04/07/09 21:24
(筑紫秀綱)忠勝家臣団の家老です。
元々今川軍に所属していましたが遠江侵攻の時に降り、翌年忠勝の軍に所属しました。
1569年に家康から本領安堵を受け、その後本多家筆頭家臣として代々仕えました。
(梶勝忠)上に同じく忠勝家臣団の家老です。
元は家康の使い番で、後旗本先手役になった忠勝に属します。
関ヶ原の戦いでは三国黒を失ってもなお奮戦する忠勝に自分の馬を差し出したといわれています。
忠勝が死去すると同僚の中根忠実と共に殉死しました。
(本多正重)徳川家康の謀臣といわれる本多正信の弟である人物です。
どうやらかなりの槍使いらしく、信長から海道一の勇士といわれたといいます。
あとかなり放浪癖があったようです。
(牧総次郎)元今川軍にいた人物です。
死んだ城所助之允の武勇にあやかって桔梗笠をかぶり出陣した時
前年に一騎打ちにてもう少しの所で助之允を取り逃がしてしまった忠勝から勝負を挑まれ捕らえられました。
忠勝は彼の思いに心情を打たれ、彼を逃がします。
これに恩を感じた総次郎は後々忠勝の忠臣となるのでした。
(長坂信宅)家康家臣で「血槍九郎」といわれた猛将、長坂信政の息子です。
姉川・長篠・小山・長久手の戦いなどで戦功をあげました。
彼は忠勝の師であり、槍を教えたり涙ながらに忠勝の父の武勇譚を語ったといわれています。
この逸話の真偽はわかりませんが、1590年に本多忠勝軍に属したことは確かなようです。