06/08/21 16:07:31 8/b7F/EJ
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた~~にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20~30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
13:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 05:35:28 ICAWepo+
唐沢山城って有名なの?
裏山にあるんだけど@佐野市民
14:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 06:23:45 OcjwZlQB
>>13
天と地と
15:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 09:39:03 MpVxCEpZ
>>13
コーエーゲーではへっぽこ城ですが、上杉謙信が落とせなかったようですよ?<唐沢山城
16:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 13:27:10 Tdvp44qd
北条軍35000人が包囲する中
援軍に来た謙信が44騎で突っ切って入城したとか言う
三国誌演技ばりの逸話があるのも唐沢山だったなw
17:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 16:21:15 T8bEYFtt
合戦大事典にはのってないね、そのエピソード
基本的に一時期を除くと佐野昌綱は北条方
永禄十一年(1568)一月に、北条を撃退した戦はしてるけど
18:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/24 11:52:31 zq7S7Fbx
下野って国人クラスの存在が居ないよね。
佐野、皆川、壬生は小さいながらも大名だし。
那須七騎辺りがそうかな?
19:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/24 12:36:53 0scEPiqt
下総だけどたまには結城のことも思い出してやって下さい…
20:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/24 13:21:38 FQE7hT0K
>>18
国人の定義がはっきりしないが
規模的には皆川や壬生なんかより那須の方がかなり大きい
下野北部は大半那須領だからね
佐竹・千葉・宇都宮などと並んで関東八家に数えられている
21:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/24 16:27:38 F2YBw/H/
ちょっと脱線しちゃうけど、与一って十一男だよね、
でも那須家をつぎ、更に養子に兄(五男)資之を…この系統が嫡流
那須七騎のうち、福原は資之の子資広(与一の兄四郎久隆の養子)、
蘆野と伊王野は資之の養子頼資、千本は与一の兄十郎為隆の系統で、
大関と大田原は丹党
22:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/24 20:29:44 zq7S7Fbx
>>20
那須氏と那須七騎の区別が付かないのか?
23:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/25 04:39:36 PNaKsZc2
国人は地頭や荘官の末裔が多いが、そもそもその両者とも下野にはあまり存在しなかったのではないか?
24:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/25 11:15:18 xEzqaKOA
>>18
国人っていう概念がなかったのでわ?
以前、町内会レベルの地域しか支配してないのに、「大名」と紹介されていた
下野大名がいたはず。平石氏だっけな?
今の本田技研の研究所当たりにいたらしいが
25:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/25 16:32:54 n7caQM+F
国人って西国っぽいイメージと言ってみる
例えば常陸では大掾も江戸も、国人とは言わない
大名とも言わないが
26:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/25 17:12:06 mrS1/DHf
大名っしょ
27:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/25 18:38:24 335Cn3GC
土豪ともいえる
28:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/25 19:54:50 3vshDa2Z
豪族かな
とくに大掾は国香以来の名門だから
29:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/25 20:32:06 PNaKsZc2
南方三十三館はランク的には国人だが、一揆とか組まんよね。
一揆といえば、武蔵七党以来の平一揆とかはいつの間に消えたんだ?
30:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/26 15:10:01 MS85cFmB
応永元年(1368)に敗退し、多くは伊勢に逃れたとされているんじゃ
31:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/01 23:17:53 lmXrtZCP
大田原氏や大関氏は、戦国時代から明治維新まで、一度も国替えが無い外様大名
として、珍しいらしいよ。
32:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/01 23:19:08 4sRpQqOA
義宣の小説読んでるけど、秋田移封が泣ける・・
33:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/02 00:23:17 YqQ7YG0a
幕末の大田原城攻防戦は珍事だな
34:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/02 20:28:53 bcvau+8h
茨城県立水戸第一高等学校の校舎が水戸城本丸後だったという事実を知っている茨城県人は少ない
35:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/02 21:24:29 YqQ7YG0a
旧県庁跡の三の丸付近はあれだけ深い掘があるから一目瞭然だが
本丸の掘切は国道やら電車が通ってるから分かりにくいかもね
でも太田城に比べればマシだよ
太田は完全消滅…
36:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/04 23:51:03 tb4YbyhC
>>34
しかも、二の丸と合わせて城マニアにとって見学しずらい場所だよな。
小・中学校・女子高・女子高のテニスコートに、
本丸の一高ってカメラ片手にうろうろしたら怪しいやつになる。
37:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/05 04:49:44 QQicupVS
伊達や芦名が絡むのがまた面白いんだな
38:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/05 06:24:13 3WLHm9/i
佐竹なんか伊達の敵では!ない
39:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/05 08:24:48 bnm91B1D
捏造の城・宇都宮城へようこそ
40:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/05 12:17:30 u8IUHEAz
宇都宮城復元するらしいね
非常に中途半端に
41:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/05 20:38:51 Ugrr2300
宇都宮氏は全国色々な場所に散らばってますね
42:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/07 19:10:27 bS150Th+
>>32
kwsk
もしかして近衛の書いた「佐竹義宣」か?
43:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/08 02:34:45 4fgqERNj
>>41
本家の跡目相続収めに、鎮西からきますた城井とか
44:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/08 08:54:48 zJOIoLWo
>>41
宇都宮本家がお取りつぶしになった後水戸藩に拾われたり、瀬戸内海で水軍やってたのが
いたり、北九州にぶっ飛ばされて黒田家に殺戮されたのがいたりしたからな
ちなみに宇都宮市に宇都宮さんはほとんどいなかったはず。ルーツとしても伊予宇都宮や
豊前宇都宮の血を引く人の方が多かったような
45:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/09 15:49:32 0wDa9DoC
伊予宇都宮氏
承久の乱で宇都宮頼綱の子頼業と時朝が活躍
頼綱が伊予守護に任じられ、頼綱の孫景綱の三男泰宗の子、貞宗が伊予に土着
鎮西信房流宇都宮氏
宇都宮初代宗円の孫信房が、平氏追討に功を立て、豊前に所領を得、城井に居城し、
子孫が分出し豊前国内で勢力をはる
46:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/09 17:26:42 YKmvvbLW
那須七騎は、固定じゃなくてその時々の力が有った六勢力と主家の那須家で
那須七騎じゃなかったかな
あと蘆野じゃなくて芦野だろ
47:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/11 12:35:25 CkgMvKHv
蘆も芦も同じだよ
芦は蘆の略字だからどっちが正しいかと言えば蘆だろうけど
48:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/11 16:22:46 5ub3f8Gk
葦ってのもあるし
49:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/11 22:16:23 c0xBw+Tt
>>47-48
芦名氏の場合、会津の戦国大名は「蘆名」と表記されることがあるが、江戸時代伊達家に仕えた分家は「葦名」と
表記されている。
理由はよくわからないけど、江戸時代の今川家で「今川」と名乗れるのは本家だけで分家は「品川」を名乗ったのと
似たようなものか?
50:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/11 22:53:14 4C0ADYq9
音さえあっていれば当て字でも対して問題ない
51:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/12 11:25:49 y0Hcy0dC
今川分家の品川氏って今の品川区の名の由来と関係あるの?
52:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/12 11:36:08 8MZCqAm0
天才芸人品川さん
53:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/12 12:32:43 yyxX0h2i
>>49
葦名と蘆名は同じだよ
両方使われてて特に明確な区別はない
54:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/16 12:40:55 seThMo/P
ローゼン大臣こと麻生太郎が宇都宮家の流れを継いでいることについて
55:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/17 10:45:38 u8uySg7G
那須氏て本当に戦強いな
56:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/17 22:43:08 7UL8r9YR
宇都宮さんは今でも浅野さんを恨んでるのかな
57:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/18 12:43:36 i/sqUirH
なんかここら辺りで堤防とか整備して没後に正何位を授かった武将がいた気がしたんだが
名前が思い出せない
58:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/28 19:53:58 CFZm+2ni
大正四年に従五位を追贈された大谷休伯なら、上野だべ
59:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/02 01:28:51 qzuxWsqU
>>44
分家筋なら沢山いる。宇都宮って苗字ではないけど。
某町の前町長さんとか神社の神主さんとか。
60:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 11:08:28 RGoTbs/K
下野南部=佐野氏のイメージ強いけど、その頃隣の足利市ってどうだったんだろ?
