04/07/07 21:05
>>70
>また達筆であり、小牧・長久手の戦いでは秀吉を批判した檄文を書いて激怒させました。
>その後秀吉が攻めてきたところを檄文によって集まった援軍と共に返り討ちにし、さらにその名を轟かせました。
>関ヶ原の後、老中職に就きますが「老臣が権を持つは亡国の兆し」といって辞退、1606年5月14日に病没しました。
微妙な書き方なので少しだけ訂正させて戴きますと、檄文を書いたのも秀吉方の三好秀次軍を壊滅させたのも同じ小牧・長久手の戦い。前者が小牧で、後者が長久手での戦いですね。
ちなみに、長久手の戦いではこのあと、羽柴軍堀秀政隊により、榊原・大須賀隊は壊滅・敗走しています。
しかも、この時、康政は檄文の仕返しとして、秀吉からその首に10万石をかけられていましたが、無事、帰還しました。
老中職を辞退したという話はよく聞きますが、実際は、職としては死ぬまで老中のままだったようです。実務はしていなかったでしょうが。
で、泣かせるのは、康政が死んだ1606年に桑名にいた忠勝は幕府に届け出て老中職を辞しています。