06/02/12 07:47:14
人取橋の戦い ○伊達軍8千 対 ●佐竹・蘆名・畠山連合軍3万
反伊達の連合軍は数に任せて攻め込んだ。政宗はこの報に接し、最上に対する押さえに2千、大崎に対する押さえに3千人を配し、総勢8千人を率いて布陣した。
政宗、成実らの奮闘によって連合軍は本陣を抜く事が出来ず、伊達軍は圧倒的劣勢の中から持ちこたえた。
この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。
窪田の戦い ○伊達軍6百 対 ●佐竹・蘆名連合軍4千
佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、4千人が安積郡に侵入した。
政宗は大崎や最上などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
政宗は伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、両軍が激突、連合軍が2百人程度の犠牲が出たのに対し、伊達軍は6十人程度だった。
伊達軍は劣勢の中持ちこたえ、40日間の持久戦のすえ和議が成立した。
摺上原の戦い ○伊達軍2万3千 対 ●蘆名軍1万6千
緒戦は蘆名勢優位のうちに進んだが、伊達成実の側面攻撃によって形勢は逆転。
伊達軍の厚い壁を破る事が出来ず、蘆名軍は敗走。蘆名軍は死者2千という大被害を出し、蘆名義弘は佐竹家へ逃亡。
南奥羽の雄蘆名家は滅亡する
童生淵の戦い ○伊達軍 対 相馬軍
相馬勢は当主義胤の弟隆胤を始め多くの家臣が討ち死にするという大敗を喫した。
その後、この戦いは豊臣秀吉の総撫事令により戦いは止まることとなった。
なお、以後戊辰戦争まで駒ヶ峯が伊達氏と相馬氏の藩境となり、駒ヶ嶺以北の現在福島県新地町は伊達領となり、この戦いの影響が大きかったことが分かる。
白石城の戦い ○伊達軍 対 ●上杉軍
伊達軍は首級7百を上げ、わずか1日で白石城を落とした。
長谷堂城の戦い ○伊達最上連合軍 対 ●上杉軍
伊達と最上の巧みな連帯により、直江兼継は城を落とせずに撤退する。
西軍についた上杉は大幅に減封され、伊達と最上は大幅に加増された。家の命運を分けた戦であった。
大坂夏の陣 ○伊達軍 対 ●豊臣軍
騎馬鉄砲隊によって後藤又兵衛と薄田兼相は戦死。政宗はやはり生まれてくるのが遅かったのだろう。