05/08/02 23:42:06
>>1
おつ
3:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 00:42:20
うんうん、良い感じに発展させていきましょう!
4:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 00:51:29
>>1
おつ
前スレで皆様が秀逸と思う紹介レスを教えてくださいな。
あと、誰か郭嘉なんか書いてくださったら嬉しいです。
5:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 00:57:19
>>4
前スレの>>1がシンプルで面白かった。
あと雷薄とかもワロタ
6:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 02:27:19
前スレ一番のヒットは黄蓋w
7:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 04:52:01
孟獲かな。あと董卓の「死してなお人々を照らし続けた」のやつw
8:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 16:20:56
凡から名だと47の楊松かな。
名から凡だと975の黄蓋。
どちらでも無いやつだと828の左慈。
一発ネタだと「黄祖パワー」だなw
9:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 17:50:17
おれは301の方広寺の鐘だな。
なにげに377の何進もうまいと思う。
10:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 19:04:56
【宋謙】
呉の将。孫策・孫権に仕え、武芸に秀でた部将で方天画戟の使い手。
始めは孫策の近衛兵として呉に仕えるが、孫策はまもなく病死し、変わって孫権の身辺警護にあたる。
「曹操には典韋・許チョ、劉備には関羽・張飛がいるように、ワシには太史慈と宋謙がいる」
とまで孫権に言わせる程に信頼されて、宋謙もこの期待に良く応えてきた。
後に太史慈は死し、変わって甘寧が台頭するが、近衛の双璧の一翼は常に宋謙が担ってきた。
彼は武芸のみならず、操兵にも優れていたとされている。
濡須へ楽進軍が攻めて来た時はこれを良く退け、周囲にただの武芸者ではない事も認識させる働きをし、
良くも悪くも強気になった孫権が合肥を攻めて張遼に奇襲をかけられて窮地に陥るが、
身をもって張遼を防ぎ、孫権を安全に避難させる事にも成功している。彼の活躍が無ければ呉は潰えていただろう。
しかしその時の傷と、乱戦の最中に李典の矢を受けた為、後を甘寧に任せてやむなく戦場から離脱する。
時は流れて222年、関羽・張飛の仇討ちと称して劉備が夷陵まで攻め寄せるが、その勢いに恐怖した孫権は
陸遜の下に宋謙を派遣、形勢逆転を狙う。
敵陣を見て「乙を以って労を待つ」作戦を行おうとしていた陸遜に同意し、逸る諸将を理を尽くして説得、
陸遜のような若輩に従わない者も、二代に仕えてきた宋謙の言には逆らおうとはしなかった。
やがて長期戦に疲れた蜀軍を陸遜の火計によって撃破、劉備を白帝城まで追いやった所で帰還した。
陸遜ら次代の英雄を見て安堵した宋謙は、自らの武芸を研鑽する為に引退を決意。
孫権はこれを惜しんだが、宋謙の意志が固い為にやむなく許可する。
これによって宋謙は歴史の表舞台から姿を消すが、宋謙は各地を遍歴しつつ方天画戟法の研鑽に勤め、
弟子を取ってこれを教える。
後に蜀の将となった鄂煥は彼の弟子の一人であり、鄂煥を「呂布の再来」とまでに成長させた立役者である。
11:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 22:43:09
嘘書いちゃ駄目だろ
12:無名武将@お腹せっぷく
05/08/03 23:50:08
【松永久秀】
出生地不詳。元京の商人とも言われる。戦国期最大の義将として知られる。
衰亡し名ばかりの管領・細川氏の一家老に過ぎない三好家を天下の覇者
たらしめたのはこれひとえに久秀の功績である。
このことは、五畿内・四国を領した三好家が久秀の退去後またたくまに消散
したことからも明らかである。
久秀は当代一級の改革者であり、大和にはびこる仏教勢力を焼き討ち、
天下人失格の暗愚な主家を崩壊させ、権威主義に固執する将軍家を討伐した。
これら抵抗勢力が万民のためにならないことをいち早く見抜いたのが久秀であり
あの信長公も、「人が1つとしてできないことを3つもやった。」と絶賛している。
信長公の叡山焼き討ち、将軍義昭の追放、伊勢長島の虐殺はこれすべて
抵抗勢力に対する久秀の行動を見習ったものである。
久秀は文化人としても著名であり、築城術に優れ本邦初の多層天守閣のある城を
築城したほか、茶道にも造詣が深く「平蜘蛛」「九十九茄子」などの多数の名器を
所有し、文化の保護者としても名高い。
久秀は、浅井長政離反の時には朽木谷の間道を案内し信長を助け、天下の
改革に努めたが、武田壊滅後増長した信長が暴君と化したことから、万民のため
大和信貴山城で挙兵した。
しかし、正義が勝つとは限らないのが世の常である。いつでも滅亡させることが可能
であったにもかかわらず情けをかけ命までとらなかった大和の弱小勢力、
筒井順慶の手の者が手引きをし、久秀は信貴山城と運命をともにする。
「洞ヶ峠」で天下に失態をさらした順慶如きのために久秀ほどの者が討たれるとは
世の中不思議なものである。
久秀の死の直後、大和では久秀を追悼する祭りが各地で開かれ、
故人の人徳をしのんだという。
13:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 09:03:51
陳琳
建安七子の一人。後漢随一の名文家・・・・とされてるが実は後漢随一の悪筆家でもあり、
その字のあまりの下手さかげんは曹操の頭痛をすっかり直してしまったといわれる。
14:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 10:57:51
郭嘉
曹操の名前だけの参謀。程イクの推挙なので無下にも断れず、つい雇ってしまった。
的確な事は言わず、あいまいな表現で人を煙に巻き、
優秀な人物のそばにいる事で自分も貢献したかのような顔をしていた。
官渡の戦いの際にも勝因は沢山ある、等と言いながら戦略での具体的な事は何一つ言わず、
他の参謀の言うに任せていた。
袁紹の子供達の対処についても、分からないので「ほっとけば?」と言った結果、
勝手に瓦解したのに郭嘉の進言のおかげという事になっている。
烏丸討伐に従うが、策が出せないので仮病を使って途中で離脱。
天下の曹操を誤魔化し続けている事に気を良くして酒を飲みすぎて本当に病気になってしまい、
曹操凱旋前には死んでしまった。
15:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 12:20:02
>>12
久秀が凄いヤツに思えてきたよ。
16:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 14:43:20
え、久秀は凄いヤツだろ
17:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 15:08:04
嘘書いてまで貶めてもなぁ。
18:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 15:14:46
嘘をつくなら書き込むな!
事実を述べながらも、捉えようによって色々な面を
見つける面白がるのがこのスレの趣旨だろ?
夏厨どもはひっこんでろ!
19:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 15:21:09
まぁ落ち着け
20:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 16:04:51
>>16
まあ確かにすごいんだが、いい意味で凄いってことだよ。
21:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 16:31:31
>>18
前スレの諸葛瑾とかダメっすか?
22:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 18:26:35
どっちの諸葛瑾?
人の方?それともロバの方?
まあ、どっちもどっちかw
23:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 22:11:41
どこがウソか指摘してやった方がいいんじゃねえの
24:無名武将@お腹せっぷく
05/08/04 23:04:17
許褚
魏の武将。汝南で一族等を率いて砦によった際、賊一万人に襲撃されたが牛の蹄の下に油を塗って牛の足を滑らせ、それを片手で引いて賊を驚かせた、という智謀の持ち主。
その後曹操に仕えるが、曹操が「わが樊カイである」と言ったのは、鴻門の会で項羽に堂々と正論を述べた樊カイに匹敵する弁舌の持ち主と評価したためである。
また、曹仁が曹操の休み中に訪れた際に正論を述べて通さなかった、という逸話は許褚の機転を示したものとして評価が高い。
曹操も許褚の智謀と弁舌を愛し、他の参謀たちを都に留め置く場合でも許褚だけは常に身近に置いておき、許褚もよくその期待に答えた。
また、馬超征伐の際に、許褚の異名「虎痴」が出るが、これは「聖獣たる白虎(=虎)も許褚の前では痴者に等しい」の意であり、許褚の智謀が広く知れ渡っていた証拠である。
敵将たる馬超も、わざわざ曹操に許褚がいるか、と尋ね、また許褚も馬超との一騎打ちの際には、あえて鎧を脱ぎ捨てて馬超の疑心を喚起して隙を作らせるなど、「虎痴」の名に相応しい働きをした。
曹丕、曹叡の時代もその智謀を評価されて、武衛将軍として中央に留め置かれ皇帝の近侍を勤めたが、これは許褚の智謀が戦場で発揮されることがなかったことでもあり、これがために蜀や呉の命脈を永らえた、とも言えるだろう。
25:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 00:51:34
>>18
まぁ、アレだ
同じ人物を使って手本を見せてやれば黙るだろうよ
その夏厨とやらも
26:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 01:03:10
え?ここってまるでシバリョウの「竜馬がゆ・・・
27:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 01:06:04
猛将→智将か。いいね。
28:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 03:26:33
>>24
珍しいやり口でいい感じー
>>18
事実でないことでも結果として辻褄があえばいいと思うよ。
29:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 03:55:43
漏れは事実に対して捉え方を工夫するところに面白味があると思う
まあ必ずしもそうである必要はないのかも知れないが
>事実でないことでも結果として辻褄があえばいいと思うよ。
これは例えばどうゆうこと?
30:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 05:21:53
程昱
身長2mを超える腕力だけは人並みはずれた老人。
ある陣内の出来事、兵士達を景気づけようと「がんばってるか~い?」
と声をかけながら兵士の頭を叩くと勢いの余り兵士の頭ごと吹き飛ばし死なせてしまった。
これでは殺人の罪に問われると思った程昱は死なせてしまった兵士の肉片を混ぜ兵糧とし証拠を隠滅した。
官渡の戦いでは程昱が陣を攻めるもこの時60歳の老将の為、すぐ休憩してしまい
攻めては休憩、攻めては休憩といったなんともやる気のない戦いをしてしまった
しかし、敵将は何度も攻めてくる恐怖心からストレスが溜まりついに吐血して倒れた。
曹操は「これは十面埋伏の計だな!」と程昱にはそんなつもりはなかったが
思い込みの激しい曹操は程昱を絶賛した。
31:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 13:45:12
>>30
テラワロスwwwwwwwww
32:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 20:31:10
>>30
>兵士の頭を叩くと勢いの余り兵士の頭ごと吹き飛ばし死なせてしまった。
こーゆーノリ好きw
33:無名武将@お腹せっぷく
05/08/05 22:44:07
前スレで雷薄書いたから言うわけじゃないんだけど、
まあウソ無しが王道だけどネタに走る路線があっても
いいかなとは思う
34:無名武将@お腹せっぷく
05/08/06 21:43:53
>ある陣内の出来事、兵士達を景気づけようと「がんばってるか~い?」
ちょwwwwwwおまwwwwww
35:無名武将@お腹せっぷく
05/08/06 21:57:44
袁術
四世三公の名門、袁家の嫡子であり、春秋諸侯である陳国の卿をつとめた家柄でもある。
至誠の人として知られるとともに、帝位が唯一のものではないことを初めて示した稀代の革命家でもある。
はじめ大将軍何進の属官として、十常侍抹殺の際に活躍し、袁家に袁術ありと世に知らしめる。
ついで董卓討伐にあたっては孫堅を従えて参加し、全軍の兵糧を受け持つという、いわば高祖劉邦における蕭何の役割を担う。
しかし、袁術の声望が高まるのを妬んだ庶兄袁紹が関東諸侯に不和の種をまいたため、袁術の兵糧確保に支障が起き、前線の孫堅は撤退をやむなくする。
この件で孫堅は袁術を激しく責め立てるが、袁術は庶兄の陰謀と知りつつも兄を正道に導けなかった、己の責めるのみで、孫堅の非難には一切弁解しなかった。
後に孫堅はこの真相を知り、己の不明を深く恥じるとともに袁術の懐の深さに心服し、己の死に際しては嫡子を預けるほどになる。
袁術は後漢末の動乱期にあって、我利我欲に走る群雄たちに徳とは何かを体現した一方で秦の始皇帝に匹敵する偉業を成し遂げた。
それは「仲」の建国である。「漢」の皇帝がいるにも関わらず袁術が「仲」の皇帝に即位したことで、帝位が血のみあって不徳無能な人物に独占されるものではなく、徳と能を兼ね備えた人物は他の皇帝の存在に関わらず、皇帝と称することができる、としたのである。
これは秦の始皇帝が三皇五帝を凌ぐ者として「皇帝」の言葉を作ったことに対して、袁術が「皇帝」の定義付けを行ったのである。
この袁術の定義付けがあればこそ、後の三国時代のように複数の「皇帝」が並立できるようになったのであり、劉備や孫権は袁術の定義をなぞったにすぎない。
36:無名武将@お腹せっぷく
05/08/06 21:58:56
このように袁術は個人としては徳を積み、公人としては偉大な業績を上げるなど、他の群雄から抜きん出た存在であったが、それだけに庶出のためねじけた心根の袁紹から一方的に妬まれ、袁紹の悪友である曹操からは豊かな領地を狙われるなど、多難であった。
ここに至って袁術は兄袁紹を正道に戻すには袁紹の欲を満たし、それによって徳に目を向けさせるしかない、と決断する。
袁紹に皇帝位を譲ることを決めると、己自身のことは一切顧慮せず、自ら袁紹の元へと出向くが、宦官の孫という屈折した感情を持つ曹操が悪友袁紹が正道に戻ることを嫌い、
その曹操の手先となった劉備の手に掛かり、兄を正道に戻せずに先立つことを悔いながら生涯を終える。
37:無名武将@お腹せっぷく
05/08/07 00:20:25
なお、死に臨んで、雷薄(前スレ>>339)が作った蜜水を求めても得られなかったという話は、楚の成王が熊の掌を求めたが与えられなかったという逸話に通じるものがある。
また、死に臨んでも求めるのは蜜水のみという袁術の寡欲さが日常の節制を物語るが、その寡欲さが兄袁紹をはじめとする周囲の嫉視を買ったのであり、
後の世の人はその皮肉さを嘆いたという。
38:無名武将@お腹せっぷく
05/08/07 14:11:56
国の名前を変えちゃうのはどうですかね・・・
39:無名武将@お腹せっぷく
05/08/07 14:26:27
袁術の国名を成としてるのはどっかのゲームメーカーの設定なだけなんで
実際の国名は諸説云々だが仲が有力
40:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 01:47:23
程イク 不覚にもウケタw
41:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 11:40:13
いちいち批判する厨は消えて下さい^^
ネタ書けよバーカバーカ^w^w^w^w^w^
42:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 13:26:00
だれか袁術を銘水ハンターみたいに書いてくれろ。
究極の銘水・蜜水を求めて皇帝になろうとした男、みたいな。
43:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 14:44:44
こっちに移籍
董卓(とう たく)
後漢末期の軍人・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。兄に董擢、弟に董旻をもつ。
隴西郡臨ちょうの出身。献帝を保護し、漢王朝の再興に尽力した。
漢に反乱を起こした人物や北の匈奴討伐などで大いに活躍した。
公正清廉な人物で人望もあり、献帝からも信頼されていた。
そのためか朝廷内では功業の巨大さを恐れた宰相・王允の讒言により、南方の僻地へと左遷される。
その後王允の陰謀により「董卓に南で謀反の疑いがあります」と帝に上奏したため、
都に偽りの手紙で呼び戻され、惨殺されてしまう。
44:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 14:45:46
>>43
董卓のよさを説明するなら
どうして清流名士の再登用を挙げない?
45:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 15:07:29
王允(おういん)【前編】
後漢末の政治家。字は子師
太原祁出身。元は洛陽で豚肉を売り歩いていたが、時の桓帝が王允の妹を
を皇后に選んだ為、尚令書になる。次の霊帝の時には、大将軍、何進と
共謀し、霊帝の側に仕える邪魔な宦官、張譲ら十常侍を無実の罪で処刑した。
霊帝が崩御すると、幼い献帝を何進、董卓、董承らで即位させ、自らは
宰相まで地位登らせた。その後董卓を献帝が気にいると、またしてもあらぬ罪で
処刑し、その専横ぶりを四海まで轟かせる。
46:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 15:10:21
>>44
アナタに>>43を使って
註釈してもらおう。
47:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 18:10:44
王允(おういん)【後編】
董卓殺害後は何進と対立、刺客をつかい何進をも殺害し軍権を握る。
また洛陽の都の富豪から金品をせしめ、私服を肥やした。
註殺を恐れた董承は病と称して隠居し、その他の重臣達も王允のいいなりなる
195年各地の諸侯による反王允連合が結成され、洛陽で捕縛、3族処刑になる。
享年58歳であった
48:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 20:12:13
>>46
両腕から弓矢を撃てたという話も忘れるな
49:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 20:15:10
>>48
というより弓を左右両手に一つずつ構えて馬を走らせながら同じように射ることができたというべきだな。
50:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 22:38:24
↑どんな弓か説明汁
51:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 22:51:58
>>50
知らんな。記述に沿って書き込んだまでだ。
「双帯両鞬、左右馳射」
文句があるなら編者に言ってくれないか。
52:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 23:01:27
関羽(かんう)
三国時代の武将。字は雲長。
司隷・河東郡解良の人。劉備に仕えていた勇将で、
劉備に仕えてに従って各地を転戦した。
反王允連合で武功を立てる活躍を見せたが、翌年の『興平の大乱』で
袁術軍の紀霊に一合のもとに斬り殺された。
53:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 23:04:55
>>51
文句はない
説明ありがとう。
54:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 23:52:20
>>52
乙~?
その後の関羽の活躍は亡霊の仕業かw
55:無名武将@お腹せっぷく
05/08/08 23:55:36
・董卓は軍閥の長ではない。漢朝の官吏で、武官だった。
・黄巾を甘く見た朝廷の命で小規模な軍で討伐に行かされ、これを討伐しきれず失職し苦労した。
・宦官や外戚勢力による清流派弾圧に連座して免官されるも、結局その能力が求められ復職する。
・涼州で起こった大規模な反乱軍が長安に迫った際、幾度も迎撃に出ている。多くの官軍が敗北する中、董卓だけは任務を遂げ帰還した。
・霊帝崩御後勃発した宦官と外戚の勢力争いに際し、何進、袁紹らから上洛を求められるが、応じなかった。
催促されると、正規軍を皇甫嵩に預け静観。腐敗権力には力を貸さなかった。
・何進が殺害されると、僅か三千の手勢を率い、上洛を敢行。
・袁紹、袁術らの兵に宮殿を焼かれ、郊外に避難し路頭に迷っていた皇族や高官を保護、洛陽入りを強行し、
指揮系統を失い混乱する正規軍をまとめ、賊軍を追い払う。
・霊帝が死に、弁皇子を擁して絶大な権力を握ろうとしていた何大后らの勢力と対決。
協皇子の信頼と、生き残りの清流派、そして 僅かな兵だけを後ろ盾に、濁流派が招きいれた丁原らと戦い続け、遂に勝利。
・何大后の操り人形に過ぎなかった弁皇子を廃し、ついに何大后を打ち破る。
虐げられていた清流派官僚らと共に、世界史に悪名を残す党錮の禁に終止符を打つ。
・革命の余波で、清流派官僚が打った極端な人事や、ずさんな財政政策にとまどいながらも、
宦官勢力の濁流派であった曹操を含む優秀な人材を随所に登用、必死に建て直しを図る。
・党錮の禁で追放されたり処罰された清流派官僚やその子孫を全て復権させるという、ただでさえ苦しい財政を省みない無茶な政策にも耐える。
さらに袁紹、袁術ら地方軍閥を追放してしまった為、都に届かなくなった税の為財政は更に逼迫、苦し紛れに司徒らが切り出した改鋳政策に苦しむ。
・袁紹、袁術らが逆恨みで挙兵、曹操を始めとする官僚の裏切りにも会う。この後綴られる歴史に汚名を着せられる。
・無念の洛陽放棄。略奪をあてに長旅に耐えて来た田舎兵士が洛陽を焼く。宮殿に乱入した者が玉璽を盗む。
・長安に移り、官僚達の不満が暴発。スケープゴートに選ばれたのは辺境出身の彼だった。全ての罪を着せられ、暗殺される。
56:よくある批判について
05/08/08 23:58:26
・すごいデブだった
これは中世以降肥満を蔑むようになった漢民族の創作ではないでしょうか。
彼を最低の悪役として描く為の…正史が書かれた頃の中国では、肥満はむしろ美徳だった(それだけ富貴であるという事の証拠だった)はず。
・軍事力を背景に混乱した洛陽を占拠し、専横を奮った
正史にすら書かれてますが、董卓に後ろ盾となる地盤はありませんでした。
西涼の大軍を持っていたのは董卓ではありません。董卓は西涼の大軍の侵略と戦っていた人です。
・私腹を肥やした
肥やしようがありません。董卓が上洛した洛陽は、何進の暗殺と、それに対する袁紹、袁術の逆襲、宦官の殺戮により、
完全に地方に対する支配力を失ってしまっていました。さらに清流派の復権で人件費がかさんでいます。
・経済政策の失敗
残念ながら董卓はただの将軍です。経済政策には疎かったかもしれません。改鋳などを行ったのは、司徒らだと思います。
・残酷な刑罰や敵対勢力の縁戚の殺害を行った
革命後にはつきものです。やったのは怨念に駆られた清流派官僚だと思います。
また袁紹、袁術らはこの時点の洛陽では罪人です。どんな理由をつけようと、洛陽に侵攻し王宮を焼き、漢臣を殺し略奪を行った事は罪です。
この行為によって漢の威信はますます地に落ちたのです。袁紹、袁術派の人間に刑罰を科した事は、当時の刑法上では当然の事と思います。
これも、やったのが董卓であるという証拠はなく、そして董卓はあとで罪をなすりつけるのには格好の人物でした。
また、董卓はむしろ過去の派閥に囚われない人事登用を行っています。
・陵墓を荒らした
陵墓はとっくに、韓遂ら西涼の反乱軍や、袁紹、袁術に荒らされています。
これは韓遂らの略奪を止められなかった旧漢臣やその後台頭して来る勢力らが罪を董卓に押し付けた物かと思います。
或いは墓荒らしは悪役の行為の常道ですので、後世の創作かもしれません。
・その他悪行
金持ちを殺して財産を奪ったとか、略奪で美女をかきあつめたとか、もうこんな事は誰がやったか解りません。但し、後から見れば、董卓はその辺りの悪事を押し付けておくには格好の人物でした。
57:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 08:18:07
>>55
乙カレちゃーん
書いてあることに対する意見をしてしまうと討議スレになりかねんので控えるけど
新らしい手法とはいえやはりもう少しまとめて簡潔にしてしてほしい
あと結局凡将なのか名将なのかイマイチよくわからん^^;
暴君→凡君としたかったのかな・・・
58:?T??
05/08/09 09:55:13
>>55、>>56
長くて読む気になれん…
59:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 09:55:59
>>58
悪いが長くないとメジャーな悪役の再評価はできん。
60:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 10:00:39
要するに読書力のない奴は
読まなくていいっちゅーことやね!( ^∀^)ゲラゲラゲラゲラ
61:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 10:18:10
>>55
とりあえず乙。
初投稿さんかな?
>>1にまとめサイトあるから一度みてくるといいよ
62:gi
05/08/09 11:11:46
車冑(しゃちゅう)
後漢末期の武将。曹操の家臣。
曹操に仕え、車騎将軍に任じられた。曹操軍二十八騎の一人。
勇敢で二十八斤の牙戟を操る猛将として有名で、子供頃に虎と戦って素手で殴り殺した逸話も残っている。
劉備が曹操のもとから離れたとき、その監視役を命じられた。劉備が曹操へ反旗を翻し徐州城
に攻め込んだ時、徐州城門前で奮戦するが、関羽と一騎打ちの最中に後ろから趙雲に槍で貫かれ
てしまう、それでも尚、倒れるこなく獅子奮迅の活躍を見せ、一旦劉備軍を退けさせる。
再び劉備軍がやってくると、車冑は再び門前に立ちはだかり傷つきながらも戦うが、
最後は無数の矢を浴びせられ、門前に立ったまま憤死する。享年35歳であった。
63:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 12:24:13
(*´д`*)ゲラゲラ
64:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 12:50:07
(*´д`*)ゲラゲラ
65:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 13:02:12
創作しすぎ
66:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 13:04:56
悪魔に口づけ
椎名京介(インテリ高校生)×鮎原小麦(外見は少女みたいな高校生)
【話のあらすじ】
小麦の自慰
京介、小麦のペニスをしごいてやる
京介、小麦にフェラ
京介と小麦のキス
京介、小麦のペニスをしごいてやる
小麦、京介にフェラ
67:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 13:26:32
佐倉広夢きゅん 広夢くん
綿貫琉宇きゅん 琉宇くん
柊真生きゅん
里中翔きゅん 鮎原小麦きゅん
68:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 13:55:41
【張郃】
魏の五将軍といわれる一人が飼ってた犬。
元は韓馥に飼われていたが韓馥が滅ぶと袁紹に鞍替えし郭図に世話をされた。
曹操と戦うことになると邪魔になると思った郭図は曹操に飼わせるようにした。
漢中の張魯討伐では先遣隊の中に士気の向上の為と従軍し
街亭の戦いでは脅威の嗅覚で山頂に馬謖が布陣してることを発見し大勝利をもたらした。
更には南安・安定・天水に小便でマーキングをし、悪臭の為蜀軍は撤退し、あっという間に魏の領地となった。
のちに司馬懿が総司令官になると略陽の諸葛亮に対してラッキー犬こと張郃を派遣した。
諸葛亮は「張郃がきた」というだけで撤退した。これを司馬懿は無理に追撃させそのまま張郃は行方不明となった。
これは司馬懿が「張郃は儒学者に可愛がられている。のちに張郃が皇帝に選ばれてしまうかもしれない」と危惧した為である。
69:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 13:56:22
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ 荒 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) ら と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ し こ
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か れ
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! が
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶,
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
/ ヽ L__」 「 で 書 Lヽ ヽ〈 i| Vi゙、
ハ ワ {. ヽ. -、、、、 ' ノ き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
ハ ハ ヽ. ハ ) ん 込 | ',.' ,  ̄ , ' ノ //三国志・戦国板
ハ ハ > /|ヽヽ、___,,,,、 'く み > ヽ.  ̄´ / ,、 ' /
70:金正日 ◆VykG4Xiupo
05/08/09 14:08:36
田代まさし
ハーバード大学大学院卒でアメリカ航空宇宙局に勤めるも
突然NASAを退職し、遍歴を隠して日本に渡る
一級建築士の免許も保持しており、音楽センスでも他者を圧倒している
今は東京都の某所に身を隠し、麻薬の研究と風呂場の研究に勤しんでいると言う
謎の多いバイリンガル
71:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 14:59:01
頼むから荒らしはやめてもらえんかの(´・ω・`)
>>68
乙かれ~ 結構面白かった。
72:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 15:42:30
司馬懿がすごく馬鹿になってる件
73:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 15:48:12
朱霊(しゅれい)
魏の武将。字は文博。清河の人。曹操軍二十八騎の一人。
はじめ袁紹の家臣であったが、袁紹とそりが合わず出奔、諸国放浪の末、曹操に登用され家臣となった。
曹操は朱霊の非凡な才能を愛し、于禁の元で軍略を学ばせる。
219年蜀軍が襄陽に攻め込んできたため、干禁と共に援軍の将として出陣。蜀軍の猛攻に次第に軍を
維持できなくなり。上官の干禁も捕縛され絶体絶命の危機を36騎を引き連れて敵陣を突破し、
見事脱出に成功した。
曹操が死に、曹丕の時代になると次第に冷遇され。晩年は淋しい余生を送ったとか....
74:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 16:00:49
まとめサイト……
笑えると思って期待して行ったらすごく泣けてきた。
75:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 16:17:29
>>74
なぜだ?
76:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 16:17:42
>>74
どの辺が?
77:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 16:44:59
リョウカが好きなもんでね……。
78:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 16:53:11
>>75
ageないどいてよー(´・ω・`)
なんか自治厨ぽくなってきた漏れがいるw
>>77
笑えるのだと謙信とか華陀あたりが個人的に好きだなぁ。
79:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 17:00:21
廖化…
80:無名武将@お腹せっぷく
05/08/09 20:26:53
程昱wwwwwwwww
黄蓋wwwwwwwww
81:無名武将@お腹せっぷく
05/08/10 11:58:49
遅れたけど、
管理人サイト更新乙
まぁ、ageくらいは良いじゃないか
荒らしに反応しちゃいかんよ
82:無名武将@お腹せっぷく
05/08/10 12:09:34
管理人さん、まとめサイト更新乙。
まとめサイトの構成ですが、ライトサイドとダークサイド、アナザーサイドに分けてみるのはどうだろう。
83:無名武将@お腹せっぷく
05/08/10 15:06:56
ネタ投下キボン
84:無名武将@お腹せっぷく
05/08/10 18:32:17
大友義統 (おおとも・よしむね) 1558-1605
大友義鎮(宗麟)の嫡子に生まれる。幼名長寿丸。
将軍足利義昭の諱字を受け義統。後、豊臣秀吉の諱字を受け吉統。洗礼名コンスタンチノ。
信仰厚きキリスト教徒であり、彼の住まう野津においては爆発的に信者が増加したという宗教的徳望の持ち主であった。
また子作りに励んでばかりの実父大友義鎮に対し、お家騒動の元凶になると批判する高いな倫理性も併せ持っていた。
その為か、一万田宗慶ら義統に忠言する家臣は数知れずであったという。戦国時代においては稀にみる人格者だった
と言えるだろう。
戦場においては黒田長政揮下の将として朝鮮に出兵、長駆して鳳山城を占領する勇猛さ、小西行長の救援要請に対し
戦局不利と見て応じなかった的確な判断力を兼ね備えていたが、秀吉には理解されず、この対応を逃亡と非難、義統
は領国を召し上げられ山口の本国寺に幽閉された。家康はこの処罰に対し、石田三成や福原直高らによる「贔屓の
沙汰」と判断、慶長4年赦免される。
その後、関が原の合戦に西軍として参戦するも、敵が黒田如水では相手が悪かった。降伏したのち、配流。赦される
ことなく没する。享年48歳。
元ネタ URLリンク(www.e-obs.com)
85:無名武将@お腹せっぷく
05/08/10 20:20:56
【荀攸】
とにかく運のいい男。
董卓に投獄され、そこから出られたところから彼の幸運物語は始まる。
対呂布では郭嘉の寝言を聞いて曹操に水攻めを進言した。
さらに対袁紹では野グソしていた顔良を見つけ関羽に斬らせて
立ちションしてた文醜を後ろから5人で切り刻んだ。
そして徐晃が一人で花火を楽しんでたら食料を積んでた車に飛び火し炎上。
徐晃はこれを逃れる為に荀攸になすりつけたが袁紹の食料庫であったため
曹操は「見事な焼き討ちだ!」と荀攸を絶賛した。
北方征伐でも木の枝が倒れる方向に進んだら敵と遭遇、兵力で圧倒的に勝ってるのであっという間に平定した。
そして勘違いの激しい曹操に「表面は鈍くて臆病そうだが、内には英知と勇気を持っている」と評される。
稀代な不幸人間鍾繇とは親友で「幸運になるための12種の方法」というものを教えた。
しかし我欲の強い鍾繇は本当に幸運になれたためこれを編纂せずに冥土へ持っていった。
86:中常侍 うんこ ◆knhfo7S6wc
05/08/10 23:28:56
【人羅】
「独」の宰相。下級官吏の子として出生。若かりしころは書画を志す
も誰も召抱えてくれなかった。この時に流浪民出身の者から辱めを受
けたらしく後々これを怨むようになる。兵役を逃れるため他国に逃げた
が祖国で戦争が起こると兵役に志願、伝令役を努めた。「独」は栄払魯
の連合軍に敗れ降服した。「那智党」に入ると「民遍」という町で反乱を
起こすが失敗し捕らえられる。獄中では友人に口述筆記をさせ『我闘争
也』が執筆されている。釈放後、文武百官たちに推され宰相となる。党
内外の政敵を謀略を持って一掃し、独裁体制を固める。独公になるが
自らを「覇者」と名乗るようになり下々の者にまで「覇者」と呼ばせた。
「倭」と「伊」と同盟を結ぶ。後顧の憂いを断った独公は東の隣国へ軽騎
兵を一斉に越境させた。新戦術の前に次々と包囲・殲滅され隣国は1ヶ
月もかからずに降服した。さらに西の強国である「払」を攻めるが将軍
たちと戦術を巡って対立する。独公は戦力を二手に分け歩兵を北から
騎兵を南から攻めさせる方法を主張した。騎兵主力は森林地帯を抜け
て渡河に成功した。一ヶ月も経たぬうちに城都まで迫り「払」は降服した。
同時にこの頃から増長気味の行いが目に付くようになり、また軍才も
やや衰え気味になった。東方では強国「魯」に攻め込むも大敗を喫す
る。さらに西方では栄丙の主力部隊が上陸していた。栄丙魯の三方
から攻められると屋敷で愛妾と共に自刃した。水に沈めても半年間生
きていける樽型の船に乗って「倭」に逃げたとも遠い大陸に逃げたとも
説があるが定かではない。
87:無名武将@お腹せっぷく
05/08/11 12:40:35
>>85
お疲れさま。
あまりストレートすぎる表現はネタに走る路線でも質が落ちてみえてしまうぞ>野グソ、立ちションとか
漏れも程昱書いてるからあまり言えないとこだけど。。
88:無名武将@お腹せっぷく
05/08/11 22:13:39
>>87
何か書いてくれw
89:無名武将@お腹せっぷく
05/08/11 23:14:56
織田有楽斎
俗名は長益。聖将・織田信長の愚弟にして、生涯を通じて放置プレーされた茶坊主武将。
それなりの器量はあったらしいが、人材はきら星のごとき織田家では特に役目はなく、
茶坊主仕事や官官接待をして日々を浪費する。
主君の弟という立場ではあるが、多くの家臣から放置プレーの扱いを受けていた。
本能寺の変の際には、運悪く二条城に取り残される。
この危機に、ヘタレの有楽際は必死に焦っていた。同じく茶坊主でも前田玄井は、
その小利口な知謀と多少は備わった武勇を持って脱出したが、有楽斎にそんなものはない。結局、有楽斎は何の工夫もなくこそこそと逃げ出すことにした。
寄せ手の大将・勇猛の誉れ高い斉藤利三は当然気付いていたが、「有楽斎ならいいや」と
ごく自然に放置プレーをした。
彼にとって大事なのは、茶坊主でなく、信忠を討つことだったからだ。
関ケ原の戦いでは一応参陣するも、やはり放置され、最後尾に布陣させられた。
しかし、運良く棚ぼたで疲弊しきった蒲生郷舎と遭遇、これを討ち取り、
小功を誇ったが、その戦功は特に評価もされず放置された。
また、大阪の陣では、徳川方にセコセコ内通する。
豊臣方でも、有楽斎がスパイ行為していることなど百も承知であったが、
「どうせ有楽斎なら、ろくな情報は集められんし、むしろ誤報を送って敵を攪乱できる」と当然の如く放置プレーである。
一部史料では、家康が彼を茶室に招いて密議を凝らした、というような記述もあるが、
その実態は、家康が本田正信・正純親子らと散々に謀議した後、喉が渇くので
彼にお茶くみをさせていたに過ぎない。有楽斎は、いろいろと情報を漏らすが、
誤報だからなので誰も聞いちゃいなかった。彼の報告は見苦しいほど間違えだらけで、
2chに見られる「痛いニュースの先駆け」と後世評価されることになる。
その後は、お情けで知行をもらい、小大名としてチマチマお茶くみをしつつ、
生き延び、特に誰からも相手をされることなく放置プレーをされていた。
彼の名は、東京や京都に「有楽町」の地名で現代にも伝わっているが、
有楽斎のようなマイナー武将を知るものは少なく、
多くの人からは忘れら、今なお放置プレーされている。
90:無名武将@お腹せっぷく
05/08/11 23:24:08
微妙だが有楽町の由来は初めて知った。そうだったのか。
91:無名武将@お腹せっぷく
05/08/12 01:57:54
書いてみたいとも思うのだが、被ったりとかしちゃ不味いのかな?
92:無名武将@お腹せっぷく
05/08/12 04:54:20
有りだよ
93:無名武将@お腹せっぷく
05/08/12 05:01:08
>>91
俺は被らせて笑いを取ったりする自信はないからあえて避けるけどね
とりあえず、>>1をよく読んでみなさい
94:無名武将@お腹せっぷく
05/08/12 14:09:09
王惇
呉の重臣で防衛戦では滅法強く無敗だった。
更に広まる病気を瞬時に抑えるなど神がかり的な動きをしていたので
孫権や呉の人たちからは「王惇先生」と慕われていた。
しかし新型の病気「孫綝」には歯が立たず自分がかかり病死した。
今ではNew ortonことNortonというウィルス対策ソフトになっている。
95:無名武将@お腹せっぷく
05/08/12 18:27:15
ここは凡将を愚将のように語るスレでつか?
96:無名武将@お腹せっぷく
05/08/12 20:52:16
>>94
男塾好きでしょ
97:無名武将@お腹せっぷく
05/08/13 00:22:45
>>95
?????????????
