06/06/25 22:30:28 /qVRHJLi
前スレ
■■徹底史料分析!■上杉謙信女性説2■■
スレリンク(history板)
【萌えはこちらへ】
@三戦板
【実際は男】上杉謙信は女の子 その3【謙信は男】
スレリンク(warhis板)l50
テンプレは>>3
3:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:30:48 LA/C5aRA
<謙信女性説の主な論拠>
・謙信の死因は大虫(婦人病)である、と歴史書に書いてある。
・毎月10日前後に腹痛をおこし、合戦を取りやめている。
・謙信の武勇を称えた当時の唄で、謙信は女性扱いである。
・スペイン国王フェリペ2世宛ての、日本についての報告書で、謙信は女性と書かれている
・男性としては小柄なのに、「大柄」と評される。
・一般に流布している髭面の謙信肖像画は明治31年作の版画。
・伝謙信自画自讃像には髭がない。主観的には女に見えなくもない。
<女性説における謙信の死因の一例>
元気な人間が、突然倒れて人事不詳のまま4目に亡くなる婦人科の病名
=卵巣の実性腫瘍:かたいコブのようなもので、その80%が悪性。嚢腫にも
充実性腫瘍にも良性腫瘍と悪性腫瘍(卵巣ガン)がある。腫瘍が小さいうちは、
全く症状がない。(おりものの変化や月経異常などのサインはかなり大きくなって
から)他の病気で受診した際に、偶然発見されることが多い。嚢腫が大きくなると、
おなかの圧迫感、腰痛、しこりなどが見つけられる。さらに大きくなると周りの臓
器を圧迫して排尿排便がしづらくなったり、足がむくんだりする。ときには茎捻転
といって卵管や靭帯がグルッとねじれて、突然激しい吐き気や腹痛が起こり、ショ
ック状態になる場合がある。
<男性説側の主な反論>
・幼女は寺で修行しない。
・10日前後に腹痛を起して閉じ篭ったとする史料価値の高い文献を複数
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしいものがない。
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山。
・生前、法印大和尚に任ぜられ、自身、愚僧と署名している。
<すでに論破された男性説側の反論の一例>
・謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記(女には絶対つけない戒名)
(江戸時代につけられたため、お取り潰しを回避するために捏造された可能性がある)
4:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:32:05 /qVRHJLi
●おもな史料リファレンス●
『上杉史料集』(井上鋭夫校注、全3巻、新人物往来社、1969)
北越軍談・上杉三代日記・北越耆談・川中島五箇度合戦之次第・松隣夜話・上杉将士書上・久知軍記・古案記録草案
『上杉文書目録』( 米沢図書館編、1969)
『上杉家御書集成』(全2巻、上越市史専門委員会中世史部会編、上越市史叢書6)
『上越市史』(資料編全7冊、通史編全7冊、別冊1、上越市史編纂委員会)
『甲陽軍鑑』(土橋治重、矢立出版、1981)
『サンデー毎日』の「読物専科」に書いた「血戦川中島」と、『問題
小説』7月号・8月号に書いたものと、『歴史読本』に書いた「謙信
論考」の3本を1冊にしたものという。謙信女性説の原典的存在。
スレ必読書
『上杉謙信は女だった』(八切止夫、2002年復刻、作品社八切意外史)\800
『疾風上杉謙信』(2001年、学研歴史群像シリーズ)\1600
『上杉氏年表』(矢田俊文・池亨、2003年、高志書院)\2500
5:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:32:26 VeXL8n4M
<男性説側の主な反論>
・幼女は寺で修行しない。
(同時代の男性名の女性武将、井伊直虎=次郎法師の例があると反論あり)
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしいものがない。
(女性を傍証する文献は直筆書状にある=上記と反論あり)
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山。
(登山は「上杉年譜」江戸時代の編纂記録で、伝承の域を出ないと反論あり)
・生前、法印大和尚に任ぜられ、自身、愚僧と署名している。
(名前と同様に、男性を装っていた場合は当然ありうると反論あり)
<すでに論破された男性説側の反論の一例>
・謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記(女には絶対つけない戒名)
(江戸時代につけられた高野山清浄心院=江戸中期創建、ので
お取り潰しを回避するために捏造された可能性が高い)
6:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:33:30 /qVRHJLi
【女性説派の意見とその反論】
・謙信の死因を大虫としている歴史書も在る
反論1:民俗では一般に虎のことを婉曲表現で大虫という
反論2:一般的な死因は脳卒中とされている
・スペイン国王フェリペ2世宛ての日本についての報告書で謙信は伯母と記されている
反論1:そもそも原文の存在が未確認
反論2:伯父Tioと伯母Tiaのaとoを間違えた
・謙信の武勇を称えた当時の唄では女性扱い
反論1:出所不明の唄
反論2:女性とする直接的な表現は無い
・毎月10日前後に腹痛を起こし合戦を中断
反論1:酒好きで肝臓が悪かった
反論2:十日前後の腹痛=生理とは限らない
・男性としては小柄なのに大柄と評される
反論1:肥満や見栄の可能性もある
反論2:小柄とされている説もある
7:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:33:55 VeXL8n4M
<謙信女性説の主な論拠・更新版>
・謙信の死因は大虫(婦人病)虫気(腹痛・陣痛)である、と歴史書に書いてある。
※大虫については「孫太郎虫売り」江戸中期から昭和初期までの、いわば行商人
(矢切氏も実際に見た可能性あり)。ひき札(広告)に【大虫】と出しており、それが【生理】を示す、
とされる。※虫気については「虫気之由申候間(腹痛だなどと言ってことわられた)」(信玄書状)
・毎月10日前後に腹痛をおこし、合戦を取りやめている。(生理周期には疑問が出されている)
・謙信の武勇を称えた当時の唄で、謙信は女性扱いである。
・スペイン国王フェリペ2世宛ての、日本についての報告書で、謙信は女性と書かれている。
・156cmと男性としては小柄なのに、「大柄」と評される。
・杉浦岱典の『戦国武将の墓相』(秋田書店)によると、「謙信が女性であり、かつ
終始離れなかった男性の存在を示している」 「さらに二基の五輪塔の近くに、
もう一つ小さな墓があるのだが、これが誰の墓であるにせよ驚くべき事実を暗示している。
謙信は「こども」を産んでいた!」 取材時に明治18年柏崎生まれの古老から
「謙信女性説」を教えられた。としている。
・一般に流布している髭面の謙信肖像画は明治31年作の版画。
・伝謙信自画自讃像や佛画には髭がない。主観的には女に見えなくもない。
・直筆書状に「かしく(かしこ)」や「女き(女騎)」「早く帰りたいし、心細い」などの記述。
・鎌倉鶴岡八幡宮への願文に「后神功皇后…忽化男形(たちまち男性化)」と、男性化願望の記述。
8:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:34:10 LA/C5aRA
>>2の
現行スレ
【酒と涙と】上杉謙信は女の子その6【軍旗と萌と】
スレリンク(sengoku板)
9:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:34:51 VeXL8n4M
>>1
乙です!
10:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:35:47 /qVRHJLi
>>2
前スレは前々スレの間違い。それと>>8もその通り。
突然荒らしに埋められて焦って間違えました。失礼。
11:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:37:10 /qVRHJLi
【高野山の女人禁制を裏付ける史料集】
・密教文化115
出版社:高野山出版
内容:高野山の女人禁制に関する史料とその解説(一)
参考ページ:25~39ページ
・密教文化116
出版社:高野山出版
内容:高野山の女人禁制に関する史料とその解説(二)
参考ページ64~80ページ
・密教文化117
出版社:高野山出版
内容:高野山の女人禁制に関する史料とその解説(三)
参考ページ:38~49ページ
・日本大百科全書
出版社:小学館
参考ページ:149ページ
12:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:39:43 /qVRHJLi
【上杉謙信が学説で男性であるとされている根拠】
・謙信の位牌に権大僧都、居士などと明記されている
・生前に法印大和尚に任ぜられ自分の事を愚僧と署名
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山
・謙信が出家しようとした比叡山も女人禁制
上記は男性でないと不可能と考えられていて女性説が新説から脱皮出来ない理由
【女性説を否定する根拠】
・高野山の女人禁制を裏付ける史料価値の高い文献が複数存在
・10日前後に腹痛を起して閉じ篭ったとする史料価値の高い文献が複数存在
・女児は寺で修行する事が出来ない
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしい物が存在しない
13:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:41:49 /qVRHJLi
前スレ>6より(除リンク切)
URLリンク(www.city.tochio.niigata.jp)
直筆書状
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
ファッション
URLリンク(www.sengoku-expo.net)
14:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:44:16 /qVRHJLi
最後に一言。前スレ>>989-992でひどい自演を見た気がする。
15:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:50:46 VeXL8n4M
何はともあれ、立ったな・・・・。
明日あたり(前スレ死滅)から、前スレの重要史料を適宜UPします。
16:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/25 22:52:38 BiBDjSYv
スレ立てとテンプレ乙です
荒らしてたスレみんなID強制になったから目付けられたんだろうね
17:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/26 00:53:09 NguK2nGu
上杉家全般の話題はこちらで
【毘】上杉家を語る 七【義】
スレリンク(sengoku板)
18:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/26 01:54:58 rmMPdcrR
保守!
19:名無しさん@お腹いっぱい
06/06/27 11:45:01 vkKR/y4X
>>7
>直筆書状に「かしく(かしこ)」
豊臣秀吉も自筆書状で使っていたな。戦国時代には女性の言葉遣いというわけではなかったのではないか。
20:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/27 12:06:03 VzaV8mrP
尾崎大蔵
21:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/27 12:07:39 30qMgskK
さあ地元の俺が来ましたよ
22:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/27 12:12:42 lHAFem0t
お前ら、戦国無双で女武将使いすぎww
夢はあるけど、さすがにねーよw
23:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/27 12:45:48 IKpD7G7h
>>19
悪いが、ほかの武将の例をあげてくれ。
秀吉はそもそも漢文書けなかったし(直筆文書はすべてひらがな)・・・。
ただし、ひらがなの書状末尾は「かしく」が普通だったらしい。
近衛前久書状(謙信宛)も「かしく」が多い。
「日本史の一級史料」(最近出た新書・発行元??)には
「まいらせ候」「かしく」は女性が書状に使うと断言されている。
そこで、「手弥あかり候ヘは、手本まいらせ候」(謙信の喜平次あて書状)
も女だった傍証になる。
24:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/27 23:14:10 JBf9L7XA
かなで書かれた書簡なら、男性でも「かしく」や「まいらせ候」は使っていますよ。
あまり見ませんが、この二点で女性なら、金沢貞顕も女性になってしまう。
『消息耳底秘抄』
「仮名文ノ終ノ書止ヲバ。大旨穴賢穴賢ト書也」
25:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/27 23:25:20 JBf9L7XA
実例も一応。金沢文庫所蔵文書(前欠)です。
又、ゆめゆめしくさふらへとも、ちや一つつみ『まいらせ候』。
さたゆきかもとよりたひて候。ようやらんと覚候て、『まいらせ候』。
猶々、ゆめかましさ、わひしく候て、あな『かしく』。
(貞顕から「えんけう」房という僧侶へ)
「あな」は強調。かしくはかしこに同じ。元々は男女共に使用したものが、
少なくとも近世には女性専用となって(+神職)、女性の異名としてかし
くが使われました。戦国期は微妙ですね。
私もたまたまやって来ましたが、普段は戦国期はやっておりませんので。
26:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/27 23:39:21 JBf9L7XA
重ねて失礼。多胡辰敬が「穴賢々々」。毛利元就が「かしこ」と書いていますね。
27:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 00:30:36 JoiYy/1P
>>23-26
『日本史の一級史料』(光文社新書・山本博文)の
「めでたくかしく」「まいらせ候」が大奥女性の書状および
女中奉書にある女性特有の記述、という主張だな。
謙信書状では、ざっとだが、
「めてたくかしく」(新潟県史4262・県史3266)
「かしく」(県史4260・県史4259・県史2898・県史3233)
「まひらせ候」(越佐史料4-377・県史3266に3箇所)
金沢(北条)貞顕(1278年~1333年)とでは、おおむね250年ほど時代が違う。
大奥女性の書状とも100年近くは違うわけだが。
「穴賢・・・」は神官や寺社人(当時は神社と寺が同居)への
「あなかしこみ、かしこみ申す」で、祝詞の形式じゃないだろうか。
元就に限らず「かしく」の使用例は他にもあるので、女性説の決定的な
証拠ではないが、謙信ほど使用例が多いのも珍しいね。
28:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/28 01:37:24 kAtwz8qS
URLリンク(www.bekkoame.ne.jp)
こちらが詳しい様です。
29:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 02:30:45 AYhAUFiJ
うお山野さんが来た。
何かしらこの板に興味を覚えるスレがあったら今後もよしなに・・・・
30:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/28 02:40:45 kAtwz8qS
よしなに。反応が遅れてしまいましたが、山本先生なら近世の例ですね。
(一体何冊新書や文庫をお書きになられたのでしょう)
31:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 03:22:30 JoiYy/1P
>>28>>29
有名なコテハンさん(失礼w)なんですね。リンク先、勉強になります。
で、前スレから問題の誤訳含みの燃料投下↓。>>29さんも、よろしく♪
904 :日本@名無史さん :2006/05/26(金) 00:29:09
謙信の直筆書状で、けっこう女性説に決定的なのをハケーン!
