
68:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 16:47:33
このときの両軍の戦死者塚が黒沼神社裏手にたくさんあったといわれている。(現在はない)
なにこの胡散臭さ
69:9
06/02/09 16:54:27
>>67
とりあえず、その資料はじっくり読ませて貰うよ。
福島県側の資料はあまり読んだことがないから。
それで、2つある松川の戦いの流れを考えてみたい。
70:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 17:36:12
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
71:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 17:53:41
ここまでで判ったこと。
慶長5年10月の松川合戦は地元に伝承や古文書が存在すること(周辺各町史に収録)
慶長6年1~3月の小競り合いは不詳。
慶長6年4月26日前後の合戦を記す上杉側史料は、当時の政情(景勝が降伏の意思を明白にしている)
伊達政宗が仙台に居た可能性が高いことなどから、前年の合戦を日時を間違えて記した可能性が高い。
だが、何らかの形で松川の合戦(福島城攻防)が存在し、伊達勢が上杉勢に負けた可能性は高い。
72:9
06/02/09 17:57:28
>>67
>伊達政宗は信夫山伏の党首羽黒山別当慶陰らに守られ、
羽黒山の別当寺寂光院にかくまわれ夜半に裏手から仙
台に帰ったといわれている。
いきなりだが、胡散臭さ満載の伝承だな(苦笑)
義経の北帰行じゃないんだからさ。こういう一文は、話として
は面白いが、古老咄の域を出ず、すべてを台無しにするだけ。
はて参謀の片倉景綱は何処へ?
73:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 17:58:44
>>63
>>62俺じゃないし、都合のいい主張だけなら厨と同レベル
歴史の完全証明は不可能なんで時代背景から推測して「なかったっぽい」程度の考えで、それを事実として主張するつもりもない
「なかった」と言い切る根拠が不明という指摘についての反論をしないで煽り出し、証明とか言ってるくせに痛い部分は黙殺
まず紫桃の説から洗ってみて初めて『証明』に成りうる
よって≠∴のつもりだったらもういいや
74:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 18:19:19
>>72(9)
伝承や軍記書は誇張だらけだから、笑いながらも慎重に読むもんだよ。
できれば各町史と編纂者を当たってみたいね、市町村史ってのは学校の元社会科の先生
とかがけっこう真面目に取り組んでるもんだし、大概は役場に常勤して
史料批判が進んで信憑性のなくなった版を刷新するために、伝承や古文書を
持ってる可能性もある。
75:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:01:43
>>71
何が「ここまでで判ったこと」だよ。
つまり、慶長5年に松川周辺で戦いがあったと。
ただ、上杉が大勝したなんてのは大いなる捏造であると。
>前年の合戦を日時を間違えて記した可能性が高い
慶長5年の10月と慶長6年の4月を平気で間違えるような記録など
信用できないな。
ただでさえ、上杉側の記録は胡散臭いのに。
>伊達勢が上杉勢に負けた可能性は高い
ここで妄想大爆発w
伊達側の記録には上杉に負けたなんて載ってないし、
荷駄隊にちょっかいだして勝利宣言だろww
76:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:06:32
>>75
上杉側は史料(伝承と古文書)があるんだから、史料批判で対応しないかぎり
伊達が負けなかったという反証にはならんね。歴史学の方法論的常識だ。
わざわざ負け戦の記録なんて、普通は残ってないもんだが。
77:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:15:54
>>76
だから、その上杉側の史料自体に疑問符がついているって事は理解できない?
ちなみに、何の史料を参照しているのか具体的に挙げてくれよ。
上杉将士書上みたいなのを持ち出して、これが史料です、じゃ話にならないが。
伊達側の史料には、大崎合戦の敗北もちゃんと載ってるんだけど、
上杉側はそういうのは隠蔽するのが普通なんだろうな。
挙句の果てには捏造すると。
78:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:21:23
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
79:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:23:12
>>77
合戦から57年後の史料だから、ギリギリで同時代史料と言えなくもない。
慶長五年の合戦
明暦三年四月佐藤次兵衛功名覚より一部抜粋。
慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成、本庄重長江若松から大関常陸守、才野道二両人被遣、両人松川ニ而及一戦候、
此儀梁川へ聞へ岩井行衛侍大将にて伊達崎赤貝ノ瀬を乗り越し、西根に而新右衛門井次兵衛、次郎右衛門出会、
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に
掛合申候所次郎右衛門打取申候、其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、二の丸にて首実検
被成候所、首数八百余と御印被成候
80:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:30:17
上杉軍、伊達軍を松川に破るの伝承史料
梁川町史6
須田系譜「長義の項」
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
梁川町史編纂室蔵「福島慶長合戦事書」とも称する一紙文書がある。
梁川町史2 p24~34 二、上杉・伊達のかけひきと松川の合戦
梁川町史6 p83~91 5、慶長五年の合戦(資料集)
川俣町史1 p233~245 二、景勝の挙兵と小手郷の合戦
伊達町史1 p294~299 3 関ヶ原合戦と奥羽の合戦
桑折町史1 p529~535 二、伊達政宗の侵攻と松川の戦い
81:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:32:05
>>79
だから、史料名を挙げてくれっていうの。
長ったらしく書いたって、それが信用できない史料なら何の意味もない。
どうせ「会津陣物語」か「武辺拙聞書」あたりだろうが。
82:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:39:33
訂正:「武辺咄聞書」
それで、その町史は慶長何年の何月何日に松川の戦いが起きたと
書いてるんだい?
大体、その須田系譜って小荷駄襲ったってだけで、
伊達の敗北とは無縁の話だろ。
ずらずら書けば信用されるとでも思ってるのか?
83:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:45:44
まとめよう。まず、慶長6年4月26日の「松川合戦」について。
この戦いは、荒唐無稽な話であり、実在はしえない。上杉の記録者自身が、
あえてことわりを入れて「慶長6年4月26日」と記載してしまったことは
信憑性という点において致命的だった。最大の理由は、無論、
(1)上杉と徳川が3月に完全講和したため、上杉と伊達は停戦した。
開戦動機が完全に消滅。この情況下で、家康が政宗に対して上杉攻略を
「許可」することはありえない。
(2)4月14日政宗は仙台に入り、政務に就いている。
(3)「仙台城」から、白石城へ入り(17日)、福島へ出るのは物理的に難しい。
(3)この4月26日は、和賀忠親が立て籠もっていた岩崎城が、南部利直軍に
よって陥落させた時期にあたっており、南部領画策を計画していた政宗の
視線は「福島」方面ではなく、北方へ向いていた。
すなわち、慶長6年4月下旬時点において、伊達が上杉領へ侵攻するメリットは
まったくない。
この件に関して上杉方から有効な反論ができるだろうか?
(特に(1)のついての説明がほしいところだ。)
以上「慶長6年4月26日松川合戦」について。
84:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:45:52
年月日の矛盾はどうなの?
85:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:46:27
>>82
古文書が読めないらしいから簡単に訳すと
慶長五年十月六日(に合戦は起きた)
正宗御部勢を大分打取(伊達勢を多く討ち取った)
二の丸にて首実検被成候所、首数八百余と御印被成候
(戦後に二の丸で首実検をしてもらったところ、
800の敵兵を討ち取ったことが確認された)
86:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:56:07
>>85
その死者は、宮崎の小荷駄隊の人足だろ。
伊達治家記録」では、本庄が守備していた福島城の
敵将300の首級を奪ったことが記録されてる。
伊達方の有力武将での戦死者はゼロ。
87:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 20:57:10
>>85
町史と須田系譜のことについて書いているレスに、
なんで>>79がわからないらしいからと、訳文なんか書くのかね?
1657年4月の佐藤次兵衛功名覚にはそう書いてあると。
それで、あなたはそれを持ち出すということは、
慶長6年4月26の「松川の合戦」が上杉の捏造だと認めるわけだ?
88:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 21:05:58
>>80
梁川町史6
須田系譜「長義の項」
>「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。
黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたこと
を記している。
梁川町史編纂室蔵「福島慶長合戦事書」とも称する一紙文書がある。
>>27に注目。時期は「慶長6年4月26日」場所は「松川」
其外兵粮以下残置甲冑兵具分捕にす。其内伊達家の相伝什物代々の宝とする
看経幕(紺緒に黄糸にて法華経二十八品を縫)并竹に雀九曜星のまく迄奪取
る。須田廿三歳、若輩と云共手柄を振たる働、其名天下に高し。
慶長5年10月6日ではない。
89:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 21:06:12
>慶長6年4月26の「松川の合戦」が上杉の捏造だと認めるわけだ?
これを史実とする人は、さすがにいないんじゃね。
90:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 21:15:39
推測をさも事実の様に宣う伊達厨と、信憑性が薄い資料が拠り所の上杉厨
資料に基づく反証をしない伊達厨と、資料の証明をしない上杉厨
反証の義務を無視した勝利宣言
はいはいカオスカオス
91:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 21:16:32
>>18をもう一度よむと面白い。
「武辺咄聞書」(酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語に)
(2)然るを世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦し
て政宗を追崩し、 伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。
*上杉は慶長5年10月6日に、伊達を撃退した。このとき伊達の陣幕を奪ったが、
それだけではないと、こう続ける
(3)但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被籠て
不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ
原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。
*慶長6年4月26日には、伊達に決定的なダメージを与え、その際に政宗「本陣」の
陣幕を奪ったと自慢する。
こんなこといわなきゃ良いのに(笑)
92:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 21:26:20
>>90
上杉方の史料自体が捏造っぽいわけで、作り話に反論などしようがない。
起きていないんだから。
あとは、慶長5年10月の細かい動きについて語るだけだろう。
93:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 23:25:13
>>76
その史料批判の結果、上杉側の史料には信憑性がないとなったのだろうに。
「負け戦の記録は残さない」なんて陰謀論ぶち上げても、意味がない。
何故なら負け戦になれば直接の記録は残さなくても、敗戦の結果生じた事態
を立て直すための一次資料が生じるので、完全に消すことなんて出来ない。
94:無名武将@お腹せっぷく
06/02/09 23:46:38
>その史料批判の結果、上杉側の史料には信憑性がないとなったのだろうに。
どんな史料批判が行なわれたの? 町史の中身を検証したとでも?
このスレ的には本日が初見で、誰も検証した形跡はないのだが?
95:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 04:22:47
このスレを興味深く拝見している佐竹厨だが、何人が戦って、
どんな言い合いがされてるかいるのかよくワカランチンなので
わかるように名前をつけていただきたいのだが無理かのう。
96:9
06/02/10 06:01:43
>>95
佐竹厨の人も、歓迎。是非、参加して、忌憚なく意見を述べて欲しいね。
なぜなら、佐竹の家臣車丹波も、この戦いには従軍しているから。
「福島城・松川の戦い」には、まず2つあること。これが基本認識。
(A)慶長5年10月6日の「福島城・松川の戦い」(史的に認定)
(B)慶長6年4月26日の「福島城・松川の戦い」(上杉による捏造)
(*慶長6年3月に家康と景勝の和議がなり、戦争は終結したから
伊達が4月に派兵する理由も消滅。)
本来は(A)を検証したいのだが、上杉が手柄話として(B)の捏造資料を、
慶長5年にあったものとして混在させるから、話が混乱する。
とりえあえず、前哨戦として、(B)の慶長6年の「捏造戦」について検証し
ている。これが終われば、本題の(A)の戦いへ移りたい。
97:9
06/02/10 06:21:41
慶長6年4月26日の「福島城・松川の戦い」(上杉による捏造) は、
上杉を賛美した小説の中に、たまに出てくる。佐竹義宣をテーマにした
土居輝雄氏の「条羽有情」では、この慶長6年の戦いを「武辺話」にほぼ
忠実に再現している。
「丁度このころ奥州では、伊達政宗が再び福島城を攻めている。4月17日、
政宗は2万5千の軍勢で白石城を進発し、福島城の本庄繁長、甘糟清長、
杉原親憲らの6千の兵と26日に松川付近で激闘したとき、政宗は上杉方の
岡野左内に斬りつけられ危うく一命を落とすところであった。また、政宗
が福島城の柵ぎわに近づくと青木親兵衛に槍をつけられ、兜の立物に当たり
政宗は逃走した。このときの伊達軍の死傷は1千三百を数えたという。」
「佐竹から派遣されていた車丹波は義のため帰国命令を拒否して梁川城で
守っていたが、この日伊達勢が福島城を攻撃して来るや城将須田長義とともにと
城兵を指揮して阿武隈川を渡り、前面の敵を蹴散らして伊達勢の後陣に切り込み、
兵糧を焼いて敵を窮地に陥れ、前後から挟撃する働きをした。」
「この時分捕った伊達家紋入りの陣幕は、後、永く上杉家の誇りとなった」
断っておくが、これは「小説の」記述だが、「武辺拙聞書」がそのまま再現され
ている。(A)の慶長5年の戦いではないことを、確認することも重要。
98:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 14:23:15
武辺拙聞書の矛盾を示す資料とその検証は?もうしてるならアンカ誘導希望
99:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 14:37:29
「無かった事にしたい伊達厨」と「上杉最強伝説を信じたい上杉厨」の
見難い言い争いにしか思えない。
こういうスレで客観的な結論が出た試しがないので
不毛な争いでしかないと思う俺は、通りすがりの阿波公方厨。
100:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 14:41:14
まあ無いんだから仕方ないよ
101:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 14:45:13
>>98
武辺拙聞書の決定的な矛盾は合戦日時だ。「慶長6年4月26日」の松川合戦は
行われていないよ。それを示すのが、皮肉なことだが地元福島史などの記述>>67
小手六十三騎についての記述
「福島の町と村Ⅰ」福島市史別冊Ⅴ
景勝は伊達政宗の侵攻を予期して各支城を固めさせたが、慶長五年六月には
梁川城に攻めてきた。上杉勢は梁川城をかため、妻子を人質にして小手六十
三騎を味方に引き入れた。ついに、伊達・上杉両軍は十月摺上川・松川で激
突した。梁川城代須田長義は、小手六十三騎を含む上杉軍を率いて伊達軍を
やぶり、翌六年四月立子山村の小貫太郎左衛門・佐久間次郎左衛門・安部四
郎兵衛・橋本内蔵助・本田作兵衛など小手六十三騎に戦功に応じて一〇〇石
から二五〇石までの功賞(川俣町史Ⅱ 127p)をあたえた。
つまり、須田らが活躍した戦いは慶長5年10月6日に行われ、翌慶長6年4月
下旬に、その論功が、景勝から与えられたとある。
が、武辺拙聞書は、10月6日の後にも、慶長6年4月26日の戦いがあったとする。
102:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 15:12:18
「慶長6年4月26日」のは完全にホラ話。
「慶長5年10月6日」は、実は、伊達方が勝利となると、上杉にとっ
ては駄目押しとなる。さすがに立つ瀬がないだろう?>>上杉厨。
103:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 15:34:23
慶長5年のほうは、例の小荷駄奪って勝利宣言だっけ?
104:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 15:55:17
伊達方の被害は、帰り際小荷駄隊が襲われ、大量の足軽、人足が死傷した。
(重臣達や名のある武将の戦死なし)
なお、荷駄隊から竹に雀の緞帳が奪われた。
105:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 16:22:24
これで決着じぇねぇの?
