06/01/19 22:14:59 1Wn6jnjX0
「パーン、パンパンパーン」
大阪の表玄関口、JR大阪駅前のビル街に突然、銃声が響いた。居合わせた買い物客
が驚いて振りかえると、スーツ姿の年配の男が二、三歩後ずさりした後、そのまま仰向
けに倒れた。その脇にいた男がすぐさま両手にピストルを構え、立て続けにニ、三発、
発射。その銃口の先で若い男が、ニ、三M後ろに吹っ飛んだ。撃たれた二人の男の周り
にはたちまち血の海が広がり、まもなく死亡した。
この間数十秒、目の前で繰り広げられた一瞬の光景は、決してヤクザ映画のロケ風景
ではなかった。白昼、大都会のど真ん中で起きた本当の銃撃戦だった。
事件が起きたのは、夏休みもいよいよ終わりに近づいた九十六年八月二十六日午後四
時過ぎ。場所は、大阪市北区の大阪駅前第三ビル前の路上だった。やがて、この白昼の
銃撃戦で死亡した一方の年配の男の名前が知れ、少なからぬ関係者を驚かせた。年配の
男は、仲間内で「サージ」と呼ばれていた山口組系暴力団生島組の生島久次元組長(当
時五十六)だったからである。もう一人の若い男は、やはり山口組系山健組系大田興業
侠友会(大阪市中央区)の坂本和久組員(当時二十九)だった。
銃撃戦の顛末は、侠友会の坂本組員が同じ侠友会の武田信夫・若頭補佐(逃走、九月
三日出頭、逮捕)と二人で、生島元組長を殺害する目的で、大阪駅前第三ビル前で待ち
伏せ。犯行に及んだところ、生島元組長のボディーガードをしていた生島組の古市朗・
元組員(当時三十八)に応戦され、撃たれた坂本組員が死亡したというものだった。古
市元組員は現場から逃走し、事件から二年後の今も行方をくらましたままである。
なぜ銃撃戦の現場が大阪駅前第三ビルかといえば、生島元組長が会長として実質的に
経営する不動産会社「日本不動産地所」が駅前第三ビルの十五階にあったからで、古市
元組員は同社の社員だった。それにしても滅多にない白昼の銃撃戦であったため、よほ
どの背景があると見られた。
生島元組長は、税務署への申告はフリーパスの部落解放同盟系の業者団体に関係して
いたのである。実際、「日本不動産地所には長年にわたって販売実績がなく、税務署には
売上ゼロ申告をしてきた」(大阪の信用調査関係者)という。