▲本多平八郎忠勝を語るスレ▲at WARHIS
▲本多平八郎忠勝を語るスレ▲ - 暇つぶし2ch77:安城市民
04/07/02 13:56
愛知県安城市の住宅地図を見ていたら安祥城跡の近くに「本多忠豊碑」
なるものがあったが、この忠豊というのはは忠勝の一族の人なのですか?
教えて君ですみません。

78:無名武将@お腹せっぷく
04/07/02 14:00
>>77
忠勝の祖父です

79:無名武将@お腹せっぷく
04/07/02 14:13
真柄直隆を倒したのは別人

林半介は、敵に突入してっただけ。
林の潔さを誉めるのみ。

>>62
松平の氏神は松平郷にある。

80:無名武将@お腹せっぷく
04/07/02 15:24
>>79
真柄兄弟は戦場で押し寄せる敵を相手に奮戦して戦死したとありますからそうでしょうね。

林半介は常山紀談に
「ただ一騎輪をかくる様子、敵ありとも思わざる体なりしを」
と書いてあったので奮戦したと書いたのですが、ということは
「敵などいないがごとき(疵のない)体で」という意味ではなく
「敵がいると思えないくらい突入して」という意味なのでしょうか・・?

松平の氏神はほかにあるのですか。
情報ありがとうございます。

81:1
04/07/02 15:33
すみません、>>80=>>1です。

82:無名武将@お腹せっぷく
04/07/02 15:36
真柄直澄 向坂式部に討たれる
真柄直隆 向坂吉政に討たれる
真柄隆基 真柄直隆の子で青木一重に討たれる

83:1
04/07/02 19:47
いまさらですが>>74様、有難う御座います。
元々藤原を名乗っていたというのは知りませんでした。
もう少し家康を勉強してみます。
では、この前言ったようにあの人物を、とりあえず・・・8
○忠勝の戦友2

(酒井忠次)徳川四天王の筆頭にして徳川軍の重鎮中の重鎮です。
武勇に優れ、三河一向一揆、三方が原の戦い、長篠の戦いなど数々の戦いで戦功をあげています。
特に三方が原の戦いでは大敗した家康軍が浜松城に戻ってきた時、城門を開いて大篝火を焚き、太鼓を打ち続けました。
この光景を見た武田軍は、計略があると思い、撤退していきました。
これがいわゆる「酒井の太鼓」です。
彼は1588年に隠居するまで活躍し続けましたが、関ヶ原で自分の息子が三万石しか貰えなかったので家康に抗議しに行った時
家康に「お前でも自分の息子が可愛いか?」とあしらわれました。
これは信康事件で信長の問答に窮して信康を助けられなかった忠次を恨んで皮肉ったといわれています。

本文が長いようなので分けますね^^;

84:1
04/07/02 19:48
続き・・・

(服部半蔵)皆さんも名前は聞いたことがあるでしょう。「忍者ハットリくん」のモデルの人物です。
ですが実際の半蔵は忍者ではなく、槍を使って戦場を駆け巡り「鬼半蔵」とよばれた立派な武将です。
まぁ忍者とは全く関係がないわけではなく、彼の父は伊賀上忍、服部家の頭領でした。
しかし父は半蔵の立身出世を願い、徳川家の足軽に仕官させたといいます。
その後槍働きでどんどん出世していき、 徳川十六神将に名を連ねます。
特に大きい活躍をしたのは家康最大の危機といわれた「神君伊賀越え」です。
半蔵は忍者の名門「服部家」の跡継ぎということを利用し、周辺の忍者達に救援を要請し
集まった忍者達の力を借りて脱出路を確保、家康を無事に三河へ送り届けます。
これにより彼は家康軍の忍者の総頭領になり、その後は忍者部隊を率いて活躍しました。
忍者というと情を表に出さないというのが普通ですが、半蔵は友人でもあった信康の介錯を任されたとき、涙で斬るとこができなかったといいます。
それにより家康はより半蔵を信頼するのでした。
ちなみに半蔵というのは代々受け継がれている名前らしく(平八郎もそう)
彼の息子の2代目服部半蔵は大阪の陣に参加しています。

余談・服部半蔵正成は「鬼半蔵」、渡辺半蔵守綱は「槍半蔵」、可児才蔵吉長は「笹才蔵」
・・・・・ややこしいですね

85:無名武将@お腹せっぷく
04/07/02 20:02
歴史読本なら毎月読んでるよ。

86:無名武将@お腹せっぷく
04/07/02 20:29
蜻蛉切って現存するの?
現存するなら見てみたいな。

87:無名武将@お腹せっぷく
04/07/02 20:48
現存するよ。
あれって村正の一派の作って聞いたけど本当かな?
村正は太平の世になると徳川をたたる妖刀なんて謂れの無いレッテルを貼られているけど
徳川の治世を切り開いた三河武士から愛されてた刀の一つだよな。

88:無名武将@お腹せっぷく
04/07/03 17:06
半蔵も「槍の半蔵」とも言うだろ
それに服部半蔵の名前は正成の息子が2代目じゃないし

89:無名武将@お腹せっぷく
04/07/03 17:45
>>88
それは誤って伝わっただけでは?

90:無名武将@お腹せっぷく
04/07/03 17:47
槍の半蔵のことね

91:1
04/07/04 00:15
>>88
槍半蔵は上に書いたように渡辺半蔵守綱です。
服部半蔵が鬼半蔵なのは信康を斬れなかった時に家康が
「鬼の半蔵と呼ばれたお主でも涙で斬れぬか」と言ったことからも明白です。
どうも間違える方が多いため上に余談として表記しました。

息子が2代目ではないというのは・・・・全然知りませんでした^^;。

92:無名武将@お腹せっぷく
04/07/04 01:29
正成も守綱も槍の半蔵。

93:安城市民
04/07/04 08:38
>>78
どうもです。ではお参りに逝って来ます。

94:無名武将@お腹せっぷく
04/07/04 08:44
>>92
正成は槍の半蔵じゃないよ。

95:無名武将@お腹せっぷく
04/07/04 08:46
三河風土記等文献を見ても服部半蔵を槍の半蔵と呼ぶなんて書いてない。

96:無名武将@お腹せっぷく
04/07/04 22:58
1さんはじめ、皆さんの書き込みに、興味深く学ばせて頂いております。

スレッドを拝見しているうちに、徳川譜代に興味が湧いたのですが、
史料文献で、コレは押さえておけ!というのはありますか?

何年かぶりに学校の教科書をひっくり返したのですが
参考文献とか全然書かれて無くて、何を読んだらいいのか・・・


こちらのでは「常山紀談」、「信長公記」、「三河風土記」の名が
上がっていたので、近々図書館で探してきます。

97:新撰組
04/07/05 15:05
服部半蔵という人物は、代々その名前を継いでいくという事は
分かったんだけれど…幕末までその名前は続いたのかい?

本多・酒井・服部・大久保・井伊・榊原
譜代の家臣で幕末まで徳川に付き従い家を残した家臣はいるのだろうか?



98:1
04/07/05 16:32
>>96
う~ん・・・。
私は忠勝に興味を持ってからインターネットや史料、本などいろいろ調べましたが・・
特にこれというものはないですね。
逆に全部あったからここまで知識がついたと思ってます。(まだまだ知らないこと多いですが^^;)
とにかく出来るとこまで調べ上げてみてはどうでしょう。

>>97
半蔵は・・わからないです。ごめんなさい。
えと、井伊家・榊原家・酒井家は幕末後も続いたと言われています。
本多家も途中「九六騒動」などで危うくなったりしましたがなんとかおさまり
無事続いたとか・・。

ちょっと次回は「忠勝の戦友」は休みにしてほかの逸話、子孫などを語ろうとおもいます。

99:96
04/07/05 19:32
>>98
漠然としすぎた質問に、ご回答ありがとうございました!

通史や人物伝のような物があるのかな?と思って書き込ませていただいたのですが
関連図書などをコツコツ読んでいこうと思います。
今まで中国史べったりだったので、母国語で逸話が読めるのは嬉しい悲鳴です。

レス消費失礼。

100:無名武将@お腹せっぷく
04/07/05 22:14
>>98
忠勝の本多家は、江戸中期以降徳川家所縁の地でもある岡崎5万石を与えられたけど、
名誉職の意味合いも強くて、花火や石等の産物はあって数字よりマシだったものの、
神君や多くの譜代大名の故地であったことから、諸大名が参勤の途中に滞留することが多く、
大名の代替わりごとに訪れたりしたもんだから、その接待のために財政はいつも苦しかったとか。
そのため、途中で財政再建が試みられたが、接待費削減政策は実施されたものの、
忠勝公以来の功名高く世間にも知られた家臣が多くてなかなかリストラが出来なかったそうな。

101:無名武将@お腹せっぷく
04/07/05 23:14
>>97
半蔵の子孫達は桑名藩士として幕末まで残ったよ。

102:無名武将@お腹せっぷく
04/07/05 23:59
忠勝の本多家は一度絶家して養子を向えてんのな

103:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 10:14
激しくイイスレの予感!
∩(・ω・)∩バンジャーイ

104:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 12:47
>>93
先祖を大切にしてくださり、まことにありがとうございます

105:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 18:34
この名スレの>>1さんに一言。


鳥居元忠と忠勝の息子をお忘れですね?



106:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 18:48
織田家ってつぶされてねぇな。

107:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 18:55
>>105
このスレで登場してない武将を忘れたと言ってるなら、その二人ぽっちなわけがないよな。

108:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 19:14
>>96
三河物語、甲陽軍鑑、名将言行録、大坂軍記、常山紀談、史籍集覧

109:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 19:23
>108
七実三嘘どころかそれ以上の・・・

110:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 19:44
知ったかぶらんでいいよ。史籍集覧なんて碌に読んでないだろ。

111:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 19:45
>>109な。

112:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 19:47
知ったかぶり? ふふふ。


113:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 19:49
>>108
あのあたり読んでない奴なんて話にならんだろう

114:無名武将@お腹せっぷく
04/07/06 19:50
まぁ、俺の周りでも史籍集覧全部読みきったって奴なんていないけどな。

115:1
04/07/06 23:59
>>100-102
情報ありがとう御座います。本多家は大変ですねぇ・・・
服部家は半蔵の名前は続いたんでしょうか?

>>105
えと、鳥居や内藤、長坂などの人物は
>>98でいったように逸話と子孫の話の後に再開しようと思ってます。
案外長いのでわけてやっていくつもりです。

今日忠勝の武勇以外の逸話を書くつもりでしたが、
パソコンが起動せず、こんな時間になってしまった為また明日ということで・・・すみません^^;

116:無名武将@お腹せっぷく
04/07/07 01:50
>>83
酒井忠次は関が原の前に死んでるんで、
関が原の褒賞が3万石で~ってことはないと思う
関東入部のときだな

117:無名武将@お腹せっぷく
04/07/07 07:13
忠勝って元々忠次の配下だったろ。
戦友ってどうよ?