足利学校くらいしか思いつかん
61:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 12:02:07 yKeg6ODx
長尾の本家ともいわれる、足利長尾がいるべさ
もともと鎌倉にいたけど、寛正六年(1465)享徳の乱の功で、山内上杉の推挙で足利の代官職を得、翌年入部
謙信と後北条の争いでは越後方だったが、天正十二年(1584)後北条に降伏
秀吉の小田原攻めで、小田原に籠城、敗戦後没落
62:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 12:02:11 IL4rFpPn
>>60
足利長尾氏がおるやん
63:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 12:03:32 yKeg6ODx
タッチの差だったね
64:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 12:06:49 IL4rFpPn
>>63
あんたには負けたよ
65:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 15:42:19 ezZuXxZM
下野南部と言えば名族小山氏がいる
66:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 17:40:56 rJ82spMj
>>65
北条に付いた裏切り者だ。
67:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/05 18:12:10 ezZuXxZM
>>66
むしろ北条につかなかった下野の勢力なんて僅かしかいないだろ
というか皆無に等しい
そもそも裏切り者って誰を裏切ったんだよw
68:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/06 01:32:05 SH6C3kC/
宇都宮と那須くらいじゃない?
その宇都宮にしたって、後五年あれば降伏か滅亡かしていたと思うけど。
69:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/06 10:01:09 Eg4tfD9F
宇都宮も何度か北条に服属してるよ
人質も送ってるし
那須も北条側について幾度も宇都宮領や佐竹領を侵食している
70:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/06 14:51:46 rsNQncNQ
>>66は佐竹。
71:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/06 16:38:09 Eg4tfD9F
佐竹も古河公方を通じて北条と結んだ事があったりする
72:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/07 02:10:10 q3DkbFLG
じゃ、反北条を貫き通した奴は、本当に皆無だな。
73:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/07 08:36:13 6jbo0X+Q
みんな生き残るのに必死だったから
74:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/07 18:56:42 VW30R52u
謙信だって北関東衆の反対押し切って北条と同盟したんだしな
75:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/08 00:40:51 dxjz6n0X
>>66は言いがかりと言うことで決着。
まあ大名が滅ぶと言うことは、今で言えば倒産だからな。
自分と家臣の生活のためには背反も仕方ない。
76:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/14 00:35:27 FkJmLnqD
倒産した後残った社員が他社に行く辺りも似てるな。まあ、倒産社長ばかりかき集めていた
水戸徳川家みたいなところもあるけど
77:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/14 03:51:39 1yuaGWpC
しかし現代では倒産したからといって農家になる奴はいない。
78:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/14 15:24:50 Vwaexne9
昔から農地を持ってるやつならともかく新しく農地を手に入れて
なんて相当の資金がないと無理だからな。そのくせ実入りは少ないし。
金持ちの道楽だろ>農家への転職
79:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/14 18:13:59 1yuaGWpC
政治家も落選したら帰農して庄屋にでもなるべきだよな。
80:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 12:43:24 T/NrHpHf
とりあえず佐賀関連の話すると、龍造寺は秀郷系だったよな?
81:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 13:12:25 pcsspZcF
宇都宮城は天守がないんで残念。復元する機運が高まらない。
戊辰のときに白虎隊みたいな美談があればよかった。
82:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 14:43:39 sCPvoNGz
宇都宮城は復元始まってるんじゃなかったっけ?
83:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 00:04:42 MuQJV98S
>>80
佐賀を出すな佐賀を
ここは佐竹・小田・宇都宮・小山のスレだぞ。佐賀はダメだ。
佐賀はいかん佐賀は
84:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 07:02:04 kYCvGEiO
はなわ
85:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 10:42:52 3s1BApVr
>>83
小山→結城→下総→千葉→佐賀
86:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 18:52:07 oIa8aEpO
>>85
どうやったらそうなるのか俺は気になる。
87:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 19:40:40 su15u9Pt
ていうか県名なのか旧国名なのか大名なのかすらわからん
88:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/27 07:03:55 lDzYVA3k
水谷正村や福原資孝とか、地味な名将が多いね。
89:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/27 19:35:10 VlYs9arG
壬生綱房や芳賀高経みたいな野心家もいる。
地味ながら面白い地域ではある。
90:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/27 19:42:02 8qaNaDzO
何故かマイナーだが多賀谷重経も面白い人物だよ
北関東で一、二を争う大勢力にしたし
下手すりゃ佐竹や宇都宮より大きいのではないかと思う
91:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 01:04:41 WqQK6kPD
関東って全体的にマイナーだよな
北条家もメジャーではあるが、メジャーな大名の中だと地味だし
92:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 06:00:32 XZDV7FuD
小田天庵(氏治)は暗愚って評価は定説かな?