「此のたびの(佐竹)義重つもり違ひまいらせ候、たたいまは後悔候…さりながら、
いよいよ打ち替るまじきよし、けん信も同意に思いまいらせ候…返々、そのくち敵の
表裏に乗られ候ハバ、たしかに綿で首を絞めべく候か、女き(騎?)二入り候とも、
御分別へく候…かしく」
天正2年 閏霜月廿四日 えつちん(越後陣)より けん信(花押)
[奈良文書・越佐資料5-280・新潟県史3266]
この「女き」は、どうやら「女騎」らしく、平安末期の加賀国衙文書にある(日本の中世4・中央公論社)らしい。
上の文を訳すと「佐竹義重との思惑違いも、いまは後悔しています。しかしながら、
これ以上(関東勢)が異心をすることはないだろうとする意見には、わたしも同意します。
…(ワカラソから中略)…それにしても、敵(たぶん北条?)の表裏(謀略)に乗れば、真綿で首を絞められる
のです。女武者でも、そのくらいの分別はわかります。かしこ」
おそらく、宇都宮広綱の正室(少将どの)宛の書状です。
女性への書状だから「かしく」と思われますが、女騎(女武者)の記述は
気になるところです。少将どのは、のちに宇都宮の尼将軍と呼ばれた人物ですが。
32:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 03:39:45 JoiYy/1P
>>31のうち、上の2行と下の3行が>>31の補足で、中ほどは前スレからの引用(コピペ)です。
紛らわしいなぁ・・・・orz(ID:JoiYy/1P)。
33:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 09:57:39 QIHQt4A0
謙信は、男武将宛にも「かしく」や「まひらせ候」を使ってるんだよね?
しかし昔は、かしくを男性でも使っていたという事か
トリビアが増えたな。
俺もメールで使ってみようか。
34:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/28 18:57:45 B5w0ps2l
>>31
>女き
「女騎」の事であれば、平安期に賀茂の祭に騎乗して供奉した女性をそう呼
んだ例があり、『園大暦』にも山名の軍勢に女騎がいたとあります。
しかし、『難太平記』によれば、東国では14世紀には戦陣に女性を入れる
事を忌む風習があり、西国でも15~16世紀には定着していたらしい。
戦国期には、もう軍勢の中に「女騎」の入る余地は無かったでしょう。
別所吉親の妻や諏訪勝右衛門(諱不明)の妻が奮戦したという話もあります
が、これらは篭城していたもので、出征していた訳ではない。
それに、自分の事を「女き」と言うでしょうか。
該当するのは「女儀」(女の身)でしょうが、分別すべき女儀というのは宇
都宮の正室の事であって、謙信自身ではないでしょう。
「女武者でも、そのくらいの分別はわかります」という訳はどうか。
それから、省略があると文書の意味が通りませんし、当時の状況や関係する
人物の顔ぶれが分からない事には、理解に繋がりません。
35:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/28 19:07:22 B5w0ps2l
それと、謙信女性説というのを考える際にまず浮かんで来る疑問は、そもそ
も何の為にどの程度まで隠していたのかという事です。
女の身で跡目を継いだのが問題であったというのであれば、秘密にしていた
筈で、書簡に出す筈もなく、ましてやスペインに聞こえる筈も無い。
それ以外の話は、「そうも思える」というぐらいの話でしょう。
それから、肖像画に髭が生えていないという事ですが、普通出家したら髪と
共に髭も剃るものではないでしょうか(戦国期は違う?禅宗は生やす例も)。
また、この時代の人物の肖像画一覧でも見る必要がありますが。
36:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 19:47:38 5R8Y/mmb
こういう真面目な否定説というか疑問を投げかけてくるレスは2スレぶりぐらいだろうか・・・
37:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 19:48:19 XXB+jFFs
弾正少弼という官位を女の謙信が授かるわけが無いという男性説の反論もあるんで
すけど、テンプレでは何故か省かれてますねw
38:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 20:14:03 JoiYy/1P
>>34-35
>「女き」=「女儀」(女の身)
なるほど、通説どおりの解釈です。八切止夫氏は、謙信が公家や武将の妻と親しく
交際していたことを取り上げて、謙信が女性だったから夫たちは交際を許した。
という仮説を立てていました。じっさい、義輝の正室(近衛前久の妹)や太田資正の
妹(三戸駿河守正室)、宇都宮広綱の正室(佐竹義重の妹)との書状交換が多数認められ、
これは謙信が正規の軍令書や外交文書とは別に、私信をさかんに出していたことを意味します。
しかもそれは、妹や妻を自分の政治戦略の手駒にするがごとき手法で、戦国武将には珍しい印象です。
>>31の書状は、おそらく宇都宮広綱が病床にあった時期(天正元年以降)で、北条氏と勝手に和睦した
佐竹氏を(妹を通じて)けん制しつつ、宇都宮氏の帰趨が少将殿にかかっていることから、
「御分別へく候…かしく」となったものと考えられます。
ここに挙げた三戸夫人(としょう殿)や少将殿は、関東武士団の盟約関係を左右する
存在だったと考えられますが、由良(横瀬)成繁の妻(輝子殿・妙印尼)は篭城(天正12年金山城)
のみならず、小田原の陣(天正18年)にも参戦しています。前田利家の書状で、秀吉から
知行地を賜った経緯も史実ですから、彼女は確証のある「女騎」でしょうね。
>それ以外の話は、「そうも思える」というぐらいの話でしょう。
ここまででワタシが確実だと思っているのは、死因の「大虫」(松平氏編纂史料に)
「虫気」(3通の景勝書状)です。通説のほうこそ「虫気」が「中気」(脳卒中)
にも思える、推論なのですから。
肖像画については、↓「林泉寺・伝自画自讃像」
URLリンク(www.valley.ne.jp)
↓「謙信並二臣像」
URLリンク(www.city.tochio.niigata.jp)
ここのテンプレで「髭が無い」とわざわざしているのは、これまで上杉鷹山公
時代に描かれた画像に無精髭があり、明治時代に大量印刷された版画も同様に
髭面だからです。この髭画像をもって謙信が女性であるはずがない、とされてきた
わけですから、少なくとも生前もしくは生前に近い画像はそうではないという
立論に意味があるのです。謙信画像は『新潟県歴博紀要5』によれば、3分類5種別28点
現存していますが、年代の古いものになるほど髭がありません。
39:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 20:26:33 JoiYy/1P
>弾正少弼という官位を女の謙信が授かるわけが無い
>という男性説の反論もあるんですけど
男性名を名乗ってる段階で、官途も職も男性並みという反論で一蹴されたと思うけど。
そもそも男性説の立証方法は「謙信は確かに男でありました」という文献を探すのが
最重要テーマだったかとww 謙信が男性名であるからこそ、女性説が成り立つわけですから。
40:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 21:56:24 QIHQt4A0
謙信の官位の弾正少弼が、位階の従五位に相当するもので、
それは正親町天皇に拝謁する最低限のものだとか。
41:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/28 22:40:21 B5w0ps2l
>>38
>少なくとも生前もしくは生前に近い画像はそうではない
髭面の画像が近世人のイメージに基づいたものであり、古いものはそうでは
なかったというのはいいとして、その事(髭面ではなかった事)が、即ち女
性であったという事にはならないと思いますが。
重ねて申し上げますが、当時の絵画に出てくる僧侶は普通無髭でしょう。
髭が無いから女性、ということにはならないという事で。
病因については考えてみる必要がありますが、大虫=婦人病という認識が、
どこまで当時広まっていたのかが問題だと思われます。
今と比べて、医学界の統一した見解(自体あったのか)の根拠が掴み難い。
>39
>男性説の立証方法は「謙信は確かに男でありました」という文献を探すの
これは難しいと思いますよ。悪魔の証明に近いと思いますが。
>40
基本的に五位以上でないと、昇殿出来ません(蔵人なら六位でも可)。
後世用いられた『禁秘抄』に、天皇の傍に近づけてよいのは最低でも六位の
蔵人や下﨟の女房までとあります。
当たり前ならなんで書いたのだと言われそうですが、これは後白川院や後鳥
羽院といった規格外が続いた中で、下賤の者との交流が増えていた為。
正式に拝謁するなら、最低ラインです。弾正少弼は正五位下相当。
42:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 23:17:57 tHFGXHac
非常に真摯な議論がなされているようなので、抱いていた疑問を書いてみます。
まず、上杉謙信が妻帯しない理由として仏門に深く帰依していたから…と言うのが
一般的な説なのですが、この説では説明の出来ない期間が生じているような気がします。
景虎が初陣する頃~長尾家当主になるまでの期間、です。
宗教上の問題は本人には大問題であっても、周囲がほおっておく理由としては
疑問が残りませんか?ましてや、その当時は越後国内は敵だらけなのですから
政治的にそんな話が出ない(破談していたとしても)のは妙な気がします。
特に、その時点の当主・晴景が言えば一悶着ある気が…。
もうひとつ、謙信以後の系図をネット上で調べたことがあります。
その中で疑問なのが、元服後に「虎」を名前に持つ当主が見当たらなかったのに
「虎姫」と名づけられた姫が2人もいることです。
謙信の母、虎御前(通称?)も入れると3人ですね。
直接徳川家と対峙したのは景勝なので、幕府に遠慮して
男児に「虎」の名を付けなかった…ってことは無い気がします。
長尾家では、「虎」は女性に付く名であった可能性は無いのでしょうか?
ただの知ったかなので、過去に同じやり取りがある&的外れな話だったら
正直、スマンかった。
どーしても気になったので、ご意見ご批判ありましたら…
43:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/28 23:44:20 JoiYy/1P
>>42
上杉系図に「虎姫」が二人も・・・。迂闊にも知りませんでした、ありがとう。
通説では、謙信の生年が寅年だったので、虎千代。景勝(喜平次)は卯年なので
卯松とされていますが。謙信が女性だったとして、藩祖の幼名を姫に与えた可能性も?