118:1
04/07/07 19:02
>>116
調べてみたら確かにそうでした^^;
間違いなく私のミスです、すみません
>>117
一応同じ四天王なので戦友とさせていただきました。

と、いうことでとりあえず・・・9
今日は武勇の逸話ではなく、他の逸話を紹介します。
○その他の逸話
(退くは難し)三方原の戦いで大敗した後、なお戦おうとする家康に忠勝は
「進むは易し、されど退くは難し」といって血路をうながしました。
後々家康が「勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば害その身にいたる」と述べたのは
このときに忠勝から学んだものといわれています。

(貫禄)関ヶ原の戦いで、毛利軍が南宮山に布陣したのを気掛かりに思っていた兵たちに向かって
「もし毛利軍に戦う意思があるならば、山を降りて布陣するはず。山上にいるのは、そのつもりがないからだ」と言い安心させました。
また敵軍を攻撃する際、銃弾の音を聞き恐れる兵に向かって「銃弾が聞こえるということは自分がまだ生きている証拠だ」といって鼓舞させました。

(鹿角の兜)忠勝の装備品のなかでも特に有名な鹿角の兜の逸話です。
家康に三河進攻への下調べを命じられ刈谷・大府・緒川方面へ単独潜入したその帰り道のこと。
悪天候で増水した矢作川が渡れず悩んでいた時に大きな一匹の牡鹿が現れ移動を始めました。
忠勝がついていくとそこには浅瀬があり、無事わたりきった時にはす既に鹿の姿はありませんでした。
「あの鹿は伊賀八幡宮の使いで俺を助けてくれた」と思った忠勝は早速伊賀八幡の同神主・柴田因幡にこの兜の製作を依頼しました。

実は兜の話はほかにもあります。
今回はそのなかの一つを書きました

119:長門守
04/07/07 21:05
>>70
>また達筆であり、小牧・長久手の戦いでは秀吉を批判した檄文を書いて激怒させました。
>その後秀吉が攻めてきたところを檄文によって集まった援軍と共に返り討ちにし、さらにその名を轟かせました。
>関ヶ原の後、老中職に就きますが「老臣が権を持つは亡国の兆し」といって辞退、1606年5月14日に病没しました。
 微妙な書き方なので少しだけ訂正させて戴きますと、檄文を書いたのも秀吉方の三好秀次軍を壊滅させたのも同じ小牧・長久手の戦い。前者が小牧で、後者が長久手での戦いですね。
ちなみに、長久手の戦いではこのあと、羽柴軍堀秀政隊により、榊原・大須賀隊は壊滅・敗走しています。
しかも、この時、康政は檄文の仕返しとして、秀吉からその首に10万石をかけられていましたが、無事、帰還しました。
 老中職を辞退したという話はよく聞きますが、実際は、職としては死ぬまで老中のままだったようです。実務はしていなかったでしょうが。
で、泣かせるのは、康政が死んだ1606年に桑名にいた忠勝は幕府に届け出て老中職を辞しています。

120:1
04/07/07 21:52
>>119
そうなのですか・・・老中職は辞退していないのですか。
しかも忠勝にそんな話があったとは・・・。
情報有難う御座います。

しかし私の話はことごとく穴がありますね^^;
やはりもう少し知識をつけてからのほうがいいでしょうか・・・

121:無名武将@お腹せっぷく
04/07/07 22:15
>>87
蜻蛉切りの作者藤原正真は三河で活躍した村正一派で
通称三河文朱殊と呼ばれる刀工

122:無名武将@お腹せっぷく
04/07/07 22:16
三河文朱殊じゃなくて三河文殊ですた。

123:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 00:15
息子よりもパワフルだー

124:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 02:15
1の話は、巷談と史実がごっちゃになっている。

脳内にコピペするのではなく、ちゃんと整理しなさい。

125:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 03:12
史実がどうかなんて誰にもわからんけどな

126:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 06:54
いや、ここは博識な124氏に分別してもらいたい

127:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 12:26
うむ同感。
>>1は一生懸命やっている。
>>124が整理しなさいというのなら>>1が言った事を
訂正・更に注釈加えてくれれだイイと思うぜよ

イイスレなんだから、もっと知識を出し合い協力しあって
盛り上げていこう(´ー`)ノ

128:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 13:26
大丈夫、戦国無双猛将伝で出るから嫌でも盛り上がるさ。
…無双厨達でな。

129:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 17:19
>>124
確かに巷談と史実がごっちゃになっているかもしれません。
忠勝には本当なのか、それとも嘘なのか分かりづらい逸話が多いので(無傷とか単騎駆けとか)
「こういう話もある」というぐらいに考えてください。

あ、あと前にも言いましたが私自身まだまだ勉強中の身です。
当然わからないことも沢山ありますので、無知なところを晒すことも多いかもしれません^^;
なので、もし私の文で間違いがあるところ、自分が知っていることがあれば遠慮せずに語ってください。

皆様、これからも宜しくお願いします

130:1
04/07/08 17:21
>>129=1です。
またミスしてしまいました・・・

131:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 21:56
>>129
でも忠勝は本当に凄いと思いますよ。
果たして本当に、57回もの合戦をしたにも関わらず、
一度も傷を受けなかったという逸話が事実かどうかは
当事者でないから誰も分からないわな~。
だが、それだけ周りの人間に「あの男は本物の強さだ・・・」という
印象を与えてきたんでしょうね。
こういうことを、戦国時代から現代までに伝えられるなんて
やっぱなんちゅうか、純粋にかっこええ人生だな、と思う。

もしこれが現代の武勇伝だったら、どこかの誰かが嫉妬して
「本多忠勝(40)まさかの負傷!? 旅商人(24)が証言する真実に迫る」
とかなんとか書かれそうでヤダなー。


132:長門守
04/07/08 23:11
前に忠勝の祖父の話が出てきたので、そこらを少し。

松平広忠(家康の親父)が今川家の庇護を受けていた頃、松平氏の持城であった三河国安祥城(現愛知県安城市)を織田信秀(信長の親父)が攻撃します。
広忠はこれに援軍を送りますが、敢無く安祥城は陥落。織田家の手に陥ってしまいます。
このとき、忠勝の祖父にあたる平八郎忠豊が広忠を守って、身替わりとして戦死します。年代は諸説ありますが、天文9年(1540)が一般的。
以降、広忠はこの安祥城奪還に燃えますが、なかなか適いません。その一環、天文14年(1545)の奪還失敗時に忠豊戦死の説もあります。
そして天文18年(1549)、広忠が家臣岩松八弥に謀殺されると、松平家を乗っ取った今川家の家宰太原雪斎は松平勢を率いて安祥城を攻撃。
この戦いで忠勝の父平八郎忠高が城兵前島伝次郎の矢に当たって戦死。城の攻略は失敗。
これが3月。同年11月に太原雪斎は再び、松平勢を率いて安祥城を攻撃。これを攻略。
城主織田信広(信長の庶兄)を捕らえると、早速、織田家の人質となっていた竹千代(家康)と人質交換を実施。竹千代を駿河につれていくこととなる。
ちなみに安祥城は信長と家康(当時は元康)との間に清洲同盟が締結された永禄5年(1562)に廃城となる。

参考までに家康の誕生年は天文11年(1542)、忠勝は天文17年(1548)です。

133:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 23:34
>>129

124ですが。

「落ち着け」と言いたいだけ。
その貪欲な情報収集は素晴らしいと思う。
だけど、垂れ流すな、厳選して楽しませてくれ!と言いたいだけ。


ところでそんな忠勝マニアの君に質問だけど、
いくら武辺な人とはいえ、かなりの大禄な本多家。

   家 臣 団 だってそれなりにあるでしょう?

家臣に関する逸話、御家の構成とかちっとも伝わってないよね?
なんか知ってたら教えてください。
一家の軍団は、たった一人の武辺者で構成されているわけではないし。
むしろ軍団としては”大将に一騎がけされた!”は恥じるべきではないかと。


134:無名武将@お腹せっぷく
04/07/08 23:50
そういや戦国無双には稲姫=小松が出るという未確認情報も…。
って事はオヤジキャラなのか?

135:無名武将@お腹せっぷく
04/07/09 00:01
>>134
確定なようですね。武器は長弓だとか

136:無名武将@お腹せっぷく
04/07/09 02:14
忠勝、父娘で一気にメジャーデビューか…。

137:無名武将@お腹せっぷく
04/07/09 04:55
忠勝は越後に生まれれば面白かったのにな
謙信とか景勝とか相性良さそうだし

138:無名武将@お腹せっぷく
04/07/09 07:10
>>137
素人、三河じゃないと魅力半減

139:無名武将@お腹せっぷく
04/07/09 07:27
幕藩体制が固まりつつある江戸時代初期、忠勝等の勇者系武士は政治の中枢から遠ざけられている。
さぞかし面白くなかったのだろう。

140:無名武将@お腹せっぷく
04/07/09 10:13
>>139
榊原康政の欄を見ろ。

141:341
04/07/09 17:15
うむ

142:1
04/07/09 17:39
>>133
いや、落ち着けといわれても・・・
もともと私が語りはじめたのは最初のほう人が全くいなかったから
皆が語りやすい環境をつくろうとしただけであって垂れ流そうとか厳選しようとかは考えてません。
実際私は忠勝を知ってまだ一年ほどしか経たず、わからないことが多いのです。
このスレを立てたのは私が知っていることを皆に話すスレではなく、皆さんと一緒に忠勝という人物を語り、議論するスレとして立てました。
無論私がわかることなら語りましょう、でも私も右も左も分からず、勉強している一人なのです。
ですから私を「情報提供者」だと思わず、「スレの一住人」としてうけとってもらえたらこれ幸いです。

やや見苦しい、わかりづらい長文だったことを、お詫び申し上げます。
忠勝家臣団の逸話ぐらいならある程度わかるので今日中にはお答えします。

143:1
04/07/09 21:24
(筑紫秀綱)忠勝家臣団の家老です。
元々今川軍に所属していましたが遠江侵攻の時に降り、翌年忠勝の軍に所属しました。
1569年に家康から本領安堵を受け、その後本多家筆頭家臣として代々仕えました。

(梶勝忠)上に同じく忠勝家臣団の家老です。
元は家康の使い番で、後旗本先手役になった忠勝に属します。
関ヶ原の戦いでは三国黒を失ってもなお奮戦する忠勝に自分の馬を差し出したといわれています。
忠勝が死去すると同僚の中根忠実と共に殉死しました。

(本多正重)徳川家康の謀臣といわれる本多正信の弟である人物です。
どうやらかなりの槍使いらしく、信長から海道一の勇士といわれたといいます。
あとかなり放浪癖があったようです。

(牧総次郎)元今川軍にいた人物です。
死んだ城所助之允の武勇にあやかって桔梗笠をかぶり出陣した時
前年に一騎打ちにてもう少しの所で助之允を取り逃がしてしまった忠勝から勝負を挑まれ捕らえられました。
忠勝は彼の思いに心情を打たれ、彼を逃がします。
これに恩を感じた総次郎は後々忠勝の忠臣となるのでした。

(長坂信宅)家康家臣で「血槍九郎」といわれた猛将、長坂信政の息子です。
姉川・長篠・小山・長久手の戦いなどで戦功をあげました。
彼は忠勝の師であり、槍を教えたり涙ながらに忠勝の父の武勇譚を語ったといわれています。
この逸話の真偽はわかりませんが、1590年に本多忠勝軍に属したことは確かなようです。

144:無名武将@お腹せっぷく
04/07/09 21:25
>>142=1
がんばれー。面白く読んでるぞ。
当方千葉県人だけど、小さいころ大多喜城につれてってもらったんだけど、
そのころは本多忠勝がこんなにすごいとは知らず、マイナーでやだなぁ。もっと有名な人が
来ればよかったのになんて思っていたけど、無傷の逸話や、過ぎたるものの話を
聞くうちに、お!!すごいやつジャンかって見直したというか、今では徳川譜代では一番好きになった。

大多喜入府は里見への押さえらしいけど、忠勝公ならば押さえどころか・・・って思ってしまう。
上総の片田舎に忠勝公を置くのはもったいなかったなぁとね。

145:長門守
04/07/10 00:26
>>1がんばれ。

「その時~」で家康の家系が出ていたのそこらへんを。
もともと、徳阿弥という時宗の聖(ひじり・時宗僧をこう呼ぶ)が流れてきて、まず三河国酒井郷にやってきます。
土地の有力者酒井氏の厄介になりますが、ここで、この徳阿弥、酒井の娘を犯しちゃいまして、そこで出来た子供の子孫が酒井氏となります。
酒井郷ではバレる前に出発したのか、次に松平郷で厄介になります。
ここでも、飽き足らず、松平の娘を手込めに…。今度は流石にバレてしまい、やむなく、松平氏の婿養子として還俗。
親氏と名乗ります。これが松平氏の祖。
後年に家康が改ざんした系図だと、この親氏が上野国新田氏支流得川氏の流れをくむとしています。

酒井家が分ったところで他の四天王。
本多家は自称藤原北家です。しかも、道長の従弟の伊周だったか、その辺からの流れらしいですが、多分に眉唾モノです。
榊原家は伊勢国榊原郷の出で、足利系仁木源氏で、家紋は源氏車。これは結構、信憑性高いらしいです。
井伊家は遠江国井伊谷の名家で、藤原の流れをくみ、かつて、地方に出向いてそのまま土着した一族らしいです。


146:無名武将@お腹せっぷく
04/07/10 01:34
>>145
いやしかし、それもまた噂であり。


>>143
>筑紫秀綱
「筑紫」で今川ってことは・・・今川家が九州で猛威を奮った頃からの
家臣なのでしょうかね?

>本多正重
この人、蒲生とか前田とか滝川とか渡り歩いた人でしょ?(政重とは別人)
本多忠勝の家臣だった事あるっけ?

