04/07/27 17:59
>>227
更に
康政・忠勝ら武断派は正信ら文治派とは反りが合わなかった。
しかし、康政も時代の流れ的に正信らを家康が重用するのも裏では納得していた。
で「老中権を争うは御家の危機」として件の腸の腐れものと言って正信らとの間に溝を作り、国政に参加しなかったという。
同時に、康政は関ヶ原前から、秀忠付きでありました。
で、忌の際に家康からの見舞いの使者には
「某も腸の腐り申した」という笑えないジョークと共に対面を断る。
しかし、秀忠からの見舞いの使者が来ると、
病身を押して衣服を整え、ちゃんと対面したといいます。
まぁ、納得しつつも、家康に対する無言の批難といったトコロですかね。