98:無名武将@お腹せっぷく
05/08/13 05:23:51
龐統
襄陽出身。劉備に仕えた文官。
その才能は今一であり、司馬徽にも鳳雛(鳳凰の雛のように成長するには時間がかかる)と言われてしまう。
ほうとうは船酔いの防止に船を鎖でつなぐことが有効であると経験から知っていた。
そのため、曹操と孫権・劉備連合軍が長江で戦った赤壁の戦いにおいて、たまたま曹操が苦しんでいるのを見つけ、見過ごせず献策した。
この後に起こった連合軍の火計がこの鎖のために効果が増し、曹操に仕えようかと思っていた龐統も孫権に仕えるようになる。
しかし、その容姿が気に入られず、結局劉備に仕えることとなった。
県令となった後は飽きっぽい性格のためにどの仕事もあと少しのところで他の仕事に移り、結果として仕事がたまってしまった。
それをサボっているものだと勘違いし張飛が詰問に来たが、龐統はついに仕事を終えようとしていたため、半日で仕事を片付けた。
それを才能があると勘違いされ、龐統は劉備に認められる。
劉備はその後入蜀を目指すが、同族の劉璋を討つことをためらう劉備に対し、龐統は諸葛亮が討つべきだと言っているので便乗して説得する。
蜀に入った当初、歓迎の宴の際についでだから今劉璋を捕らえたらどうだと誰でも考え付く進言をするが、劉備は拒否する。
その後劉備は張魯と対峙するが、龐統はそろそろ劉璋を攻めたらどうだと言ったところたまたま孫権が援軍を求めてきたため、うまく劉璋をごまかすことができた。
このときに一気に行くか一旦退くか敵をだますかという受け売りの策を進言する。
最期は雒城を攻める際、龐統は目立ちたかったために劉備に的盧を借りるが、勘違いした張任によって討たれてしまう。
99:中常侍 うんこ ◆knhfo7S6wc
05/08/13 23:32:00
【張飛】(ちょうひ)
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の参謀・軍略家。字は益徳。諡は桓侯。
劉備が旗揚げして以来、武の関羽、智の張飛と呼ばれ共に付き従った。
数々の戦いで知略を持って劉備を補佐した。陳羣から「王佐の才がある」と
評された。194年、劉備が刺史陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした
際には南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険であるとして反対した
が聞き入れられなかった。200年、曹操は張飛を手に入れたいと思い「私に
は年頃の娘(夏候淵の姪)がいるが、どうかあなたにもらえないだろうか」と
言った。張飛はすぐに意図を見破ったが劉備の取り成しで娶ることとなる。
長坂の戦いでは数千の曹操軍に対し、一計を案じ二十騎で殿を務め、後方
に伏兵がいると勘違いをさせた曹操軍を撤退させている。人物鑑定家として
有名な司馬徽が劉備に対して「あなたはすでに玉龍(張飛)を得ているが鳳
雛(諸葛亮)を手に入れれば必ずや天下を治められる」と言った。このころ
から政敵となる諸葛亮は日増しに劉備の寵愛を受けることになる。
100:中常侍 うんこ ◆knhfo7S6wc
05/08/13 23:33:16
ある日、劉備が「私にとって孔明が大切なのは、ちょうど魚にとって水が欠く
ことのできないものであるのと同じだ」と言った。すぐさま張飛が「では、漁師
は誰ですか?」と問うと顔を劉備は顔を赤らめたという。諸葛亮が劉備にホウ
統と言う男を推挙したので県令にしたが酒ばかり飲んで職務を怠けるので、
張飛が詰問すると怠けていることを白状した。張飛が代わりにそれまでたま
っていた仕事を半日で全て片付けるとその場で平伏し、後に一平卒へ落と
された。また、劉備が益州入りするときは、諸葛亮と共に援軍として出発し、
厳顔を生け捕りにした。その功績は大きく巴西太守になった。その後、張コウ
が巴西の住民を漢中へ移住させようとして軍を率いてきたがここに張飛が迎
え撃ち、約一万人の軍を率いて山道の狭い街道を利用して、張コウを迎える
と、張コウはその策略にはまり、前後の軍を救出し合うことができず衰退し、
張飛は張コウの軍を撃退した。この功績で張飛は右将軍・仮節に任命された。
張飛は、曹操軍の程昱らに一万の兵に匹敵すると評価された。張飛が劉巴
の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。諸葛亮が劉巴になぜそう
したのかと問うと「たまたま厩に寝ている人へどうして馬が話をできましょうや」
と言ったという。劉備が蜀漢を建国すると、車騎将軍・司隷校尉に栄転した。
関羽が呉に殺された時、弔い合戦の準備をしている劉備に魏を利するだけ
と諌めた。政敵である寵臣諸葛亮の計に嵌り部下の張達・范彊に殺された。
二人は以前、軍規に違反したので厳しく罰したので張飛を怨んでいたのであ
る。諸葛亮は呉にいる兄の諸葛瑾に密書を送り口封じのために二人を殺させ
た。夷陵の戦い(222年)で大敗したとき劉備は「張飛が生きていれば」と嘆い
た。やがて劉備が崩御し蜀に諸葛亮の時代が訪れることになる。
260年、桓侯と諡された。
101:無名武将@お腹せっぷく
05/08/14 04:52:33
>>99-100
ここは思いつく言葉をつらつら書くスレじゃないから。
>>1も読めないようなら帰れ
102:無名武将@お腹せっぷく
05/08/14 04:53:24
あれ、もしかして張飛が凡将だといいたいのかなwwwwwwwwww
だったらもう一度正史でも演義でも読み直せwwwwwwwww
103:無名武将@お腹せっぷく
05/08/14 22:22:30
于糜
劉ヨウ配下の猛将。袁術・孫策の侵攻を防ぐため、拠点防衛を任された。
正史では、孫策の電撃的侵攻に対し、孫策軍の拠点を攻略する功績をあげている。
演義では孫策と一騎打ちになり三合打ち合った後、孫策お抱えの将となって、
その名を歴史に刻んだ。
104:無名武将@お腹せっぷく
05/08/16 15:40:51
>>103
>孫策お抱え
たしかにwwwwww
105:無名武将@お腹せっぷく
05/08/18 00:07:19
【陳羣】
字は長文。当初劉備に仕えたが、劉備が呂布に敗れて所領を失うや野に下り、
献帝を確保した曹操に仕える。
魏時代に軍功はほぼ皆無だったが、同郷のつてで荀彧の娘婿となるなどして
出世し、曹操、曹丕、曹叡の下で重職に就いた。なお、かかる厚遇にも関わらず、
子の陳泰は司馬師や司馬昭の腹心となっている。
陳羣の器量について、「博物記」は、祖父や父よりも劣っていると記している。
実際にも、倣岸で知られる孔融と親交を深めたり、鼻を削いだり足を切ったりする
肉刑の復活を主張したり、名士に有利な人材登用法である九品官人法を主張したり
した。朝議に私事をたびたび持ち込んだために、名軍師郭嘉に批判を受けたことも
あったという。
史実を曲げないとこの程度しか凡将表記はできなかった。陳羣は偉大だ……。
106:無名武将@お腹せっぷく
05/08/18 00:53:18
お疲れ様ですGJ
107:無名武将@お腹せっぷく
05/08/18 19:10:44
>>103
なお、その最期は孫策にしっかりと抱きしめられて、彼の腕の中で息絶えた。
108:無名武将@お腹せっぷく
05/08/19 01:52:11
しかも孫策はフォーーーーーーーーウ!!!!!!と叫んでたそうな。
109:103
05/08/21 21:10:40
>>107
そうか、その手があったかっ。思いつきもしなかった。
全く嘘を書かずにウソをつく、お見事。
もし>>107さえよければ & >>103がまとめサイト管理人氏の
眼鏡にかなえば、ぜひ付け加えて欲しい。
……と思ったら、ちゃんと付け加えて更新されていた。
管理人氏、乙 & THXです。
110:無名武将@お腹せっぷく
05/08/22 19:25:08
董卓
後漢末に発明された人ほどの大きさもある超巨大蝋燭。もとは西域で発明された。火力と明るさは他の蝋燭に懸絶し、
日持ちも良く、その燃えさかる様は、暴虐無類とまで言われた。一説によれば材料に人の膏を用いているらしい。
後に時の皇帝によって首都、洛陽に持ち込まれたが、あまりの火炎の強さに宮殿に引火し、洛陽は大火災によって
灰燼に帰したため、長安への遷都を余儀なくされた。
しかし、ここでも董卓蝋燭は盛んに燃え上がり、このままではまた火事が起きて10日も生きていられないと
百官はおののき、民衆が心配がったため、朝廷もやむなく呂布と王允などに命じてすべての董卓蝋燭を
回収して、その灯心を切り捨てた。
このことによって漢王朝の威信は失墜し、その命運も尽きることとなったという。
111:無名武将@お腹せっぷく
05/08/23 19:02:34
このスレ趣旨かわった?
112:無名武将@お腹せっぷく
05/08/23 19:11:10
まぁたまにはいいんじゃまいか
113:無名武将@お腹せっぷく
05/08/25 22:08:35
紀霊
後漢末にその名を馳せた忠勇無双の名将。その出自は春秋諸侯の一つ、紀の公族の
末裔とも、また紀は姜族の建てた国のため、紀霊は姜族の出とも。
一軍を任されるほどに優れた武勇・軍略をもって、一代の英傑、袁術(>>35)に仕える。
一方、身の処し方も封神演義にも登場する清源妙道真君楊ゼンから仙人になれ、
と言われるほど清廉であったが、袁術に仕える以外のいかなる道も考えない紀霊は
楊ゼンの誘いを断って袁術配下の武将の道を歩むこと選ぶ。
紀霊の選択を聞いた楊ゼンは、紀霊が仙人にならぬことを惜しむとともに、すさんだ動乱の
時代に忠と義を体現する紀霊に心を打たれた楊ゼンは愛用の三尖刀を譲り、
以後この三尖刀は紀霊の右手にあってその武勇の証人となる。
紀霊の武勇は劉備の義弟、関羽でさえも引き分けるのがやっと、というほどであり、
飛将呂布ですら紀霊との戦いを避けたという。
その証拠に、袁術と劉備の間で戦いが起こった際に呂布は劉備を救う気がありつつも
紀霊と正面から敵対するのを避けるため、戟に矢が当たったら兵を引いてくれるように、
という和睦を持ちかけたほどであった。
この時、紀霊は和睦を蹴ることもできたが、主君袁術の名に傷がつくのを憂え、
また、呂布の矢が戟に当たらなければ、神が見捨てたことになると考え、呂布が矢を
放つと同時に手にもった三尖刀で足元の石を跳ね飛ばして矢の軌道を変えて戟に
あたるようにしたという、神業を見せる。
114:無名武将@お腹せっぷく
05/08/25 22:12:48
このように、花も実もある名将として中原に武名を轟かせた紀霊だが、主君袁術の
革命的行動が故に他の旧態依然とした群雄たちから嫉視を浴びるようになり、
袁術自身、己が身を捨てる覚悟を決めると、その股肱たる紀霊は主君の黄泉への
案内に立たん、と戦場に赴く。
そこで関羽の義弟、張飛に出会った紀霊は、張飛が武勇に優れるがただの猪武者で
あるのを惜しみ、己が首を取って誉れとし武人としての名を高めよ、と張飛に首を授ける。
紀霊の首を取ったことにより、張飛は関羽もしのぐ、兵一万に匹敵する猛将の名声を
確立するとともに、名将紀霊の最期に立会い、真の武人の姿を教えられたことで張飛
自身も一回りも二回りも成長し、以後、ただの大酒飲みの武将から主君を支える勇将
へと変貌を遂げ、長坂坡では曹軍を一騎でおびやかし、益州では厳顔を感服させるなど、
紀霊がよみがえったかのような活躍を見せる。
また、曹操配下の晏明は紀霊にあやかって三尖両刃刀を得物とし、武名を馳せ、
蜀の姜維は、姜族の出の紀霊の最期に感動し、同じ一族として国に殉じる姿を
見習ったとも言われるなど、希代の武将、紀霊は死後もなお武人の師表でありつづけた。
これについて後の人は、紀霊の名前の霊は、謚号で「生前の志が死して後に成し遂げ
られること」の意であり、紀霊の武人として貫いた姿が死してもなお後の武将に
受け継がれることは生まれながらに運命付けられていた、と評したという。
115:無名武将@お腹せっぷく
05/08/25 23:53:22
創作はイカンよ。ここは史実から離れず、スレタイ通りにだな、
金銭
字、生没年とも記載が無い。多くの群雄の下を節操なく渡り歩き、その数は
裏切り常習犯の呂布や、放浪続きの劉備でさえ遠く及ばない。
また、エピソードで見る限り、充分な働きをしたとは言えない。たとえば、
袁紹のもとへ移動する袁術に付き従ったものの、袁術はその途中で死亡している。
また、張魯の下にあったときは、曹操軍が襲来したにも関わらず、封印を施した
蔵の中でじっとしていたという。さらに、彼をこよなく愛した曹洪は、そのゆえ
に曹丕に誅殺されそうになってさえいる。
曹洪や七賢の王戎など、多くの人に彼は愛された。その不思議な魅力だけは
評価に値しよう。
え?このスレって、名称を凡将のように説(ry
前スレ方広寺の鐘の劣化板コピーになってしまった。すまぬ。そして >>113 乙。
116:無名武将@お腹せっぷく
05/08/26 10:57:02
李通(りつう)
字は文達、江夏郡平春出身。幼名は万億。長江から汝水の地域で漁師だった。
黄巾賊の首領の一人に追われ、仲間を率いて曹操の元へ行き配下となる。
その後、こまかな功を立てる
官渡の戦いの時、戦況が次第に悪くなるにつれ袁紹の元へ寝返る者が増えていくと
李通の部下たちも袁紹の元へ行こうとゆうが、李通は
「曹操殿の方が怖いから絶対に嫌だ」といい寝返らなかった…
その後も事あるごとにあの人は怖いだの、ここは危険だと臆病っぷりをみせ
後生についた渾名が「臆病将軍万億」という
117:無名武将@お腹せっぷく
05/08/26 20:08:27
どのへんが名将なのかと
118:無名武将@お腹せっぷく
05/08/26 22:42:42
>>117
名将を凡将に
>>115
一瞬金旋の間違いかと思った
119:無名武将@お腹せっぷく
05/08/26 23:03:16
>>117
李通のことなら、正史では名将(猛将)だと思うが。
知識がないから、ネタだけでなく、元ネタを示してもらえると助かるよ。
ちなみに李通伝は、↓
URLリンク(mujin.parfait.ne.jp)
だが、読んでもオチが分からなかった。求む解説。
120:無名武将@お腹せっぷく
05/08/27 01:01:47
蔣欽
呉の孫策、孫権に仕えた武将。
演義では、孫策に味方するために一軍を率いて加勢する水賊の頭という派手なデビューを飾る。
しかし、彼の輝きはこのデビューのときが最高にして最後であった。
キャラ的には弟分であった周泰に食われまくりといった感じで、周泰が山賊に襲われた孫権を救い出すなど輝かしい実績を挙げ孫権に重用される一方で
蔣欽は、戦に負けて周ユに斬られかけたり、孫権に「勉強せい」といわれたりさんざんな役回りであった。
ちなみに字は公奕というが、周泰の字幼平に比べると、やっぱりインパクトに欠ける。
さらに「勉強せい」といわれた同僚呂蒙が学問に精をだし「呉下の阿蒙」の名エピソードを残したものの
蔣欽にはそのようなエピソードは残されていない。
思うに「呉下の阿欽」では語呂が悪すぎることが呉書の編者に嫌われたのであろうか。
まさに不遇の人である。
最後は関羽征討戦に参加し、戦功をあげたものの、帰還時に急死する。
しかし、後世、同時期に死んだ呂蒙や曹操の死が関羽の呪いと脚色されたのに比べて、
彼はいつのまにか物語からフェイドアウトするという不遇ぶりである。
元弟分の周泰が夷陵の戦いで派手に活躍したこととは対象的な、まさに地味に生き地味に死んだ一生であった。
同時代の人物はこう語る。
周泰「・・・・だれだったっけ?」
呂蒙「ああ、そういえばいましたね、全然成長しない奴が」
関羽「おのれ!呂蒙め!祟り殺してくれるわ!・・・蔣欽?だれだっけ?」
沙魔可「あんな存在感ない奴に殺されなくてよかった」
121:無名武将@お腹せっぷく
05/08/27 01:04:06
こっち向きだったかな
実力あるけど地味な武将
スレリンク(warhis板)
122:無名武将@お腹せっぷく
05/08/27 01:05:44
つーか語呂悪いのか?