>長坂信宅
1582年にはまだ家康直臣っぽいんだけど、
1590年(小田原)もうそうだし、1591年にも奥州仕置きに鉄砲頭。
なので、この期に本多家に加わったのでしょう。
忠朝について桑名で死んでます。

でも、茶利九郎家は旗本になっているのでは?そこんとこが謎。

147:無名武将@お腹せっぷく
04/07/10 17:51
ここ見たほうが早いかもな。
URLリンク(www.geocities.co.jp)

148:無名武将@お腹せっぷく
04/07/10 17:52
てか、忠勝ファンのサイトの中で蜻蛉切ってかなり有名だよなぁ。

149:無名武将@お腹せっぷく
04/07/11 20:21
肥ゲやってると自然と覚えるとおもふ

150:1
04/07/11 20:34
この休み、少し出かけておりました。

>>144-145
有難う御座います。感無量です。

>>144
筑紫は多分そのころからの家臣と思われます。
正重は忠勝が旗本先手役になったときの52騎与力の中に本多三左衛門(正重)の名があります。
長坂は・・・・謎ですね^^;

>>147
私もこのサイトにはかなりお世話になりました。
あまり知られていない逸話などが多く書いてありますね。


151:無名武将@お腹せっぷく
04/07/12 09:07
>>1
ココはなかなか熱いスレですね


152:無名武将@お腹せっぷく
04/07/12 09:25
    ../⌒\
    (  人 )
    ノ;;ヽ /;;;ヽ
  メ;;;;  ~~  ;;;χ
 /;;; ~~ ;;Y ~;;ヽ
 |     (,,゚Д゚)  ;;|< ワシの蜻蛉切り(4cm)を食らえい!
 メ  (/~ ;;| ~ ;;|)
   メ____人__/
      U"U


153:無名武将@お腹せっぷく
04/07/12 10:57
清正スレへお帰り

154:無名武将@お腹せっぷく
04/07/13 18:12
>>153
氏真スレにも出没したぞ。





だから何?と、言われそうだが。

155:無名武将@お腹せっぷく
04/07/14 21:07
保守

156:無名武将@お腹せっぷく
04/07/14 21:56
岡部元信討ったのって忠勝軍?

157:1
04/07/14 22:06
>>156
忠勝、というよりは
本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠らの総攻撃を受けて戦死したようです。

158:無名武将@お腹せっぷく
04/07/15 01:17
岡部の一族って、忠勝以上に「生きざまがかっこいい」ぞ。
マジで。

159:無名武将@お腹せっぷく
04/07/15 06:46
ではスレでも立てて存分に語ればよろし。
一族がかっこいいとだけ言われてもシラネ 元信は知ってるが

160:156
04/07/15 22:54
>>157
返答ありがとうございます。
ただ今、今川義元に関する歴史を調べていたもので・・・
そういや、忠勝自身も桶狭間の戦いによってその後の
人生が変化していったのかも知れませんね。
もし義元が勝っていたら、どこまで生きていたか・・・
まぁ、もしも話を長々と言うのもなんですから、
私はこれにて失礼させて頂きます。

161:無名武将@お腹せっぷく
04/07/15 23:10
まぁ、糞恥ずかしい脳内妄想を人様の前で開陳するな場所をわきまえろや。

162:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 07:27
>>161
日本語が変ですよ。

163:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 12:29
うむ…
>>161も場所をわきまえろや。
まったりいこーぜ

164:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 12:38
160必死だな。

165:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 14:37
変な妄想野郎のせいでスレが荒れるのは勘弁。これじゃ清正スレの二の舞に・・・

166:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 15:32
とりあえず広告に稲姫(忠勝の娘)って書いたあった事でも喜ぶか

167:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 16:40
まったりいこーぜとほざいてる馬鹿が一番荒らしている変スレだな。

168:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 16:43
>>160
おまえ馬鹿ってよく言われるだろ。

169:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 18:13
>>161
>>164
>>165
>>168

170:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 18:24
>>169
おまえが一番あれてんじゃねーか。
何がまったりしろだよ。馬鹿め。

171:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 18:25
池沼169を晒し上げておきますね。

172:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 18:41
なんだこれ

173:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 18:50
まったりしろとか言いながら荒らしている馬鹿の見本だろうが。めくら。

174:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 19:01
>>160
>>162
>>163
>>165
>>169
>>172


175:1
04/07/16 19:07
皆、忠勝好きの仲間だというのに何を言い争ってるのですか。
言い争いばかりで誰かが流れを止めねばずっと荒れているままですぞ。
もっとマターリしてください

176:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 19:17
>>1が良い事言った。

177:無名武将@お腹せっぷく
04/07/16 19:33
>>175
荒れないように、忠勝話しておくれよー。
読むの楽しみなんだから。

178:長門守
04/07/17 01:58
有名な「エピソード」です。

ある時(多分、小牧・長久手の合戦の後)、徳川家臣団を羨んだ秀吉が、家臣たちをたらしこむために徳川三傑に黄金を送ろうとした。
これに対する反応。

井伊直政 
 「いらない」と言って頑として受け取ろうとしなかった。
本多忠勝
 ホイホイと受け取った。
榊原康政
 家康に相談して、貰っても良いという許可を得てもらった。

なんか、三者三様でほほえましいですな。

179:無名武将@お腹せっぷく
04/07/17 12:29
>>174
173が抜けてるぞ。
あと>179のワシも入れてくれ。

>>178
井伊直政:頑として受け取ろうとしなかった。
彼は相当な忠義者という人物だったのかな?
本多忠勝:ホイホイと受け取った。
受取ってしまったのか…でも、それだけだよね!?
榊原康政:家康に相談して、貰っても良いという許可を得てもらった。
これが、理想的ですね(*'ω')ゝ

180:無名武将@お腹せっぷく
04/07/17 16:49
やはり
猿は
人材マニアだ


181:無名武将@お腹せっぷく
04/07/17 19:04
清正に喧嘩ふっかけられた話って本当?

182:無名武将@お腹せっぷく
04/07/18 03:18
現在蜻蛉切りを所有してるのは
静岡の某家電量販店の経営者である。
本田家が戦後生活にこまって鎧兜か蜻蛉切りか悩んだすえ蜻蛉切りを手放したそうだ。
.現在その家電量販店は競争の激化で店舗を閉めている模様。
今後の蜻蛉切りの安否が気遣われるところである。



183:無名武将@お腹せっぷく
04/07/18 03:26
オークションに出たりしてな

184:無名武将@お腹せっぷく
04/07/18 05:42
>182
ヤベ電気だろ。

185:無名武将@お腹せっぷく
04/07/20 01:54
多分なんでも鑑定団の方が先だ。

186:無名武将@お腹せっぷく
04/07/20 03:01
本多忠勝と正信は関係あるの?

187:無名武将@お腹せっぷく
04/07/20 03:07
>>186
一応同族、血統は違うけど
とおーいとおーい親戚ってトコかなぁ

188:無名武将@お腹せっぷく
04/07/20 10:59
ほい、分かりやすい本多シリーズの血統書

URLリンク(www2.harimaya.com)

正信の子って直江家の養子になってたのね

189:無名武将@お腹せっぷく
04/07/20 12:07
佐渡の腰抜けめ!

190:無名武将@お腹せっぷく
04/07/20 17:00
>>188 その人の列伝はおもしろい(是非調べてみてください
     ただその政重は正信の弟の正重と名前と性格
     かぶってるのでごっちゃになってるのが残念ですが・・・
     けど直江とか前田とかに変に関わりのあるおもしろい奴です。
     
     
     

191:無名武将@お腹せっぷく
04/07/20 18:54
叔父にも正重いるんですけど。(>>150あたりで混乱済)

参考
>>143
>>146
>>150

192:無名武将@お腹せっぷく
04/07/22 12:38
正信の弟が正重で
正純の弟が政重で
こいつらが同じように宇喜多やら福島を転々としてるから
正重の関ヶ原の最中の所属がわからんくなると。


こういうことだな?

193:無名武将@お腹せっぷく
04/07/24 19:54
hosyu

194:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 00:06
無双の忠勝、見た目がかなり史実に近いと思う

でも、武器が蜻蛉切りじゃないのが…

195:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 01:55
>>192
正信の叔父にも正重がいる。

おまけに作左衛門重次の親父は「重正」



196:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 05:54
ってか本多忠勝くらいの豪の者を猛将伝までまたせるな


197:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 07:07
無双の人選良く分からんし

何でゴエモンインパクト

198:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 07:43
>見た目がかなり史実に近いと思う
全然そう思わなかった


199:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 08:39
史実の姿に似てるかどうかなんて誰にも判断出来ないと思うが。

200:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 09:26
それは禁句ですぞ!!大体、歴史なんて想像に近いようなものだから・・・


201:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 09:37
>>198
多分他のキャラと比較してだとおもう。

202:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 09:41
容貌を推測することなんて出来るじゃん(巨漢とかチビとか独眼とか出っ歯とか・・・)
てスレに則した話題に発展させるとして、忠勝の身長どれくらいあったの?
甲冑が本物なら大体わかるはずだよね、背が高いのは確かだろうけど
巨漢て感じじゃないだろうな

203:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 09:44
昔の絵と比べてでしょ。
絵だとけっこうごつい感じ。
本物と似てるかはあまり当てにならないけど。

204:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 11:03
>>203
過去レス読め。

205:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 11:23
康政のパパは長政らしいがなんでこの名前はこんなに多いんだ?

206:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 11:48
そりゃありきたりな武士好みの漢字の組み合わせだからだよ。

207:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 12:00
メジャーなのだけでも浅井黒田浅野山田と4人もいるしw

208:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 12:02
>>206
康政の兄じゃなかった?

209:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 13:46
正重って結局正信の弟だったのかな。放浪癖なんて似てそうだけど。
忠勝と正信は仲悪かったみたいなのにその弟が忠勝に仕えているなん
て面白い。
武断派との文断派の対立は宿命みたいのものだけど、同じく対立した
秀吉の配下に比べると家康の武断派の人たちは賢く潔い態度をとって
いるね。

210:無名武将@お腹せっぷく
04/07/25 14:52
正重が正信の弟にも叔父にもいるってややこしいな。
しかし正信弟は正信の命令であちこちの豊臣方を回ったなんて説もあるらしいな。

211:長門守
04/07/26 00:39
>>206
>>208
兄説と父親説があります。
長政と清政と。

212:無名武将@お腹せっぷく
04/07/26 02:50
>>210
それなら、どの家でもあそこまで重用はされないよ。政重も正重も。
ものすごくわかりやすい家族関係だし(笑

・額面以上の器量の人間
・どの家にも一旦勤めたら、
 (家中から文句の言いようがないぐらい)忠実に勤める
・で、”パイプ役”ができる
 (スパイではなく、パイプ役)

普通に、こんなもんでしょ。
じゃないと加賀で五万石与えて筆頭家老まで、ってのはさすがに。


で、忠勝家の「正重」は叔父のほうだろうと推定。


213:無名武将@お腹せっぷく
04/07/26 11:54
加賀5万石はたしか政重だっけ?
家光がだれかよこせとの命令に長男を送った話があると読んだが

けど正純が没落してもなんら支障がないのも
やっぱ正純は秀忠の側近たちにはめられただけか・・・


214:1
04/07/26 13:17
お久しぶりです。
今まで忙しくてろくにパソコンに手をつけられませんでしたが
白熱した議論スレになっていて大変喜ばしく思っています。
皆さん、これからもどうぞ宜しくお願いします。では、とりあえず・・・10

○本多の子供達

(小松姫)有名でありましょう、忠勝の娘です。
後に家康の養子となり、真田信之(有名な真田信繁の兄)の妻となります。
美人でしたが武芸を好み、肖像画でも甲冑姿で描かれています。
沼田城にて真田親子を追い返した話は有名ですが、
その後昌幸の孫を連れて会いに行ったり、真田親子が高野山へ蟄居することになったとき援助を続けたという優しい一面ももっています。
余談・猛将伝の「稲姫」というのは小松の幼名であります。

(本多忠政)忠勝の長男です。
あまり武勇を語る話はありませんが、「慶長の町割り」という大規模民政を指揮した人物です。
その後、本多家の家督を譲り受けました。
余談・忠政と熊姫の子供、国姫。彼女は容姿端麗、技撃に通じ通じてましたが・・黒々とした胸毛があったそうな・・ガクブル

(本多忠朝)忠勝の次男です。ところで皆さん、黒田長政が大阪の陣の戦勝記念に描かせた屏風を知っているでしょうか?
この作品の主役は信繁(幸村)でもなく、家康でもありません。その作品の中央で一人奮戦している鹿角の武将・・それが忠朝です。
忠朝は逞しい体つきで関ヶ原で2人を胴斬りにして刀が鞘に入らなくなったほどの武勇の持ち主です。
ですが、大阪の陣において持ち場の変更を願い出た時に「忠勝に似ぬ役立たず」と言われてしまいます。
これは家康が忠朝を奮起させようと思いこういったのですが、忠朝はこのことを気にかけていました。
夏の陣の決戦前夜、同じ状況にあった小笠原秀政と酒を交わし、明日の奮戦を誓い合いました。
決戦が始まると彼は真っ先に突撃をかけ、毛利軍相手と戦います。
そして最期は疵を20余負いながらも奮戦し続け、壮絶な最期をとげます。
忠朝の遺体を見た家康は泣きながら謝り、忠朝の部下全員に感状を送りました。