>上杉謙信が妻帯しない理由
仰るとおり、誰も史料と整合性のある合理的説明を出来ません。
謙信の願文に「不妻帯の修行」や「不犯の誓い」はないのですから。
>>41
「大虫」(当代記)はともかく、「虫気」(景勝書状)は「腹痛・陣痛」で確実です。
同時代史料では、信玄の春日源助宛の書状にもあります。現代の国語辞典も同じく。
>男性説の立証方法は「謙信は確かに男でありました」という文献を探すの
>これは難しいと思いますよ。悪魔の証明に近いと思いますが。
どうして悪魔の証明になるのでしょう? 謙信をめぐる軍記書には、近衛前久の妹妙姫、
直江実綱の姉娘、千葉采女の娘伊勢姫の伝説(恋物語)があります。これら伝説の姫たちが
根本史料にあれば、謙信が男性であって女性との悲恋のすえに不妻帯を貫いたという
通説の裏づけが成立するはずです。しかしながら、一次資料に彼女たちの存在を証明する
記述はありません。これが例えば、武田信玄や織田信長の場合なら、一次資料に婚姻の有無や
結婚相手、側室の有無、息子も娘も多数立証できます。謙信の場合だけなのです。
たとえば『甲陽軍鑑』にある信玄の遺言「謙信は頼まれれば嫌とは言わない勇猛な男だ」も
「たけき武将なれば」を「勇猛な男」に誤訳したものにすぎません。戒名のほかに男性だと
する記述は皆無なのです。謙信を「勇猛な武将」と描いた軍記物語(偽書)の成立についても
前スレからいくつか拾ってみましょう。もう寝ますが・・・・。
44:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/29 00:00:06 JoiYy/1P
前スレより。江戸期の上杉謙信をめぐる軍記物語(宇佐美系文書)の虚像性について。
> 867 :日本@名無史さん :2006/05/15(月) 14:03:34
>謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
> 武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
> 上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
> 臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
> ※謙信自身が敗北を認めている書状↓
> 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
> 併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
> 取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
> 房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
> とかくこのたひハかた~~にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
> 早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
> たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
> のひ候てきうしくちおしく候(中略)
> かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
> いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
> 心ほそく候、
> 永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
> 詳しく訳すまでもなく、武田方の上州和田城を攻めきれていない戦況を、
> 金津・吉江・本庄美乃といった老臣に相談がてら報告している書状です。
> 「心ぼそい」「窮屈難儀」「いつもより帰りたい」と、江戸時代の軍記書には
> 絶対に書かれなかった女々しい人物像がわかる。
45:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/29 02:29:49 6sQj9TMD
821 :日本@名無史さん :2006/05/02(火) 00:14:37
>>815、訳してみるよ。
さたけ・よこせをはしめとして、てをかへられ候事、よきなく候、このまゝうちおくへき
事にもあらす候間、みのゝかミかせき候て、ほんいのかたちをもつけ候ハヽ、ちうせつといゝ、
そのミのためと申、なにことかこれにすくへく候や、このよしよきやうにいけんをなすへき事、
そもしまへにあるへく候、かならす~~やかてうちこしへく候ほとに、ちんしょより
かさねて申こすへく候、かしく、
永禄十年九月二七日 てる虎(花押)
佐竹義重、横瀬らが裏切ったのも余儀ないことですが、このままにしておくことも
できませんので、せめて太田美濃守資正が本意のまま働いてくれれば、忠節もさることながら
彼のためにもなることですから、それにこしたことはありません。あなたからもよい方向になるよう
意見をしてくださいね、かならずそちらに行きますので。陣所より、重ねて申しておきます。
かしこ
永禄十年九月二七日 てる虎姫
46:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/29 14:31:35 2F6zR7jI
山野野衾 ◆CXSSL1llHI >
もう懲りて退散したかw
47:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/29 15:00:26 6sQj9TMD
>>46
さのやうな排外主義的なことは控いまひらせ候。
山野さんのおかげで少し判ったこともあるし、史料検証にはいろんな視点が必要。
48:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/29 15:09:27 HltlcAOf
外っていうかこのスレは日本史板からの移転スレだし。
日本史板のコテが来ても不思議はあるまい。
49:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/29 21:44:07 S84MfTmF
失礼。返答が遅れまして。
>43
>「虫気」(景勝書状)
『越佐史料』で確認致しました。小島職鎮宛て文書ですね。
大虫は見つかりませんでしたが、虫気はいくつかの史料に出て来ました。
室町~戦国期の史料にしばしば見られるもので、病状まで記してくれた例は
なかなかありませんが、少なくとも近世以降の例では、腹痛を指している。
ただ、謙信女性説を唱えた八切氏(の所説からこのスレが始まったと思って
いたのですが)の論では、大虫=婦人病としてそれが謙信女性説の論拠とさ
れていた筈ですから、ただの腹痛ではこのスレでは取り上げる必要はもう無
いという事にならないでしょうか。
悪魔の証明に近いと申し上げたのは、「謙信が男である」という通常は当た
り前とされる事実の確認は却って困難であり、寧ろ異論を唱えた側から女で
なくてはならない証拠を提示するものだと考えたからです。
>女性との悲恋のすえに不妻帯を貫いたという通説
通説や定説といったものとされていたでしょうか。
「謙信は妻帯しなかった。理由は分からない」。これは事実です。
「謙信は妻帯しなかった。その理由は妙姫なり伊勢姫なりとの悲恋にある」。
これは後世のイメージであり、事実ではないとされる貴方の意見は正しい。
しかし、だからといってそれが「謙信は妻帯しなかった。理由は女性だった
から」という結論に繋がる訳ではありません。
「謙信は妻帯しなかった。理由は分からない」に戻るだけでしょう。
理由は女嫌いだったからでもいいし、実際に悲恋があったからでもいいし、
女だったからでもいい。しかし、「女だったから」というのが証明される訳
ではありません。
ついでに。謙信の肖像画に関するテンプレの記述は、『新潟県史』通史篇2
の内容に沿って書かれたものと判断してよろしいのでしょうか。
>48
新板が出来たというので、慣れてもいない時代に首を突っ込んだ次第。
50:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/29 22:47:40 PROhY7qW
>>49
>「謙信は妻帯しなかった。理由は分からない」に戻るだけでしょう。
通説は42さんが書いているとおり戦勝祈願説、および学界で有力な男色説でしょう。
しかしながら、
「一、おまつ さい藤(朝信)殿えんか(縁嫁)の事、いそき申へき事、
一、かきさき(柿崎景家)そくに、きたてう(北条高広)そく女いいあわせへき事、
一、とをたう殿(長尾藤景)と小四郎(長尾景直・椎名氏からの人質で近臣)ゑんか(縁嫁)の事、(後略)」
「小四郎にあせんゑんかの事(跋文)」(伊佐早文書・県史3280・3279)
と、年次は不詳ながら(おそらく謙信政権初期)重臣たちの縁戚化政策を採っている
(通説に知行支配がほとんどなされていない補完?)謙信が、なぜ自分だけ妻帯しなかったのか?
後継者の不明とともに、謙信の不妻帯はのちに御館の乱で上杉家が滅亡の危機に直面させるほどの
重大事ですから、何らかの理由が求められるべきです。その意味で、史料の乏しい祈願説よりも、
それなりに傍証のある男色説が有力とされている由縁です。ではなぜ、形だけでも妻帯して体裁を
繕わなかったのかという疑問が生じます。そこで、最も合理的に不妻帯を説明できるのが女性説なのです。
上気の史料のほかにも、北条景広に能登畠山氏の未亡人を嫁取するよう勧めたり、寵臣の河田長親の一族に
旧越後上杉氏系の名族との縁戚化をはかり、自身も多数の養子・養女を迎えて婚姻政策をはかっています。
同じく史料の乏しい推論でも、合理的な説明ができる説に傾くのが文献史学の原則です。
>理由は女嫌いだったからでもいいし
すでに「三戸文書」「少将殿への書状」で否定されてますね。
>虫気
については、通説が「虫気」=「中気」(脳卒中)です。「ただの腹痛」という
カルテがあるわけではありませんから、テンプレにある「卵巣ガン」やその他の症例も
考慮されるべきで、少なくとも脳卒中説は史料に拠らないもの「上杉年譜」(江戸中期編纂)です。
肖像画ひついては、見た印象じゃないでしょうか。『県史』通史篇2、『新潟県歴博紀要5』の分類方法には、個人的には不賛成です。
べつに女性説に固執するわけではありませんが、謙信に関しては偽書・創作が多すぎます。少しでも実像に近づくことが
できればいいのではないでしょうか。かしく。
51:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/29 22:54:55 PROhY7qW
前スレで注目を浴びた史料検証↓
891 :日本@名無史さん :2006/05/21(日) 02:14:03
ここエロい人が多そうなので、質問。
謙信が関東管領を継承したときの鎌倉での願文(千葉妙法寺文書・上越市史258)に
「神功皇后が住吉神社と諏訪大社に祈ったところ、たちまち男(男形)性化して三韓征伐に成功」
とゆうような趣旨のくだりがあるんですが、これって女謙信が「自分も男になるぞ」と、
鎌倉鶴岡神社に宣言したと、そう考えてもいいんだろうか?
898 :日本@名無史さん :2006/05/22(月) 23:50:18
>たちまち男(男形)性化して三韓征伐に成功
という記述が「古事記」「日本書紀」にあるかどうかが問題だ。
なければ、謙信オリジナルというか・・・。謙信が女だったからだと思う。
というのも、鶴岡八幡宮に願文を奉じたのなら、八幡大菩薩(神功皇后の子・応神帝)
の来歴を述べた祝詞のはずだから、「紀記」伝承のとおりの願文になったはずで。
調べてみるよ。
899 :日本@名無史さん :2006/05/23(火) 22:26:49
とりあえず、謙信の原文をUP.