慶長五年十月六日(に合戦は起きた)
正宗御部勢を大分打取(伊達勢を多く討ち取った)
二の丸にて首実検被成候所、首数八百余と御印被成候
(戦後に二の丸で首実検をしてもらったところ、
800の敵兵を討ち取ったことが確認された)
106:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 16:27:06
>>99
っていうかさ、最近上杉を叩いて喜んでる輩がいるんだよ。
ケースによって北条信者、伊達信者、最上信者、島津信者となって煽りまくってんのな。
本当の上杉、北条、伊達、最上、島津信者は大迷惑だろう。
本物の戦国好きは他の武将であれ敬意を払い貶したりはしない。
煽ってる輩を見ると贔屓にしていない武将でも腹立たしい気分になるな。
107:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 16:30:28
貶めてるんじゃなくて、上杉の無能さや捏造の酷さを批判してるだけですが
108:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 16:33:06
>本物の戦国好きは他の武将であれ敬意を払い貶したりはしない。
何分かった気になってんの?w
109:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 16:34:02
>>107-108
また、おまいらかw
110:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 16:39:34
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111:9
06/02/10 16:43:14
>>105
それは上杉方の戦果報告だな。これに伊達方の戦果報告を
加え、双方案分した上で、それぞれ「公平」に結論を出す。
慶長6年説は、徳川との和睦交渉が終了した後、政宗が仙台城
に拠点をかまえ、かつ和賀の後始末に追われ、出兵動機がないため
とりあえず、講談上の話と考えざるを得ない。
で、福島城・松川の攻防の核心はこの戦果報告にあるのではなく、
「伊達はなぜ1日で撤退したのか?」がポイントになる。
上杉側からは「撃退」であり、伊達側からは「撤退」(「治家記録」
は勝利と記録)でそれぞれ言い分が、180度違うためだ。
>>106それには同意したい。
112:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 16:44:03
,.;'‐、____,:-;';:、.
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113:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:00:50
>>111
ただ言えるのは、上杉側が喧伝するような、
伊達の大敗は無かったということだね。
まあ、上杉は手取川の戦いの方も色々胡散臭いらしいけど。
114:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:02:07
>>106>>109
上杉厨って他の大名はボロクソに叩くのに自分の好きな大名が叩かれるのだけは耐えられないんだなw
そんな臭い上杉厨にプレゼント
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
115:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:08:09
わかったわかった。
代わりに俺が謝るからもうキミはインターネッツしないでください。
どうもすいませんでした。
116:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:14:08
上杉の資料は胡散臭いものばかり
単騎で突入とか
117:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:21:19
>>101
簡潔に言うと、慶長5年10月6日に須田って上杉方の将が伊達を破って、慶長6年4月に功績によってご褒美をあげたって記録だから
慶長6年4月26日には起こり得ないってこと?
素の疑問なんだけど5年10月6日の戦いはあったの?あと、半年後にご褒美ってのが当時のデフォ?
118:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:24:22
>>117
須田は小荷駄を襲っただけで、伊達を破ったわけではない。
119:101
06/02/10 17:26:03
素の疑問なんだけど5年10月6日の戦いはあったの?あと、半年後にご褒美ってのが当時のデフォ?
120:9
06/02/10 17:30:37
アンカーミスだわw
>>117
>素の疑問なんだけど5年10月6日の戦いはあったの?
無論、史的事実。これについては後で述べたい。
>あと、半年後にご褒美ってのが当時のデフォ?
これは慶長6年3月に徳川との和睦がなったので、景勝が
家臣の労をねぎらったものだろう。
121:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:32:44
何でこんなバレバレの捏造を上杉はしたのだろうか
122:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 17:43:41
悔しかったから
123:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 18:28:13
>>96
常羽有情なんてマイナーなのよく知っちょるのう。
ちなみに車丹波は義のために上杉に荷担したのではなくて、
義宣に追い出されたからなんだけれども。
慶長五年七月二日の直江加熱具の書状(義宣家譜九月六日の条。
こよみの違い?で、松川の戦いが九月六日であると記されている。
家譜には慶元記から引用したとある)によると、
車丹波は品行が悪いので加熱具に解雇されそうになっている。
慶長五年の松川の戦いについては、『会津四家合考』にもそれらしきものがのっている。
年月日はないが、長谷堂の戦いの後に乗っているので、おそらく慶長五年十月のものだろう。
『会津四家合考』は比較的信頼できると思われる。ただし古老の話という体裁であることに注意。
124:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 18:29:47
『上杉氏年表』(高志書院2500円池亨、矢田俊文/編)には、
慶長五年七月二十五、二十六日に伊達郡小手村内大館古城で伊達勢と交戦があったとあり、
討ち取った106つの首注文を上泉モンドが作成したとある(覚上公遠書集、
大河原文書/鶴岡市史資料編荘内史料集)。
また同年十二月十二日、景勝は本庄繁長を上洛させることを決め、
本田正信等に取り成しを依頼する書状を送ったとある(覚上公遠書集)。
慶長六年には松川の戦いのことが記されており、三月頃伊達政宗が福島表に出陣したとある(歴代古案)。
つまり上杉氏年表によると、歴代古案に松川の戦いを示唆する文書があるということだな。
ただ上杉氏年表には結構いい加減な記述(誤植か単純なミス?)もあったりすることを付け加えておこう。
私の持っている茨城県史料には歴代古案の一部が載っているが、茨城県に関係のあるものだけなので、
この松川の戦いについての文書はない。
ついで伊達側の記録。まず『政宗記』(戦国史料叢書の伊達史料集より)
巻九の「秀吉御逝去事」に政宗が慶長五年七月二十四日に景勝領内刈田の白石へ押し寄せたとある。
ただし松川の戦いについての記載は無し。
白石城が伊達勢によって奪われたことは『会津四家合考』にもあり、
なるほどこれは松川の戦いの前哨戦なのかな。
そんで性山公治家記録を調べようと思ったが、伊達史料集には天正までしか載っていなくて激しく忍者。
歴代古案を調べてみたいのう。米沢市史には全部のっているのかのう。
125:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 19:01:07
●上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
西根郷大肝煎の桑折佐藤新右衛門一族が慶長三年(1598)上杉景勝就封以来の軍功について、
随従した甥の次兵衛が明暦三年(1657)に書き上げたものである。佐藤新右衛門は上杉家臣として、寛永年間に上杉の代官、古河善兵衛とともに、西根堰を開堰したことで有名。
正宗御部勢を大分打取、 首数八百余
其後正宗梁川へ押寄 終に少利も無
又福島江御心かけ被成候へとも、不及一戦御引被成候、
※政宗が3回仕掛けてきたことになってるね。
須田系譜「長義の項」(成立年?)
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
梁川町史編纂室蔵「福島慶長合戦事書」とも称する一紙文書がある。
●伊達方史料「治家記録」(成立年=仙台藩主伊達家に伝わる治家記録の編纂は、4代藩主綱村によって元禄年間に始まった)(元禄16年(1703)先ず、輝宗、政宗(まさむね)、忠宗(ただむね)の三代の治家記録が編纂された)
※持ってないんで、わからん。
「政宗記」伊達成実(永禄16(1568)~正保3(1646)年)
>>123-124さんレポートのとおり、記載なし。
126:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 19:04:25
>>125の追加。
「佐藤次兵衛功名覚」(57年後)
「治家記録」(103年後)
「政宗記」(同時代史料)
127:9
06/02/10 19:14:28
>>123
「松川スレ」へようこそ。相当勉強されていて、参考になります。
本題にいくまえに、慶長6年1~3月の伊達と上杉の「小競り合い」
について、考えてみますかね。その前に、頼山陽の「日本外史」を
載せておきます。(上杉方に見方が偏っており、かつ史的信憑性は
薄いものなので、伊達ファンは気を悪くしないで下さいw)
五年(一六〇〇)政宗進んで福島を攻む。本荘繁長、城を守り、撃ってこれを卻く。
六年(一六〇一)二月、政宗また来り侵す。繁長また撃って、これを卻く。
政宗、転じて逢隈河を渡って梁川を攻む。城将須田大炊、四伏を設け、与に戦って
これを破る。
四月、政宗、兵を留めて須田に備へ、還って本荘を攻む。本荘出でて松川に拒ぐ。
敵を侮って備えず。政宗、暁に乗じて済り、撃ってこれを敗る。
本荘走って福島に入る。須田これを聞き、逢隈河を済ってその兵を破る。
遂に政宗の軍後を襲い、本荘と夾み撃ってこれを走らす。景勝、乃ち自ら将として出づ。
政宗驚いてその軍を舎て、独り十余騎と間道より白石に走る。
さて頼山陽は「慶長6年4月松川の戦い」を信じており、この戦功を過大に書いたため、
肝心のメインである「慶長5年10月の松川の戦い」がスカスカになっていることに注目。
本庄は「撃って、守る」。あれ?これだけ? 本庄の功績は、福島城を「防衛」したとい
う形になり、ニュアンスが弱くなってしまっている。皮肉な話ですが。
128:9
06/02/10 20:07:10
続ける。>>96にあげた土居輝男氏の「常羽有情」では、上杉史観に彩られた頼山陽の文章が、
正確に反映されている。
伊達が壊滅的な被害を受けたばかりか、政宗自身が刃を突きつけられ、落命寸前までいった
のは、あくまでも「慶長6年4月26日の松川の合戦」である、と。土居氏は、頼山陽の文章
をトレースするしかなく、「慶長5年10月6日の松川合戦」を以下のように描写する。
「福島城では謙信以来の勇将、本庄繁長が城将で堅く守って撃退した」
「そのうち、梁川城の須田長義と車丹波が伊達軍の小荷駄隊を襲って輜重を
奪ったりしたので、政宗は退却し、十月七日に北目城に帰った」
こうなると、10.6日の上杉の対伊達戦は、極めて防御的であり、とりあえず城を死守。
主立った戦果は伊達の小荷駄隊から輜重を奪ったこと程度だと、なってしまうわけだ。
慶長六年4月松川の戦いがリンクしない限り、10月6日の戦いは怖ろしくしょぼい「戦果」しかなく、
「落城前に、挟撃の危険を察知し、とりあえず撤退」し、上杉には「輜重を奪われただけだ」とする
伊達方の発表そのままとなってしまう。
129:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 20:52:33
9さんはどうして「常羽有情」にこだわるの?