215:1
04/07/26 13:37
長くなったので分けて書きます。(忠朝好きなので長くなりすぎました^^;)
忠朝
余談・彼はとても酒好きで、その為に失敗することも多かったといいます。
彼は決戦前に「俺の墓に来る奴を必ず酒嫌いにしてやろう」と言いました。
その為、彼は今酒封じの神様として知られています。

エピソード・忠勝は家を継ぐ忠政に武具、馬具、茶道具などを、貧乏な忠朝に黄金一万五千両を与えるように遺言に残しました。
しかし納得のいかない忠政は「遺物は嫡子が受けるのが当然」と思い、黄金を自分の蔵へ全て運びこんでしまいます。
忠朝は家老の松下河内からその事を聞きますが、
「私には金など必要ない。兄者は跡を継ぐのだから大変だろう、軍馬の備えにも金はかかる。
父上は私を可愛くおもいそうお書きになったのかもしれんが、甘えては義にもとる」と言いました。
これを聞いた忠政は己を恥じて、父の遺言に従うことを忠朝に伝えて返そうとしますが、忠朝は固辞します。
相談の結果、黄金をニ分割することになりました。ですが・・・・
忠朝はその金を全部兄の蔵に預けてしまいます。
忠朝は「急用があった時は宜しくお願いします」と言いましたが遂にその金を使うことはありませんでした。

ところで、忠勝の鹿角の兜をかぶった肖像画は有名ですが、
忠勝の青年時代の肖像画もあると聞いたことがあります。
知ってる方、情報お願いします。

216:無名武将@お腹せっぷく
04/07/26 13:38
>大阪の陣の戦勝記念に描かせた屏風

逃げ惑う群集、落ちていく阿鼻叫喚がメインだよ



217:無名武将@お腹せっぷく
04/07/26 15:47
>大阪の陣の戦勝記念に描かせた屏風
乗馬したまま戦う騎馬武者が生き生きとかかれている黒田屏風だな。
三河物語でも大坂の陣では下馬せず戦ったと書かれており
屏風の描写が決して出鱈目ではないことの裏づけになっている。
鈴木某の影響で日本の馬はちいさくて臆病なので戦場では使えない馬上したままでは戦えなかったなどという者が居るが
当時の武士が馬上戦闘もよくこなしたことを物語る一級史料だろうな。

218:無名武将@お腹せっぷく
04/07/26 17:16
関ヶ原で見たかったよ・・・
忠勝と左近の一騎打ち

219:無名武将@お腹せっぷく
04/07/26 21:36
やべ。戦国無双スレ忠勝気持ち悪いで一致しておる。
銅像モデルじゃ幸村とかぶるからかー

220:無名武将@お腹せっぷく
04/07/26 22:02
無双なんて買う気も興味ないからどうでもいいよ。

221:長門守
04/07/26 23:55
>>214・215
補足です。
関ヶ原での論功行賞。徳川譜代で一番増えたのは結城10万石から越前45万石に増えた結城秀康。
徳川三傑は以下のとおり
◆井伊直政
蓑輪12万石から彦根33万石
◆本多忠勝
大多喜10万石から、10万石増にされるところだったが、忠勝がこれを辞退。
やむなく、忠勝と長男忠政に桑名10万石、次男忠朝に大多喜10万石が与えられた。
◆榊原康政
館林10万石から水戸24万石に転封加増だったが、
「自分は関ヶ原に参加していないどころか、秀忠付きで徳川本隊を遅参させてしまった」
更に、
「水戸だと、いざ江戸へというときに一日以上かかってしまうが、館林なら即日行けるので」
といい、辞退。館林10万石保留。

222:無名武将@お腹せっぷく
04/07/27 01:42
>>219
小松タンが出ると聞いて、
これまでの肥ゲーで見られなかったような
影武者徳川家康風ハッスルじいさん忠勝が見れるかと期待してた俺。

223:長門守
04/07/27 05:55
>>214
いきなり熊姫と出ていますが、本多忠政の妻熊姫は、
徳川家康の長男信康と、織田信長の長女五徳との間に生まれた二人の姫の一人。
そう考えると、その胸毛ボーボーの国姫の血筋って将軍家並にすごいかも…。
ちなみにもう一人の姫は小笠原秀政の元に嫁ぎ、長男忠真を生む。
小笠原家はその忠真の時に豊前国小倉に転封。以降、幕末まで代々小倉藩藩主となる。

224:無名武将@お腹せっぷく
04/07/27 08:29
>>219
俺も真っ黒じゃない鎧にちょっと引いております。

225:無名武将@お腹せっぷく
04/07/27 10:10
>>1
本多忠朝の話し… 泣けました(TOT)
きっと、役立たずという言葉に奮起したんでしょうね
お家の為…父上の名に恥じない活躍をしなけばと必死に……
うわぁ~ん(TOT)

226:無名武将@お腹せっぷく
04/07/27 11:01
康政はたしか家康に加増の件を保護にされたので
臨終の際自分は腹が腐ってしまったというようなことを口にしたらしいな。

これは本当だろうか?

227:無名武将@お腹せっぷく
04/07/27 11:24
>>226
話が全然違うような気がするな。

康政と本多正信とはそりが悪く、康政が腸の腐れ者と正信を罵ったことがあって
死に際の康政を見舞いに来た正信に、某も腸の腐り申したと康政があんまり笑えないブラックジョークを飛ばした話じゃなかったけ?

228:無名武将@お腹せっぷく
04/07/27 11:33
どうやら俺の読んだ本の作者が引用を間違えたらしいな・・・
スマソ

229:長門守
04/07/27 17:59
>>227
更に
康政・忠勝ら武断派は正信ら文治派とは反りが合わなかった。
しかし、康政も時代の流れ的に正信らを家康が重用するのも裏では納得していた。
で「老中権を争うは御家の危機」として件の腸の腐れものと言って正信らとの間に溝を作り、国政に参加しなかったという。
同時に、康政は関ヶ原前から、秀忠付きでありました。
で、忌の際に家康からの見舞いの使者には
「某も腸の腐り申した」という笑えないジョークと共に対面を断る。
しかし、秀忠からの見舞いの使者が来ると、
病身を押して衣服を整え、ちゃんと対面したといいます。
まぁ、納得しつつも、家康に対する無言の批難といったトコロですかね。

230:無名武将@お腹せっぷく
04/07/27 18:07
「人切り兵部」の井伊直政の家臣が本多忠勝のもとに逃げたらしいが?

231:無名武将@お腹せっぷく
04/07/28 10:13
>>229
何とも漢だねぇ…
武士というか漢はいつだってそうありたいですな

232:無名武将@お腹せっぷく
04/07/28 22:55
正信はさ、一回家康と敵対してるじゃんね。忠勝、康政からみれば裏切り帰参者ではある。
幼少の時より辛苦・苦難を共にしてきた家康を篭絡した憎き痴れ者と思って見ていた節はある。
小利口者如きとか思ってたんじゃないかな。家康も自分にはない何かを見てハマっていったんだね、正信に。
劉備と徐庶のそれに似る。

233:無名武将@お腹せっぷく
04/07/28 23:07
片や宗教に殉じて一向一揆に加わり、片や直ちに浄土宗に改宗だもんねえ。
家康にしてみれば後者に対してはうれしい反面、そこまでされると後々厄介…
てな気持ちになったのかも。

234:長門守
04/07/28 23:38
>>232
>>233
解らない人のために、
三河統一を目指す家康の前に永禄6年(1563)、「三河一向一揆」がぼっ発する。
「法的家康を倒せ」を合言葉に農民だけでなく、徳川家臣団を二分した内乱となり、鎮圧までに半年かかった。
※ちなみに榊原康政はこれが初陣で、戦功により家康より「康」の字を与えられ、「康政」と名乗る。
このとき、家康に反抗した一揆軍に準じた中に本多正信がいたというもの。
鎮圧の要員として、一揆軍から家康に恭順した渡辺守綱・蜂谷貞次らが御咎めなしだったことがあるといわれる。
しかし、正信は家康に恭順することなく、他国へ出奔してしまう。
帰順時期としては各種説があり、元亀元年(1570)とも、天正10年(1582)ともいわれている。


235:無名武将@お腹せっぷく
04/07/28 23:42
そこで世良田二郎元信とであったわけだ

236:無名武将@お腹せっぷく
04/07/29 07:35
佐渡守の正信は忠勝に>>189と罵倒されてる、相当気にいらんらしい
>>235
雑賀衆リーダーキタ━━(゚∀゚)━━!!
そういえば本物も世良田次郎三郎元信名乗ったんだっけ?
清康が世良田を、家康が次郎三郎元信を使ったことはあった気がするけど

237:無名武将@お腹せっぷく
04/07/29 10:03
>>236
その割には、正信の次男政重と仲が良かったらしい。


238:無名武将@お腹せっぷく
04/07/29 19:20
>234
おい、偉そうな事を書くんじゃねぇ。ちょっと違ってるぞ。もいちど細部勉強しなおせ。

239:長門守
04/07/29 21:00
>>238
御指摘有り難うございます。
加えて言うなら、その相違点とやらを指摘していただけると助かります。
何せ、記憶のみで書いていたりしますから…。

240:無名武将@お腹せっぷく
04/07/30 01:47
そいや、佐渡が主役の小説があったな

終わりが本願寺の変辺りだった奴

241:無名武将@お腹せっぷく
04/07/30 15:55
本多サド

242:無名武将@お腹せっぷく
04/07/30 17:57
腸の腐った者

243:無名武将@お腹せっぷく
04/07/30 19:43
無双で言語障害やオカマにされなかっただけいいや。

244:無名武将@お腹せっぷく
04/07/30 23:16
サドのかみ
マゾのかみ

245:無名武将@お腹せっぷく
04/07/31 16:52
>>243-244
そんなことばっか言ってると、
悪い子には作左が来るよ!

246:無名武将@お腹せっぷく
04/08/05 23:50
忠勝の孫はええのぅ

秀頼の前妻の千姫貰ってるし

247:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 01:15
中古じゃん

248:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 01:46
最高なスレだな 平八に惚れ直した

249:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 12:25
中古って言うな!

250:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 14:29
あがれぃ

251:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 14:57
>>249
じゃあ「使い古し」
「ヤリマン」

あの歳でガキ二人生んでるんだから相当なスケベマンコの
持ち主である事は疑いようがないw
秀頼も千姫のマンコのあまりの締まり具合に何度もイッたんだろうな

252:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 15:09
オーバーラップ雪崩攻撃だな!?

253:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 15:20
251は発狂中の坂崎

254:無名武将@お腹せっぷく
04/08/06 16:01
江戸の人たちから淫乱女の代名詞にされてるもんなぁ・・・
それによって落城のさいに自慰道具とりかえしてこいってどれだけ変態扱いなんだ?

255:無名武将@お腹せっぷく
04/08/07 03:41
トンボあげぃ

256:無名武将@お腹せっぷく
04/08/07 13:33
トンボぬるぽ

257:1
04/08/07 23:53
トンボガッ

小話・孫達
忠勝の孫で忠政の子、忠刻は美男子で有名で千姫が一目惚れして結婚を申し入れるほどでした。(結婚について諸説有り)
またかの有名な宮本武蔵から剣術を学んだそうです。

忠朝の子、政勝は祖父、父譲りの豪勇を誇り、「鬼内記」と呼ばれていました。
また茶、俳句などをたしなんだ風流人であったといいます。

258:無名武将@お腹せっぷく
04/08/08 12:08
>>251
確かにヤリマンかもw
君のお母さんとイイ勝負だ!

259:無名武将@お腹せっぷく
04/08/09 00:38
>>251
出羽守、必死だなw

260:無名武将@お腹せっぷく
04/08/09 19:05
姫路城って本多家にとっちゃぁ「いわく付きの城」って聞いたことがある
忠刻は謎の死を迎えてるし、etc

261:無名武将@お腹せっぷく
04/08/10 08:42
保守

262:無名武将@お腹せっぷく
04/08/10 12:49
千姫程度の経歴で、ヤリマン扱いなら・・・


秀忠の嫁はどうしたらいいんだ。




263:無名武将@お腹せっぷく
04/08/10 13:23
鬼武者3でも無双でも首に数珠まいてるけど原典はなに?

264:無名武将@お腹せっぷく
04/08/10 13:30
この袈裟懸けされてる数珠、鬼武者は首じゃなくて袈裟懸けじゃなかった?
URLリンク(tikugo.cool.ne.jp)
URLリンク(www.chiba-muse.or.jp)
URLリンク(www.terra.dti.ne.jp)
URLリンク(www.geocities.co.jp)

265:1
04/08/10 16:59
>>263
忠勝の肖像画では巨大な真珠を袈裟懸けしています。
これが>>32に書いた金箔押しの大数珠です。

何故このようなものを着けていたのでしょうね?

