06/08/19 19:38:47 5v19x3Jt
幸村が大阪城にいったのは豊臣方から誘われて、武将としての活躍の場を与えられたから。
彼が、豊臣家に忠節を誓ったのは、豊臣家から20万石以上の大名並みの兵力を任されその
恩に報いるためだ。そのことは彼自身がはっきりと語っている。
彼が九度山にいた頃は、家康についた兄から送金してもらって、生活していた。
また大阪に来ても、家康方の兄とは交流があり、このことからも彼が別にアンチ家康で
なかった事がわかる。それに豊臣方に義があったので大阪方になったというのなら、
不義の家康についた兄とは対立するか、少なくとも手を切らねばならない筈。
つまり、アンチ家康で秀吉恩顧に報いるために活躍したというのは江戸期の講談話。
幸村は九度山で朽ち果てようとしていのだが、大阪の陣という活躍の場が用意された為
死ぬ前に一度死に花をさかせようとして、張り切ったというわけだ。
幸村(信繁)は確かに、優れた武将だし俺も好きだが、立場の違う宗茂と比較する事自体
歴史を知らなすぎだ。