傾いた小田家をそれなりに支えたと思うのだが。。。
>>91
畿内を制してこそ、天下という都合上仕方ないわな。
当時はかなり田舎だし。
93:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 15:47:16 ke2Z418q
>>92
別に暗愚じゃないと思うよ
何度も城を落とされて、また城に復帰を繰り返してるから
94:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 12:35:42 0W/g0FT1
天庵のしぶとさは異常だなw
一体何回負けて何回城を落とされた事かわからん
でも天庵自体は暗愚と言われても仕方ない人物かもしれない
というか戦が下手すぎる
菅谷氏をはじめとする家臣団が頑張ったから存続できただけで
でも政治力や人望はあったのかもしれない
家臣達も見離さず氏治を支え続けたし
領民も小田氏贔屓で別の勢力が小田領を支配しても
年貢を納める事を拒否して統治に難渋した
よくわからん人物だ
95:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 01:31:12 qGroDC1q
天庵は直情径行なんだよね。まっすぐな感じ。
96:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 13:48:19 DYVwVCbN
>>94にレスするだけのために(?)常陸小田氏の盛衰って本を買って来てしまった・・・
まだよく読んでないけど、小田城が何回落ちているか抜粋
・弘治二年(1556)三月 結城氏に海老島の戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城奪還
・永禄七年(1564)一月 上杉、佐竹らに山王堂の戦で敗れ、小田城落城、氏治藤沢・土浦に落ちる
・同年 八月 氏治小田城を奪還
・同年 十一月 佐竹勢に攻められ、小田城落城、氏治土浦へ
・永禄八年(1565)十二月 氏治小田城奪還
・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、小田城落城
・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還
・永禄十二年(1569)十一月、太田三楽、梶原、真壁らに手這山合戦で敗れ、小田城落城、氏治土浦、藤沢に
(こののち小田氏の主力は、土浦、藤沢両城に移る)
・元亀二年(1571)末 氏治小田城を奪還
・元亀三年(1572)末 太田三楽により、小田城最後の落城
(こののち、藤沢城→土浦城→手子生城と順に落されていき、滅亡)
97:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 15:30:14 BGY6IBVY
>・永禄九年(1566)二月 上杉、佐竹勢の攻められ、小田城落城
>・同年? 時期不明ながら、氏治小田城を奪還
このときは「落城」はしていないんじゃないかな。
氏治が小山と結城を頼って和議を申し入れたので、小田城が開城された。
そのかわり謙信は城中の人々(小田家臣の師弟とかだと思うけど)をみんなとっ捕まえて、
身代金を要求した。有名な話やね。
氏治はそのまま在城を許されたっぽい。
小田がここまで城を何度も取り返せたのは、やっぱり鎌倉時代からずっと小田領だったってことと、
太田梶原真壁というのが、小田に対して決定力をもってなかったってことによるんだろうな。
実際には小田のほうが動員力はあったわけで、太田らがなんとか戦術でしのいでいた感じ。
佐竹もこのときは奥州下野で忙しくて、小田のほうは何とかなっているのでいいやと後回しにしていたっぽい。
たまに手隙のときに来て放火する程度。
ちなみにこの永禄九年の小田攻めでこういう落居の仕方をしたことが、
のちの佐竹の戦略に大きく影響をしたようではある。
98:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 21:11:04 Swn/ZjgB
>>96
小田強すぎてワロタw
99:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 17:38:50 plOLYeoc
なんつーか、負けん気だけは一人前の今川氏真みたいなんだな、天庵公は。
100:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 17:48:01 k0OOdYx9
>>96
94だがレスありがとう
やはり天庵は素敵な男だなw
戦じゃ弱いが占領軍は統治が難しく結局放棄せざるを得なかったようだ
まあ、何度か勝った事もあるようだが決定的な所で弱いんだよ…
土浦城主の菅谷氏もいつも逃げ込んでこられて大変だったなw
101:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 22:48:22 GAXGMFmX
小田城ネタですね了解
近くに住む者ですが、今時期は収穫も一段落で本丸周辺の城郭がクッキリ見えるのでオヌヌメ
ナイスな平城だと思います
激戦乱、南北朝時代の遺構がなぜ今日まで遺ってるかと云うと統治されてた祖先から、今だに住民から尊敬されてるのだと(親類談
アクセスは非常に悪いので大きい車では厳しいです
で..関城、大宝城ネタを誰か詳しくおながいします
102:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 23:33:11 60b74myQ
氏治の父・小田政治は足利政知の子で、小田家の養子になったってのはホント?
103:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/06 06:58:32 cnZfZFGH
つーか、小田氏は何で山城作らなかったの?
104:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/06 08:52:13 XpWaN5Ts
小田氏の本拠地は山ないし
105:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/06 09:58:38 HGJuxjkS
筑波三
106:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/06 12:09:07 cnZfZFGH
>>104
太田市の金山城なんて大した山じゃないぞ。
筑波山の南側を使えば作れそうなものだってこと。
107:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/06 16:12:59 rI2rBhKC
小田には山城もあるよ
小田城の向かいの山に前山城と言う山城が築かれている
でも、平城の方が使い勝手がいいし小田城があれだけの大城郭に発展したから
ほとんど利用される事なく放置されていたようだ
古い時代は居住区である館と篭城する場合の砦は別個になっていたから
それの名残かもしれない
市史などによると戦国期にも整備されてたような事は書いてある
108:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/07 10:55:45 M6xmIfYc
いくら山城に篭っても後詰めが来ないと意味ないもんな。
109:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/07 13:57:32 s9Mw04gT
下野はよう知らんが、常陸で山城らしい山城って笠間城くらいじゃ
ああ男体山(現在の難台山)城(砦?)もかな
110:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/07 13:59:03 s9Mw04gT
>>97
勉強になります、ありがとうございました
111:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/09 19:52:02 bPdEBMLL
>>109
水戸以北は山城が多いよ
まあ、小規模なものばかりですが
県境あたりになると月居城や金砂山城みたいな凄い要害にある(ほとんどただの山だけど
下野の山城だと
北条、上杉、佐竹なんかに攻められまくった唐沢山城が有名だね
あと那須氏の居城烏山城もかなり大規模な山城です
織田信雄もちょこっと居た事があったり
112:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/11 14:48:37 rK7cnoWk
>月居城
袋田の滝の上の山ですよね
>金砂山城
佐竹秀義が頼朝相手に立籠もった城ですね
そうそう義舜が山入相手に立籠もったか
>ほとんどただの山だけど
非常時に難を逃れるために、常時家臣をおいていた、感じの城ですよね
113:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/27 09:12:23 wmL1Mu5n
宇都宮国綱の所領ってどのくらいだっけ
回易の理由が浅野の養子縁組を断ったからのが原因だけど嫡子に義綱がいるよね
114:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/27 12:36:05 pErHxYVP
下野の矢板市にある川崎城は崖の上に建ってたな。
街道沿いで一面は平野に接してるから守り難そうだけど。
115:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/27 16:50:37 CaWEPiXh
>>113
表高十八万石、実高三十九万石だったらしい
改易になる表向きの理由としては、この差が不正だと
116:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/27 17:33:30 SN2bbFNy
浅野との確執がどこまで事実なのかわからないが
表高と実高が違うなんてどこの大名でも同じ事だし
宇都宮は名門だが秀吉が警戒しなきゃならないような大名ではない
何かしら裏があったのかもね
ちなみに宇都宮の嫡流は水戸藩の家老になった
あと下野と言えば那須家は割と優遇されてるね
大田原・大関は関東で唯一外様として中世以来の領地を幕末まで維持した
那須本家は嫡流が無嗣断絶により改易されたが
分流が交代寄合(在国統治が許された準大名的旗本)として存続した
蘆野・千本・福原も交代寄合として存続
伊王野氏だけは無嗣断絶してしまったが分流は水戸藩に仕えた
117:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/28 23:08:57 B7kMoI+6
下野の大名の家臣にいやに北条氏が多い気がする
宇都宮家臣の北条勝時とか武茂家臣の北条義興、守直やら
執権北条氏って下野に所領持ってたのかな?
そうだとしたらその傍系かも