06/03/32 02:07:22
梟雄、松永久秀が謀反した際、説得に当たったのが信盛だ。
久秀は、かねてより交友のあった信盛の、その真摯な言葉に心を動かされつつも、
武士の意地を通して自爆。信盛はその姿を見、戦国の世の無情さを思い涙したと言う。
石山本願寺攻めでは総指揮を取り、5年に渡る戦いの末和睦に持ち込む。
最低限の兵で本願寺を囲み、いたずらに攻撃を仕掛けることなく、相手の士気の喪失を待つ。
敵味方双方に無駄な死者を出さない攻め方は、実に信盛らしいと言える。
だが、この戦略が手緩いと、織田家諸将から批判を浴びる。
この声を信長も無視することが出来ず、幼い頃からの重臣であった信盛を高野山に追放してしまうことになる。
信盛は、それで織田家がまとまるならと、黙って下知に従った。
信長の
「お前のような家臣を持って、不幸だ」
と言う言葉は、
「少しでも言い訳をしてくれれば弁護もしてやれるのに、それすらしないのでは追放するしかないではないか」
と言う、信長の悲痛な叫びの現われである。
その後、息子や郎党と共に高野山へ赴く。
だが信長は、幼い頃から仕えてくれた信盛を放っておけず、間もなく下山を命じる。
捨扶持を与え、のんびり暮らして貰おうと考えたのだ。
命に従い、下山した信盛。しかし、領地に赴く道中で病を得て死亡。享年55歳。
信長にとって信盛は、得難い武将であると同時に、幼い頃より自分を見守ってくれた師であり、父だった。
信盛の死を知った信長の悲しみは、想像に難くない。
信長は、息子の信雄に信盛の子、信栄を召抱えるよう命じた。
表立った供養をすることが出来なかった信長の、信盛に対するせめてもの供養であった。