土居輝男はよく知らんが、地方の自費出版系自称作家でしょ。
松川の戦いはたしかに興味深いテーマだけど、
家康がなかなか江戸を離れられなかった(関ヶ原出陣の遅れ)つまり、
関東の神経戦とでもいうべき佐竹の動向・伊達の動き・上杉と最上のにらみ合い
あるいは上杉の関東侵攻など関ヶ原直前の政治緊張の結果、起こったのが
福島界隈の紛争だったわけで、そうすると松川の戦い程度に納まった
政治動向のほうが歴史学的には重要なんじゃないかと洩れは思う。
で、伊達の南部領侵攻との関係や佐竹の動向と併せて研究したほうが内容のある
論文が書けるんじゃね、と老婆心ながら。
130:無名武将@お腹せっぷく
06/02/10 21:10:31
【史料一覧】
「武辺拙聞書」(嘉永3年・1850)250年後の軍記物
「佐藤次兵衛功名覚」(明暦3年・1657)57年後の軍忠状記録
「治家記録」(元禄16年・1703)103年後の編纂史料 (伊達氏正史)
「政宗記」(同時代史料)著者は伊達成実(永禄16年・1568~正保3年・1646)
131:9
06/02/11 06:11:37
>>129
土居氏のは「武辺拙聞書」→「日本外史」のラインで書かれたと思われるのでサンプル例として
上げてみました。なおこれよりメジャーな小説ネタに影響を与えている「松川の戦い」の他の例は
『群雲、関ヶ原へ』(下巻/新潮文庫)岳宏一郎。小説家の「資料解釈」を知る意味で。
(慶長5年10月6日松川の戦い)
「翌六日、伊達軍三十六隊はいっせいに動き出した。政宗は本隊を率いて福島城に向かい、
別働隊は摺上川を渡り庭坂、荒井、大森の諸所を占領した。」
「政宗は福島城将の本庄繁長に、全くいいようにあしらわれた。先鋒の片倉隊の戦いぶりも
あまり褒められたものではなかった」
「須田長義、車丹波といった上杉の武将たちに追尾された片倉隊の被害は甚だしく、輜重
まで奪われる体たらくだった」
戦いの攻防が、本庄の防衛及び追尾された際に、伊達の輜重が奪われたことが描写されており、
土居氏とバリエーションが似ている。
132:9
06/02/11 06:24:45
同書(慶長6年4月26日松川の戦い)
「慶長六年になっても伊達の侵攻はやまなかった」
「三月にも、四月にも伊達兵は伊達、信夫を侵した」
「なかでも四月の松川合戦は政宗自身が岡野左内と太刀打ちするほどの激戦となった。このとき政宗は
左内の陣羽織を二度斬り、左内も政宗の兜を撃ち、しころを薙いだ。“あの粗末な武具をつけた武者が
政宗だと分かっていたら、組んでも討ち取っていたものを”と左内は後年まで口惜しがった」
慶長5年はとりあえず福島城を死守、慶長6年がメインで伊達勢を痛撃したと、いう印象で、土居氏
の立場と酷似している。もっとも、これらは上杉方の資料に則っているので、ルール破りとはいえず、
自然とこうならざるをえない。(以上、小説本の中に見られる松川合戦の解釈)
133:無名武将@お腹せっぷく
06/02/11 23:54:54
島津vs上杉vs毛利vs伊達vs立花vs北条vs武田 4回戦
スレリンク(history板)
134:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 03:52:22
人取橋の戦い ○伊達軍8千 対 ●佐竹・蘆名・畠山連合軍3万
反伊達の連合軍は数に任せて攻め込んだ。政宗はこの報に接し、最上に対する押さえに2千、大崎に対する押さえに3千人を配し、総勢8千人を率いて布陣した。
政宗、成実らの奮闘によって連合軍は本陣を抜く事が出来ず、伊達軍は圧倒的劣勢の中から持ちこたえた。
この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。
窪田の戦い ○伊達軍6百 対 ●佐竹・蘆名連合軍4千
佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、4千人が安積郡に侵入した。
政宗は大崎や最上などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
政宗は伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、両軍が激突、連合軍が2百人程度の犠牲が出たのに対し、伊達軍は6十人程度だった。
伊達軍は劣勢の中持ちこたえ、40日間の持久戦のすえ和議が成立した。
摺上原の戦い ○伊達軍2万3千 対 ●蘆名軍1万6千
緒戦は蘆名勢優位のうちに進んだが、伊達成実の側面攻撃によって形勢は逆転。
伊達軍の厚い壁を破る事が出来ず、蘆名軍は敗走。蘆名軍は死者2千という大被害を出し、蘆名義弘は佐竹家へ逃亡。
南奥羽の雄蘆名家は滅亡する
童生淵の戦い ○伊達軍 対 相馬軍
相馬勢は当主義胤の弟隆胤を始め多くの家臣が討ち死にするという大敗を喫した。
その後、この戦いは豊臣秀吉の総撫事令により戦いは止まることとなった。
なお、以後戊辰戦争まで駒ヶ峯が伊達氏と相馬氏の藩境となり、駒ヶ嶺以北の現在福島県新地町は伊達領となり、この戦いの影響が大きかったことが分かる。
白石城の戦い ○伊達軍 対 ●上杉軍
伊達軍は首級7百を上げ、わずか1日で白石城を落とした。
長谷堂城の戦い ○伊達最上連合軍 対 ●上杉軍
伊達と最上の巧みな連帯により、直江兼継は城を落とせずに撤退する。
西軍についた上杉は大幅に減封され、伊達と最上は大幅に加増された。家の命運を分けた戦であった。
大坂夏の陣 ○伊達軍 対 ●豊臣軍
騎馬鉄砲隊によって後藤又兵衛と薄田兼相は戦死。政宗はやはり生まれてくるのが遅かったのだろう。
135:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 11:09:13
なにこの恥ずかしいテンプレ
136:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 13:31:27
日本史演義政宗伝
137:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 13:37:26
政宗っていうと手柄欲しさに友軍を後ろから攻撃したヤツという印象が強いな。
138:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 14:08:40
神保は、懈怠罪で片倉に粛正されたんだろ。
何せ本田正純が公認してるし。
139:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 14:48:02
>>137
「難波戦記」か「薩藩旧記」でも読みましたか?
