05/09/07 22:16:06 h0n0RvXQ0
そういう存在としての「批評」というものを、それによって他人が愉快になろう
とも、不愉快になろうとも、そんなこととは無関係に、自由に発表してもよい、という
のが言論の自由の大前提。
したがって、言論の自由がおもんじられる社会は、キラキラしたステキな社会では
なくて、イマイマしくて不愉快きわまる社会である。
これらをみとめることができなければ、そのひとは言論の自由の社会に適応できない
人物であるといわざるをえない。言論の自由をあたえられても宝のもちぐされにおわる。
言論の自由をつかいこなせない。言論の自由の社会に適応不全をおこしているひとである。
そのようにいわざるをえない。
そして、そのように言論の自由を許容しない人ばかりの社会はヒトラーかキム・
ジョンイルみたいな世の中になる。そんなのはイヤだというなら、いくらイヤでも不愉快
でも言論の自由をみとめるほかはない。というのが、現代までの暗黒の歴史をつうじて
人類が獲得してきたところの真理である、というのがいちおう今の国際社会のタテマエ
ってことになっておるようだ。
*
ま、より根源的なことにふみこんでいえば、この問題は、「おこなうこと」と
「おもうこと」とのあいだにある絶対に埋めることのできないミゾにもとずく板ばさみの
ひとつで、「ことばをつかうようになったサル」としてのヒトがおちいらざるをえない
おとし穴みたいなモンだとおもう。
だからこれは永遠に決着のつかない議論で、永遠にやめてはならない議論なんだと
おもうよ。絶望的なこと云うけどさ。