123:鍋奉行
05/08/28 21:28:12
今だ!123ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ (´⌒(´
⊂(゚Д゚ )≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
⊆⊂´ ̄ ⊂ソ (´⌒(´⌒;;
 ̄ ̄ ̄ ズザーーーーーッ
124:無名武将@お腹せっぷく
05/08/28 23:14:40
王累(おうるい)
劉璋の臣。劉璋が劉備を蜀に招き入れることを、我が身を城門から逆さに吊るし命を賭けて諌めた。
その姿に胸を打たれた劉璋は王累の諫言を聞き入れようと思い王累を助けるよう命じたが、
劉備を新たな主人にすえようと画策していた法正の手によって綱を切られて落下し死亡した。
王累を失った劉璋の失意は大きく、そのため法正の専横を許しその後蜀を失うこととなったが
王累の忠義は世界中に伝わり、後の世のタロットカード「吊られた男(意味:犠牲、献身)」
として今日もたたえられている。
125:無名武将@お腹せっぷく
05/08/30 10:15:53
>>124
俺は結構面白かったよ
呉下の阿欽はちと吹いた
126:無名武将@お腹せっぷく
05/08/30 18:02:46
アンカミス乙
127:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 01:41:56
俺にはこのくらいが限界だった・・・orz
【豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)】:1593~1615
一代で天下に登りつめた、豊臣秀吉の息子。母は、絶世の美女と名高いお市の長女淀殿。
絶大なカリスマ性と威厳を持ち合わせていたが、皮肉なことにそれが原因で徳川家康に命を狙われる事になる。
事実、関が原の戦いはその絶大なカリスマ性を利用されたものであり、東軍の将は、徳川の息の掛かった者以外
豊臣家の為の戦いだと思っている
また、天下を治めるに値する威厳を20歳で持ち合わせ、会見した家康はあまりの驚きに、関が原の戦い後一大名に
落ちていた豊臣家を滅亡させる事を決意している。
度重なる、そして強くなる一方の徳川家の圧力に、秀頼は一度も屈っさず、業を煮やした家康は鐘銘事件を起こしてまで大阪冬の陣を発生させている。
豊臣方は圧倒的に不利であったが、秀頼の為にと全国から続々と牢人が集まり、それは広大な大阪城から溢れ出すほどであった。
攻撃にビクともしない大阪城に、家康は遂に和議申し入れる。このまま戦い続ければ勝てるという声がある中、秀頼は天下泰平の為と和議を受け入れる。
が、家康はその太平を望む心までを利用し、大阪城の堀を全埋め立て、再び大阪に攻め寄せ大阪夏の陣が勃発する。
流石に風前の灯火と思われたが、尚も秀頼のカリスマは健在であり、大量の牢人が再び秀頼の下に結集し、一時は戦いを有利に進めるほどであった。
しかし、今度は万全に備えを敷いた徳川家に徐々に押され始め、遂に豊臣家は滅亡、秀頼は自害してしまう。
なおこの戦いで、真田幸村の決死の突撃や、千姫が秀頼と共に自害しようとした逸話も、秀頼のカリスマ性を大いに示すものとして知られている。
人々の悲しみは大きく、秀頼生存説が流れ、鹿児島には実際に墓が作られるほどであった。
豊臣家が健在であれば、そのカリスマと威厳で天下を導いたであろう秀頼。
あと十年早ければ、この言葉は伊達正宗よりも、豊臣秀頼の為の言葉と言えるだろう。
128:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 01:55:46
秀頼を名将としたんだろうけど、元々秀頼は名将といえないまでもそれに近い武将だとも見れるからなぁ
>また、天下を治めるに値する威厳を20歳で持ち合わせ、会見した家康はあまりの驚きに、関が原の戦い後一大名に
>落ちていた豊臣家を滅亡させる事を決意している。
これなんて、実際にそうだったのかもしれないし・・・
ちょっと微妙
129:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 10:24:26
公孫サン
容姿端麗、弁舌巧みで戦術に優れた名将。
幽州では烏丸族がたびたび国境に侵入しては土地を荒らしまわっていたが、
公孫サンは赴任すると即座にこれを討伐し、一躍名声を得る。
烏丸を密かに支援していた劉虞は公孫サンの存在を恐れ、
ついに大軍を率いて漢に反旗を翻した。
公孫サンは劣勢でありながらこれを撃破し、漢の忠臣として大きな功績を残した。
時は乱世、各地の実力者は独自の勢力を築いていた。
公孫サンは漢の復興を目標にその実力を発揮し、華北に覇を唱えた。
その雄志に感動した趙雲は公孫サンの片腕として働き、
後の英雄劉備(前スレ>>724まとめサイト劉備4)も協力を惜しまなかった。
建安三年、易京に大要塞を築き逆賊袁紹に対抗していた公孫サンだったが、
兵力に勝る袁紹についに追い詰められてしまう。
万事休す。公孫サンはかつて烏丸族を恐れさせ、
最強を誇った白馬義従の先頭に立ち、袁紹の包囲網に突入して戦死した。
それを見た関靖を始め多くの将士は自らの非才を嘆き、後を追って散っていった。
公孫サンの仁徳は四方に轟いていた。
はるばる駆け付けた張燕は救援が間に合わなかったことを生涯悔やみ、
曹操のもとにいて報を受けた劉備は悲憤慷慨し、
旧友公孫サンの意志を継ぎ、必ずや漢を復興してみせると誓ったという。
130:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 10:35:22
夏侯淵
字は妙才。曹操の親類ということで重職に就いた。
夏侯淵の乏しい才能を見ぬいていた曹操は彼を行軍に参加させず、
兵糧輸送係として使った。だが夏侯淵はその扱いに納得がいかず
常に不満を漏らしていたとされる。
いつまでも兵糧係にしておけなかった曹操は、夏侯淵を名ばかりの
校尉に任命し、実務は配下にやらせた。
用兵を知らぬ夏侯淵は無理な行軍を繰り返したため、軍中では
「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で一千里」
と陰口を叩かれた。これを耳にした曹操は夏侯淵が用兵に優れ、
急襲が得意なのだと勘違いした。
曹操に勘違いされた夏侯淵は長安の防衛に就くが、
鍾ヨウがいたために任務を無事に終えることができた。
だが、これにより曹操の思いこみはより助長されることとなった。
曹操は最前線に名将と思っていた夏侯淵を送りこんだ。
こうして漢中へ行くことになった夏侯淵であった。
いままでは配下の活躍で救われたが、今回一緒であったのは
保身しか考えていない張コウ(前スレ>>989まとめサイト張コウ1)である。
夏侯淵は見事に劉備の策にはまり戦死した。
131:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 13:15:29
>>129
ウソはいかん
あと公孫サンってそれなりに戦上手
132:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 13:19:33
こらこら、公孫サンて凡将なの?w
漏れ、群雄の中ではかなり好きな人物なんだが(;´Д`)
133:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 14:50:14
>>131
劉虞のところかい?じゃあ
「烏丸に対し懐柔策を取って名声を得ていた劉虞は・・」でいいかな?
俺も公孫サン好きだから誉めてみたかったのよ
134:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 15:26:21
公孫サンってこんな感じだからな
このスレじゃ扱いにくかろうて
演義・・・善人だけど出ると負け将軍。どこが白馬将軍なんだと小一時間(ry
正史・・・袁術や呂布クラスの悪人だが軍を率いると強いのなんの。負けたのは袁紹が神すぎるから。
135:129
05/09/02 16:12:42
ああ死に様まで正史に書いてあったね。自殺か。
関靖の話しか覚えてなくて勝手につくってしまった。
「袁紹についに追い詰められてしまった。もはや敗北は免れないと
悟った公孫サンは漢とこれからの時代を憂いつつ自決した。
関靖を始め多くの将士は自らの非才を嘆き、
袁紹の包囲網に突入して散っていった。」
何度も申し訳無い。鬱。おまけに正史とあんま変わらん
136:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 17:30:30
>>130
嘘はいかんな。
夏侯淵は従兄の夏侯惇よりも各地で転戦の経験が豊富。
また、弓矢の名手で狙った的は的中したといわれる。
正史によると従兄の曹操の挙兵から部隊長として従軍し、
陳留・頴川郡太守を歴任し、袁紹との天下分け目の官渡の合戦では、
監軍校尉として、精鋭の兵の重要な食糧を管理する長官となる。
また、黄巾党の系統で盧江郡の雷緒を討伐し平定し、征西護軍に昇格。
止どめは、曹操の馬超ら涼州軍閥討伐に従軍し、その統率力を買われ
行護軍将軍として、長安を拠点として関中全域の総帥となった。
まず、隴西の平定を基本とし馬超の残党を追い払い、博昌亭侯に封じられる。
次いで曹操の張魯討伐には、張郃らと共に合流し巴西郡を占領した。
その戦功で征西大将軍となり、漢中郡を拠点として、関西全域を統轄。
後は周知の通り。結果的に法正と黄忠の作戦に運悪く敗れただけ。
文が長くなったが、夏侯淵の躍動が正史でもこれだけあるということは、
曹操の絶大な信頼があり、後年に諸葛亮の北伐が成功できなかったのも、
夏侯淵の遺産が大きいと思う。夏侯淵の族子の曹真も司馬懿も夏侯淵の
方針を忠実に守ったからこそ、長安を確保できたと思う。
なによりも、夏侯淵の諡号の愍侯がそれを物語ると思うな。
そういう意味では、夏侯淵は従兄の夏侯惇よりも遙かに名将だといえる。
137:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 17:35:23
>>136の訂正。
>張郃らと共に合流し巴西郡を占領した。
張郃らと共に涼州軍を率いて合流し巴郡を占領した。
138:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 17:50:13
>>136-137
常駐してくれるのは良いけど、ネタにマジレスするなよw
ネタスレなんだから空気嫁
139:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 17:51:11
これはネタにマジレスというやつですか?
140:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 18:09:00
ネタスレのネタにマジレスかこわるい…っていうか馬鹿?
141:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 18:23:24
つまりこうか?