「(神話の伝承記述のあと)人王継代之初神武天皇以来十四代仲哀天皇、
后神功皇后、摂政即位元年辛巳治六十九年、春秋百廿載(歳)、女帝始祖、
当後漢建安六年庚辰年十月辛丑日、皇后召具住吉・諏訪二神而、忽化男形(たちまち男性化?)、
責三韓・新羅・百済・御帰来筑紫、王子御誕生、応神天皇・豊前国馬城郡宇佐八幡大菩薩是也、
…東海相模鎌倉…征夷将軍源朝臣頼朝…」(以上、長文なので抜粋)
つまり、八幡大菩薩の由来を祝詞にしたためた。という感じだ。
「紀記」に出産を遅らせた伝承はあっても「男性化」はないようなので、
謙信祝詞の「忽化男形」には、大きな謎と疑問が残るね。
>>891さんの「自分も男になるぞ」(女謙信)説が濃厚だ。
52:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/29 23:33:19 S84MfTmF
>>50
>女性を近づけなかった理由
男色にせよ、祈願にせよ、家臣間の通婚と養子を迎える事を積極的に行って
いたのが目立つレベルで存在していたのであれば、通婚出来ない分を埋め合
わせていたとは考えられませんか。
女性であるとする事が合理的と言える説明とまでは思えません。
未婚だったという事実以上の事は言えないと思います。
>合理的な説明ができる説に傾くのが文献史学
寧ろ、分からない事は分からない状態に置くべきものだと考えています。
明らかに辻褄が合わない様であれば考え直す必要もあるでしょうが、敢えて
女性と言い切る必要がある例とは思えません。
また、この理屈から言うと、女性説を支持していない今の研究者は文献史学
が分かっていないという事になりますが、貴方の文献史学はそれとは別のオ
リジナルのものという事でしょうか。
>すでに「三戸文書」「少将殿への書状」で否定されてますね。
結婚しなかった「女嫌い」と公的な面もある書簡のやり取りでは、次元が違
う気がするのですが。
>肖像画
46歳の時に京から絵師を呼んで描かせたという話でしたね。
明治21年に焼失したそうですが、当時の住職の話によれば、雲に乗った姿
で髭を生やしていたらしい。
なお、先に僧侶は無髭と書いた事と矛盾していると思われるかもしれません
が、験力を発揮する山伏としての姿を体現して無精髭を生やしていたのでは
ないかと思います。テンプレ中の画像(無髭)は普通の僧侶の姿。
こうなると、晩年の謙信は髭を生やしていたという事になりませんか。
つけ髭とかいった解釈も登場するかもしれませんが。
>謙信に関しては偽書・創作が多すぎます。
この点に関しては同意致します。
53:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/29 23:49:15 S84MfTmF
>>51
>「紀記」に出産を遅らせた伝承はあっても「男性化」はないようなので、
『日本書紀』神功皇后摂政前紀四月条や十二月条の一書に、「男の束装して」
新羅討伐があったと見えています。
そもそも、一節に拘り、深読みし過ぎという気もするのですが。
それから、この時代には記紀は吉田家の公家相手の講義を除いてほとんど知
られておらず(特に古事記は宣長の再評価まで稀)、存在した写本も抄本が
ほとんどで、記紀を読んで内容を知った人は稀でした。
(活版印刷による図書館や書店の経営が可能な上、注釈や読み下し文までつ
いている現代とは異なります。写本も読める人間も一握り)
信仰を支えていたのは、「中世神話」の世界です。
とはいえ、後世書かれた八幡信仰関係の書でも、皇后の男装は出て来ますか
ら、問題ないでしょうが。祝詞というか告文・願文の類の様ですが、その歴
史像に直接影響を与えたものは、鶴岡辺りにあったと思われます。
54:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/30 00:10:05 RV/Rfiwv
>>52
>46歳の時に京から絵師を呼んで描かせたという話でしたね。
>明治21年に焼失したそうですが、当時の住職の話によれば、
>雲に乗った姿で髭を生やしていたらしい。
正確には「御雲昇天之図」は49歳(死の直前)で、明治時代の住職が言ったとされる
「ひげや眉など風貌・・・」(県史資料編2)の記述は原本不明(米沢上杉家の見解)です。
むしろ、伝謙信自画自賛像(テンプレ)およびその系統の「御生涯御随身のしるし」(栃尾常安寺)が
確実な自画像ではないかと思います。このほかにも、高野山には複数の画像が納められています。
髭面の肖像画がこれら自画像系統の構図と描写を踏襲し、なおかつ髭を付け加えている印象は、
誰もが持つはずですよ。なぜならば、いずれも「御雲昇天之図」(雲に乗って天に昇る)とは
明らかに構図が違うはずですから。江戸時代にも自画像系統の髭のない肖像画は描かれていますしね。
>験力を発揮する山伏としての姿を体現して無精髭を生やしていたのでは
飯綱権現・愛宕権現信仰説ですね。現存する謙信の願文中の記述では、山岳信仰はきわめて少数
なのです。毘沙門天ならまだしもですが、吉川元春の使者が会ったとされる謙信も
「陰徳太平記」(軍記書)の創作だと思います。
> 女性説を支持していない今の研究者は文献史学
>が分かっていないという事になりますが
これについては、桑田忠親氏(国学院国史学・東大史料編纂所)が八切氏と乱闘
(比喩ですw)に近い論争をやったことがありますので、史学界では禁忌とされる領域なのかも。
55:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/30 00:10:56 rK9comMD
日本史上、『古事記』の引用された例はこちら。
URLリンク(www.neonet.to)
『日本書紀』は中世に書かれた注釈書の数も多い権威ある書でしたが、それ
でも一部の人々の間でのみ読まれていたものであり、「日本紀に曰く」とし
て、実際には『日本書紀』には無い記事を紹介した本地垂迹説に基づいた中
世神話が展開されていました。
神仏分離が行われ、記紀の神々が現在の様な原典通りの姿で認識される様に
なったのは、明治以降の話でしょう。
佐藤弘夫先生の『アマテラスの変貌』や山本ひろ子先生の『中世神話』とい
った啓蒙書が詳しく、分かり易い。
そこまで知りたくないという方は、中世神話か中世日本紀で検索を。
56:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/30 00:16:37 rK9comMD
>>54
>正確には「御雲昇天之図」は49歳(死の直前)で、明治時代の住職が言ったとされる
>「ひげや眉など風貌・・・」(県史資料編2)の記述は原本不明(米沢上杉家の見解)です。
その点、注意が足りなかった様です。コピーしておくべきでした。
もう少し背景をあたってみましょう。修験共々御礼申し上げます。
『陰徳太平記』は、信頼性に欠けるので逢えて言及せずにおきました。
(『越佐史料』では、『延徳太平記』になっていましたね)
>史学界では禁忌
坂本太郎先生の聖徳太子怨霊説批判もあまり語られませんね。
「やっているのは暇人(含大家)」という風潮があります。
八切氏などを批判しているのは、相手を見ている人で、まだ良心的です。
57:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/30 00:20:44 RV/Rfiwv
>>53
ふむ、なるほど「男の束装して」でしたか。
>皇后召具住吉・諏訪二神而、忽化男形
住吉大社の伝承では、三社に祈願し三韓征伐に出かけたというものだった
と思いますが、その段階で男装したのかな。いずれにしても「忽化男形」を
男装化と読むか、男性化と解釈するかですね。
58:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/30 01:05:21 rK9comMD
記紀には住吉は登場しますが、諏訪は登場しない筈。やはり中世神話でしょう。
59:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/30 01:09:00 RV/Rfiwv
>>52
ふぅむ・・・。
>婚出来ない分を埋め合わせていたとは考えられませんか。
>女性であるとする事が合理的と言える説明とまでは思えません。
やっぱり男色家でも結婚は出来るんじゃないかな、信玄も信長も衆道家だったわけで。
女性なら女は娶れないが男妾を囲うことになるので、それだとお家を乗っ取られる?
って、北条三郎を養子に迎えた段階で北条氏に乗っ取られる危険は生じていたわけだが。
>>すでに「三戸文書」「少将殿への書状」で否定されてますね。
>結婚しなかった「女嫌い」と公的な面もある書簡のやり取りでは、
>次元が違う気がするのですが。
「としょう殿」「少将殿」宛ての書状には「別紙をもって申し越し候」の前文があって、
どうやら私的なもの、情に訴えるような記述ですね。そのいっぽうで、きわめて政治的な中身なんです。
同盟関係にある武将の妻や妹に、政治的な書状を送っている戦国武将がほかにいますかね?
60:山野野衾 ◆CXSSL1llHI
06/06/30 01:31:58 rK9comMD
>やっぱり男色家でも結婚は出来るんじゃないかな
確かに(前半生の家光の様な重症の人もいましたが。寺の環境か?)。
私は今の所「分からない」です。
>59
他の例、については、現時点では返答出来ません。
性的に近づけなくても書簡による気遣いは成立し得ると思いますが。
61:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/30 10:45:58 QuMCn8oG
雲に乗った肖像画は当時のものでは有り得ないでしょうね。
信仰の中でも女性神が男性化する。
面白い現象ですね。
62:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/30 20:21:46 53mJDQCK
煮詰まった議論になってるので少し目先を変えて、上杉本洛中洛外図屏風の話など。
これも新しい視点からの謙信女性説。
『本能寺の変と武田松姫』-上杉屏風が解き明かす戦国史の真相-(首藤義之、せせらぎ出版)
URLリンク(www.seseragi-s.com)
の論考では、上杉本図屏風は織田信長が武田氏との婚姻(信忠と松姫)のために贈ったもの
と主張しています。当時の図屏風は武家子女の嫁入り道具だったので、男性武将である上杉謙信に
贈るはずがない、とするわけです。
ご存知のとおり、黒田日出男氏の『謎解き洛中洛外図屏風』(岩波新書)では、依頼主が足利義輝、
作者は狩野永徳、贈り主(代行)が織田信長、贈られた人物は謙信だと定説が踏襲されています。
この黒田説は細川邸が中央に大きく描かれ、織田氏の造った二条第(天下布武の業績)がない点、
ほかにも禁裏御所の札記述が詳しい(朝廷を供奉した謙信=贈られ手の興味の対象であろう)などから、
きわめて整合性のある論考だと思われます(論争の発端は今谷明氏の景観論争ですが)。
ところが、首藤氏の説は武田氏へ贈られた図屏風が菊姫の景勝への嫁入り(越甲同盟)のさいに
上杉氏に嫁入り道具として渡ったというものです。その最大の論拠は「図屏風は花嫁道具であって、
男性武将(上杉謙信)には贈らない」ということになるでしょう。
そうであれば、定説どおり謙信が贈られた人物なら、謙信は女性であったとなるのではないか?
同時に贈られたはずの狩野永徳画『源氏物語図屏風』は行方不明なのですが、この方面から
女性説の糸口は考えられないでしょうか? 定説どおり二つの図屏風が謙信に贈られたものならば、
信長は謙信が女性だったことを風説で知っていたことになる??のかもしれません
(フロイスの『日本史』にある「信長所持の赤いビロードマント」が上杉神社に現存)。
いずれにしても、ふつうの戦国大名には到底ありえない、源氏物語愛好者・お洒落な風雅の数寄者
ならではの謙信女性説疑惑です。
前スレでも盛んにやり取りがありましたが、謙信の詠歌についても原史料と軍記書初出との違いが
検証されてしかるべきでしょう。それはまた、いずれ。
63:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/30 21:13:28 M4dBxHLD
景虎が女の名前とは思えん
64:名無しさん@お腹いっぱい。
06/06/30 21:23:21 53mJDQCK
>>63
>同時代の男性名の女性武将、井伊直虎=次郎法師
よく知らんが、井伊直政の伯母らしいよ。
65:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/01 00:25:55 Q2Om8I+S
>女性説を支持していない今の研究者は文献史学
>が分かっていないという事になりますが
>>前スレより。
指摘もなにも、謙信女性説そのものが史学界では禁忌だ。
国学院系の史学は桑田御大が女性説をムキになって批判してた経緯があるし、
現在の上杉研究者は、まだ40代の若手ばかりだから自由にものが言える環境にない。
在野でも、八切以後は墓相研究者とトランスジェンダー系のコラムニストだけ。
八切も大学を辞めたから女性説を唱えることが出来たわけで、研究機関に属している
人間には無理。かりに、八切説のような杜撰な発表をすると、研究者は命取りになる。
たとえば理系では研究論文の基礎資料に捏造(誤りでも)あった場合は処分対象。
最近の本能寺の変黒幕論争でも、在野の人しか思い切った発言をしてないのはそういう事情。
首藤某が女性説論者かどうかは別として、久々の新説か。>>62
66:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/02 00:12:11 db/hK6ek
>>62
その本立ち読みしてみたけど信長が信玄息女に贈った説はムリっぽいな
つーか黒田説への批判が甘杉。黒田も触れてないけど、将軍府の警護兵の陣幕
あれ六角の紋だよ織田胡瓜じゃないし。で、武田菱紋つう主張かと思うたけど
それもない。つか、目次の凄さのわりに中身なさ杉…つ
67:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/03 01:16:51 yDymf0Mz
【ここまでで判ったこと@謙信女性説】
・女性との親密な交際があり、女嫌いで不妻帯という説には根拠がないこと
・書状に「かしく」「めてたくかしく」が頻発されており、女性的な書状を書いていたこと
・願文に「男装」もしくは「男になりたい」を思わせる文があること
・生前の肖像画にはヒゲがなく、男性的とされる肖像画は近世・近代の作であること
・信長から贈られたとされる図屏風は、謙信が女性であったから贈られた可能性が高いこと
・歴史学では謙信女性説は排斥されていること
68:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/03 15:33:36 AvIQKx++
死因が腹痛である事はほぼ確実であり、
松平記の大虫は婦人病に当たる可能性が高い事。
あと、上杉家の男に、謙信と上杉三郎景虎以外に虎の字を使っているものがおらず、
女に複数見られることもかな。
大胆に、上杉三郎景虎とは、実は北条家から養子に来た北条氏秀の妻となった、華渓院の事であった。
で、あってくれれば、更に筋が通るんだけどな。
69:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/03 23:07:24 7EguPHUK
春景、康景、ときて、虎御前だから安易に景虎って名付けたんじゃないの?
と、何も知らない俺が話しをぶち壊しに来ました
70:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/04 00:25:55 nhIsI2lt
[為景の子]
晴景(病死)、仙洞院(政景室)、景房(黒田の謀反で死亡)、景康(同)、竹鶴丸(養子で僧侶に)、景虎
[晴景の子]
鶴千代(早世)
らしい。
71:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/06 05:01:41 FsCr9ppO
竹鶴丸が景久?
その竹鶴丸が、虎千代の許婚だったりすんのかな?
72:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/06 09:10:08 64O201aH
景久というのが何の史料にあるのかは知らんが、寺関係の記録では、
竹鶴丸=快叟良慶(?~?)
長尾為景の養子で謙信の兄。仏門に入り、大中寺六世住職。
永禄六年五月に福地昌寧に招かれ、下野阿蘇郡春日岡にて曹洞宗春昌寺を開山する。
同寺は後に上州館林に移された。
虎千代の許婚者は、加地春綱だったかと。
73:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/06 10:50:21 FsCr9ppO
ネットで見かけただけなので。
URLリンク(keizusoko.yukihotaru.com)
養子といえば、娘や姪を娶わせたりするのも多いから。
74:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/06 13:45:06 HPo1UOz5
あえて女を当主にする意味がわからん。
それに謙信には姉がいる。
75:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/06 14:39:27 64O201aH
>>74
長兄が病気で、次兄、三男も戦死、すでに姉のあや(仙洞院)は上田長尾氏(敵対勢力化)
に縁嫁。残るは古志長尾氏(越後長尾本家の味方)系の姫(謙信)だけ。ってことじゃね?
