04/07/05 22:14
>>98
忠勝の本多家は、江戸中期以降徳川家所縁の地でもある岡崎5万石を与えられたけど、
名誉職の意味合いも強くて、花火や石等の産物はあって数字よりマシだったものの、
神君や多くの譜代大名の故地であったことから、諸大名が参勤の途中に滞留することが多く、
大名の代替わりごとに訪れたりしたもんだから、その接待のために財政はいつも苦しかったとか。
そのため、途中で財政再建が試みられたが、接待費削減政策は実施されたものの、
忠勝公以来の功名高く世間にも知られた家臣が多くてなかなかリストラが出来なかったそうな。