266:無名武将@お腹せっぷく
04/08/10 22:05
兄貴の高校時代の友人がホンダ君といって忠勝殿の子孫なんだけど
相当に強いワルな方でした。
血は争えないのか・・

267:烈風伝マニアックスより引用
04/08/10 22:55
『蜻蛉切』
長さは二丈(6m)もあった。
足軽などに持たせる長槍なら、織田信長の部隊などにこの程度の長さの物はあった。しかし足軽の槍の使い方は、集団で槍ぶすまを作り、敵を突くか上から降り下ろして叩くかである。
馬上の武者はもっと短い槍を使用する。左右の敵を薙ぎ払い突く為である。
ところが、忠勝は馬上にて短槍(3m程度)のように蜻蛉切を扱い、これを振り回す体力を有していたのだ。

さしもの忠勝も晩年になって、この槍を三尺(1m弱)ばかり詰めて短くした。体力の衰えを自覚する勇気と、自分に見合った道具を使う、合理的な戦国武者の精神が見てとれる。
持ち主によって語られる道具である。

268:本間平七郎高負
04/08/11 01:33
でも、袈裟掛けだったら、動きずらく無いのかな? すぐ、千切れそうな気がする…

269:無名武将@お腹せっぷく
04/08/11 02:54
>>267
4mちょっとって書いてあるサイトのが多いような気がするが

270:長門守
04/08/11 10:30
袈裟掛けですね。
あれは数珠です。
戦争で人を殺す訳ですし、いつ殺されてもおかしくない社会ですから。
「南無阿弥陀仏」って意味ではないでしょうか。どちらにしろ、そこら辺だと思われます。
家康の旗印にも「厭離穢土 欣求浄土」というのがありますよね。
浄土宗系の文言で「こんな穢れたこの世を離れて、浄土(あの世)に行きたいよ~」といった意味です。
実際、家康がそう思っていた訳でなく、これを扱うことにより、自分も浄土宗系の人間なんだよといいたかったらしい。
特に一向宗である浄土真宗は浄土宗から出たものですからね。
ちなみに徳川家は一向一揆頃に浄土宗へ、江戸移転時には浄土宗(浅草寺)と天台宗(増成寺)の両方を菩提としてますね。

271:無名武将@お腹せっぷく
04/08/11 11:03
古典では水場、湿地の多い江戸を「穢土=江戸」とする説もあり
家康公さもありなん。

272:無名武将@お腹せっぷく
04/08/11 15:31
このスレみてたらディアゴスティーニかどっかの戦国武将のフィギアほしくなった
文めちゃくちゃだがわかる人だけわかってちょ

273:無名武将@お腹せっぷく
04/08/11 21:35
東京国分寺に本多って地名があるんだけど関係ないですか?

274:無名武将@お腹せっぷく
04/08/11 22:01
本多忠勝は無傷だったというが、それは運がいいと言うよりも、あんま前線にでなかっただけでないの?
忠勝に討ち取られた将っているの?
べつに忠勝を冒涜してるわけじゃないよ。将が前にでるのは、間違っているし・・・
忠勝の将としての采配はすごかったのもわかる。

275:無名武将@お腹せっぷく
04/08/11 22:11
6mもある武器を自由自在に操れれば無傷なのもありえなくない。

276:1
04/08/11 22:22
>>274
単騎の主なものをあげますと・・・
・初首級の際に叔父の言葉に憤然し単騎特攻、3人の首級をあげる。
・城所助之允と一騎打ちをしてあと一歩の所まで追い詰める。
・牧総次郎との一騎打ちで総次郎を圧倒。
・待陣の鬱憤を晴らす為曳馬野城へ単騎突入、そして無血入城。
・金谷巡視の際に遭遇した山県軍を一人で追い払う。
・姉川合戦で敵陣に単騎駆け、また猛将真柄直隆と互角の一騎打ち。

などがあります。昔の歴史ですし誇大な所もあるかも知れませんが、これほど単騎の活躍が見られる人物も珍しいです。
討ち取った、戦った武将については>>64をどうぞ


277:1
04/08/11 23:42
付け足し・そんな忠勝も指揮官としての自覚が目覚めてきたのか、
大体長篠の戦いぐらいから前線に出ることが少なくなっていきます。
まぁそれでも300騎で秀吉軍と対峙して目の前で馬の轡を洗ったりとか
関ヶ原で500騎で三成破って義弘追撃までするという荒業をしてるわけですが^^;

忠勝が無傷だった、というのは確かに運が良かったんだと思います。(好敵手の井伊とかは傷だらけだし)
でもそれはそれで「天から愛されている」という感じで私は好きですけどね

278:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 00:35
>・姉川合戦で敵陣に単騎駆け、また猛将真柄直隆と互角の一騎打ち。

・・・いやあのね(ry

279:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 01:37
今日、桑名にある忠勝像を見に行ってしまった。
想像していた大きさより、実物はかなり大きかったので
かなり驚き・・・
しかも、台座の高さがけっこうあるので(2mくらい)
そこへ椅子?に座っている忠勝がいるもんだから
ただただ”見上げる”って感じ。
そうなると、足の先がどうなっているのか
確認できなくて残念だったけど威厳があったのでOK!!

岡崎公園にある忠勝像と比べると、
岡崎の忠勝=戦が始まる前の静けさ
桑名の忠勝=関ヶ原終わった直後あたりの静けさ
という感じか!? こればかりは実物みないと実感湧かないわな・・・
以上が今日の感想です。 長文スマソ


280:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 02:06
漫画版影武者徳川家康の忠勝はカコイイ
ヒゲと筋肉に(;´Д`)ハァハァ

281:長門守
04/08/12 02:15
JR彦根駅前に馬上の直政の銅像があります。
東武東上線館林駅前には康政の墓があります(泣)

282:平八郎
04/08/12 02:25
ひー…ふー…みー…、二十三四か…

283:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 09:01
ちょっと質問。
四天王の子供はそれぞれ何人いたの?
忠勝は確か五人だったと思うけど・・

284:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 09:18
>>274
忠勝本人も結構な数の首級を上げてるよ。

285:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 11:47
>>280
確かにあの爺さん忠勝は激しくカコイイな

286:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 12:39
本多忠勝…
奴は猛将というに相応しい

287:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 13:16
忠真の教育の賜物。
三方ヶ原での散り様に涙。

288:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 13:19
平八郎は本多の嫡男が名乗る名だとか、そういうの好きだ。

289:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 14:00
真柄十郎左衛門と一騎打ち?はい?

290:1
04/08/12 14:19
>>278
何か?
>>280
アレは格好いいですね・・「忠勝の涙」の回は特に。
>>281
私は忠勝の銅像はまだ生で見たことはありませんが、直政の銅像は見たことがあります。
まぁその時は徳川四天王なんて全然しらなかったんですけどね^^;
>>287
家康を自分の子に託して武田相手に退かず討ち死・・・
父の代わりに面倒をみてくれた人の壮絶な討ち死を忠勝はどう感じたのでしょうか
>>289
・・・・・・・・・・・??

291:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 14:20
影武者に叱咤・殴る忠勝爺さんにガクブル

292:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 14:29
みんな、あげてくれぃ!!

293:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 14:32
どっから忠勝が真柄を討ち取ったという話が・・・
すくなくとも肥のゲームの列伝にはのってないな。

294:1
04/08/12 14:37
>>293
討ち取った・・・・とは一言も書いてないのですが。
忠勝との一騎打ちは引き分けに終わり(だから互角と書いた)
その後殿をして奮戦、匂坂兄弟に討ち取られたと言われています。

295:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 16:26
>>293
肥のゲームの列伝に激しくワラタ

296:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 17:16
なんでゲームじゃ真柄しかでないんだろ。戦乱は普通にだしてくるが

297:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 22:40
>>293
おまいの1番信頼するソースがコーエーのゲームの列伝かよ!
それでいいんか?
三河物語でも読んでから出直せ。

298:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 23:02
三河物語って、鉄砲が国内の実戦で
初めて使われたという年代より以前の
戦いの記述で鉄砲を使ったとかいう記
述があるとかいう話を聞いたことがあっ
た気がするけど、そんなに信憑性があ
る史料なの?

299:無名武将@お腹せっぷく
04/08/12 23:50
>>297
藻前も、もう少し他の書物をもっと読んだり
資料を集めて勉強した方が良いかもね。

300:無名武将@お腹せっぷく
04/08/13 00:19
>>299

って、>>1に言え

301:無名武将@お腹せっぷく
04/08/13 04:39








302:無名武将@お腹せっぷく
04/08/13 18:56
井伊直政はそれから2年後に死んだ。
あの関ヶ原から4年たった今じゃ思い出す回数もずいぶんと減った。
みんなとは戦勝してからはなかなか会えていない。
最後に会ったのはもう1年も前かな。
小松は武勇を買われて戦国無双に
追加キャラとして登場した。徳川初の女武将だ。
早くも女キャラウゼェとか呼ばれて次回作は不参加らしい。
榊原康政は館林で隠居やってる。やりたいポストがないそうだ。
天野康景は戦後改易されちまってカワイソウというか
なんというか‥‥がんばれ。
信之殿は信州沼田で九万五千石だ。
今でもワシを絶賛尊敬中、自慢の婿というやつだ。
九度山から五通に五通は仕送りの請求が来るらしい、孝行息子だ。
秀忠様は家業の征夷大将軍を継いだらしい。
前田利益は上杉家でまた傾いている。まだ傾奇者だ。
長曽我部盛親は京都で寺子屋の先生をやっている。
元大名のくせに悲惨だが教育の世界でぜひ一旗揚げてほしい。
宇喜多秀家は八丈島の中だ。
まあ西軍の副将ならそう珍しいことでもねえ。
有楽斎は茶器ころがしてる。
平岩親吉は尾張徳川家の家老なって時々賞味期限切れの毒饅頭を
ゆずってくれる使えないヤツだ。
それともう一人田丸直昌‥‥‥は知らん。

そしてオレは今‥‥
いろいろあってまだ厩橋城主やってる。
大坂にはまた戦雲の兆しが見えた。
豊臣家を潰したいのはわかるがちょっとえげつない。
オレはあれから合戦はやっていない。
‥‥でもよ、直政殿。オレは最近思うんだ‥‥
また 熱くなりてー‥


303:無名武将@お腹せっぷく
04/08/13 22:45
そうして火葬場で焼かれましたとさ。

304:無名武将@お腹せっぷく
04/08/14 22:57
ってかキモい

305:無名武将@お腹せっぷく
04/08/15 10:47
今更ながら、酒井忠勝だね。

306:無名武将@お腹せっぷく
04/08/15 18:21
今更ながら、内藤忠勝だね。

307:無名武将@お腹せっぷく
04/08/16 00:20
上杉忠勝だろ。

308:無名武将@お腹せっぷく
04/08/16 00:32
ひとり変なのが混ざってるな

309:無名武将@お腹せっぷく
04/08/16 12:40
うむ

310:無名武将@お腹せっぷく
04/08/16 15:28
本多勝一だろ。

311:無名武将@お腹せっぷく
04/08/17 13:58
上杉忠勝って、景勝の跡取りでなかった?