しょせんは越後国人領主連合の御輿だから、女のほうが担ぎやすかったのかな。
「歴々有之事ニ候間、遂談合可相談肝要ニ候間・・・宗心以合之異見致之時分者、何茂被致難除候間」
(お歴々がいますので、相談をしながらやっていけばいいでしょう。どうせ私が意見をしても聞きませんし「歴代古案」5巻)
という実態だったらしいので、最初は短期政権の予定だったんじゃないか。上杉定実が養子を迎えるとか、
関東長尾から適当な人材を守護代に迎えるまでとか。
76:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/07 17:34:45 TnVkG10z
お神輿として担いでみたら戦上手でびっくりした、って可能性はあるね
>>49
まぁ、悪魔の証明と云うか、男性説が明確になれば、女性説は一蹴される。
が、女性として見る事の出来る疑わしき点がある限り、女性説は完全否定出来ない、って事かと。
可能性がどの程度かはともかく、絶対に違うとは言い切れないという点において。
77:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/07 20:13:49 8BVk4Ezd
男性説の論拠とは、
①謙信の名前が男で、長尾家の家督を継いだ。
→井伊直政の伯母(井伊直盛の娘)次郎法師も、井伊直虎という男性名で
井伊家を正規継承している。ほかに、立花道雪の娘ギン千代も7歳で家督相続。
江戸時代にも南部遠野家の女大名清心尼公が存在する。
②江戸時代の軍記物語に勇猛な男性武将として描かれている。
→とくに男性と明記した軍記書はない。
そもそも江戸時代の軍記書はすべて偽書。
宇佐美定祐が捏造した上杉流兵学によって、勇猛な男性的武将とされた。
③衆道を好み、若い少年を愛した。
→信玄の場合とちがい、直接証拠(恋文など)が存在しない。
少年を愛したから男性とは限らない。
④戦に勝つために女を近づけなかった。もしくは、女性嫌いだった。
→願文に不犯や不妻帯の記述は無い。
むしろ、関東の武将や公家の妻女と親密な手紙を交換している。
このように、すべて反駁されてしまう曖昧なものだ。不妻帯の理由を
合理的に説明できない以上、一次資料に「男だった」とする直接証拠が必要とされる。
女性説の直接証拠については「大虫」(一級資料)「虫気」(一次資料)で十分だろうな。
78:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/10 16:53:59 sNtzDmzG
>>77
ほかの高野山云々という論拠も含めて、まとめページ欲しいね。
スレ住人が根拠と反論を纏めてくれたら、ページくらいは俺確保するけど。
79:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/10 18:19:02 b0sJklux
>>78
おK、数日中に初期スレからの論点をまとめてみるよ。
ページ確保、よろしこ。
80:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/11 02:02:05 b8X6IXhF
>>78-79
「上杉謙信女性説論争!」とかのHPかブログ
作ってくれるん?? 期待つ♪♪
81:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/11 05:16:45 KT8y2d9L
身長148らしいですね、彼。
82:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/11 17:53:09 lHV+ZgCh
一昨日初めて「女性説」をきいてたまげた勢いで流れてきたんだけど
このスレはとても穏やかかつ理性的で良いです。
きしゅつかもしれないけれど「戦国武将ものしり辞典」なる本に
「長尾家は代々長女に於亀、次女には於虎とつけていた。
でも江戸時代に三人目が生まれて困った挙げ句に『三姫』とつけた。
三姫は平凡な名前とうらはらに非凡な人生だった。
夫が吉良上野介で、夫が討たれた知らせをきいて女鎧を着けて
駆け付けようとし、後に吉良の女武者と落首にされた」
って書いてあったよ。でも出典は記載されてなかった。
83:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/11 18:09:44 b8X6IXhF
>>82
「戦国武将ものしり辞典」(奈良本達也著・主婦と生活社)
ですね。このスレでは初めての説だと思います、ありがとう。
於亀が仙洞院(綾姫という説も)なら、於虎が謙信ですね。
2001年に惜しくも亡くなられましたが、奈良本達也先生(京都史学の権威で、立命館大学名誉教授)
ならいい加減なことは書かないでしょう。
84:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/12 01:46:23 R5tIBfgB
>>82
定勝の娘は、徳姫(長女)虎姫(次女)三姫(三女富子=吉良上野介の正室で四女説もあり)
スレの上のほうにもあったけど、長尾(上杉)家に虎姫が多いのは確かですね。
85:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/12 22:20:51 1cgck7pb
PHP文庫の『戦国武将名言録』によれば、
『北越耆談』に
「兜を用いず鉄製の笠を被り、具足を用いず、黒い木綿の胴服に鉄の笠をつけ、
三尺ほどの青竹を馬上で持って下知していた謙信が「摩利支天の再来ならん」
と恐れられた」
という記述があるらしいです。
著者の楠戸さんは、
「ここでは毘沙門天ではなく、摩利支天といわれたというところが面白い。
この神も武士を守護する神だが、実は女神である。」
として謙信女性説にも軽く触れていらっしゃいます。
ウィキペディアには「摩利支天は元来女神であるが、男神像としても造られるようになった。」
とあったので、女性説に関わりがあるかは不明ですが…。
86:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/13 00:13:46 5zpKToiH
>>85
新刊レヴュー、乙です。
謙信の願文にも「摩利支尊天に誓う」は多いですね。朱印にも「勝軍地蔵」「摩利支天」
の刻印があります。ほかに氏神春日大明神(上杉=藤原姓の氏神)、毘沙門天は意外に少ない?
ちなみに、俗説に謙信不妻帯の理由とされる飯縄権現もダキーニという女神ですね。
軍記書では「謙信は摩利支天のごとき武将なれば、とうてい立ち向かうことかなわず」
という眉唾の記述が信長や秀吉の言葉として残されています(北越軍談)。
87:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/13 17:46:12 OzhQScnh
上杉謙信の墓の調査が可能になれば遺骨を調べればはっきり分かるでしょうけど
現在の上杉家はまずOKは出さないでしょうね。でも男なら謙信がかわいそうだし
調べなければ延々の未来永劫この論議は続くことになるでしょうからいずれは
遺骨調査しなければならなくなるのではないかと思います。
88:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/14 01:05:53 4rcEX9bp
>>87
上杉家(米沢上杉文化振興財団)が「仕方ないな、甕棺を調べていいよ」と思うまで、
謙信女性説の史料検証をするのがこのスレなのです。過去スレで何度も
議論されてきたことですが、血判書状の鑑定もままならないのが現状です。
89:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/14 08:49:21 3wRfEkwN
●
(・ε・)) ハッ!
(ヽ )へ
く ●
●
((・ε・) ハッ!
( /)
く ● >
● ●
((・ε・)ノ ハッ!
( )
く ω >
__[警] あばばばば
( ) (´ε`)
( )V( )
ノ | ノ |
90:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/14 10:56:43 x0REMVHk
>>88
学会でもこの話題が盛り上がれば出来ない事もないと思う。
でも死者に対して失礼だよね。知りたいけどしたくない気持ちのが強いな。
91:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/15 00:11:47 UM6MJ4tT
遺骨を漁らずにDNAを調べる方法は無い物でしょうか
頭髪で筆でも作っていてくれれば…w
92:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/15 00:42:36 Kz3Nxu5M
>>90-91
米沢の上杉廟にある謙信甕棺は、生前のままの遺体に蝋と漆で固めた状態
と伝承されています。最近、研究者がX線撮影したという情報もあり、
その形状だけでも男女が特定される可能性も。ただし、公表しない約束だそうです。
ほかに、前々スレで「梁田文書」に謙信の血判起請文があり、DNA鑑定は可能。
持ち主の方が許可されれば、性別は簡単に判明するはずですが、こちらも
文化財の欠損が生じるので最近では採用してない調査方法だとか。
>>90さんの言われるとおり、謎のままのほうがロマンがあっていいかなと・・・。
93:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/15 01:30:41 0djQESha
鎧纏ったままってのは聞いたことあったけど蝋と漆も塗ってたんだ・・・。
ってことはミイラなのか…?(;゚Д゚)
体が現代まで残ってるってすごいな。
94:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/15 01:43:39 Kz3Nxu5M
>>93
遺体に甲冑を着せ、蝋で保存した(球根や胡桃などの保存方法)うえで甕棺を漆で封印。らしい。
したがって、クローン化も可能の状態と思われます。DNA鑑定どころか、
生前の姿のままで保存されているとしたら、「松平記」にある「諸侯がひれ伏す麗しい御姿」も。
95:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/15 02:33:24 QcnaWXTF
別に性別が判別しなくてもいいんだよ。
通説が女性説って事でいいのなら。
96:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/15 22:04:19 KF75hPnF
なんでそんな埋葬方法にしたんだろう。
当時にはよくあることだったのか?
それとも、謙信がそれだけ特別に尊敬されていたということなんだろうか。
97:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/15 22:33:09 Kz3Nxu5M
>>96
そういえば、まだ研究されてないテーマだなぁ。
畿内の武将は火葬(荼毘に付す)の例が多い感じがするし、「軍鑑」では
信玄は甕棺に入れて諏訪湖に沈めろの遺言(史実は火葬らしい)。
調べてみる価値がありそうだね。
98:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/16 03:35:14 tDDBd4JJ
米沢に移ってからも三月十三日の謙信公命日には藩主の参拝がなされ、
同日に宴会をした豪農は隠居閉門に処せられ
また情婦と鰻屋で酒を飲んだ侍などは終身禁錮されるなどの例もあり
米沢藩ではこれが三百年続いたらしいですね。
すごい熱烈な尊敬のされ方です。
99:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/16 10:06:31 7IenS/F+
余程愛されていたか、本気で毘沙門天の化身と思われていたのかも。
神様焼いたら罰当たりそうだもんね。
100:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/16 21:38:59 euKw0gHt
ミイラといえば奥州藤原三代もだよね。時代違うけど
まあ関係ないかー
101:あぼーん
あぼーん
あぼーん
102:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/20 03:49:38 j3OvcyNy
>>101
見事に、あぼーん
ワロタな。荒らし駆除、乙!
103:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 03:19:09 aG5gTzYh
何か、疑問は??
104:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 08:43:34 kxujH+gV
たまたま土葬した津軽承祐が、
ミイラ状態になってたのが、
昭和の墓地改修で発見されたな。
105:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 09:27:02 noc+dXvI
謙信とあったことのある武将・大名の文献に謙信が女だった事を記してないの?
106:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 09:47:51 aG5gTzYh
謙信に直接会った大名なんて、いないんじゃね? ふつう、会えない。
大名クラス(松平忠明)の文献(当代記)には「女」とあるが。
107:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 13:13:32 oEXjM/8B
関東管領就任式で諸将の前に現れたはず。成田氏あたりの記録はどうなってんのかな?
108:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/26 00:23:36 e/ZwGLAL
永禄4年に里見義弘は謙信と小田原城を包囲。この際に両者は対面してるはず…
109:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/26 05:25:28 Q5fb7tWj
謙信はからだは男
……でも、心は女だった
110:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/26 20:57:29 Rj79L6d4
現代で言う性同一性障害ってこと?
もしそうだったらあの時代辛かっただろうな…。
111:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/26 21:18:05 VY7nGPTN
情報として存在しない以上、その意識がより助長されたりはしない。
従って性同一性障害であったとしても、現代よりも辛いという事は無いかと。
そもそも、前髪下ろすまでは男女も一緒だみたいな事言ってた時代だし、
それ程困るって事も無かったんじゃない?
実際、謙信の着てた服は女性用みたいな真赤で派手な服だし、
仮に性同一性障害だとしても、女性と疑われる程に色んな話が出てくるから、
それなりに、結構宜しくやってたのかもしれない。
112:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/26 22:45:53 rfwvghVU
ひとつ、確実に言える事は
今、世に流布している上杉謙信のイメージとは
確実に違った面がある、ってことだな。
女性かはともかく、(当時から見ても)女性的な側面の強い人物だったように思える。
後ひとつ、気になることがあるのだが
確か上杉関係のスレかどっかで古文書があって、最後に謙信が
「虎」と署名してたように書いてあったけど
他の大名などがこのような署名の仕方してるかご存知の方いる?