「難波戦記」のほうは捏造、「薩藩旧記」のほうは伊達を中傷するのが目的で、
しかも伝聞を元にして書かれているので、あまり信用できる代物ではない。
明石勢にやられた神保勢が伊達の陣に崩れてきたので、
軍法にのっとり銃撃しただけ。
手柄欲しさってのは、どこから出てきた解釈ですか?
140:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 15:18:27
どっかのスレで、伊達が味方を撃ったとかなんとかいうのがいて、
挙げたソースが薩藩旧記なもんだから、あっという間に袋叩きになっていた
奴がいたっけなあ。
141:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 15:25:22
>>140
あれはなんで味方を打ったんだろうな。200人くらい皆殺しなんて改易もんだと
思うけど。 家康が牽制して躊躇なく撃ち殺すとかいうやりとりなら、戦国時代
ってやっぱすげーと思うしかない。
142:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 15:43:12
神保事件か。先陣の片倉隊は相当荒々しく、気も高ぶってた
んじゃないか。6日は小松山で午前2時頃から後藤隊と銃撃戦
をして討ち取り、その後薄田隊と激突。それで昼頃は、あの
真田の精鋭と真っ向からぶつかって、死闘をくりひろげた。
その翌日の船場口での事件だからなあ。当日は落城間際で
敵味方大混乱の状態だった。何かトラブルもからんで、皆殺しと
なったのだろうな。
143:無名武将@お腹せっぷく
06/02/12 22:05:48
手取川・・・捏造
松川・・・捏造
唐沢山城・・・捏造
川中島・・・脚色だらけ
上杉m9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーハッハーーヒャヒャヒャヒーーwwwwww
144:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 04:45:54
○伊達 ●上杉
伊達の圧勝
捏造しか出来ないゴミ上杉乙wwwww
145:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 04:46:32
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
146:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 06:17:51
糞スレ化
147:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 07:20:28
(ここまでのまとめ~「松川合戦はあったか」)
慶長6年3月、上杉は家康と和睦。間に立ったのが結城秀康。
彼は伊達政宗に、慶長5年の十~十一月頃、上杉攻めをしないよう
に釘をさしていた男でもある。
上杉と最上の羽州戦争も慶長3~4月には終結。
政宗は4月中旬に仙台城へ入り、領国経営を本格化。
つまり、慶長6年4月26日松川の戦いは、なかったということだ。
捏造であり、上杉方のつくりあげた「伝説」なんだよ。
148:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 07:22:16
慶長3~4月には→慶長6年3月4日~4月頃
149:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 07:25:46
(上杉方の証言)
小手六十三騎についての記述「福島の町と村Ⅰ」福島市史別冊Ⅴ
景勝は伊達政宗の侵攻を予期して各支城を固めさせたが、慶長五年六月には
梁川城に攻めてきた。上杉勢は梁川城をかため、妻子を人質にして小手六十
三騎を味方に引き入れた。ついに、伊達・上杉両軍は十月摺上川・松川で激
突した。梁川城代須田長義は、小手六十三騎を含む上杉軍を率いて伊達軍を
やぶり、翌六年四月立子山村の小貫太郎左衛門・佐久間次郎左衛門・安部四
郎兵衛・橋本内蔵助・本田作兵衛など小手六十三騎に戦功に応じて一〇〇石
から二五〇石までの功賞(川俣町史Ⅱ 127p)をあたえた。
上杉では慶長6年4月下旬に、慶長5年10月の戦いの論功が与えられた。
150:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 17:24:57
ゴミ大名、上杉の輝かしい戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという前代未聞の神業
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず無様に逃げ帰る
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
151:9
06/02/13 19:19:43
続ける。ここで伊達煽りによく引用されるお馴染みのサイトに、ここで一応
つっこんでおく必要がある。
「武家列伝:本庄繁長のサイト」
URLリンク(www2.harimaya.com)
上杉厨の捏造例。上杉家が抱えていた浪人たち、山上道及、前田慶次郎、
車丹波、岡野左内らのうち、斎道二メンバーが活躍している。
>●政宗軍を撃破する
このころ、須田長義を将とする梁川城兵は政宗が梁川城をまっ先に襲うであろうと信
じ、油断なく備えを整えていた。、ところが、伊達の大部隊は桑折方面から福島に向
かったという情報を得た。長義はただちに出動を命じ、阿武隈川を渡って伊達勢の跡
を追った。そして、前田・桑折で伊達軍の小荷駄隊に追い付き、これをたちまち蹴散ら
し、摺上川を渡って急追し、松川北岸に至って渡河を終えていない伊達軍を捕捉し伊
達軍に襲い掛かった。渡河の途中で背後から追撃を受けた伊達勢はたちまち大損害を
受けて川中に追い込まれ、ほとんど壊滅した。長義はこれより先、早打ちで来援を福
島城に告げていた。
この報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。一方、
すでに浮き足立っていた伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。これをみ
てとった繁長が中央本陣に向かって集中攻撃をかけたことで、ついに伊達軍は総崩
れとなり、無数の屍体を遺して退去した。一方、福島勢は追い討ちをかけ、一齋道二
は政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀まで斬り付けたが、馬上の政宗は辛うじて
難を逃れたといわれる。こうして、繁長は二十倍もの戦力の開きを克服して、伊達
軍に完勝したのであった。この戦いにおける両軍の戦死者の数は詳らかではないが、
それは莫大なもので、とくに伊達勢の死傷者は甚大であったことは間違いないだろう。
152:9
06/02/13 19:21:55
(上記資料のつっこみどころ)
・慶長5年10月6日の戦いに、なぜか慶長6年4月26日の戦いが貼り付けられている。
・上杉の資料によれば「二太刀」云々は、を一齋道二でなく「岡野左内」である。
なお、政宗「に二太刀斬りつけた」のではなく、政宗「から二太刀斬りつけられた」
のであり、資料の誤用が見られる。
>岡野は角栄螺の甲にそぼろの立物打て猪首になし、猩々緋の羽織に鹿毛の馬に乗、
川涯にて引下り防戦。政宗能敵と見保て馬を乗付、左内を二太刀切付られ、
(慶長6年4月26日の松川の戦い「武辺咄聞書」)
・「伊達勢の死傷者」とは、小荷駄隊が襲撃された際の足軽人足勢と推測される。
153:無名武将@お腹せっぷく
06/02/13 21:05:48
「武辺咄聞書」は幕末の軍記物だろ。
何で史料批判の対象になるのかと、小一時間・・・。
154:佐竹蟲
06/02/13 21:23:59
『常山紀談』では岡左内も政宗に切りつけたことになっているよ。
「政宗勇み進んで追かけられしに岡野猩猩緋の羽織着て鹿毛なる馬に乗り、支へ戦ひけるを、
政宗、馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野ふり顧て、政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切り付け、
かえす太刀に冑のしころを半かけて切はらふ。政宗刀を打ち折りてければ、岡野すかさず右の膝口切付けたり」
『常山紀談』のネタが『武辺咄聞書』から来たか、誰かが勝手に付け加えた話かどうかは知らないけど、
少なくとも『常山紀談』が知られていた頃からそういう説があったということにはなる。
あるいは五木ドージが切り付けたと言う話も、底本何か別の底本があるんじゃないの?