夏侯淵の場合
演義→凡将、ネタになりやすい
正史→名将、ネタになりにくい
142:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 18:45:59
>>136
「名将を名将のように説明するスレ」でも立てろや
143:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 21:09:11
夏侯淵は演義じゃ猪武者テイストが三割増だが凡将じゃないだろうな
144:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 22:33:34
出典によって評価が違う武将を出すなら
自分が凡将と捉えているのか名将と捉えているのか書けばいいんでない
145:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 23:32:34
夏侯淵の評価のことくらいはみんな知ってるよ~
結論:
理屈よりネタを書いていこうぜ、でいいだろ
↓
146:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 23:45:28
>>138-140
嘘まじりと言わずに >>138 がどっちとも取れるようなネタを書いている以上、
どこが嘘か指摘してくれるのはありがたいと思うが。
書き手が >>144 みたいにするか、元ネタを貼れば分かりやすいカモ。
>>128
秀頼は、最近出た中ではかなり好きだったんだが。。。
挿話のチョイスや配置に苦闘の跡が見られるし、嘘はないようだし。
147:145
05/09/02 23:46:03
。。。と文字レスだけではなんなので、一つ。
嘘イカンとか、当たり前ダメとか揉めてる(?)んで、誰もが認めるスレ違いを。
三国志番外編(文人→文武両道)
吉川栄治
倭人のため、字は伝わっていない。しかし、あらゆるジャンルにわたっての
業績は偉大の一言に尽きる。
計にあっては、連環の計を成功させただけでなく、計略がなるや即座に実行
犯の貂蝉を自害させており、その手腕は見事と評された。
技にあっては、名剣の誉れ高い「雌雄一対の双剣」を世に送り出している。
武にあっては、魏の五将軍の一人である猛将張コウ(張[合β])を三度まで
も討ち死にさせるなど、比類無き豪腕で知られる。
なお、文にあっては多くの著作をものしたという。
享年70歳。彼の死は民にまで大きな衝撃を与えたと伝えられている。
148:147
05/09/02 23:50:43
スマソ。>>147の名前は>>146の間違いで、>>145とは別人。
>>144 読んでネタ書いて書きこんだから、
>>145が凄くいいこと言ってたのに気付かず名前詐称してしまいますた。
149:無名武将@お腹せっぷく
05/09/02 23:53:38
>>142にある「名将を名将のように説明するスレ」を新スレとして
立てれば混乱は収まるかもな。
150:無名武将@お腹せっぷく
05/09/03 04:45:03
>>149
いらな杉
>>136-137
夏侯淵は名将だよたしかに。曹操に言われたことを守れなかったのがあれだが。
でもな、過去ログぐらい読んでこいよ馬鹿
151:無名武将@お腹せっぷく
05/09/04 02:41:41
北条氏政
北条氏康の嫡男として生を受け、北条家の中で最も関東に広大な版図を築いた男。
彼が活躍した関東は、足利幕府の権威や威光が畿内や甲信越地方のように失われてはおらず、
氏政はそれら足利権威の勢力を次々と屈服させた名将である。
氏康は彼なら北条家を後世まで残せるであろうと考え、早くに家督を譲っている。
また氏政は政治家としても優れていることも広く知られている。
その中で特に秀逸している政策は、国人衆が北条家の規定以上の税を領民から不当に搾取しようとした場合、
直接、北条家にその旨を訴えよというものである。
この政策は当時は画期的であった。この政策により領民に自分達の主は北条家であると認識させ、
国人衆と領民の繋がりを弱めたのである。
この政策がいかに優れていたかは北条家が他家に比べ、内応や反乱がごく僅かという事実が物語っているであろう。
また彼は武勇も優れていた、なんと軍神と名高い上杉謙信を完全に関東から撤退させ、
さらには織田家の名将である、あの滝川一益さえも関東から追い出しているのである。
第一部 「完」
152:無名武将@お腹せっぷく
05/09/04 14:55:17
続くのかよ!
153:無名武将@お腹せっぷく
05/09/04 15:43:25
氏政は、肥のゲームでは冷遇されてるからな~
ファンにとっては思い入れもおおきんだろw
154:無名武将@お腹せっぷく
05/09/04 17:33:35
151が書いてるやつは
ほとんど父親である氏康の功績じゃないかな?
155:無名武将@お腹せっぷく
05/09/04 18:16:04
北条氏政が凡将かどうかは、人によって意見が別れるし
凡将と評価できるかは、微妙な人物だよな。
そういった意味では武田勝頼も微妙だな。
肥のゲームでは、戦バカな武将になっているし。
156:無名武将@お腹せっぷく
05/09/05 20:08:51
>>151が小田原評定をどう書くか、じっくり待とうw
前にあれを「シビリアンコントロール」と解釈して、
日本の平和ぼけを暗に批判する知性派のネタがあったが、次も楽しみだ
157:無名武将@お腹せっぷく
05/09/06 08:07:49
横山光輝
後年手がけた三国志は若年層にも反響を呼び
これが演義だと気づかず三国志を語る者が続出する原因を作った。
社会においては4ヶ月で退社する等、協調性にも乏しいのだろう。
2004年年4月15日 自らの火計にはまり全身火傷の為、この世を去った。
名匠を凡匠のように・・・うわなにをすr(ry
158:無名武将@お腹せっぷく
05/09/07 17:27:07
今はまだ不謹慎だが
行く行くはそんな評価も普通にアリかもなー
159:無名武将@お腹せっぷく
05/09/07 18:23:43
発想は良いかもしれんが、横山三国志も好きな漏れはちょっと悲しかった(ノД`)
160:無名武将@お腹せっぷく
05/09/08 01:40:43
小渕恵三
「株上がれぇ」で日本人全てを勇気付けた。
161:無名武将@お腹せっぷく
05/09/08 02:00:04
>>160
内政はヘタレだったが故小渕首相外交に強かったぜ
162:無名武将@お腹せっぷく
05/09/08 03:20:00
>>160
小渕出すならなぜ「平成オジサン」を使わない
163:無名武将@お腹せっぷく
05/09/08 05:11:18
160~162
お前ら不謹慎が過ぎるぞ。
164:無名武将@お腹せっぷく
05/09/08 23:02:14
【周瑜】
後漢末の武将。字は公瑾。
親友である孫策と「断金の交わり」(金●が断たれてしまうような激しい交わり)を結ぶ。
孫策の下で名将ぶりを発揮した。だが、孫策の死が彼の中の何かを壊してしまう。
曹操の南下が始まると、大半の重臣たちが降伏を主張する中、彼は開戦を主張。
「あなた君主だから降伏したら殺されますよ」と孫権を脅迫し、孫権を開戦に踏み切らせる。
開戦が決まると、さっそく黄蓋を鞭打ち。
また、軍使として来ていた諸葛亮に異常な執着を見せる。
何とか自分のものにしようと、兄である諸葛瑾に説得させたりしたが、
それを拒まれると今度は殺してしまおうと画策する。
結局荊州に逃げられると、彼を追うように荊州に進軍。
この頃からよく吐血するようになった。
魏軍と必死に戦い、城を劉備陣営にプレゼント、
死んでもいないのに自分の葬儀をあげたり、
いろいろやったが、結局諸葛亮が劉備の下を離れることはなかった。
「何故、孔明と同じ時代に生まれてしまったのだ!」
かなわぬ願いを叫んで周瑜吐血。そして愛に生きた男、周瑜はその生涯を閉じた。
165:無名武将@お腹せっぷく
05/09/09 10:19:30
>>163
は?意味ワカンネ
頭大丈夫?
166:無名武将@お腹せっぷく
05/09/09 20:48:31
>>165
つまり
「三戦じゃないから板違い」
ってことじゃないか?
167:無名武将@お腹せっぷく
05/09/09 21:36:04
それだと不謹慎って言葉じゃ意味が通じないぞ
168:名無しさん@そうだ選挙に行こう
05/09/10 17:30:34
総選挙中なんだし・・・ってことなんじゃないか
この名前を見ればわかるだろ
169:名無しさん@そうだ選挙に行こう
05/09/10 21:05:16
亡くなって間もない故人をネタにするなってことではなかったのか?
20年くらい経ってからなら良いのかもしれないがのう、ハハハ!!
170:169
05/09/10 21:08:25
すまんスレを勘違いしてたよ……なんだよ最後のハハハって……
不謹慎は俺だよ……orz
171:名無しさん@そうだ選挙に行こう
05/09/10 21:55:26
>>169
こやつめハハハ!
172:名無しさん@そうだ選挙に行こう
05/09/11 01:14:24
むむう・・・
173:名無しさん@そうだ選挙に行こう
05/09/11 06:06:17
亡くなって間もない個人について
生き様を語ったりするのは良識に反するもんなの?
つーか特定政党の元親玉である故人をこの時期にイジるのが良くないの?
174:名無しさん@そうだ選挙に行こう
05/09/11 11:37:47
163は俺らとは違ってモラリストなんだろ
175:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 00:06:42
モラリストじゃなくても不謹慎だとは思う
お陀仏さんナムナム
176:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 05:06:49
改めて2chにはこういう常識の無いヒキどもが多いということがわかった
縁故にある人や友人が、死んだ人がこんな風にネタにされているなんて知ったらどう思うか
だからお前らは社会不適合者なんだよ
177:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 06:10:08
なにをいまさらw
所詮便所の落書きだよ?
俺も>>176も>>175も同じ穴の狢w
178:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 13:08:14
先祖がネタにされて苦しんでる人の事は全く考慮しないでよく言うわ
死人をネタにしてる時点でどっちも目糞鼻糞だっつうの
似非モラリストは自分の好きな薄甘い道徳の本でも読んでろ
179:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 13:22:06
三国志の人は全員死んでるんですけど
180:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 13:47:09
>>178
馬鹿ですか?
181:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 13:57:22
比較的最近死んだか、何百年も数千年も前に死んだかの差だろ。
死んだ奴をネタにするのが不謹慎と言うなら、このスレ全部が不謹慎なわけで。
大体>>160-162は事実を捻じ曲げて言ってるわけでもなく、また故人を馬鹿にしてるわけでもない。
そんなことにいちいちつかかって来られたら、亡くなった人の思い出話でさえ出来なくなるだろ。
もうちょっと柔らかい頭を持とうな。>163
182:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 14:35:14
>>163の人気に嫉妬
183:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 14:59:46
まあ不謹慎以前にネタとしてつまらんわけだがw
184:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 15:02:53
>>183
苦し紛れの末、けっきょく問題のすり替えか・・・
185:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 17:10:33
>>165-184
スレ違いだから消えてね
186:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 18:50:36
岡田克也
民主党の党首として小泉自民党に正面突破を挑んだ英雄。
左寄りの議員 VS 右寄りの議員。
ベテラン VS 若手 といった烏合の衆とも言える者どもをまとめあげ、
2005年の衆議院総選挙に臨んだ。
惜敗後の記者会見では脂ぎった顔を全国にさらし、潔く身を退いた。
その一方、亀井氏に「なんでお前が殴るんだ?」と言わせた
武闘派としての一面も併せ持つ。
187:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 19:23:34
岡田克也
政治家(1953~)
民主党の党首として一党独裁体制を固めつつある小泉自民党から日本を救うべく立ち上がった熱血漢
就任当初は「ジャスコのボンボン」と揶揄されていたが最終的には親の七光りよりも強く自身が光り輝く存在へと成長
保守派と改革派からなる自党の運営で悩みながらも類希なるバランス感覚を発揮し民主党を自民党に並ぶ巨大政党へと押し上げた
しかし武運拙く最後は巨大な独裁政党に敗れ去り無念の辞任をし第一線から退く事になった
2005年、彼の党首として最後の衆院選挙時には
「日本にはもう時間が残されていない」「日本を諦めない」「我々がやれば日本は生まれ変わる」
と言った数々の名言で世間を沸かせネットユーザーの間でも「日本を諦めない」が大流行しパロディまで多数生まれる空前絶後の岡田ブームとなる
そのブームを世間にも広めるべくマスメディア等に「もっと民主党の本当の姿を報道して欲しい」との真摯な要請をした
しかし時既に遅く小泉自民党に味方するマスメディアに巧妙な世論操作をされた日本国民は彼の志と政治力を知る事は出来なかった
そして悲劇の政治家、岡田克也は歴史の表舞台から姿を消し日本は巨大政党による独裁体制が強化されたのだった
188:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 19:24:11
>>186
お前不謹慎が過ぎるぞ。
189:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 20:06:50
>>186,187
あ~先、越された。
190:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 21:51:15
>>186
いじめっ子ですね。
191:無名武将@お腹せっぷく
05/09/12 22:20:45
>>184
おいおい、オレはこのスレ書き込むのこれで最初だぞ
前スレにはけっこう書き込んでいたがなw
192:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 01:37:43
岡田克也
政治家(1953~)
三重県出身の政治家。東大を卒業後、通産官僚・自民党議員を経て、
民主党に身を投じ党の代表となって、2005年の総選挙を戦う。
基本的には、国内よりも海外で評価される政治家で、特に訪中・訪韓した際には、
相手国の首脳を魅了し、次代の日本の指導者となるよう大いに期待されていた。
政治家としての視野も広く、その関心は日本よりもむしろ中韓などアジアに向けられていた。
彼は幾度となく、「私も、『日本海』という表記には、以前から違和感を持っていました」
「君が代は民主的でないので違和感がある。新しい国歌が必要だ」
とった類いの発言をして、国内の批判をもろともせず、
中韓の支持を取り付けるべく日夜腐心した信念の人である。
またイラクへの自衛隊派遣への反対を、
「イラクの人々は逞しいから、泥水でも飲めれば、それで事足りるわけです」
という常人には思いつかない明確な論理で説明し、その必要性を否定している。
まさに自他共に認める理論派である。
子育て支援の財源についても、「財源はどうするかって? そんなことは厚労省の官僚が
考えることでしょう」という、前代未聞の画期的なアイディアを提示し、
周囲を唖然とさせている。
193:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 01:38:37
特に選挙期間中には、その鋭い理論は支持者ですら狼狽するほどシャープで、
郵政問題においては、国民の財産状況を良く知る庶民派の彼は、
「地方の人々は、1000万円も貯金できないから、別にいいんですよ」と
預金額の制限の根拠を分かりやすく説明、また「郵便局の労組がバックにいる?