こないだ安土桃山時代の女性の姓名について調べてたのだが
当時の大名婦人とかの一部で、署名のときに名前を省略して
名前のひらがな一文字、もしくはそのひらがなを
漢字一文字で署名する場合があるらしい。
もし男性がこのような省略の仕方をしないのなら、かなり有力な証拠になる
可能性があるのだが…
どなたか詳しい方、お願いします。
113:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/26 23:22:12 WCpTPejf
>>112>>44にあるよ。花王×→花押○だが。
> 永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
114:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/26 23:37:22 rfwvghVU
>>113
んにゃ、そうではなくて
謙信以外の一般の武将がこの署名の仕方を使うのか?ってことっす。
官職(僭称も含む)とか名だけとかなら普通にありえそうですけど
「名前の一部」を署名する書き方が男性にとって普遍的でないのなら
女性である可能性が高まるわけで。
ましてや、この時(永禄7年=1564年)既に「輝虎」と名乗っているので
わざわざ将軍義輝から拝領した「輝」の字を省略する…?
って疑問が出てきます。
115:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/27 00:14:02 Au05aGjn
>>114
なるほどね、書状の署名宛名はそのまま格式や形式につながるとされているから、
もっともな見解だ。ただ、謙信の場合はかなりアバウトな性格だったらしく、
敵対していた時期の北条氏康のことを「右京太夫」と記述したり、「伊勢新九郎」と
書いたりしている。信玄は謙信に関しては「長尾景虎」「長尾政虎」「長尾輝虎」「長尾謙信」
で一貫していたし、北条も同盟を締結した段階で「山内殿」と書状に書いている。
謙信書状の場合は相手を略称で記述する例も少なくなく、とくに近親者や身近な者を
呼ぶ場合は「直江」「源五」とかも。まぁ、調べてみるよ、他の大名の例を・・・。
116:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/27 03:06:05 vPXOTIsu
謙信の親父の書状はないの?
娘が生まれましたって他の大名に送っているとか?
117:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/27 21:24:23 Au05aGjn
>>116
書状はないようだ。謙信の生年月日(享禄3年1月21日)も「上杉年譜」にある
記録が根拠。「二男誕生」とあるが、その3年前の大永7年6月「越佐史料3-721」には
三条西実隆が為景男児出生の祝いを贈ったと記録があるので、二男ではなく三男か?
江戸時代の軍記書には、四男説六男説もあるらしい。
「上杉年譜」は江戸時代(元禄年間)成立なので、これが怪しいとなると、
謙信の生年月日そのものが疑わしくなる。むろん性別も。
118:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/27 23:22:34 9Zgej9oh
八切氏の原典読んできたのだが、実際のところ氏の主張で一番共感できたのは
「何で系図・記録がこんなにあやふやな状態なのか?」
ってことですよね。
大名としては滅亡した武田家や北条家などでも、もっとしっかりした記録が残っているのに
幕末まで普通に存続できた上杉家でなぜこんなに不確定な部分だらけなのか?
って疑問は感じられる。
一次資料読む力無いので記述があったら申し訳ないけど
複数の資料見ても、謙信が晴景から当主の座を譲られた部分の歴史が
ぽっかりと抜け落ちている。
確執があったと言われている…程度のことしか書かれていない。
個人的には安土桃山時代の専門家に、何故こんなに歴史が不確かなのか
「誰かが作為的にそうした」
以外の理由があるのか聞いてみたいところ。
119:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/28 01:28:37 F/lrOffq
>>118
そのいっぽうで、江戸時代の軍記書が多いのが上杉家の特色だね。
晴景と謙信の確執なんて、真相が闇の中。
謙信の書状も大半は、写本や刊本(江戸時代のもの)となってるし。
120:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/28 13:25:23 M2FtRp1o
御館の乱で資料が燃えたとされたんだっけ。
燃えたってすぐ作り直せただろうとか思えるのは確かだけど。
121:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/28 16:16:06 kK3NyME7
松隣夜話 には、謙信が手を付けていた女性のエピソードが書かれているらしい
この本の信憑性はどんなもんなのでしょ。
122:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/28 17:58:00 F/lrOffq
>>121
伊勢姫の件なら、まったく話にならない。そもそも江戸時代に書かれた小説。
謙信が関東で伊勢姫に会ったとされる時期に、まだ関東に逝ってないし。
近衛絶姫も実在性皆無。直江の姉娘も同じく。
123:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/29 13:50:58 r9wc9zMI
おふえって創作だったの?
124:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/01 03:02:04 8vAdF/Ru
おふえって
誰の小説に出てくるん?
妹は「お船」でOK??
125:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/01 03:59:29 Y35f13K5
津本陽
126:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/02 01:17:30 PfMFNI4j
津本の小説というより、ありゃ雑多な資料を織り交ぜた歴史エッセイだな。
おふえも出てくれば、伊勢姫も(爆笑)。もう、何なのかと小一時間・・・。
花ヶ前盛明が手配した資料をそのまま文章にした、世紀の駄作っ・・・。
徹底資料分析というここには、ふさわしくないかと。
127:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/03 03:45:20 U/eZzOQc
津本陽の「武神の階」ですね、「おふえ」が登場するのは。
この作品の致命的な問題点を、このスレ的にざっと挙げれば、
「晴景はさらに妹桃世を揚北衆のうちで、最強の力を誇る加地春綱に嫁がせる」
(角川文庫版・57P)
「上田長尾の当主政景は二十二歳、妻は景虎の姉桃世御前であった」(同・151P)
という矛盾(笑)。桃世(仙桃院)は加地春綱の嫁になって、上田長尾政景の嫁にもなってる
この不思議。八切止夫の説では、加地に嫁に出されそうになったのが謙信(於虎)。
校正者の怠慢か? 津本氏の作品では、仙桃院(景勝の母)が大変忙しいことに(笑)。
ま、「おふえ」もそんな創作というか、校正ミス(史料を読まなかった誤謬?)のたぐいでしょうか。
128:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/03 05:29:52 pmsO6bJd
157センチは当時は平均。大柄=高身長とは限らない、がっちりした体格・肥満も大柄と表現する。死因が酒好き・高血圧なら肥満型のケース有り
129:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/03 05:33:16 pmsO6bJd
謙信五尺二寸は今で言うと168~172センチ。168センチでかなりの肥満型の人を大柄と表現する場合あり。男性説支持
130:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/03 05:41:03 3BOXG5wc
日本人として恥ずかしいって人、恥じなくていいよ
亀田は在日。サイシュウ島から爺さんが来て西成で解体業
両親はサイシュウ島から自ら違法移住。
そしてメインスポンサーが在日パチンコメーカーキョーラク
そして応援団長が和田あきこ
亀田は在日の町大阪西成区出身
親父は在日職種の解体業
ジムの会長は在日韓国人
亀田に2点差で入れた審判は韓国人
前哨戦でも韓国人
スポンサーは在日経営のパチンコ
放送局は反日TBS
今回の件が気に食わない人にお勧め「スポンサーに抗議&不買」
キョーラク(パチンコパチスロすべて)
サントリー
ナイキ
トヨタ
X-MEN
エイジェック
KDDI
明治
ワールドカップ、オリンピック、カルト教団他
すべてのインチキ、八百長、犯罪の影に「在日(韓国・朝鮮)」あり
URLリンク(www22.tok2.com)
131:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/03 12:26:38 U/eZzOQc
>謙信五尺二寸は今で言うと168~172センチ
どういう計算をしたのかは知らんが、
5尺2寸=30.03cm×5(5尺)+3.03cm×2(2寸)=157.56cm
つーか、身長156cm説は遺品(衣服・甲冑)から計測した考古学的史料。
132:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/03 22:34:49 U/eZzOQc
>>129
スマソ、現代の体格に置き換えれば標準的な168~172cmという意味だったんだな。
ただし、名護屋参陣のときに背が低くてカッコ悪いので、側室?に馬上姿を代行
させたという逸話のある伊達政宗が159cm(遺骨から算定)とされている。
当時の武将の身長は160標準説もあるが、謙信の156cm説が正しいとすれば、
標準以下で、背が低かったろ伝承される政宗よりも低い。となる。
133:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/04 17:29:16 iA6Wlrjj
まとめページを作るって話は
どうなったんだろ・・・
134:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/04 17:52:58 SQZwowTX
しかし遺体が残っているなら
分析した結果を公表して真相解明に終止符を打とうよ、と思うんだが
流石になんか祟られそうだし上杉家の子孫が嫌がるのかねえ。
どっちの結果に転んでも検証に新たな展開が生まれる気がするんだけど。
性別なんかはすぐわかるだろうけど半陰陽とかはアレだし
身体は男性だが性同一性障害で心は女だったら
どうしようもないが。
135:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/09 02:53:05 fuzq0XKn
女性説のまとめページって、独自サイトにするのか?
確実に、それなりのサイトになるなら。がんばってまとめてみるが。
136:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 00:24:12 cIW4KhSl
もし女性だったとした場合、上杉家の記録は男と改竄していたとしても、
京に上洛した時に上杉家の手が回らない公家など貴族の日記かなにかに、
「長尾家の棟梁は女人なり」とか記録に残りそうなものだが。
上杉家に対して反乱を起こした家臣達も「女なんかに従えるか!」って
触れ回りそうだ。
触れ回ったら他国の大名の耳にも入るだろうし、
他国の大名が記録に残さないわけが無い。
137:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 00:36:36 +U44AmUO
>>136
「当代記」や「松平記」に記録が残ってるからこそ、女性説が存在するんだけどな。
138:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 00:51:40 cIW4KhSl
両方江戸時代の本だろ。
当時に書かれた記録があるべき。
戦国有数の武将と言われている謙信が女だったと言う事を
同時代の人間が記録していないわけが無い。
139:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 01:07:03 +U44AmUO
>>138
松平忠明が江戸時代の人間だとは・・・wwww
それを言うなら、謙信を男性像に描いた元禄時代の軍記物語つ。
謙信書状の「女騎に候」願文の「男形化」はどうよ?
女性であることを隠していたなら、他国の武将や越後衆も知らんはずだろ。
そもそも「同時代の人間が記録」してれば、謙信は史実として女だ。
いまここで女性説が再検証されるはずもない。
140:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 08:30:00 sJvl1DGa
前に謙信と実際に会った大名って居る? ってレスあったけど
足利義輝(将軍だが……)、近衛前久(関白だが……)
上杉憲政と小田原遠征に集まった関東の大名は実際に会ってるよな。
国人衆除くと。
141:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 11:15:36 +U44AmUO
>>140
前久は謙信に一目ぼれして越後に来るわけだが、べつに男だとか女だとかは
記録してない。「少弼(景虎)はわかもじ好きの由」「長尾をひとえに頼み入り侯」
とは記録しているが。憲政ほか、誰か関東衆が「謙信は男だ」という記録があったら
調べてみてちょ。
ちなみに、このスレ的に最大の論拠は「不慮の虫気により死んだ」(景勝書状)「大虫」(当代記)
「大虫」はともかく、手持ちの辞書で「虫気」を調べてみるといいよ。
142:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 12:20:57 uEqsu7tO
脳いっ血だっけ?<中気
私も当時の他家の記録があまりにも少なくて不自然だなと思ってる。
「(女のくせに)やばくね?強くね?」とかあったらいいのになw
性別を隠してた、ってことだとまた逆に不自然なところが出てきちゃうしね。
難しいな。個人的には女だったらなんか面白いと思うんだけどな。
143:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 14:00:36 NXyyn74T
>>141
いや大虫の件はわかってるんだが
誰か謙信と実際に会ってる大名が書いた記録持ってないかなー、と。
近衛前久は「男好き」としか書いてないのか。
144:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 14:17:55 NXyyn74T
>>142
虫気は産気づくこと、子供の病気という意味もあるが
そっちはあまり考えづらい。
大虫は婦人病。
145:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/13 11:16:59 NdIn0LRr
>>136
実は当時、女性当主はいないってわけでもないぞ。
・古河公方(足利氏姫)
・立花家(立花闇千代)
・井伊家(井伊直虎=次郎法師)
ネット上で調べられるだけでもこれだけある。
実質的当主だったらもっとある。
なので、わざわざ女性であることを強調する必要は余り無いのではないか?