『常山紀談 中巻』岩波文庫 湯浅常山/著 森銑三/校訂
155:無名武将@お腹せっぷく
06/02/14 00:39:05
政宗片目なのにテラツヨスwwwwwwwwっww
156:無名武将@お腹せっぷく
06/02/14 05:01:22
√ ∪ヽ
ξ(´・ω●)
157:9
06/02/14 06:02:45
2つの資料を比較すると、主戦場と伊達軍が撤退したポイントが、同じ上杉の言い分なのに激しくズレ
まくっていることに注目したい。明らかに同一時期の戦場ではない。
>>151の資料=「慶長6年4月26日の松川」における軍記物語が伝える上杉の戦果報告)
・須田長義を将とする梁川城兵は梁川城で整えていたが、伊達が桑折方面から
福島に向かったという情報で、出撃する。
・須田隊は、阿武隈川を渡り、前田・桑折で伊達軍の小荷駄隊を蹴散らし、摺上川
から、松川北岸の渡河中に伊達軍を急襲。→伊達隊壊滅。
・応援の福島勢が駆けつけ、伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱。
・本庄繁長による中央本陣突破で、伊達軍は総崩れとなり、無数の屍体を遺して退去した。
>>67の資料=「慶長5年10月6日の松川の戦い」における福島市史などが伝える伝承)
・政宗は愛宕山に本陣をはった(愛宕山から黒沼神社に一帯にかけて)。
・伊達軍は松川をはさみ大仏城(上杉軍)・会津からの援軍(上杉軍)と曾根田・小山新井
五十辺あたりで交戦した。
・梁川城から駆けつけた上杉軍に愛宕山本陣を横から攻められ撤退をよぎなくされた。
・このときの両軍の戦死者塚が黒沼神社裏手にたくさんあった(といわれている。(現在はない)
・政宗はたった一騎で山伏にかくまわれて逃げた。
(あったとして)政宗の本陣の「陣幕」は、黒沼神社で奪わないと理屈があわないわけだ。
(>>151は、死傷者が曖昧な点、政宗との一騎打ちを挿入した点、撤退場所の3点で相当胡散臭い)
>>154
その「底本」気になりますね。この武勇伝の伝わった経緯も含めて。
158:無名武将@お腹せっぷく
06/02/15 06:53:17
「会津の儀は、来春出馬せしめ成敗いたすべく候」
(慶長五年十一月、伊達の家臣山岡志摩宛ての家康書状)
慶長五年の暮れ頃、徳川家康が、上杉家を軍事殲滅しようと考えていたことが伺える。
159:無名武将@お腹せっぷく
06/02/16 08:20:00
てか、上杉厨、全然反論できないじゃん(w
慶長6年4月26日に、松川で伊達の2万数千人の大軍勢を寡兵で破った上、
政宗の本陣の陣幕まで奪ったと言ったのは、伊達でも徳川でもない。
上杉自身なんだよ?w 本当に捏造だらけだな。上杉はw
160:無名武将@お腹せっぷく
06/02/16 12:32:49
【史料一覧】
「武辺拙聞書」(嘉永3年・1850)250年後の軍記物
>>159が言ってるのはこのフィクション↑
反論も何も、相手にしてないわけだが??
「佐藤次兵衛功名覚」(明暦3年・1657)57年後の軍忠状記録
慶長5年10月に関して、上杉勢勝利の詳細な記録あり。
「治家記録」(元禄16年・1703)103年後の編纂史料 (伊達氏正史)
記録あり
「政宗記」(同時代史料)著者は伊達成実(永禄16年・1568~正保3年・1646)
記録なし
161:無名武将@お腹せっぷく
06/02/16 12:53:07
>>160
何か大きな勘違いをしているようだが。。
『武辺咄聞書』は延宝八年(1680年)、国枝清軒によって編纂
された武辺咄集だよ。特に上杉関連。
その「武辺拙聞書」(嘉永3年・1850)の、「嘉永」がどこから
出てきたのかしらんが、おそらく「嘉永3年版」(エディション)
のものだろうw
多分、ネット検索の冒頭でその嘉永版をヒットして勘違いしたんだろう(w
162:無名武将@お腹せっぷく
06/02/16 13:01:34
>>160
ちなみに、頼山陽の「日本外史」の成立が文政10年(1827年)~12年。
タイムマシンにのって、嘉永3年(1850)に飛んで上杉資料(「松川」
部分)を見たわけないよね? wwww
163:無名武将@お腹せっぷく
06/02/16 13:05:51
このスレは上杉厨が必死に捏造してて面白いですね^^
このスレと同じくらい痛いよwww
島津vs上杉vs毛利vs伊達vs立花vs北条vs武田 4回戦
スレリンク(history板)
164:無名武将@お腹せっぷく
06/02/16 23:57:00
上杉ってすごいな^^
伊達に全く反論できないからって醜い暴言しか吐けないなんてねw
165:無名武将@お腹せっぷく
06/02/17 21:42:36
389 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 13:48:37
>>388
ぐぐって高柳氏監修の本もちだされても、あっそとしか答えられないんだけど
都道府県レベルの自治体の図書館に行って、実際に見てきてら?
陸軍参謀部編纂の大日本戦史が置いてあるから
復刻版は読んだことないね
だから、どう校訂されてるかは知らない
復刻版読んだのなら、基の資料紹介や、中で使われてる書状等の活字化は勿論されてるよね?
大日本戦史では、そうなってるから
というか、こんなレス返ってくるとは思わなかった
釣りかな?
397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:17:05
煽りも結構、どうぞネット検索で悦に入ってくださいね
406 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/17(水) 15:37:28
明日にでも図書館行って撮ってくるよ、ぐぐるだけで、足運ばない人間相手にはそれしかないから
166:無名武将@お腹せっぷく
06/02/18 05:01:20
松川の戦い・…・伊達と上杉間で慶長5年10月6日にあった戦い。上杉は瀬上で敗北し退却。
続く松川では、片倉、茂庭、屋代の軍勢に本庄義勝の兵が破られ、福島城へ
退却する。上杉勢は、福島城で首級300を挙げられる。上杉勢は伊達を追
尾し、小荷駄隊の足軽人足勢を襲い「輜重」を奪うのが精一杯だった。
よほど悔しかったのか、負け惜しみに、慶長6年4月26日に2万5千の伊達軍
を寡兵で破り、政宗に阿武隈川で斬りかかり「政宗本陣の陣幕」を奪ったと、
後年捏造創作して溜飲を下げる
爆笑。
上杉のいうことはつじつまがあわないことばかり。ただの浪人者が伊達政宗と
一騎打ちしたり、槍を入れたりの大活躍をしたり、本陣の陣幕を奪ったりだの
明らかな嘘だらけ。戦っている時期も違うし、場所も違う。黒沼神社の政宗本陣
で戦ったり、阿武隈川で戦ったり、コロコロ主戦場も、時期も入れ替わる(笑)
「過大なガセネタ」とつっこまれる所以だね (w
167:無名武将@お腹せっぷく
06/02/18 05:19:40
本庄繁長が、具体的に、どう福島城を死守したの? と突っ込まれても
上杉厨は答えることができない。じつは、伊達が1日で帰ってくれたから
命拾いをしたのが真相だからだ。
答えに窮した上杉は、その活躍内容として「慶長6年4月26日の架空の松
川合戦」の資料を持ち出して、説明するほか無い。その苦しい例が、小説
『奇策~北の関ヶ原松川・福島城の戦い』だ。
168:無名武将@お腹せっぷく
06/02/18 05:34:21
黒沼神社付近に伊達政宗が本陣をはっていたこと。その付近に大量の死体が発見されたことで、
ここが主戦場で、政宗の陣幕が奪われ、ここから間道を通って、伊達勢が撤退したように主張す
るとする人がいるが、福島県在住の肝心の地元作家が描く『奇策~北の関ヶ原松川・福島城の戦
い』では完全に否定されている。黒沼神社付近での伊達勢の損害は、ほぼゼロだったと
この作家は主張している。福島県内で意見が180度わかれているということであり、「町史」の
伝承レベルの憶測の域を全然でていなことの証でもあるだろう。
169:無名武将@お腹せっぷく
06/02/18 06:06:12
伊達厨は早く大日本戦史見せてくださいよ
170:無名武将@お腹せっぷく
06/02/18 09:36:59
愛國戰隊大日本なら1巻持っておるぞよ
171:無名武将@お腹せっぷく
06/02/18 12:35:14
慶長6年3月に戦争終わってますよ? 上杉さん(w
172:無名武将@お腹せっぷく
06/02/18 19:32:06
471 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 00:57:55 ID:Zm6ysZtO
織田厨必死ですね。プ(ゲラ
まあ、手取り川は上杉だけじゃなく、本願寺や京都の公家の日記や松永の資料にも残っているんだがな。
506 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 12:48:35 ID:ZWtSbyLn
>>471
あったとしても、それ、>>446の「謙信の書状」に対しての各所のリアクションだろ。
特に反信長の連中は、喜び勇んで「信長ヨワスwwwww謙信上洛で
信長シボンヌww」とか書き立てただろうけど、話の出もとが、恐らく
謙信が書いたの誇大妄想の産物による書状なわけで…。
507 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 12:58:29 ID:Zm6ysZtO
はいはい。本願寺文書を読め。話しはとりあえずそれからだ。
508 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:08:18 ID:ZWtSbyLn
>>507
本願寺文書?