確かにそうですが、それが何か?」とマジメな性格の通り、実態を正直に吐露した。
これらの発言が政敵・小泉に利用されることとなるが、
「民主党の政策は、高学歴や高所得の人々にウケがいい」
「民主党は都市政党ですからね。田舎の人は応援してくれなくて結構」
といった高邁な理念を持つ彼はそんな批判を気にすることはなかった。
彼は世論対策の必要からやむを得ず「保守本流」を自称しているが、
それは全くうわべのことのみで、心の中では平和と革命の理想を忘れず、街頭演説の場では、
「小さな政府というなら、自衛隊はどうなんですか?」
「我々が目指しているのは、大きな政府ではなく『第三の政府』です」と
平和と革命への確固とした志を大衆に示している。
中国・韓国・一部マスコミを魅了してやまなかった彼の政治思想は、多くの日本人には
幸か不幸か理解されず、選挙では大敗し、その後は政治的影響力を失った。
その失脚を多くの中国人・朝鮮人・在日半島人などは惜しんで止まなかったという。
194:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 01:41:00
しつこいけど岡田ネタ投下m(_ _)m
もう食傷気味だろうだけど、書いちゃったから…
195:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 02:27:44
>>194
岡田は今が一番旬だからね。
今ならまだ大丈夫でしょう。
あと1ヶ月もすれば、そんな奴もいたなぁ
って言われるからいいんじゃない。
196:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 02:47:59
本命は菅
あんだけ矢面に立つことを避け続けて知名度と人気を保った政治家はいない
197:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 09:45:51
「未納三兄弟」で自爆したけどな
198:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 12:10:48
岡田って党首になる前と比べてものすごい
顔つき、目つきがきつくなったと思う
199:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 12:28:48
今後一気にフヌケる可能性もアリだがw
200:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 13:06:29
>>198
憔悴しきってたよね。
亀井や綿貫みたいに見苦しい言い訳を
語る気力すらなかったと思われ。
たかだか1ヶ月の選挙戦で情けない。
やっぱ党首やるには10年早かったんだな。
201:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 13:08:48
あの辺の様なふてぶてしさがなく真面目なんだろう
実直さは嫌いじゃないがな
202:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 13:32:45
実直か?
正直さはかけらもないと思うが
203:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 14:21:04
まあそれだけ自分に対して揺るぎない自信があったんだろうね
積み重ねた自信が一気に瓦解したらどんな気分だろうか
ああジャスコ・・・
204:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 16:50:03
空気読めていなさすぎだよ
今回の選挙は解散した時点でどう転んでも自民が勝つのは見えていたんだから強引に郵政反対しなければよかったのにな
票田失うからそれも出来ないんだろうけど少なくとも2年は177議席保てたのにアホだ
205:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 16:59:05
郵政民営化で公務員しかなれないのを普通の人もなれるようにするって
そんなにやりたい人いるんかね・・・?
206:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 17:30:34
>>205
郵政民営化は国の公務員リストラ政策だ
ちゃんと解説してるサイト探せば一杯あるから少し勉強してきな
207:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 17:38:40
日本の金融資産をアメリカへ譲渡する政策の間違いだろw
まあリストラにもなるだろうがw
208:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 18:11:47
全然違う
日本の金融資産をアメリカに買わせるって枯渇してるような物を誰もほしがらない
郵便貯金は特殊法人等の資金源として使われた為詳細は不明だけど残高言われてる程ないんだよ
ちゃんと調べてからしたり顔しようぜ
209:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 18:16:18
どうでもいいがいい加減スレ違い気づこうよw
210:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 21:09:53
国会議員のインフレで国の金が給料に回されてまた借金なんてことになってないよね・・・
211:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 22:02:21
このスレの住民の知的レベルの高さは分かった!
でも、ネタを投下したい人が困ってるかもしれないので、
政治論議はここらで打ち切ろうぜ。
といいつつ、最後の長い岡田ネタを投下したのは俺なんだが…
212:無名武将@お腹せっぷく
05/09/13 23:02:09
186~211まで全て岡田絡み。
すげえ人気者だな。
213:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 03:06:21
>>211
2ちゃんでこんなこと書くのもなんだが、
2ちゃんに毒されてる奴って案外多いんだな
ID非表示だから人数は見かけほどじゃないだろうが
214:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 06:04:51
>204 >206 >208の解説厨が出て来て一気にクドくなった
215:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 10:49:56
もうやめれ、いいな
216:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 11:18:15
で、ここは何のスレでしたっけ?
217:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 11:45:36
現役の政治家出すとうるさいのが来るってのは分かったっつか懲りた
218:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 12:49:11
186です。反省してます。
219:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 16:16:14
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
凡将を名将のように説明するスレ 2
220:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 18:05:56
【周瑜伝】
赤壁の戦いの前、周瑜は魏国百万の大軍をどう迎え討つか、諸葛亮と翌日話し合う約束をしていた。
しかし翌日になって周瑜のもとに現れたのは諸葛亮ではなく、「全漢大たわけ者選手権」で
「天下無双」の称号に輝いた張飛であった。
(長年「天下無双」の称号は呂布が得ていたが、この頃すでに曹操に斬られてこの世の人ではなかった)
「孔明はなぜ来ないのか?」
周瑜が尋ねると、張飛は諸葛亮にこの書状を渡して来いと命じられただけであるという。
約束を反故にされ多少の憤りを覚えながらも、周瑜は書状を開くとそこには諸葛亮からの
挑発的な文章が記されていた。
「哀れなるかな美周朗。百万の大軍を退ける策なぞ、私と話し合うまでもなく
わが国では大たわけで名高い張飛でも察しておるわ」
周瑜は自尊心をいたく傷つけられて頭に血が上り、自分の口元からツーと血がしたたり落ちるのがわかった。
いや、これは孔明のはったりである。わが身よ冷静になれと周瑜は口元の血をたもとでぬぐった。
「のう張飛殿・・・」
「ああン?」
知性のかけらも感じられない表情と声で、鼻糞を食いながら張飛が返事をする。
この男に戦略のなんたるかがわかってたまるか・・・!と、周瑜は顔を真っ赤にして全身から
湯気を出しながら張飛に問うた。
「赤壁での戦い、貴殿はどのようにすれば目障りな曹操百万の大軍を退けられると思うか」
この時、張飛は何も考えていなかったが、彼の生涯で<目障りなもの>に対する考え方は決まっていた。
「知れた事よ!目障りなものには火をつけてやらア!」
張飛の返答を聞いた周瑜は( ゚∀゚)・∴. ゲボッと血を吐いて地面に顔面から倒れた。
「わしが考えに考えて出した火計の策・・・このような大たわけ者でも軽々と答える・・・。
天よ!なぜ孔明の他に張飛まで生まれさせて、わしを弄ぶのか・・・!」
221:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 18:57:01
【劉禅】
蜀にその人ありと呼ばれた名君。平和を愛し民を思う人徳の君主。
専制君主の時代でありながら、家臣達の協議によって政治を行う議会政治を
導入。自らは政治に携わらず、黄皓と共に古来から伝わる酒池肉林といった
伝統的文化、蜀独自の文化の発展に尽くす。
しかし彼の生まれに、まだ時代は追付いていなかった。彼の思慮深い政治に
付いていけない愚かなる家臣達が離反。国政が大きく乱れようとする。
ここで、名君との誉れ高い劉禅は黄皓と共に大改革を執行。
やむおえず、改革に逆らう家臣達を処分。時には妻と共謀し、妻を殴らせる
ように悪態を尽かせ斬首に追い込む。
劉禅は大改革だけに留まらず、悪政に苦しむ魏の民を救うために立ち上がる。
諸葛亮を唯一破った名将姜維を魏討伐に向かわせ、こき使・・・手足のように使いこなす。
軍資金、兵糧、兵士、全てにおいてギリギリの状態でありながらも名君劉禅は
その状況に不安にさせないためにも、あくまで国政に参加をしていないように振舞う。
その後、運悪く魏の侵攻を受け、蜀は窮地に立たされる。
そこで劉禅は自ら魏に降伏をし、民の安泰を望んだ。
後に名将毛沢東に「人民は劉禅のようにあるべきだ」と、暗愚・・・民は賢くあるべきだ、
と賞賛されたと言う。
後に彼の墓は、その後利益に授かろうと墓石を破壊し、その破片を持ち帰る者が
後をたたなかった。
そのために彼のお墓は今でも作られる事はない。
222:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 20:09:24
このスレの趣旨って嘘は書かないで本当の事を穿った視点で逆の解釈するスレじゃないの?
なんか嘘ばっかり
223:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 20:21:55
黄祖パワーや黄蓋のマゾ話が史実だとでもいいたげですね
224:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 21:09:56
>>222
だよね。ウソをいれちゃうと一気につまらなく見える
225:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 21:58:47
>>222>>224
自演乙!
さぞ面白い話が書けるんだろうねw楽しみに待ってるよw
226:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 22:38:33
いや、俺>>222だけど>>224とは別人
単純に「全漢大たわけ者選手権」とか張飛と周瑜なんて組み合わせを作ったりしてる>>220や
毛沢東の「劉禅のようになってはいけない」ってのを「のようにあるべきだ」と言い換えた>>221のように
歴史を曲げて書くのが引っ掛かりになる
抽象的な例えになるが円柱を見て柱と言われてる所で円だと言うのはいいのだが
三角錐だとか全然違う事を言われても嘘だなって思ってしまうって事
三国志や戦国時代の人物ではないけど岡田克也に関して書かれたものは
三作とも嘘はないが解釈がちょっと違う方向に行っていて面白かった
スレ違いじゃなければだけどね
227:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 22:40:05
>>226
>>225は>>220か>>221で、ウソって言われて顔真っ赤にしてるデブですよ
気にしなくてよいかと
228:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 22:46:11
>>227
そういうレスをつけるから余計に自演臭くみえるんだぞw
229:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 22:49:33
>>225~227 マジウザイ。殺伐になるから来んなよ
230:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 22:54:33
>>229
自演乙!
231:221
05/09/14 22:59:00
変な展開になってるな。盛り上げたかっただけなんだがなぁ
>劉禅のようになってはいけない」ってのを
>「のようにあるべきだ」と言い換えた
漏れはそう読んだけども。違ってたのかな?愚民のが扱いやすいって。
民は賢くなってはいけないって。
後にそのままの考えで文革の大破壊に繋がったと読んだけども。
意図的に変えたわけじゃないよ。
変な挑発となじりあいはやめようよ。
232:無名武将@お腹せっぷく
05/09/14 23:48:17
何が言いたいの
233:無名武将@お腹せっぷく
05/09/15 00:31:54
どうしてこうも屁理屈厨が増えたのか…
234:無名武将@お腹せっぷく
05/09/15 00:54:27
何でもかんでも厨よばわりするようなのがのさばったからさ
235:無名武将@お腹せっぷく
05/09/15 01:06:17
CHUCHU!!
236:無名武将@お腹せっぷく
05/09/15 03:47:33
屁理屈厨ウザいから消えろよ・・・
まとめサイトも前スレも見てない超新参と見た
237:無名武将@お腹せっぷく
05/09/15 15:02:01
まとめサイト更新しましたよ。職人さんは大切にしていきたいですね(・∀・)
URLリンク(meisyoude.gozaru.jp)
238:無名武将@お腹せっぷく
05/09/15 21:58:32
管理人乙m(_ _)m
239:無名武将@お腹せっぷく
05/09/16 02:13:45
徐晃
魏の武将。戦う前から逃げる算段をするなどで知られる臆病な人物であった。元は楊奉
に使えていたが、曹操が力をつけてくると命惜しさに満寵の誘いに乗り、曹操に下って楊
奉を見捨てた。
さらに関羽攻めでは、追い詰められた関羽に対し、同郷の縁があるにも関わらず情け容赦
なく切りかかる不義理さを発揮した。
その後の蜀との戦いでは、配下武将の王平が適切な献策をしたにも関わらず、これを
あっさりと却下した上、敗北すると王平に責任を押し付けるなどの無責任さを見せつけた。
これは郭図が張合βを讒言したのよりも、徐晃が上司である分だけ性質が悪いといえる。
また、徐晃の得物として大斧が有名であるが、これは元は徐晃の出自から農民が使う斧
ぐらいしか持っていなかったためと思われるが、その後も斧を使いつづけたのは諸侯の証
である斧鉞になぞらえていたと思われ、徐晃の分不相応な野望がうかがえる。
このような卑小で身の程しらずな人物であったため民衆の人気もなかったようで、演義で
は裏切り者の孟達の手に掛かるという悲惨な最期を遂げている。
曹操も徐晃のことを周亜夫に例えているが、これは徐晃が終わりを全うしないことを感じて
言った言葉と思われる。
240:無名武将@お腹せっぷく
05/09/16 03:31:03
>>239
GJ!
皮肉のスパイスが効いてて久しぶりの良作w
241:無名武将@お腹せっぷく
05/09/16 08:46:41
>>239
乙ですた。立て直しのためにガンガッていきましょう!
