06/12/14 03:27:03 ezFpbjfj
>>82
忠勝は大将ではない。
85:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/14 22:02:35 RK1q9tLL
>>83
初耳。なんで憎んでたの?
86:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/14 22:29:53 uarztkAc
正信が憎まれ役だったから
87:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/16 16:27:47 +/MrUMN1
憎んでたというより嫌ってたんじゃね?
ちゅうか、平八郎系は松平を守ってナンボの一族だから、忠勝にしてみれば
一族をあちこちに分散投資してて、しかも政務の中枢にいる正信って、
ぬげー胡散臭いんじゃないか?
88:85
06/12/16 21:13:33 F1cBbRhd
>>86-87
サンクス そういうことか。
89:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/20 02:44:58 q5KQSgCn
そこまで心情的な部分になると、立証むりだろw
90:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/20 22:15:15 9r249zc5
太秦で忠勝の甲冑を着る事できないかなぁ?映画村の中にコスプレの写真屋あるよね?
91:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/21 05:19:27 9Zv5e2JQ
忠勝の話っていうか、徳川家の軍制の話になってしまうかもしれないけど、
忠勝が戦場で動かした兵って家康から借りた家康直属の兵なのか?
それとも小領主がまとまった混成軍?
92:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/21 19:49:03 WgYi146H
>>91
本多家家臣団は、永禄九年(1566)忠勝が家康から与力五十余人
(都筑・梶・河合・松下・植村・多門・内藤など)を付属されたことによって本格的な成立を見る。
それまでの忠勝は、祖父忠豊・父忠高以来の家の子と、木村・佐野・小柳津・原田などの
家臣を従えるに過ぎなかったとされる。
(中略)
永禄十一年には大家・大野の二家、天正十八年には中根・長坂・松平の三家の与力が
忠勝に付属されている。
このように、本多忠勝家臣団は、家康より配属された与力が軍団の大部分を構成していた。
ソースは三戦板の前スレに出てた『本多家とその家臣団』ちゅう本。
ちゅうか、忠勝ん所は、祖父と親父が戦死してて、一族で参戦出来る兵力が少なそうな気がス。
93:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/21 20:53:48 9Zv5e2JQ
>>92
ほうほうサンキュウ。その本おもしろそうだな。
94:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/22 03:36:10 jGSJBUVD
本多の後家萌え
95:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/24 00:54:47 Etchl89+
URLリンク(kakutei.cside.com)
96:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/29 09:40:07 VWo+WvWL
>>92
もっと詳細をkwsk
97:92
06/12/29 20:26:03 tPph58at
詳細といっても、後は家臣名をフルネームで書くとか、知行はどっから支給されたとか、
その位のことしかわからじ。
どんなことが知りたいの?
98:96
06/12/30 20:56:19 vcT4GHuu
>>97
それでおk。榊原康政の家臣はネット上で纏められてるのがあるけど、本多忠勝の家臣は無いからね・・・・
99:92 1/3
06/12/31 17:11:42 LZUFzT9K
了解。
長くなるから分けて投下するけど、勘弁な。
本多家家臣団
・忠豊、忠高時代
木村、佐野、原田、子柳津
・永禄九年
都筑秀綱(筆頭家老)、梶正道、松下景綱、河合政光、植村安政、多門重信、内藤など
・永禄十一年
大野頼重、大家光政・頼次
・天正十八年
長坂九郎(血鑓九郎)、中根平右衛門
徳川家臣団は、永禄年間の今川氏駆逐、天正十年の武田滅亡、天正十八年の後北条滅亡、
それぞれの中で遺臣を取り込むケースが多く、忠勝については永禄九年の与力付属が
家臣団成立の大きな契機になっている。
また、天正十八年の家康関東移封後、忠勝は上総大多喜十万石の大名として取り立てられ、
ここから与力(附人)は忠勝家臣団として取り込まれた。
100:92 2/3
06/12/31 17:12:21 LZUFzT9K
都筑、河合、梶、中根、長坂、多門、植村ら、元与力であった一部の家臣には、公儀から
知行を与えられていた。
ほか、都筑、梶、河合の三氏は知行のほかに寄子給が出されており、自家の家臣以外に、
与力・同心が附けられていたと思われる。
(おそらくは忠勝家臣団が規模を大きくする中で、与力・同心を附けられていったのでは
ないかと思われる。)
しかし、二代目忠政の元和年間、幕府から知行を与えられている家臣に対し、給地を
幕府に返上するようにとの命が下り、知行を返上している。
以後、忠政の本多家姫路領から、旧来の(寄子給を含めた)知行分をあてがわれ、
幕臣から本多家家臣へ定着する。
また、寛永十年の知行替えの際、寄子給は給付停止となり、配下の与力・同心がなくなった
三氏(都筑・梶・河合)は従来の特権が消えることになる。
101:92 3/3
06/12/31 17:17:56 LZUFzT9K
おまけ
付属与力の筆頭である都筑惣左衛門秀綱は、遠江浜松荘を本領とした今川旧臣である。
永禄九年に忠勝へ与力として付与されたという記録には疑問視する点があり(同年十月一日付で
今川氏真から所領安堵されている)、永禄十一年に浜名氏と同じ頃家康に服属し、忠勝に
附けられたものとする説もある。
本多家家臣団について、ネットにないっていうのはちょっと意外。
俺が参考にした本は、岡崎でしか売ってなさそう(編集・発行 岡崎市)なんだけど、
桑名の方にはそういう本とか出てないのかな。
たしか、忠勝のお墓あるんだろ、桑名って。
102:92
06/12/31 17:18:46 LZUFzT9K
スマン上げちまった。
誰か介錯頼む・・・
103:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/01 17:25:28 L4RuuWoB
全然関係無い話なんだけど、与力に対する補償とか補填とかの費用って全部徳川家持ちだったのかな?w
104:98
07/01/01 20:22:21 AZEsqNiD
>>99-101
GJ!ていうかそもそも、譜代の家臣の情報自体少ないんだよな・・・・・
そんな中、1ページ↓のように丸々費やせる康政は異常。
URLリンク(www.geocities.jp)