「天正4年に根来の鉄砲で信長が逃げた」って記載はあるそうだけど、
天正5年9月とされる手取川合戦に該当する内容は、記載されて
ないらしいぞ。
511 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:22:55 ID:ZWtSbyLn
ちなみに本願寺文書から信長関連の記載を抜粋したもの。
-----------------------------
天正5 信長,紀伊雑賀衆を討つ
-----------------------------
どうも手取川に関する記載は無いっぽい。
URLリンク(www.bigai.ne.jp)
514 名前:名無し曰く、 投稿日:2006/02/18(土) 13:31:56 ID:w9k3315w
謙信厨、脂肪確定wwww
173:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 13:00:41
>>172
上杉の戦績が捏造だらけなのは知ってたが
上杉ファンまで捏造してたのか。
174:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 13:03:06
手取川・・・捏造
本願寺文書・・・捏造
松川・・・捏造
唐沢山城・・・捏造
川中島・・・脚色だらけ
上杉m9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーーハッハーーヒャヒャヒャヒーーwwwwww
175:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 14:35:45
>>174
本願寺文書自体は捏造じゃないよ。
>>172 にも有る通り、手取川合戦の記載なんか無いのに
上杉厨が勝手に「手取川合戦の証拠」と、どういうわけか
脳内認定してただけでw
176:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 14:49:18
手取川合戦も松川合戦もそうだが、資料同士を勝手に上杉方に
都合良くリンクさせて、さも実在したように語る上杉厨の姿勢が
揶揄されてるんだろう w
177:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 14:52:37
「松川合戦」は上杉を賛美した時代小説の中にしか出てこないが、
童門冬二の『北の王国~知将直江兼続』には、1行の記述すらない。
さすがに童門氏も、気恥ずかしくてカットせざるを得なかったのだろうw
178:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 14:54:51
>>175
>本願寺文書自体は捏造じゃないよ。
いや、本願寺文書に手取り川なんてないじゃんって意味だったんだが。
いちいち一向宗の寺なんか調べに行くわけないから
バレる訳無いと思って嘘ついたんだろうけど速攻でバレてワロス。
179:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 15:30:21
松永が、謙信の書状を真に受けて、「信長軍大ダメージじゃん!
謙信のさらなる侵攻を恐れて北陸に軍が釘付けになって謀反
のチャンス!!」と考えたと仮定すると、あの、
松永&三好謀反→信長の大軍勢が逆包囲→高屋の畠山昭高
すら攻め滅ぼせないまま→虚しく信貴山に篭城
っていう無謀な行動に打って出た理由が見えてくる。
(「話が違うぞ謙信!」って思ったろうなぁ……)
180:無名武将@お腹せっぷく
06/02/19 16:33:00
>>172
その後、手取川は真実と主張していた上杉厨が出てこないのが笑えるな
181:9
06/02/20 07:11:44
続ける。「武辺」につづくのは「会津陣物語」(慶長6年4月の松川合戦の記述)
>須田は采配を振り、山岸の鉄砲百挺を追い立てて、片倉を激しく追った。
松岡清左衛門は、川端に起ち百挺で撃ち立てたが、須田の兵は物ともせず、
脇目もふらず攻めかかったので、松岡の鉄砲も一斉に崩れ、片倉勢と同じ
く逢隈川を逃げ渡り、流される者が多かった。須田の軍兵どもは、勝ちに乗
じて追いかけ、川の半ばまで追いかけたところに、築地修理が須田の脇に寄っ
てきて、『敵の二陣が、川の向こうに構えている。長追いすれば失敗するに
違いない。もはや引きなさるがよい。』と諫めた。佐竹の軍の車丹波も、須田
の前に馬で立ち塞がり制止したので、大炊も川の中ばから引き返した。片倉は、
浜田が二陣として川向こうに構えていたのに助けられて、『鰐の口を逃れられ
たことだ。』と連れ立って退いていった。政宗の軍兵四百八十八人が上杉方に
討ち取られた。須田大炊は、その首を実検し、梁川城に戻った。一方政宗も、
人馬を休めようと白石城に入ったので、その後、戦いはなかった。本庄重長は
老功の名将と恐れて福島城には攻めかからず、須田大炊は二十三歳の若輩と侮
って梁川城へかかり、思いの外に手を取られたから、世間への聞こえや、何よ
りも第一に家康公の覚えがどうであろうか、気遣ったとかいうことである。
182:9
06/02/20 07:12:53
上記の文、最後の「世間への聞こえや、何よりも第一に家康公の覚えがどうであろうか、
気遣ったとか」という尾ひれが何故かついている(苦笑)が、上杉の古老が勝手に
斟酌したものであろう。約定違反となる福島城侵攻への伊達政宗の「家康への気遣い
・弁明」は、慶長5年10月19日の「今井宗薫への十一ヶ条覚え」の中にしか出てこない。(決して慶長6年4月ではないことに注意)
内 覚
一、フク島 江 参り候事(口上)
一、会津ニ御手前之衆置キ申シ度事
(宗薫宛て伊達政宗書状/慶長5年10月19日付)
183:9
06/02/20 07:34:14
さて、「会津陣物語」の奇妙な記述。
>本庄重長は老功の名将と恐れて福島城には攻めかからず、
須田大炊は二十三歳の若輩と侮って梁川城へかかり、
さて、これ、どういうことだろうか?