242:無名武将@お腹せっぷく
05/09/16 10:11:49
【竹中半兵衛】
なよなよした風体から、主君である斉藤竜興からいじめを受ける。
竜興の側近たちに小便をかけられても、何も言い返せないような立場であった。
しかし彼はこれをずっと根に持っていたようであり、その後
彼に従ってくれる数少ない仲間とともに稲葉山城を不意打ちで乗っ取った。
「婦人のごとし」と比喩されるように、彼の粘着的でヒステリックな性格がうかがえる。
だが城を乗っ取ったはいいものの、この先どうすればいいか困ったのだろう。
彼は即座に城から逃げ出し、近江の伊吹山へ引きこもってしまう。
彼は自分の行動を「主君を諫言する意味で乗っ取ったんだ」と言い訳したが、
結局その行動は主家である斉藤家の家名を貶めただけであった。
ちなみにこの時、彼は「城を明け渡せば美濃半国を差し上げる」という
信長の申し出を断り、千載一遇のチャンスを逃している。
信長の性格が信用できなかったのか、あるいは単に決断力がなかったのか。
いずれにしろ彼の小心さがうかがえるエピソードである。
その後は猿のような風体であった木下藤吉郎に親近感を得たのか、彼の部下として仕えた。
その後、中国攻めの最中に病気となり、戦線を離脱したが、
病気が不治のものと知るや一転「戦場で死ぬ」と言い張り戦線復帰。
望みどおり陣中に没し、そのワガママ人生に幕を閉じた。
243:無名武将@お腹せっぷく
05/09/16 13:54:41
おつ。
黒田家とのからみとか息子とのエピソードもほしかったかな
244:無名武将@お腹せっぷく
05/09/16 19:08:49
【夏侯恩】
夏侯惇の弟。武勇に優れた武将で、ニ振りの名剣「青釭」「倚天」の内、
「青釭」を授けられる程、曹操に愛されていた。
長坂橋の戦では劉備の将趙雲を打ちのめしたが、仁者でも知られる夏侯恩は、
幼主阿斗を探し出すまでは命を預けてほしい、という趙雲の命乞いを聞き入れ
黙って去ろうとしたところ趙雲に背後からだまし討ちにあい、あっけない最後を遂げた。
しかし夏侯恩の魂は青釭の剣に宿り、哀れな幼子阿斗を救うために
趙雲に超人的な武勇を与えたのだった。
その後阿斗(後の劉禅)は命を救ってくれた夏侯恩に死ぬまで敬意を払い
常に青釭の剣を帯び、皇帝に即位すると周囲の反対を押しきって
敵方の夏侯氏の血を引く女を皇后にすえたのだった。
245:無名武将@お腹せっぷく
05/09/16 20:32:19
>>243
小便しても席立つなとかだな、心狭いぜw
>>242
>>244
乙ですた
246:無名武将@お腹せっぷく
05/09/21 23:09:56
簡雍
劉備の使者で大いに活躍したが、麋竺・孫乾とは全く違う方法で活躍した人物である。
劉備が益州に入ったとき、益州牧劉璋は簡雍に一目惚れした。のち劉備が劉璋と仲違いして成都城を包囲すると、
簡雍は使者として劉璋に会い降伏を勧めながら己の妙技を披露した、
簡雍の妙技を一通り堪能した劉璋は承諾して簡雍と同じ輿に乗って開城した。簡雍は昭徳将軍に任命された。
簡雍はそういうやり方で使者として活躍しているため非常に疲れやすく、
劉備がいる席でも、足を投げ出して脇息にもたれかかり酷使している身体を休めていた。
また諸葛亮らに対しては、長椅子に寝ころびながら話をして彼らを座らせようともしなかった。
日々、身体を酷使している彼には他人を気遣う余裕など無かったのである。
禁酒令が出された時、劉備に醸造道具を隠し持っていた者を弁護したときに姦淫を例えにあげたのも
彼がその筋のプロフェッショナルであることの現れであろう。
247:無名武将@お腹せっぷく
05/09/21 23:31:46
お、ひさびさに新作きたなw
おつ
248:無名武将@お腹せっぷく
05/09/25 21:04:52
面白い切り口だなw
ともあれ乙。
249:無名武将@お腹せっぷく
05/09/26 12:02:10
郝萌
呂布軍で妹にしたい男武将1位に選ばれた勇将。
250:無名武将@お腹せっぷく
05/09/26 17:55:52
ちょww
251:無名武将@お腹せっぷく
05/09/26 21:57:26
許儀
魏の武将。高名な許チョ(>000、まとめサイト許チョ)の子。父譲りの智謀をもって魏に仕える。
もっぱらその智謀から魏の中央に留め置かれていたが、蜀侵攻作戦において、鍾会の軍に属
した。これは許儀が鐘会の分に外れた野望を言葉の端々から感じており、鐘会の野望が成る
にせよ成らぬにせよ魏を弱めることになると看破したので、非常の手段をもって鐘会を除くしか
ないと考えたためである。
そこで取った方法が蜀侵攻時に必須となる桟道を渡る際の事故に見せかけた暗殺である。許
儀は桟道整備を請け負って、鐘会が通った時に床板が抜けるよう細工するが、野心家にもか
かわらず細かいことを気にする鐘会が中央にいる許儀が出向いてきたことを疑ったため露見
してしまい、狙いを果たせずに終わり鐘会の手に掛かってしまった。
周囲が許儀の命乞いをしたにも関わらず鐘会がすぐに許儀を切ってしまったのは、許儀に自
分の野望を見抜かれたためと、その内容を許儀の口から公にされることを恐れたためである。
なおこの後、鐘会がトウ艾を謀殺して自立しようとしたが失敗したが、これは司馬氏の威権を
増す結果となり、魏の社稷を一層危うくしただけであった。このことから、許儀の予測が正し
かったことがうかがえる。
252:無名武将@お腹せっぷく
05/09/26 22:16:31
許儀=司馬昭レベルになる
253:251
05/09/26 22:21:10
レス番書き直すの忘れたorz
>高名な許チョ(>24、まとめサイト許チョ)の子。
が正しいです(´・ω・`)
254:無名武将@お腹せっぷく
05/09/28 23:21:36
陳武
呉の猛将。
孫権が自らの陰部に「陳武」と書いて
陰部の勇猛さを示した話はあまりにも知られていない。
255:無名武将@お腹せっぷく
05/09/29 02:41:44
劉備
姓は劉、名は備、字は玄徳。元はしがないムシロ売りであったが、次第に自分にも流れている王族の血を意識しだし、漢室復興を志すようになる。
しかし、彼は只の調子乗りであった。
漢室復興を目指すなら、劉璋など他にも沢山いる同族の手助けなんかをしていればよかったのに、入蜀なんかしちゃってさ…。世間に自分の名を売ってチヤホヤされたかっただけちゃうんかと…。
「臥龍か鳳趨どちらか手に入れれば天下は取れる」と言われていたのに、その両方を手に入れても天下を取れなかった。バカすぎ…。
続く
256:無名武将@お腹せっぷく
05/09/29 02:43:24
>>255
また、徐庶に「的廬はやばいでぇ~。死んでまうでぇ~。早く人に譲った方がええんとちゃう?」と忠告されたにもかかわらず、「他人が不幸になって自分が幸福になることはできない」と調子乗って見栄をはったあげく、ホウ統を死なせてしまう。。・゚・(ノД`)・゚・。
夷陵での戦においては、馬良が「この布陣はやばいんとちゃう?孔明に聞いてみようよ」と諫めたが「いっつもいっつもあいつに頼るのも俺がアホみたいやん。まかしときぃ」と言ってきかなかった。結果は読者のご存じの通りである。調子乗るから…。
「身の程を知れ」というお話でした。
257:無名武将@お腹せっぷく
05/09/29 05:31:03
?
258:無名武将@お腹せっぷく
05/09/29 16:51:04
つまんねーな
259:無名武将@お腹せっぷく
05/09/29 17:06:32
三国異聞
陳寿の三国志には劉備について耳が大きく手が膝まで垂れたという描写がある。また人相は鼻の大きい劉邦を思わせるものがあったという。
このことから類推するに、劉備はネアンデルタール人の末裔であろうと思われる。
その劉備が漢室の末であると自称するのだから、漢王朝はネアンデルタール人による征服王朝だったと
推察されよう。前漢の初代皇帝劉邦も鼻が長く盛り上がった異相だったというが、これもネアンデルタール人の特徴の
一つである。
他地域では絶滅していたネアンデルタール人であるが、神秘の中国大陸では征服王朝を築くほどの勢力があったと
思われる。
三国志には異相のものが多く現れるが、このことはネアンデルタール人以外にも絶滅したとされる人類が当時の中国大陸には
多く残っていたことを表しており、孫権の碧眼紫髯はおそらくジャワ原人であろうし、甚だしきにいたっては、
司馬懿のように首が180度まわるものや董卓のように死に際してヘソから火を噴くものという正体不明の亜人類もいたようである。
これらのことを考え合わせるに、三国志とは一面では旧人類たちの生存を掛けた覇権争いであり、
漢王朝の滅亡によってネアンデルタール人は遂にその命脈を絶ち、呉の滅亡によってジャワ原人も歴史から消えることとなった。
これらを描いた三国志とは人類種族の最終戦争を物語るものであったといえよう。
このことにインスパイアされたのがトールキンの「指輪物語」であったことは知る人ぞ知る秘中の秘である。
260:無名武将@お腹せっぷく
05/09/29 20:41:17
>>259
なんか民○書房の本かと思ったw
261:無名武将@お腹せっぷく
05/09/29 23:00:21
違うのかw
262:無名武将@お腹せっぷく
05/09/30 10:43:55
>>259
乙!!GJっす。面白かったよー
263:無名武将@お腹せっぷく
05/09/30 20:18:06
>>259
っていうことは、その最終戦争に勝ったのは「正体不明の亜人類」なのかw
264:無名武将@お腹せっぷく
05/10/01 04:22:51
丁原
その武勇は凄まじく、呂布に兄と慕われた。
しかし、一人の女のために街を出ると決めた呂布に対し戦いを挑んだ。
その戦闘は呂布の圧勝であり、丁原は絶命した。
その後の呂布に触れると、呂布は様々な強敵と戦い
最終的に本物の兄、後漢末覇者董卓をも倒したのだ。
265:無名武将@お腹せっぷく
05/10/01 11:49:15
伊籍
蜀の使者として呉を訪れた際、孫権に「無道の君主に使えるのも大変だろう」と皮肉をいわれ逆上し
暴力団と結託して孫家の名を脅し取ろうとした。
しかし、あえなく警察に捕まってしまうが孫権は伊籍の行動に関心した。
伊籍の子孫は日本にいるらしいが、現在服役中である。
266:無名武将@お腹せっぷく
05/10/02 19:17:10
【曹豹】
徐州の太守陶謙に忠義を尽くした悲運の名将。
陶謙が曹操の父曹嵩を殺害し、それに憤激した曹操は大軍を率いて徐州へと攻め込む。
慌てふためく陶謙。降伏をも考える彼に進言したのは誰であろう曹豹その人であった。
「手をこまねき、死を待つは武人の所業にあらず。
それがし、殿のお力となりて彼の軍を打ち破ってみせまする。」
徐州で曹軍と互角に渡り合える武将は彼しかいなかった。徐州の命運は曹豹の手に委ねられる。
徐州のため陶謙のため、評定ではあのような言を吐いたものの、曹豹は悩んでいた。
敵は大軍、こちらは無勢。まともにやって勝つ算段はない。
そこで彼は天文を読んだ。強風が吹くことを見越し、その日に決戦を挑んだのである。
そして読み通り強風が吹いた。強風に翻弄された曹軍は大軍の利を生かすことができず、
無勢の徐州軍は夏侯惇率いる曹軍と見事引き分けることとなったのである。
その後、徐州にすべり込んだ劉備に陶謙は徐州を譲ってしまう。
病気を患い、半死半生の陶謙にもはや判断能力はなく、そこに劉備はつけ込んだ。
その勇名を聞いていた劉備は曹豹を傘下に加えるが、
亡き陶謙の子息の気持ちを思うと、曹豹の胸は痛んだ。
そんな中、劉備が袁術を討ちに出兵する。残されたのは張飛と曹豹。
乱暴者で知られる張飛は、自ら配下に禁酒を命じるも、
その後コロッと気が変わり、自らその禁を犯してしまう。
曹豹は諫言した。しかし張飛はそれに逆ギレ。
部下に曹豹を押さえ付けさせ、身動きできない彼を、その剛力で延々と打ち付けた。
もはやこれまで。やはり荒くれ者の劉備一派に徐州は任せられぬ。
曹豹、決断の刻。彼が白羽の矢を立てたのは呂布であった。
267:無名武将@お腹せっぷく
05/10/02 19:17:42
【曹豹】(2)
曹豹の武勇に尊敬の念を抱いていた呂布は、彼の娘を妻に娶っていた。
すなわち、呂布は曹豹の義父であったのだ。
この策は的中する。呼び込んだ呂布の活躍により、張飛は命からがら敗走する。
しかし呂布はしょせん猪武者であり、詰めが甘かった。敗走する張飛を追撃しなかったのである。
曹豹は考えた。劉備率いる戦力は無下にできず、張飛がこの出来事を知らせれば厄介なことになりかねない。
即座に判断をした曹豹は、わずかな手勢を率いて張飛を追撃した。
そして曹豹は張飛を捉えた。焦る張飛は曹豹に突進をしてくる。
打ち付けの刑を与えた曹豹の体はもはやボロボロ、曹豹を討てばその手勢も戦意を失うと考えたのだ。
しかし、張飛のそんな考えは裏切られる。その満身創痍の体で、曹豹は数合に渡り張飛と互角の打ち合いをしたのだ。
これには剛勇を誇る張飛も驚いた。曹豹、その勇名に偽りなし。張飛は一計を案じた。
「ここでは周囲の兵を巻き添えにしてしまう。離れた場所で勝負だ。」
「うむ、受けて立つ。」
馬首をひるがえし、走り出す曹豹。その背後目掛け、ことあろうか張飛は槍を投げつけた。
信義を重んじるがゆえ、それが曹豹の命取りとなった。
その後、徐州の領土は劉備でも呂布でもなく、曹操のものとなる。
もしも曹豹が健在であれば、これほど簡単に徐州は曹操のものにはならなかったであろう。