>>140
これは完全に思い込みだが
武将などで活躍した女性は、関東近辺に多く感じる。
こちらの地方では比較的女性の活躍に寛容だったのかもしれない。
…謙信が女性で、かつその活躍で他の例がぽつぽつと出てきたのかもしれないけど。
146:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/13 11:29:52 82zPJi1i
戦国時代とは直接的には関係ないんだけど、
古代史関係の本に、「女性君主(首領)」も弥生時代には多かったのではという話が載っていて、
その傍証として風土記(関東の方だったと思う)の記述にある女性名や首領名、古墳について
考察しているものがあった。
これは、古代の日本では、戦闘を行ったり、政治的中心になったのは、
特に男性という伝統があったわけではなく、のちに大和朝廷が統治を進めるにあたって、
次第に女性首領の存在がなくなっていった、というような話だったんだけど、
古代はもちろん、鎌倉・室町と関東~東北がどれだけ慣習面まで京都ナイズされていたのか、
定かでないし、関東以北は独自の文化を根強く長くもっていた印象があるから、
古墳時代の豪族の感覚で、女性首領がいたとしてもおかしくはないのかな、と思った。
女性だから当主になれない、というのは、もしかしたら、現代から見たときの
思いこみで、そこまで珍しいことではなかったかもしれない。
特に戦国時代なら、建前より実質を取っただろうし、常識だったら、
わざわざ記述してまで残さない可能性の方が高いのでは。
それと謙信が女性だったかどうかは、別なんだけれども、
「女性だったら珍しいから記述が残っているはず」という論調は
現代の視点に寄りすぎていると思う。
147:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/13 15:17:59 jIBL5Bfs
謙信の周囲って、女当主や女騎(女武将)が多いね。
●由良(横瀬)成繁の妻(輝子殿・妙印尼)は篭城(天正12年金山城)
のみならず、小田原の陣(天正18年)にも参戦。前田利家の書状で、
秀吉から実家(赤井氏)名義で知行地を賜った経緯も史実。
●妙印尼の孫娘が成田甲斐姫(成田氏長の娘)。秀吉の小田原攻めの時に
忍城に籠城して、石田三成の水攻めをしのぐ。真田幸村も撃退。
甲斐姫の継母が謙信の盟友太田資正の娘。
●古河公方足利氏姫(義氏の娘)は女将軍。小田原の陣のあと、秀吉に
332石を許され古河の名代を継承。
●宇都宮広綱の正室、少将殿(佐竹義重の妹)。広綱の死後、宇都宮の尼将軍と呼ばれる。
謙信から少将殿宛ての書状も現存。
148:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/13 18:41:55 jIBL5Bfs
>>146
続投ですまんが、古代からの独自の文化というよりも、
鎌倉幕府以来の相続制度の遺制かもしれない。
というのも、鎌倉の御家人は男女ともに相続の権利があった。
ただし、娘のほうは息子の相続分の8割とかだが、長男であれ次女であれ末子であれ、
きちんと相続分が割り当てられていて、それが惣領家の没落を招いたり、
ぎゃくに一族として結束する理由だったらしい。一族が揉める例もあっただろうが。
それと、領地を相続した娘が実家に不義理をした場合は、取り戻すことも可能だったらしい。
で、御家人の幕府への御奉公は軍役や普請だが、女性の場合も平時は政庁への出仕、
戦時には軍装して鎌倉の警護に就いたとされている。
領地の揉め事は幕府に訴えれば解決してくれたみたいだが、当然裁定に従わない
武士もいて紛争になると、一族郎党が総出での合戦になる。女性も武装して戦った
というのが鎌倉時代の研究者の見解だ。室町時代に惣領制が確立されていくと、
女性の相続権もなくなり、女性が戦場に出ることも減ってくるが、
関東ではまだ鎌倉以来の伝統が残っていたとしても不思議ではない。
149:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/14 08:11:38 zo9pf4Xl
谷村新司がラジオ番組で「古代は女性が当主として戦をして男達はその下で戦っていた」と言ってたのを最近聞いた事ある。
古代史が変わり始めているだとかなんとか。
男尊女卑の確立は江戸時代にじゃないの?
それか薩摩、長州が明治時代に徹底的に洗脳したとかさ
150:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/15 12:32:19 PqUceJ4C
ログ読んだ感だと津本陽の小説はイマイチなのかな お薦めの謙信公の小説ってある?
151:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/15 13:01:22 B3G7Ncn4
いや、資料的価値という点で微妙だけど
とことん謙信公マンセーで
気分がいいという点では津本小説は最高だぞw
152:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/15 14:07:19 C7zraKUK
>>150-151
津本の「武神の階」20ページもいかないうちにポイだったが、
ときどき流し読みしてみると、史料的にも雑多だが、まぁ買ってよかったかなと。
小説というよりエッセイだな、こりゃ。
PHP文庫の最悪! ラストから拾い読みしてみ。謙信はバカで信長がほくそえんでる・・・・??
花ヶ前氏が史料提供したらしいけど、よくこんなの許したなという感じだ。
小学館文庫の小松重雄のも最悪! わざと悪く書こうとしたんでなければ、ここまで書けるか?
ハッキリ言って、史料的には無理がありすぎても海音寺本しか謙信小説でいいのはない。
最近のだと、飛び加藤を扱った「悪忍」にけっこういい感じの謙信が出てくるくらいか。
153:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/15 16:12:33 UnxHrzjP
というかそもそも「小説」を「史料的」に読む、て何がしたいんだ?
154:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/15 18:27:48 B3G7Ncn4
まあ求めるものが
史実重視かフィクション混ぜ混ぜおkか
の違いじゃね?
155:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/20 16:37:55 EA2gFxtv
>>150
吉川英治の『上杉謙信』なんかは基本なうえ
非常に短い期間を扱ってるが、密度が濃いし
(小田原征伐から第四次川中島終結までの1年ちょっと)
戦闘の描写なんかは流石に緊迫していて名人芸だし、お勧め。
吉川は女性説を知っていたのか、
謙信の容貌を女性のようなと形容してるし、
他の点でも史料的にはバッチリかと。
『天と地と』は史料的な問題を抜いても
後半がグダグダになってきている、
それも第四次川中島がよりによってラストシーンなんでどうも。
しかし大抵若かりし頃から川中島ばかりがクローズアップされてるんだが、
手取川の戦いまで見事に描ききった小説ってないかね?
156:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/20 19:29:44 0dYvBjPH
最近出た学研M文庫のは手取川までちゃんと書いてる。
が、とても「見事に描ききった」にはほど遠いかな。
だいたい天下取り史観で描くと、どうしても「保守的」「遅れた武将」に
なっちゃうわけで、いっそのこと謙信の関東への執着が畿内(織田・豊臣)政権の
崩壊をある意味見越していた。なんて説で書いてくれりゃいいんだが。
あと、面白いのなら女性説の小説を待望するしかないね。
157:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/20 20:11:23 EA2gFxtv
>>156
サンクス。
読んでみるか。
真っ向から女性説の小説なんて書いたら、
資料このスレだろ! パクリ野郎とか猛反発されそうな気もするがw
実際短編で謙信が女性なのに自分を男性だと思い込んでいた
っていう謙信性同一性障害説を扱ったのはあるみたいね。
158:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/20 23:14:18 C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた~~にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20~30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
159:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 02:23:20 VW+HC/g4
ネガティブ情報も知りたかったから丁度よかった。
知ってたのもあるし知らないのもあるなあ。
160:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 02:26:01 Koz/Bdk2
☆上杉謙信が生涯不犯を貫いた理由☆
スレリンク(sengoku板)
161:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 14:11:30 +u3seTEC
>>159
本気で言ってる?
162:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 15:01:15 w4jOL7t0
本気だけど、もし削除依頼するケースだったら
申し訳ない、気にしないでください。
163:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 19:15:53 h6uoXAWT
以前、ページ作るなら用意するといってた者です。オヒサ
規制食らってたが、何とか解除出来たんで連絡ー。
以前言ってたとおり、誰か情報をまとめてくれたら、まとめサイト作るよ。
俺自身は歴史は物好き程度の見識しかないで、自力作成はちとツライ
164:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 20:19:40 eyshkXa9
戦国ランス(18禁・アリスソフト)
URLリンク(www.alicesoft.com)
謙信様女の子
越後兵全員女の子
キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!
165:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 20:23:13 WxrHtzvR
それなんてエロゲ?
って本当にエロゲーかよ!
166:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 20:36:54 N+j6s88K
ちょっと一箇所よくわからない所があるんで詳しい人教えてくりゃれ。
>>43より
>謙信をめぐる軍記書には、近衛前久の妹妙姫、 直江実綱の姉娘、千葉采女の娘伊勢姫の伝説(恋物語)があります。
>これら伝説の姫たちが 根本史料にあれば、謙信が男性であって女性との悲恋のすえに不妻帯を貫いたという
>通説の裏づけが成立するはずです。
>しかしながら、一次資料に彼女たちの存在を証明する 記述はありません。
通説で名前を挙げられてた女性との恋というのは眉唾というのはわかった。
しかし、「三戸文書」「少将殿への書状」で女性との親密な交際があったとわかっている。
この親密な交際というのはどの程度のものと考えられるんでしょうか?
女性説の場合だったらもちろん同性とは仲良くするだろうが
女性と恋に落ちるほどだったらレズビアンということになる。
(性同一性障害説を採るならそれでもいいが)
それと男色家説を採っても、女と仲の良い(友達として)ゲイは
現代でも幾らでも存在する。
むしろ嗜好が似通っているので友達になりやすい。
女嫌いで不妻帯ではなかったのはわかるが、
今まで出て来ている一次史料で伺いしれる謙信の女性との交流は
友人レベルなのか、それ以上なのか、どっちなん?
教えてくださいまし。
167:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 23:35:13 nvCT7aNA
>今まで出て来ている一次史料で伺いしれる謙信の女性との交流は
>友人レベルなのか、それ以上なのか、どっちなん?
むしろ、政治的に彼女たちの立場を利用している傾向が。
としょう殿は太田資正(関東の同盟軍)の妹。少将殿は佐竹義重(同じく)の妹。
彼女たちとの親密さを利用して、関東勢への政治工作を行なった。
とみるべきだと思う。が、こんなふうに女性を政治工作に使った戦国武将は皆無。
女性同士の親密さ(気軽さ?)を利して、謙信だけが上記のような政治工作を行なえたと検証できる。
のでは? 政治工作に限定できない書簡もあるけどね、小袖を贈ったりとか。
>>163 お久しぶり。そのうちここにUPします。目下、多忙中でスマソ。
168:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 00:08:50 2EN4buJf
>>167
なるほどなるほど。
非常によくわかった。ありがとう。
要は女の友人は複数いたが、恋人とかではなかったってことね。
確かに人の嫁と親密になって、旦那に働きかけてもらうなんてことは
まあ異性愛の男性ではまずありえんだろうね。間男以外の何者でもないし。
例え男だったとしても女性的な趣味を好んだんじゃないかな。
源氏物語を読んだり、和歌を最も得意としたりしていたし。
169:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 01:54:50 7VOeTjyT
>>168
うん、そういうことじゃないかな。
としょう殿(太田三楽斎の妹)は、三戸駿河守の正室。
少将殿(佐竹義重の妹)は、宇都宮広綱の正室。
ほかに、足利将軍の正室(近衛前久の姉)。
つまり、ぜんぶ人妻・・・・。謙信は武将の姉妹(人妻)が好きだった説も?