312:無名武将@お腹せっぷく
04/08/17 18:52
保守

313:無名武将@お腹せっぷく
04/08/18 00:23
厩橋城主って…

314:伊達征士(旧JBS所属)
04/08/18 14:31
戦国無双猛将伝の忠勝より、髭・野生・純朴味のある鬼武者3の忠勝像の方が好き。

315:無名武将@お腹せっぷく
04/08/18 15:10
モデルチェンジに期待だ

316:無名武将@お腹せっぷく
04/08/19 21:56
>>314
あれは清正の間違いだろ

317:無名武将@お腹せっぷく
04/08/20 18:16
>>316
柴田勝家
加藤清正
本多忠勝
この三人はイメージがダブるな。

318:無名武将@お腹せっぷく
04/08/20 18:58
ダブる奴は勉強不足

319:無名武将@お腹せっぷく
04/08/20 19:14
>>317
柴田勝家と加藤清正はダブるけど、本田忠勝は単なる猛将だろ。

320:長門守
04/08/21 03:07
加藤清正が出てきたので、忠勝じゃないけど、その辺のお話。

本当は秀吉の徳川家臣団取込み策の一環だったんだけど、加藤清正の娘は徳川四天王の榊原康政の嫡子康勝に嫁ぐ。
その縁か、舅同士が仲良くなってしまい、康政の筆まめが功を奏して、よく文通をしています。
小田原攻めの前に秀吉の勘気を蒙り、大坂留守番役となってしまった加藤清正。
そんな清正に康政は戦況を逐一報告。
北条氏邦の家臣が籠る鉢形城(現埼玉県寄居町)を攻めた所、家臣たちは易々降伏。これは小田原に籠っている城主(氏邦)も大したことないだろうとか。
秀吉が小田原城を攻めるために背後の石垣山に一夜城を築き、一夜で築いたように見せるために直前まで立木で隠して、
ギリギリで一気に伐採してみせたとか書き送っています。
逆もしかりで、朝鮮出兵の折、清正は康政の武功にあやかりたいとして、無の印の康政の旗印を借りています。
こういう交流もあったんですねぇ~。

321:無名武将@お腹せっぷく
04/08/21 04:13
>>319
勝家と忠勝は人間出来てるけど、清正はDQNのイメージが強いなぁ
忠勝より清正のほうが猪武者だろ、活躍した年齢ってのもあるけど


322:無名武将@お腹せっぷく
04/08/21 07:59
たしか、加藤清正って極度の清潔症じゃなかったっけ?
トイレで用を足すときでも、底が高い下駄を履かないと小便もできなかったとか・・・

323:無名武将@お腹せっぷく
04/08/21 08:44
>>320
ふ~ん・・・
戦国時代では、珍しい事ですよね?
一応敵味方に別れてるし

324:無名武将@お腹せっぷく
04/08/21 11:30
忠勝と康政(特に康政)は武功が有る奴には、敵味方関係なく、誰とでも仲良くするからな。
>>320の他にも大谷吉継、吉川広家、宇喜多秀家、直江兼続などとも…


325:無名武将@お腹せっぷく
04/08/21 12:40
清正公は伝説やら逸話多過ぎるからな

所でこれを見てくれ
URLリンク(www.shochiku.co.jp)
何で柳生一族が蜻蛉切り持ってんだ( ´Д⊂ヽ

326:無名武将@お腹せっぷく
04/08/22 00:23
このスレを読んで気づいた事を指摘します。

・秀頼くんと千姫ですが、二人の間に子供はいません。
国松(のち延由?)と天秀尼の二人は秀頼側室成田氏の子。

>家康の旗印にも「厭離穢土 欣求浄土」というのがありますよね。
浄土宗系の文言で「こんな穢れたこの世を離れて、浄土(あの世)に行きたいよ~」
といった意味です。

「厭離穢土欣求浄土」という文章の解釈には色々な説が有りまして、
元々は中国浄土宗の僧侶が言い出した事で、「あの世へ行きたい」という
意味が強かったようです(信者の中にこの言葉を額面どおり受け取って
飛び降り自殺・焼身自殺する人が出たため社会的に問題になった)。
ところが、日本浄土宗ではこの言葉を重んじた平安時代の源信という
僧侶以来、「穢土とは戦乱の世をいい、浄土とは平和な世をいう、
戦乱をやめさせて平和な世の中を作ろうというスローガンである」
という意味に変化したようです。家康がこの旗印を掲げた理由について
研究者の間でも論議が展開されており、「平和の為にはどんなことでも
やろうとする政権を作りますという意味だ」とも、
「仏教の教えに従い平和な社会を作るからお寺の皆さん協力してね、という
巧妙な宗教政策なのだ」ともいわれています。


327:無名武将@お腹せっぷく
04/08/22 00:34
ちなみに、忠勝は浄土宗寺院に埋葬されて居ますが、
本多正信のように江戸入府後本願寺教如を招いて寺を立て、
一向衆を集めて自ら説法を行い、晩年は儒教にこるような
宗教的熱狂に乏しく、一応大多喜良玄寺は立てたものの、
終始宗教に対しては覚めた見方を貫いていたように思います。
かといって、本多重次のように無教養でもなく、孫子を学ぶなど
兵法書を持って居ても読めない武将が多かった当時としては
結構インテリだったようです。当時は兵法の中では簡略な
六韜を学ぶ武将が多く(それも自分で読まず人から聞く)、
孫子を学ぶというのはかなり教養の高い武将に属します。
幼少時に学んだ、曹操注孫子の冷徹な人間観察が本多忠勝の
思想の根本を成しているのではないかと思います。


328:無名武将@お腹せっぷく
04/08/22 04:51
>>322
×小便
○大便


って言うかお前らはあのおそろしい

「ボットン便所のお釣り」

を知らないのか・・・そうか。
清正でなくてもいやじゃ、あれは。


329:無名武将@お腹せっぷく
04/08/22 05:11
>>328
確かに、あれは恐い。
田舎の祖父の家なんて…

330:無名武将@お腹せっぷく
04/08/24 11:55
>本多重次のように無教養でもなく、
そうなの?


331:無名武将@お腹せっぷく
04/08/24 18:10
こんにちは。本多平八郎忠勝の直系血族末裔のものです。無論苗字は(ry
みなさん歴史に詳しいですね。自分の先祖を知ってもらえることを光栄に思います。
また私も知らないこともここでわかるので勉強させてもらっています。

332:無名武将@お腹せっぷく
04/08/24 18:53
そんなこと言ってもしょせん清正スレの二のま(ry

333:ササクレ ◆ajvovvGIEs
04/08/25 13:15
    _      ./^l
   _,,..i,,_ ヽr'"'~"゙´  | _,,...,,_
  ヽ●/ ・ ⊥ ・  ゙';ヽ●/
    (ヽ        、/)
     ゙,"       ´''ミ
     ミ       ;:'
      ';      彡
      (/~"゙''´~"U

334:無名武将@お腹せっぷく
04/08/26 12:40
あげ

335:無名武将@お腹せっぷく
04/08/26 14:43
忠勝は、名槍【蜻蛉切】の使い手らしいけれど
弓・刀・格闘等も強かったんだろうか?

336:無名武将@お腹せっぷく
04/08/26 15:32
馬は三河の飛将て話があるな、刀は「稲斬り」てのを持ってる

337:無名武将@お腹せっぷく
04/08/26 16:56
稲斬り…
ドンナカタナデスカ?

338:無名武将@お腹せっぷく
04/08/26 20:30
過去スレに総次郎の逸話を詳しく書かれてある文章を見つけました。

総次郎=宗司朗?

53 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2001/08/06(月) 09:31

義元が亡くなった後の今川家では衰退していく一方でしたが、城戸某と牧孫左衛門
、二人だけ剛の者がおりました。特に城戸某の桔梗門兜は「今川の桔梗笠」として、
敵味方に有名でした。もう一方の牧孫左衛門は派手な活躍はできずに没してしまい
ました。その跡取が13歳の宗司朗、体は弱々しく少女のようでした。
今川家が徳川討伐の布令を出した時、宗司朗は城戸某に頼みこんで桔梗門兜を
借りることにしました。それは、桔梗門兜を用いたならば敵も恐れ戦功がたてやすい
と考えたからです。第一宗司朗は弱々しいので、そのままだと馬鹿にされるかもしれ
ません。
ところが、いざ決戦の場に出てみると、自分目掛けて突進してくる武将がおりました。
それが本多平八郎。あっというまに落馬して、平八郎に馬乗りされてしましました。
そして平八郎は問う「なぜ女子が桔梗笠をかぶっている」。宗司朗応ず「憎き徳川を
討つため、思いのあまり借りてきた兜。我は断じて婦女子にあらず」
平八郎は大いに感じ入り勝負のあと、宗司朗を開放する。
のちに今川家は滅亡し、そして数年後、本多家を訪ねてきた偉丈夫がおりました。
武士として扱ってくれた平八郎に魅せられて、鍛えてから仕官願いをしてきた宗司朗
でした。

本多岡崎家譜より

339:無名武将@お腹せっぷく
04/08/26 20:38
>>337
稲姫をも一刀両断できる刀です

340:真田信之
04/08/26 22:19
僕の心は稲姫に一刀両断です

341:無名武将@お腹せっぷく
04/08/27 00:47
>>338
それ名将言行録に載ってるよ

342:無名武将@お腹せっぷく
04/08/29 03:20
ふむむ

343:無名武将@お腹せっぷく
04/09/01 13:39
>>340
ワラタ

344:無名武将@お腹せっぷく
04/09/05 14:55
保守

345:無名武将@お腹せっぷく
04/09/11 09:50:12
ところで、今気付いたのだが、康政の嫡子→康勝
忠勝の長男→忠政
…まさか。


346:無名武将@お腹せっぷく
04/09/11 10:59:47
名を拝借するのはよくある話だからな。
可能性はゼロじゃないと思う。

いや、史料とか知らんけどね。

347:無名武将@お腹せっぷく
04/09/11 12:15:53
>>338
似た様な話で「銀鯉の兜」があったと思うが、あれはどこの家の話だったか?

348:長門守
04/09/11 19:11:18
>>345
確かに可能性有りだとは思いますが、康勝の場合、三男ですからね…。
ちなみに長男忠長、次男忠政で共に母親は大須賀康高の娘。忠政は大須賀家の家督を継承。
康勝の母親は側室花房氏。館林の康政の墓の傍らに小さい墓碑があります。


349:無名武将@お腹せっぷく
04/09/14 18:49:53
保守age

350:343
04/09/14 21:35:47
>>348
レスしてもらってすまんが、長男と次男が逆だ。

351:長門守
04/09/14 22:09:14
>>350
御指摘有り難うございます。
…その通りでした。確認した本の書き方が図の関係上、逆になってました。
さっき、別の本で確認しました。


352:無名武将@お腹せっぷく
04/09/15 00:21:45
なにげにCMに出まくってる忠勝。
大河ドラマ化とかしたら人気でそう。
とにかく生き様がかっこいい。

353:佐々木
04/09/15 00:54:35
また厨が・・・いい加減にしてくれよ

354:343
04/09/15 20:32:55
>>353
オマエモナー

355:無名武将@お腹せっぷく
04/09/16 12:34:48
>>352
NHKの大河ドラマの候補には上がっていたぞ
残念ながら山内一豊にやられたけれど…

>>353
佐々木よ~藻前イイ加減に消えてくれよ~

356:無名武将@お腹せっぷく
04/09/16 18:11:07
・三戦板のアイドルコテ佐々木タソの魅力を最大限に感じるためのスレッドです。
・佐々木タソを貶めるようなレスは厳禁。
・各自、ネタ出し、長文出し、絵板での活動、及び感想レスは自由にどうぞ。
・但し余りに卑猥な内容のレスは、スレごと削除される危険を孕んでいます。
 それでも書きたいならえっちねた等の終わったスレでも再利用して、そのリンク先だけを貼りましょう。
・スレストや削除の憂き目に遭った際は↓の絵板へ今後の対策を練るために集合。
             URLリンク(s2.poporo.net)


357:無名武将@お腹せっぷく
04/09/25 10:56:59
11 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 04/09/25 10:48:17
家康って本(横山光輝)を買ったんだが、忠勝は槍に突かれて死んだぞ?
こんな話、聞いたことがない
12 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 04/09/25 10:51:05
本多平八郎と本多忠勝は同人物だよな?
隠居して指に傷を負って、自分の死を確信して死んだんじゃないの?
戦場で死んだなんて聞いたことが無い。


358:無名武将@お腹せっぷく
04/09/25 11:01:08
>>357
それは忠勝の祖父本多平八郎忠豊 か父本多平八郎忠高でわ?
漫画読んでないから知らんけど。

359:無名武将@お腹せっぷく
04/09/25 13:00:55
忠勝の親父は家康の親父の広忠守って死んだはず。
少なくとも忠勝自身は怪我を負わなかったと言われますな。本当だろか?

360:343=345
04/09/25 21:01:45
平八郎は世襲制ということを、知らない香具師が多いな。

361:長門守
04/09/25 22:34:13
>>357
前に書きました。>>132

362:無名武将@お腹せっぷく
04/09/25 22:44:46
家康とホモ関係だったのですか

363:無名武将@お腹せっぷく
04/09/25 23:28:16
俺の中の忠勝のイメージは
「これが蜻蛉切上段の構え」
とごまかすおっさんなんだがな

364:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 00:22:05
>>363
ひ~ふ~み~…二十二、三人か…。
俺これw同じとこだけど

365:長門守
04/09/26 01:47:01
>>362
確かに、戦国時代は衆道(いわゆるホモ的なコト)は盛んで、別にホモでなくとも、貴人などは奥さん以外にそういった童子を所持していた。
また、女性との性交に比べ、衆道はより清いものという考えが有り(恐らく陰陽五行節あたりから)、合戦前や合戦中は女性との性行為が禁止されていたため、しばしば衆道に走る者も多かった。
同様の考え方で、女性を穢れたものとして受け取っていた上杉謙信は、女犯の代わりに衆道をよくし、将軍足利義輝への手紙にも「先日の童は良かった~」などといった内容のことを書いている。
さて、家康だが、彼は当時の人間(貴人)にしては珍しく、衆道を殆どしなかったという…。
ただ、井伊万千代(直政)だけは例外で、衆道に無関心な家康でさえその道に走らせた程の秀麗な童だったしいう…。

366:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 03:09:13
衆道で言うと秀吉は珍しくまったく、男には手を出さなかったらしいね。

367:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 04:19:22
下賎の者には理解できないのさ

368:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 14:27:02
直政にしたって微妙だけどな

369:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 19:54:10
信野を群雄伝から始めた俺にとって井伊直政は永沢君みたいなイメージなんだが

370:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 20:03:54
Oh!homo!

371:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 22:31:45
>>365
本当なの?
男性同士で・・・って、ヤッパリ入れるんですよね?

372:無名武将@お腹せっぷく
04/09/26 22:36:19
やらないか

373:長門守
04/09/26 23:40:58
>>371
ええ。多分。
てか、衆道自体、結構古くからある習慣で、元々は女犯を禁止されていた僧侶の方から興ったらしいです。
で、昔の僧侶というと、結構高身分で、そこから貴族や上級武士クラスに流れていったと思われます。
>>369
群雄伝の時はデヴいかったですね…。彼は初期は顔グラフィックに恵まれていませんでしたから…。

374:無名武将@お腹せっぷく
04/09/27 01:57:30
>>373
まぁ長野業正よりはマシかと。

375:無名武将@お腹せっぷく
04/09/27 12:37:22
>373
生でいれんの?そして中出し。チンに糞付いて大変だね
それを口に((((°д°;))))ドキドキブルブル

376:長門守
04/09/28 06:11:06
>>375
流石に口に入れる風習が当時からあったかどうかは存じません…。


377:無名武将@お腹せっぷく
04/09/28 08:53:37
口に性器を入れると言う行為自体、衆道からの行為だと言われてますな。

378:無名武将@お腹せっぷく
04/09/28 12:23:35
なんという流れなんだ

379:総帥 ◆gJ5i0UmV9E
04/09/28 14:05:15
>>378
武将を語るなら、まず背景からってね

380:無名武将@お腹せっぷく
04/09/28 17:47:17
猛将伝のコス2忠勝「だけ」良かった。マントさえ無ければもっと良かった・・・

381:無名武将@お腹せっぷく
04/09/28 23:07:16
口に入れるのは女性と後尾できない僧侶が
「なら、膣にいれなけりゃいいんだろゴラァ!」
っていって始めた行為だと聞いた

382:美田肛門
04/09/29 00:27:33
それはとんでもない僧侶だな
恐らく飲ませたりしたんだろうな
次から次へと飲まされる女性…(*´д`)アハァ…

383:無名武将@お腹せっぷく
04/09/29 00:32:53
太るね

384:無名武将@お腹せっぷく
04/09/29 20:32:54
 ┌─────────┐
 |      ハァハァ         捨 処 先 .童 |
 | ○ (*`Д)  γ' ̄ ヽ アアッ .て 女 に 貞 |
 | .7 (( (  ヽ (*´Д`)    る を    よ. |
 | 点  >>∪ ̄∪∪              .り ...|
 └─────────┘

385:無名武将@お腹せっぷく
04/09/30 12:28:00
>>384
わけわんねw

386:間違ったww
04/09/30 12:29:57
>>384
わけわかんねw

387:無名武将@お腹せっぷく
04/09/30 15:50:17
>>1
何かお話ししておくれよ~
(´・ω・`)モキュモキュ

388:無名武将@お腹せっぷく
04/10/01 00:07:31
忠勝様を大河ドラマなんぞで演じる役者なら誰がいい?

浅野忠信 なんてどう?

389:無名武将@お腹せっぷく
04/10/01 00:14:13
細い

390:無名武将@お腹せっぷく
04/10/01 01:46:27
>>381
>>382
そんな近年のことではなく。


西洋では古代遺跡から見つかった壷に
「ひとりへらちお」
をしている男性像が描かれている。

同性間・異性間・ひとり、を問わず、
洋の東西を問わず、
人間が生きていれば自然発生的に開発されたものでしょう。

391:長門守
04/10/01 03:02:01
>>388
こんなページもある。
URLリンク(leidenschaft.ld.infoseek.co.jp)ほんだただかつ
個人的には『真田太平記』の加藤武がハマってたが、忠勝の若い頃からともなるとまた、違ってくる。


392:無名武将@お腹せっぷく
04/10/01 12:39:51
う~む

393:無名武将@お腹せっぷく
04/10/02 16:33:20
渡辺謙さんかな。
あの力のある目とか強靭そうな肉体とか威風堂々さとか
忠勝の肖像画とかぶるところがある。

394:無名武将@お腹せっぷく
04/10/04 12:34:42
ほほうw

395:388
04/10/04 23:40:15
おおっ♪ >>391 THX
宍戸錠さんもよかったですよね?

>>393 謙様は独眼竜で完璧すぎたような・・・
成実役の三浦友和の方がいいかなぁ。


396:無名武将@お腹せっぷく
04/10/05 08:06:17
伊達小次郎は和泉元弥でキマリ!

397:無名武将@お腹せっぷく
04/10/05 11:04:25
>>396
イイ事言った!!

398:無名武将@お腹せっぷく
04/10/05 17:06:20
うむ・・・

399:無名武将@お腹せっぷく
04/10/06 11:46:42
前田平八郎

400:400ゲッチューーー!
04/10/06 12:28:53
>>399
そんな奴いるの??
























400をいただいた
とりあえず・・・記念にやらないか?

401:無名武将@お腹せっぷく
04/10/06 14:15:52
>>400
金八PART6のデブ

402:無名武将@お腹せっぷく
04/10/06 16:38:24
>>1はどうしたんだ?

(●´ー`●)<早く、来て下され・・

403:343=345
04/10/06 20:21:09
金ヶ崎の撤退戦の元となった、朝倉征伐の時に、徳川軍の連れていた将はどれ位だ?

404:1=そこら辺の名無し
04/10/06 21:53:47
>>402
最近は大体名無しで来ています。
あまり出過ぎると逆に迷惑になると思うので・・・
気にせず語ってください


405:美田肛門
04/10/06 22:05:13
あ!?
>>1さんハッケソ
 _, ._
( ゚ A ゚;)<名無しで来てたんだ~~

406:無名武将@お腹せっぷく
04/10/06 23:14:35
>>1さん迷惑じゃないっすよ~、一緒に語り合いやしょうや。

407:無名武将@お腹せっぷく
04/10/07 13:48:45
衆道の文句は空海に言え

408:無名武将@お腹せっぷく
04/10/07 19:24:58
>>1よ 出てこ~い!
そして~熱く語ってくれよ~~(*゚∀゚*)ポワワ~ン

409:1=そこら辺の名無し
04/10/11 20:40:16
有難う御座います、感無量です・・・。
実のところ少し落ち込んでいまして・・・。
いくら語っても私の話には穴がありますし、自分の全然知らないこともいっぱいありましたし
124氏や300氏にああ言われるのも仕方ないと思って少しここを離れていました。
御心配をかけまして、本当に申し訳ございませんでした。

私の知識はまだまだ未熟かもしれません。
それでも出来るだけ皆様のお役に立てる様、忠勝をもっと語ってもらえる様頑張りたいと思います。
此れからも宜しくお願いします。

410:長門守
04/10/12 01:06:14
>>1
全然ですよ。
私にも抜けはありますし、何より、話のきっかけになればイイと思います。
自分も、きっかけを見かけては、「あ、コレ知ってる」ということを書込んでいるので。
で、その書込みをきっかけにしてまた話がひろがっていく…。

で、現在、>>403の金ヶ崎撤退戦の時の徳川軍参加武将が気に成ってます。
ウチの史料にはどこにも載ってなく、兵力が3000程度であったということ位しか見付かっていません。
姉川と同年ですが、姉川までの間に一度帰国していますし、もしかしたら、史料的な制約があるのかもしれません。
(つまり記録がないということ)
清洲同盟間の初めての本格的な援軍ですから、あっても良さそうなんですがね…。
本当は図書館あたりに調べに行ってみようとも思ったのですが、今、ちょっと忙しくてそれどころではありません…。
引き続き、調査してはみますが…。

411:無名武将@お腹せっぷく
04/10/12 04:42:49
ゲームの話だけど
今回の戦国無双猛将伝はユーザーのアンケートで人気が高かったキャラから4人
選んだそうだけど、忠勝、秀吉は納得。義元は100歩譲ろう。
でも稲姫を歴史もろくに知らないユーザーが選んだとは信じられない。

うちの職場で無双流行って6人も同僚がしてるが、羽柴秀吉を豊臣秀吉だとゲームで知ったぐらいだから
なおさら...。
ていうか、歴史知ってる物でも稲姫はすぐ出てこないぞ...。

412:無名武将@お腹せっぷく
04/10/12 12:16:58
>>1
【漢】とは、そうやって成長していくものだw
これからもドンドン頼む!
ワシなんか、合戦の話しになるとまるっきりついて行けないから
色々な話しを聞いたりすると・・・とても為になるぞよ!
間違い・勘違い等のヌケは、他の人からの意見も聞いて
修正していけば良い(*´ェ`*)ノ

とにかくだ! >>1
モマエがココに居る事が大事なのだ。( σ`・ω・)σツンツンツクツン

413:美田肛門
04/10/12 21:28:31
燃えろ!
本多?勇士

414:無名武将@お腹せっぷく
04/10/14 11:09:41
>>411
俺の予想だと、戦国時代と源平の時代を混同した人が
「巴御前」に投票したと思われる。
で、仕方なく稲姫に差し替えたのではないか。

415:無名武将@お腹せっぷく
04/10/14 15:18:27
忠勝は信長の小姓に勝てないと自ら認めた


雑魚

416:無名武将@お腹せっぷく
04/10/14 15:45:16
>>415
確か前田利家だな。
半蔵と護衛にいって「信長を斬れ」って言われたけど利家が横にいたから
忠勝は「無理です」といって半蔵は「斬れても殿は斬られます」といって信長は斬られなかったいう

でもこれソースあんの?2ちゃんでしか見たことないんだが・・

417:無名武将@お腹せっぷく
04/10/14 15:50:14
>>416
あるわけないだろ。

418:1=復活
04/10/14 17:35:39
こんにちは。
今日は戦話は置いといてこんな話を・・・

(本多髷)
江戸~明治の間の髪型の中に本多忠勝が流行らせた「本多髷」というのがあります。
「男子の髪形の一。中ぞりを大きくし、髷を細く高く結い、
鬢(びん)は油をつけずに櫛(くし)を入れて毛筋を通し、後ろの方に油をつけて巻くもの。」・・とのことです。

また本多髷といっても
「古来之本多」「律兄本多」「浪速本多」「疫病本多」「団七本多」「五分下本多」「丸髷本多」「金魚本多」
・・・と8種類もがあります。

皆さんには余り知られてないですが、丁髷とは明治以降の名称で、元の名称は「本多髷」。
そう!丁髷=本多髷なのです!
まぁその元となるものは鎌倉時代からありましたが、江戸時代の丁髷の原型は本多髷だったといえます。

この髪型は江戸中期に大流行し、「本多風」、「本多頭」とも呼ばれ
通人は勿論、火消しや遊女までもがこの髪型にしていたといいます。


419:長門守
04/10/14 19:14:37
>>411
恐らく、コーエー的には、
01.新キャラを入れたい

02.四人位かな。

03.内訳は既存キャラ2と完全新キャラ2かな

04.既存キャラは秀吉・浅井長政・今川義元・本願寺顕如など

05.女性キャラも欲しいので、新キャラは男1・女1で

06.忠勝はすぐに選出。既存キャラでは浅井長政が人気だが、槍が忠勝と被る。

07.秀吉…三節棍 忠勝…槍とくれば、残りは刀か飛び道具か。

08.義元だったら、刀だけでなく、蹴鞠という異色武器が可能だっっ

09.最後は女性キャラで飛び道具が無難。鉄砲は孫一で使ったから弓矢で決まり。

10.戦国の女性で戦闘が似合いそうなのは小松姫・立花闇千代辺りしかメジャークラスはいない。

11.闇千代は九州で、勢力的に参加させにくいので、徳川陣営の小松姫で決まり。義弟も出てるし、親父は既に決定してるし。

そんな感じではないですかね。

420:美田肛門
04/10/14 23:24:28
>>418
おぉ!ついに動き出したな?
そういう、話しもドンドン聞きたいぞ。
何気ない会話の中にも、為になる事は多い
今は、話題にならなくても何かの話しの時にそういえば・・・
と繋がるものだ。

俺は・・・>>1のファンだ。
挫けずガムバレよ(*´д`*)パッション!!