184:9
06/02/20 08:22:12
上杉さんへの宿題にしておくね。>>183の文の意味。
185:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 08:50:29
三戦にしては中々の良スレ。
しかし煽り荒らしをする厨は正直ウザイな。
ネット弁慶排除のためにID導入ならんかな。
186:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 09:50:48
そんなことしたら>>9が他スレで暴れられないじゃないかw
187:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 16:08:33
上杉厨「松川の合戦で伊達政宗大敗退ハゲワロス」
最上厨「・・・」
上杉厨「早く上杉最強と認めたらどうなんですか」
伊達厨「いや、先に松川の合戦があったという証拠を出せよ」
上杉厨「この史料は、最大限守ってあげたい」
伊達厨「捏造なんじゃねえの?」
上杉厨「どのようにして、その先入観を打ち破る事が出来るのか。本当に悩ましい」
佐竹厨「俺の持ってる史料には松川の合戦なんて出てないな」
上杉厨「この一方的な攻撃。この風景。こんなところで史料を示したらかなわないと感じるのは当然」
伊達厨「だったら松川の合戦なんて出すなよ」
上杉厨「一言聞いただけでガセだと決め付ける、言論封殺、もっとも恥ずべき行為」
佐竹厨「史料が出せないなら史実と認めるわけにはいかないな」
上杉厨「どのような条件をクリアすれば、上杉最強と認める事ができるのか、知恵を貸してください」
伊達厨「おまえが捏造合戦を引き合いに出したんだろうが」
188:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 16:26:04
上杉最強はないだろう
189:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 17:52:39
福島城を解説している、福島県郷土出版物「歴春ふくしま文庫57ふくしまの城」
(著者: 鈴木啓)でも、松川の戦いといえば、慶長五年十月の戦いのこと。
長六年に松川の戦いがあったことなど、一行も書かれていない。
190:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 19:58:20
伊達厨「慶長6年の松川合戦なんて、ねーんだよ」
上杉厨「だから最初から慶長5年10月に政宗を撃退したと・・・」
伊達厨「慶長6年4月にどうなったんだよ、史料出せよ!」
上杉厨「慶長5年の軍忠状の記録、読んだの? 慶長6年じゃなくて」
伊達厨「慶長6年だよ、6年! 大勝したなんて捏造しやがって!!」
上杉厨「関ヶ原は5年だって、言ってるだろ」
伊達厨「慶長6年!!!」
上杉厨「・・・」
伊達厨「伊達が上杉に負けるわけねぇだろ、ボケ!!!」
191:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 20:23:57
まあ、ふざけてる書き込みのようで、今までのやりとりを、分かりやすくまとめた意見かも
>>187 >>190
192:無名武将@お腹せっぷく
06/02/20 23:48:57
自己レスして楽しいのかしら
193:無名武将@お腹せっぷく
06/02/21 00:22:20
>>191が自演に見えた理由を聞きたいが
194:無名武将@お腹せっぷく
06/02/21 00:40:30
>>192はボケ
内容も読まずに糞レス
195:無名武将@お腹せっぷく
06/02/21 03:35:05
>>193
カワイソス
196:無名武将@お腹せっぷく
06/02/21 03:37:41
>>190=>>191
197:無名武将@お腹せっぷく
06/02/21 11:37:33
>>192はボケ
内容も読まずに糞レス
198:無名武将@お腹せっぷく
06/02/21 12:03:34
はいはい自演自演
199:無名武将@お腹せっぷく
06/02/21 16:47:59
はいはい自演自演
200:無名武将@お腹せっぷく
06/02/22 12:19:49
このスレ見ると、いかに伊達ファンがまともで上杉厨がキチガイかってのがいやっていうほどよくわかるw
これからも2ちゃんで必死な捏造活動し続けるんだろうねwww
201:無名武将@お腹せっぷく
06/02/23 01:35:35
はいはい自演自演。
202:無名武将@お腹せっぷく
06/02/24 08:20:55
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
203:無名武将@お腹せっぷく
06/02/24 18:49:47
はいはい。厨乙
204:無名武将@お腹せっぷく
06/02/24 20:48:01
慶長5年 7月27日
家康、伊奈図書を伊達政宗の元へ使わし、岩出山城を堅守して、
景勝と戦う事を禁ずる。
205:無名武将@お腹せっぷく
06/02/25 01:44:01
>>202
ある意味かっこいいなww
206:無名武将@お腹せっぷく
06/02/26 10:37:23
松川はあったニダ
207:無名武将@お腹せっぷく
06/02/26 15:20:12
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
208:無名武将@お腹せっぷく
06/02/27 15:37:04
↑10万も兵出せるはずねぇよしねー
209:無名武将@お腹せっぷく
06/02/27 17:13:48
↑「関東注文幕」(250の武将名)「上杉家文書」読んで氏ね、無学者
210:無名武将@お腹せっぷく
06/02/27 19:52:36
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
211:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 05:27:47
孫子の否定か
212:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 06:44:28
伊達側の資料は伊達治家記録のみw
213:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 13:21:40
アンチ謙信って今の小泉自民党みたい汚ねーやつらが好きなのかな。
214:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 14:49:11
汚いのは捏造ばかりの上杉
215:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 15:42:07
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
216:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 19:36:56
慶長五年十月六日正宗福島江御出陣被成、本庄重長江若松から大関常陸守、
才野道二両人被遣、両人松川ニ而及一戦候、此儀梁川へ聞へ岩井行衛侍大将にて
伊達崎赤貝ノ瀬を乗り越し、西根に而新右衛門井次兵衛、次郎右衛門出会、
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に掛合申候所次郎右衛門打取申候、
其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、二の丸にて首実検被成候所、
首数八百余と御印被成候
●上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
西根郷大肝煎の桑折佐藤新右衛門一族が慶長三年(1598)
上杉景勝就封以来の軍功について、随従した甥の次兵衛が
明暦三年(1657)に書き上げたものである。
佐藤新右衛門は上杉家臣として、寛永年間に上杉の代官、
古河善兵衛とともに、西根堰を開堰したことで有名。
正宗御部勢を大分打取、 首数八百余
其後正宗梁川へ押寄 終に少利も無
又福島江御心かけ被成候へとも、不及一戦御引被成候、
※政宗が3回仕掛けて撃退された。
※合戦から57年後に記された合戦参加者の軍忠記録
須田系譜「長義の項」(成立年?)
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。
黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
●伊達方史料
「治家記録」(成立年=仙台藩主伊達家に伝わる治家記録の編纂は、
4代藩主綱村によって元禄年間に始まった)
(元禄16年(1703)先ず、輝宗、政宗(まさむね)、
忠宗(ただむね)の三代の治家記録が編纂された)
※合戦から103年後の編纂史料
「政宗記」伊達成実(永禄16(1568)~正保3(1646)年)同時代史料だが、記載なし。
217:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 20:40:52
>>216
上杉の場合、資料を出せば出すほど、矛盾が広がっていく。
(1)上杉が奪取した「とする」法華経二十八品について
この「法華経二十八品」はそもそも、慶長15年(1610)、徳川秀忠が上杉邸に立ち
寄った際、景勝が持ち出した逸話の中に出てくるもである。それによれば、慶長六年
四月に上杉が、伊達の本陣の陣幕と一緒に奪った。資料が一致するとおり、須田系譜
の「法華経二十八品」は武辺と同じ慶長四年と全く同一である。
よって、慶長5年10月6日のものではない。
●須田系譜「長義の項」(成立年?)
「政宗の後陣を襲い、遂に小荷駄・陣具。竹に雀の紋幕及び看経幕。
黄糸を以って縫った法華経二十八品」を奪い取る軍功を挙げたことを記している。
↓
>伊達家の相伝什物代々の宝とする看経幕(紺緒に黄糸にて法華経二十八品を縫)
并竹に雀九曜星のまく迄奪取る。「武辺咄聞書」(慶長六年四月)
218:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 20:42:52
(2)伊達勢の被害状況について
言った者勝ちというのだろうか。慶長六年四月「武辺咄聞書」では上杉の戦果
は「500余人」と記載しているのもかかわらず、ここでは「首数800百余」
という。無論、名のある武者の名はそこには皆無。足軽人足勢を水増し発表した
ものと勘ぐらざるを得ない。
●上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
正宗御部勢を大分打取、其時山田堪解由正宗之御幕を取指上申候、
井仙台勢之内林十郎左衛門と名のり見方に掛合申候所次郎右衛門打取申候、
其砌次郎右衛門拾八歳ニ罷成候、須田大炊頭殿梁川江御引キ、二の丸にて首実検被
成候所、首数八百余と御印被成候
↓
>須田二備を急に切掛る故、政宗五千人数惣敗軍に成を、大炊勝に乗て追討に
三百余討取、夫より政宗本陣小山の留守へ押寄、政宗は福嶋表へ押詰たる跡
にて留守のみなれは須田又勝て政宗衆百八十余人討取。
「武辺咄聞書」(慶長六年四月)
なお慶長五年の戦いにおいて「仙台勢之」という表記は誤り。当時、伊達が本拠とし
ていたのは名取郡北目城。「岩出山勢」が正しい。(「千体」「千代」を「仙台」に
改称され、その名前の初出は慶長六年四月中旬である。念のため)
219:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 20:51:19
上杉の「大本営発表」と「伊達治家記録」。
後年、いわゆる「戦史」の中で、両者の立場がどのように反映され記述されていったか、
それを詳細に検討してみるのは、面白いものだ。
220:無名武将@お腹せっぷく
06/02/28 22:39:53
『武辺咄聞書』は延宝八年(1680年)、国枝清軒によって編纂
された武辺咄集だよ。特に上杉関連。
上杉方史料「佐藤次兵衛功名覚」(明暦三年四月)
をなぞったものと見て間違いないだろうな。
「伊達治家記録」。プッ、一世紀もあとのフィクションじゃん??