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袁術
四世三公の名門、袁家の嫡子であり、春秋諸侯である陳国の卿をつとめた家柄でもある。
至誠の人として知られるとともに、帝位が唯一のものではないことを初めて示した稀代の革命家でもある。
はじめ大将軍何進の属官として、十常侍抹殺の際に活躍し、袁家に袁術ありと世に知らしめる。
ついで董卓討伐にあたっては孫堅を従えて参加し、全軍の兵糧を受け持つという、いわば高祖劉邦における蕭何の役割を担う。
しかし、袁術の声望が高まるのを妬んだ庶兄袁紹が関東諸侯に不和の種をまいたため、袁術の兵糧確保に支障が起き、前線の孫堅は撤退をやむなくする。
この件で孫堅は袁術を激しく責め立てるが、袁術は庶兄の陰謀と知りつつも兄を正道に導けなかった、己の責めるのみで、孫堅の非難には一切弁解しなかった。
後に孫堅はこの真相を知り、己の不明を深く恥じるとともに袁術の懐の深さに心服し、己の死に際しては嫡子を預けるほどになる。
袁術は後漢末の動乱期にあって、我利我欲に走る群雄たちに徳とは何かを体現した一方で秦の始皇帝に匹敵する偉業を成し遂げた。
それは「仲」の建国である。「漢」の皇帝がいるにも関わらず袁術が「仲」の皇帝に即位したことで、帝位が血のみあって不徳無能な人物に独占されるものではなく、徳と能を兼ね備えた人物は他の皇帝の存在に関わらず、皇帝と称することができる、としたのである。
これは秦の始皇帝が三皇五帝を凌ぐ者として「皇帝」の言葉を作ったことに対して、袁術が「皇帝」の定義付けを行ったのである。
この袁術の定義付けがあればこそ、後の三国時代のように複数の「皇帝」が並立できるようになったのであり、劉備や孫権は袁術の定義をなぞったにすぎない。