421:無名武将@お腹せっぷく
04/10/18 10:28:16
今日が命日みたいでつね

黙祷

422:無名武将@お腹せっぷく
04/10/18 11:38:53
>>419
漏れは千姫とまよったんじゃないかと思う。千姫なら真田やらとからめそうだしでももうくのいちがいるから稲姫をとったんじゃないかと

423:無名武将@お腹せっぷく
04/10/19 02:44:20
>本多忠勝が流行らせた「本多髷」

ごめん、違うと思う。


時々思うんだが、1は小学生ぐらいか?
その意気には大変好感を持っているのだが。

424:無名武将@お腹せっぷく
04/10/19 11:16:52
あほか、普通小学生が常山紀談何ぞ読めるか。
こういう事もわからんような、自分で考えると
いう事を一切しない馬鹿が、史書と論文を読み
その内容が絶対だと信じこんで、この板で大上段に
構えて、その正しい主張をぶってると思うと萎えるな。

425:1
04/10/19 18:09:28
>>423
む、違うのですか?
大体の本では忠勝が広めた(又は家風)と書かれているので・・・・。
となると「本小田原町」の説のほうなんでしょうか?
詳しく教えてもらえませんか?

>>421
そういえばそうですね・・・一日遅れですが合掌。
誕生日の方は二月八日のようです。

426:無名武将@お腹せっぷく
04/10/19 23:51:02
>>1は本多家の人間か?

427:無名武将@お腹せっぷく
04/10/20 04:24:21
>>1
>む、違うのですか?
なんか萌えた(;´Д`)

428:無名武将@お腹せっぷく
04/10/20 09:35:25
>>424
>普通小学生が常山紀談何ぞ読めるか。

こんなとこに常駐する小学生は、読んでも不思議ではない。

ほどほどにしとけよ、と言いたくなるだけ。


429:無名武将@お腹せっぷく
04/10/20 14:50:08
>>428
おまえがほどほどにしとけ小学生。

430:無名武将@お腹せっぷく
04/10/20 18:22:21
と小学生が中学生に大放言

431:1
04/10/22 22:14:14
*注意*
1の語りは史実・伝承・諸説などが一緒になっている場合があります。
なので「へぇ~、そういう話もあるんだ~」程度に思っておいてください。



(忠勝の好敵手)
・・というよりは「天敵」とでもいいましょうか。この二人、実は結構仲が悪かったんだとか・・。
ということで猛将ということ以外、正反対のこの二人の逸話を紹介。

1・忠勝は一説に新参者の五人中四人(!)が彼の隊に行きたがったと言われているが、
直政の隊は皆行きたがらず、有能な人物はほとんど忠勝にとられたといわれています。

2・直政はとても重い甲冑を着ていましたが、忠勝は軽装で戦場にでたといいます。
これは一説に直政の重甲冑を見た忠勝が、あえて軽装にしたともいわれています。

3・関ヶ原の際、二人は先陣の問題で喧嘩したといいます。
その時関一政が取りなし、なんとかおさまったようです。

4・逸話というか・・・直政は忠勝といざこざを起こした時は
ほとんどの場合朱ではなく黒い具足をつけていたとか。

・・とまぁこんな感じ。ちなみに康政と直政は仲良かったとも悪かったともいわれてたり。

>>428
さすがに小学生ではないですよ^^;おっさんというほどの年齢でもないですが。

ところで貴方は>>423氏ですか?
もしそうならば是非とも本多髷のことを語ってください!

432:無名武将@お腹せっぷく
04/10/23 16:12:29
URLリンク(kakutei.cside.com)

433:無名武将@お腹せっぷく
04/10/25 14:58:01
異論あるならソース持ってくればいいだけなのに。。。
「違うよ」って言うだけじゃ説得力ないよ。

434:無名武将@お腹せっぷく
04/10/25 17:00:42
もしかして忠勝みたいな武将が自ら最前線で槍を振るっていたとか本気で信じているわけじゃあるまいな?

435:無名武将@お腹せっぷく
04/10/25 17:43:17
蜻蛉切りは敵にびびって逃げ出す味方の
足軽を殺すために使われたと。メモメモ。

436:無名武将@お腹せっぷく
04/10/25 19:01:26
これぞ蜻蛉切上段の構え

437:無名武将@お腹せっぷく
04/10/26 16:59:42
>>434
若いときは最前線で戦ってたよ。
実際、東遷基業に牧野宗二郎なる武者をうちとり一番槍の功をあげている。
一番槍ってのは無論先頭切って敵に迫らなければ取れない。

438:訂正
04/10/26 17:01:03
>実際、東遷基業に牧野宗二郎なる武者をうちとり一番槍の功をあげている。
実際、東遷基業の記述によれば忠勝は牧野宗二郎なる武者をうちとり一番槍の功をあげている。

439:無名武将@お腹せっぷく
04/10/27 21:35:06
どうだろうなあ。その記述が現実的なものかどうかもあやしいし。

それにこの時代の野戦って実際は主に飛び道具の応酬で脅し合うぐらいのもんでしょ。

440:無名武将@お腹せっぷく
04/10/27 23:24:35
そんなこといってたら
島津の前退→ありえない
山県が口に采配をくわえて絶命→ありえない
加藤の虎退治→ありえない   etc
だぞ。
つか歴史なんてもんは資料をみて知識を得るものなのに
その資料を信じないんじゃ歴史も何もあったもんじゃないんじゃないか?

441:無名武将@お腹せっぷく
04/10/27 23:43:25
史料批判って言葉を知らんのか。
史料の内容をそのまま信じていいんなら歴史学なんて必要ない。

442:無名武将@お腹せっぷく
04/10/28 08:02:17
>>441
あのさ、史料批判なんてのはある程度の根拠が必要だろ。
例えば上杉謙信女性説なら
一般的に謙信は男→でも婦人病で死んだという説がある、「景勝の叔母」と書かれた書物がある
→故に謙信は女性だったのではないか
という具合に。
たいした根拠もないのに批判するのは妄想と同じだと思うが

443:無名武将@お腹せっぷく
04/10/28 08:03:12
さすがに一番槍は捏造できんだろ。

444:無名武将@お腹せっぷく
04/10/28 12:38:42
横レスだが史料批判っていうのは
史料が誰によってどういう立場でどういう経緯と背景があって書かれたかということを「洗う」ことだよ。

445:無名武将@お腹せっぷく
04/10/28 15:04:39
というかここ忠勝萌えスレみたいなもんだから。
歴史検証とかそんな高等な話しなくていいから。

446:無名武将@お腹せっぷく
04/10/28 15:20:39
まぁな。

447:無名武将@お腹せっぷく
04/10/31 16:57:50
>時代の野戦って実際は主に飛び道具の応酬で脅し合うぐらいのもんでしょ

どうだろうなあ。その記述が現実的なものかどうかもあやしいしw

448:無名武将@お腹せっぷく
04/10/31 20:00:45
>>447
それは最初の段階だよな。

449:無名武将@お腹せっぷく
04/11/03 00:00:24
本多忠勝は戦国屈指の武将に間違いは無いだろう。家康も良い家臣に恵まれたな。

450:1
04/11/03 15:50:45
今日は忠勝の息子、忠朝の話を。
好きなんですよ、この人。

(ロドリゴと忠朝)
1609年9月30日、ある外国船が岩和田の田尻沖に座礁しました。
その船に乗っていた一人の男、名はドン・ロドリゴ。
元イスパニヤの軍人でしたがフィリピン長官に栄転、任期を終え、メキシコに帰る途中に嵐に遭ってしまったのです。
この惨事を見た村人達は総出で乗組員達を救出、376人中、317人が助かりました。
しかしこの事を聞いた大多喜城内は大騒ぎ。
この者達の処遇をどうするか夜が明けるまで会議し、次第に「殺すべき」という考えに固まっていきました。
ですが忠朝はロドリゴ達を不憫に思い、この意見を退けて、衣料や食べ物を与えて彼らを助けました。
(忠朝は西洋の文化にかなり精通していたようです。
みずからロドリコの所へ出向き、ロドリコの手にキスをしたといいます。)
1年後、ロドリゴ達は駿河で家康に謁見することになりますが、
ロドリゴ達は忠朝にお礼言上をする為に大多喜城に立ち寄り、忠朝も良馬を送って友情を示しました。
その後、船を貰い、無事メキシコに帰ったロドリゴは「日本見聞録」という本を著しました。
その本には大多喜城での暮らしのことが多く書かれています。

忠朝の人柄がわかる逸話ですね。
忠朝との話の部分以外はやや省略しているので、興味を持った方は是非調べてみてください。


451:無名武将@お腹せっぷく
04/11/04 02:13:25
忠勝って細身でしゃくれなんだろ

452:無名武将@お腹せっぷく
04/11/05 17:13:45
知らなかった・・・ドン・ロドリゴか。
ドン・フライなら知ってるんだがねw

忠勝は、槍以外に得意とする得物は無かったの?

453:無名武将@お腹せっぷく
04/11/05 18:21:19
どうしてkoeiではあんなにイケメンなのに
原先生にはあんなにゴツク書かれてるんですか?

ちなみに信長の野望で
本田忠勝を一門にしてしまったのは俺だけじゃないはず・・

454:長門守
04/11/18 21:33:15
そおいえば、大多喜城の博物館(天守閣)にプリクラがあって、その脇に家康初陣時の金色の兜のレプリカが置いてありました。
かぶって撮影しろってことですか。

455:無名武将@お腹せっぷく
04/11/24 18:12:24
今月のパプワのウマ子が着ていた鎧が、忠勝の鎧だった。
ワラタよ。

456:無名武将@お腹せっぷく
04/11/25 18:14:33
保守ageする。

457:無名武将@お腹せっぷく
04/11/25 20:32:54
>>453
忠勝の外見的なイメージって微妙だよな。
生涯一度も合戦で傷を負わなかった英雄として描けばイケメンにしたくなるだろうし、
三河武士を代表する猛将として描けば無骨になるだろうし。

458:無名武将@お腹せっぷく
04/11/25 20:37:51
無骨な表現のほうが肖像画に近いし、個人的にはそっちのほうが好きだな。

459:無名武将@お腹せっぷく
04/11/25 22:44:08
花実兼備の勇士で惚れ惚れするような武者ぶりらしいけどな
でも原の忠勝も華があると思う

460:無名武将@お腹せっぷく
04/11/29 18:07:19

  ∩_ _∩
  ,| U| |U | ,、
 (、);;;)(;;;(ノノ
 ノフ(゚Д゚) ヽ'
 /=/´∀`)ヽ < 保守
 (  つ旦O      
 と__)_)


461:無名武将@お腹せっぷく
04/12/01 12:32:05
やっぱ、カコイイ

462:無名武将@お腹せっぷく
04/12/01 14:08:22
1000迄>>1さんその他諸々のカキコが続けば、
このスレを資料として忠勝氏の漫画をかけそうだな・・・

463:1
04/12/01 15:49:30
すいません、リアルが忙しくて中々行けませんでした・・。;´∀`)
話題もつきかけてるので、また資料読みなおそうと思います。とりあえず今日はこんな話題

(忠勝の戦友・忠勝を追い返した男)
その男とは徳川十六神将に名を連ねる「内藤正成」。
内藤家は代々「弓上手」が多いことで有名で、無論正成も弓の名手でした。
初陣は十五歳、織田が上野城を攻めた時。弓をもって押し寄せる敵を倒し、ついに敵は侵入できなかったといいます。
一矢で二人を射抜く等弓の逸話は数多く、武田軍から「尋常な射手ではない」とまで言われました。

さて本題、家康が武田軍に奪われた遠江二俣城を奪回しようとした時、正成は脚を怪我していました。
その為家康は正成に「私が帰るまで開けるなよ」と留守を頼みますが、途中嵐に遭い引き返すことになります。
家康は忠勝を呼んで「正成に私が戻ることを伝えよ」と命じます。忠勝は直ちに正成のいる浜松に馬を走らせました。
が、忠勝軍がついても扉は閉じたまま、「忠勝である、門を開けろ!」と言っても返事なし。
それどころか鉄砲を撃って威嚇してきたのです。その時正成が出てきました。
忠勝は「殿のお帰りである、門を開けろ!」と言いますが、
正成は「殿の顔がありませぬ故、開けることは出来ませぬ」と言い返しました。
辺りも暗くなり、仕方なく忠勝はしぶしぶ引き返して家康を連れて行くことにしました。
その話を聞いた家康は上機嫌。家康は浜松の城へ行き、門前で止まります。
正成は提灯で家康の顔を確認し、やっと門を開けたのでした。
その後家康は諸侯の前で「正成に留守を任せれば、謀略を持ってしても城を取られることはない」と正成を褒め称えました。

・・正成の頑固さと用心深さがわかる逸話ですね。
忠勝もこれには参ったでしょうな。


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