04/07/08 23:11
前に忠勝の祖父の話が出てきたので、そこらを少し。
松平広忠(家康の親父)が今川家の庇護を受けていた頃、松平氏の持城であった三河国安祥城(現愛知県安城市)を織田信秀(信長の親父)が攻撃します。
広忠はこれに援軍を送りますが、敢無く安祥城は陥落。織田家の手に陥ってしまいます。
このとき、忠勝の祖父にあたる平八郎忠豊が広忠を守って、身替わりとして戦死します。年代は諸説ありますが、天文9年(1540)が一般的。
以降、広忠はこの安祥城奪還に燃えますが、なかなか適いません。その一環、天文14年(1545)の奪還失敗時に忠豊戦死の説もあります。
そして天文18年(1549)、広忠が家臣岩松八弥に謀殺されると、松平家を乗っ取った今川家の家宰太原雪斎は松平勢を率いて安祥城を攻撃。
この戦いで忠勝の父平八郎忠高が城兵前島伝次郎の矢に当たって戦死。城の攻略は失敗。
これが3月。同年11月に太原雪斎は再び、松平勢を率いて安祥城を攻撃。これを攻略。
城主織田信広(信長の庶兄)を捕らえると、早速、織田家の人質となっていた竹千代(家康)と人質交換を実施。竹千代を駿河につれていくこととなる。
ちなみに安祥城は信長と家康(当時は元康)との間に清洲同盟が締結された永禄5年(1562)に廃城となる。
参考までに家康の誕生年は天文11年(1542)、忠勝は天文17年(1548)です。