謙信が女だったからこそ、付き合っていた人妻への書状が残ってるとも・・・・。
この人妻たちからの謙信宛の書状は残ってない(破棄された?)んですけど。
この人の謎(性別不詳)、魅力だわね。
170:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 05:49:44 ScAtyrNh
近衛前久の妹・絶姫は謙信と婚約まで言ったぞ
結局謙信サイドが断ったが、絶姫は謙信一人に操を立てて嫁に行かず、
若くして亡くなった
謙信は慟哭したそうだ
やっぱり謙信は女性だったんだろう
171:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 11:34:27 LiJTrKP6
近衛絶姫は架空の人物という説があるが……。
他に男装して義経に扮して舞を踊ったら謙信は身を乗り出して興味を持ったが
女と分かると興味を失ったという説もあるがどうなの?
172:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 12:13:39 7ruMh/ED
両性ってやつってことはないのかな?
173:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 12:50:16 d1R+/daz
普通その場合でも対外的には男女どちらかを名乗るものじゃないか?
現代に至るまで「両性」が確固たる性別の一種と考えられた事はないし
一々周囲の人間に「両方なんです」なんて吹聴するのはありないから
本当にそうであれ周囲は「男」「女」どちらかとして認識し、どちらかとして
扱っていたはず。
ここで議論されてるのはそこらへんのことだろ? 実際の性別なんて
それこそ遺体調べないと分からん。
174:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 12:52:29 7VOeTjyT
>絶姫は架空の人物という説
当時の近衛家の記録にない人物に「架空説」もなにも。
江戸時代の軍記物語には「実在説」「謙信が興味を云々」はあるけどね。
175:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 13:00:36 LiJTrKP6
>>174
やはり存在しなかったか。
いやネットで北越軍談なんかを典拠に絶姫の話を書いてる奴が多くて
かなり困惑したが、あれも江戸時代の軍記物なんだよなあ。
176:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 13:42:10 uoKXOC8V
景勝の遺体は蝋で固めたりはしてないの?
謙信公だけだったら、少なくとも家中からは公は
さぞ生前の頃から崇敬というか神格化というか、そういう目で見られていたってことになるのかな
177:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 14:07:39 vFZi/qXB
とりあえず謙信の墓を掘ろうぜ
178:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 20:21:13 fdh3uIS3
死後の謙信の格は家康に匹敵する
179:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/22 22:26:05 Enz9HqHQ
上杉鷹山以降、名政が続いたおかげもあるしね。
180:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/23 01:35:48 CA8zNSRt
>「両方なんです」なんて吹聴するのはありないから
ワロタwww
たしか、小松左京「竜虎抱擁」が、ふたなり説で「あの方は両方なんです」のあと
謙信が本格的に女性化し、川中島で信玄とセックル・・・。
和解した竜虎が織田・徳川連合軍を馬蹄にかけるあたりで「the end」だったかな。
181:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/23 03:35:17 /B2HZhao
吉良上野介も上杉家か
182:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/27 23:34:24 Se/DmEYZ
なんか、どっかで聞いたんだけど女子禁制の山には男装した巫女なら
入れたって聞いたぞ。
即出だったらすみません。
183:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/30 01:06:55 spRtfdZf
>>182
いや、そもそも女人禁制の高野山に登ったというのが「上杉年譜」の捏造だそうで。
184:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/30 20:33:19 OGNqtgip
ちなみに、捏造ってのはどうやって証明されたの?
他に資料があったとか?
185:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 06:58:02 ccg011N+
高野山は女人禁制だけど、その手前にある女人高野は女子でも入れるぞ
尼さんがいるところ
ちなみに空海の即身成仏が眠る奥の院の世話は、
女人禁制の高野山にあっても昔から女性が務めてた
186:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 07:36:51 gBkPCcPP
>>184
年譜は江戸時代の編纂だし、当の高野山がこんな捏造をしてるんじゃなぁ・・・。
天正2年、謙信上洛だってさww
URLリンク(www.reihokan.or.jp)
187:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 17:58:00 EgZBWCzV
上杉年譜は俗説から創作まで広く編集してあるんだっけ
188:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 18:27:12 gBkPCcPP
「年譜」の荒川伊豆守の信玄本陣急襲あたりが怪しい。
信玄に怪我をさせて討ち死にしたのなら大武勲なのに
一次史料には荒川の「あ」の字もないんだから。
先祖も子孫も不明な武将って? 正規の史書だから信頼できる
とかほざいてるのはアホ作家ばかり。
189:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 21:34:38 zKyQR5f6
タイムマシーンが欲しいですなあ
ヘタレ現代人の我がステータスでは
確認する前に討死にしそうだけど。
190:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 22:32:57 gBkPCcPP
米沢上杉文化振興財団(上杉家)が謙信廟の開封調査を許すか、
それともタイムマシンが実用段階になるまで長生きできるか、だね。
つか、いまタイムマシンを研究してる企業や研究機関あるのか・・・・orz
191:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 22:56:15 zKyQR5f6
誰かが飛行機ジャックして
「上杉謙信の性別をDNA鑑定してくれたら
人質を全員解放し、我々も投降する!」と言ったり
重い心臓病の子供が
「謙信公の性別が分かったら僕、手術受けるよ…」と言ったり
してくれればあるいは…って完璧に無理だおw
192:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 23:31:24 gBkPCcPP
>>191
危ない人だな・・・。航空危険罪・ハイジャック防止法は懲役がすごい重罪なので自粛。
重い心臓病の子供に賭けよう、せめてこのスレの中身で彼がそういう決意をするように。
193:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/31 23:44:19 vRen4UO9
まぁ真面目な話、自分の不幸盾にして人様の墓から遺体取り出して調べてくれとか言う
ガキがいたら、育ちや現状に関係なく、躾がなってない、の一言で終わりそうだけどなw
そう考えると学術的理由なんて人様の墓暴く理由には軽すぎて話にならんよなぁ。
現上杉家に突然変異の強烈な歴オタが生まれる事を祈るのが一番良いような気がする。
194:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/01 11:01:04 EfBTOnGa
>>92のX線調査の結果だけでも公表して貰えれば
体格・骨格から女性か男性かわかるんだけどなあ……。
195:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/01 18:53:21 nGm53gf0
よし心臓病になってくるよ
196:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/02 00:05:38 HuwbGUDO
>>195
は、早まるな……、人間は健康が第一だぞ。
197:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/02 00:43:00 Vvhj9Dar
じゃあこのスレの住人が
上杉家の嫁か婿入りして
生まれた子供が歴史ヲタになるよう洗脳してくれwww
198:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/02 00:52:43 v9Z6wPCR
性別よりどんな容姿だったのかのほうが知りたいオレはここでは多分異端
199:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/02 20:57:14 FpSnSoAO
>>198
君だけじゃない d(゚Д゚ )
200:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/05 21:12:38 Ugrr2300
このスレの住民の方々は残されている謙信の肖像画についてどう考えているの?
髭や顔つきから男以外の何者でもないと思うんだけど。
201:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/05 21:13:21 Ugrr2300
ごめんテンプレにあった。
無視して。
202:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/09 09:01:58 ecwQeMTB
>>6
> ・謙信の死因を大虫としている歴史書も在る
> 反論1:民俗では一般に虎のことを婉曲表現で大虫という
これは何の反論になってるんだろう。
「謙信は大虫で死にました」が
「謙信は虎で死にました」の婉曲表現って何を言いたいのか。
解説できる人お願いします。
203:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/09 09:10:12 7K+3K81j
>>198
URLリンク(www.alicesoft.com)
204:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/09 22:02:41 /XzPKDhG
>「謙信は虎で死にました」の婉曲表現って何を言いたいのか。
>解説できる人お願いします。
絶対に誰にもできん・・・。「猫で死にました」なら
猫と遊んでいるうちに伝染病だとかに感染して(何らかの油断を婉曲表現)
とかもありうるのかもしれんが、表現されるべき虎は日本にいないわけだし・・・。
205:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/09 22:17:59 P/L6U3/r
>>204
元史料見ないと「絶対にできない」とは言えないだろ。
俺は知らんので正誤は分からんが、言葉ってのはいつのどんなものにしろ曖昧な
表現になってしまう可能性は常にある。
古文でどう間違えるのか何て分からんから現代語で例えると、謙信の死を語る辺りで
「謙信は大虫のようでした」と書いてあるのかもしれない。
これだと「虎のようでした」という追悼の賛辞でも通じてしまう。
206:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/10 00:43:01 ojSt+LaE
>>205 これが原史料。
「是年春、越後景虎卒去、大虫と云う」(「当代記」天正六年の条、松平忠明)
この年(天正六年)の春、越後景虎(上杉謙信)が逝去した。死因は大虫と云われている。
207:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/10 18:29:58 MYnqyV1k
その「大虫」を「虎」のことととるのは
相当無理があるよな
208:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/15 15:49:11 TvPOe4Xc
★衝撃の史実!謙信は女/新発田家で謙信の書状発見★
スレリンク(river板)l50
209:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/15 23:15:52 rLnEPu7x
riverって時点でな
210:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/16 00:41:54 tNp3ahGi
>>208-209
いろいろと仮説(好き勝手なフィクション)はあるけどねぇ、
核心に迫るのは、どうにも何だか頼りないなぁ・・・。
少し絞ってみると、案外簡単に「女性説」が成立するんじゃね?
謙信「男性説」ってのは、江戸時代の軍記書と名前(男性名)しかないわけだし。
誰も見たことない謙信の実像は、謎というよりも論証不可能であるがゆえに
戦国史最大の謎なわけで。研究が捗々しくない末の愚痴で、スマソ・・・。
211:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/30 09:51:34 FLuVWmWV
ほしゅ
212:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/07 12:04:51 co6EQPfm
女性でいいじゃない
213:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/15 22:46:29 7M0ygiLT
おまいら、本気で女性説を唱えているのかよ。
おもしれーじゃねぇか。
214:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/15 22:52:00 ktkkxyWP
バカだなあ。女性大名は安東愛季だけだよ。
女の子な安東愛季と共に苦難を乗り越えていくスレ
スレリンク(sengoku板)
215:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 19:49:04 p1MGuOfw
明らかにおかしい。
男の武将とは思えない行動、趣味、思想を持っていたことは事実のようだし。
216:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 20:13:58 tH+Erfeq
上杉謙信は両性具有だったんだよ。
217:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 21:27:01 D0XA2cRL
周りの家臣が謙信に結婚を勧めた形跡もないんかな?
謙信本人の考えはともかく、もし家臣が誰も勧めなかったとしたら
それはどうしてなんだろう。
218:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 01:08:32 Ix9Kh8iM
謙信のほうは、遠江守(長尾藤景)・斎藤朝信・柿崎景家・北条高広に
相互に縁戚(子弟の婚姻)を求めてるが、自分は最後まで結婚してない・・・。
お気に入りの河田長親にも、越後家臣団との婚姻をさせてるのになぁ。
やっぱ、女だったから婿を娶れなかった、と?
219:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 09:28:44 BvHEThF0
たしかに謙信が男とするとナヨナヨしすぎだよな。
服装も女っぽいし。
女性ないし性同一性障害の男性だったのでは。
220:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 12:15:41 kyg0n6Di
謙信がカバちゃんだったらと想像したら
夢と希望がブチ壊れるのですが orz
221:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 23:57:49 UdLqOV8O
謙信が美輪さんだったらと考えるんだ。
222:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 00:08:15 ym/Y/1Ch
黙れ小僧
223:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 03:03:02 bDL3wTJW
若い頃の美輪なら全然いい。
女よりキレイ。
224:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 23:15:14 XPWLPSE5
てかさっさと墓探ってDNAやらなんやらすればいいじゃないか。
骨盤とかで女性か男性かってわかるとかって話も聞いたことあるし。
なんでやらないんだい?上杉の子孫とかがだめって言ってんの?
詳しい人頼む。
225:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 23:58:39 3glbflM7
>>224
さんざん概出なのだが・・・。
上杉家(米沢上杉文化振興財団)に君が申し込んでみるといい。
謙信公の性別を特定したいので、上杉廟(墓所)の甕棺を開封してみたい、と。
君の言うとおり、簡単に性別は判明すると思うよ。
ちなみに、このスレで判明してるのは、今年になって研究者が甕棺のX線写真を
申し込んで上杉財団に許可されたが、結果は公表しないのが条件だったとのこと。
226:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 00:19:10 kkvOxFg/
公表しないのが条件って…なんかかなり引っ掛かる。
>>225
その研究者は何者?大学の教授?